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カチカチ教(価値至上主義)よ さらば
というわけには行きませんか? 《価値》といった概念は そりゃあ日本語にもありますが どうもわたしたちは馴染んで来ていないのではないか? 何にでも価値を捉えようとする。価値でものごとを測る。こんなことは――商人が算盤をはじくのとは微妙に違っているはずなので―― わたしたちの頭には・また胸の内には ないのではないか? 少なくとも 人間の存在が 価値として測れるものなのか? どう思いますか? みなさん。 欧米式のグローバリズムゆえに 仕方がないのでしょうか?
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知っている範囲で。 価値観がなければ、アイデンティティなど存在せず、物事が価値というものはないとすれば、原理や科学の正しさという無機質や機械的なものしかなくなるように思えます。 かといって、何が優で何が劣でとすれば差別になりますし、その根拠も不明であったりします。 簡単な例でいえば、英語帝国主義といわれるもの。 英語が世界で一番すぐれているって誰かが実証などをしたわけではなく、現在の米国あるいは英国などが優位にある点などから、使われている点が大きいということです。 価値観は喪失してはいけないと思いますけど、価値で優劣をつくる、淘汰すれば根拠も不明だったり失われるものも存在するということではないかと。
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- jajptgamtj
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価値と権利は全くの別問題です。前者は哲学、後者は法学です。何を言っているのでしょうか? また、価値を考えることは目的を戦略を考えることにもつながります。 質問者に馴染んでいないだけなので、しっかりと学んでから投稿し直しましょう。可能であればご賢察を。
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じゃじゅぷとがむとじゅさん こんにちは。そんなにデタラメですか? まづは ご回答をありがとうございます。 そうですね。 弁護士の人数は 日本では 人口比で見て やはり少ないですね。 これは 遅れているだけではない。のでは? あるいは 自動車事故で損害保険の保険金が出る割り合いに応じて 弁護士が被害者に対して訴訟に持ち込むようはたらきかけていて 事故数が減って来ていても 訴訟は増えている。といった新聞記事を最近みたのですが――検索で調べ得なかったのですが―― そりゃあ権利の問題は そうだとすれば日本人にも馴染んで来ているのだと思います。 でも 裁判を起こして 損害の賠償をかち取ろうというのは そこに価値の問題が横たわっているからではないですか? あるいはつまり 生命保険は いのちの値段を――便宜的でにも――決めているわけです。価値の問題ですよね。 そのようなカチカチ山の中にいるなら ★ また、価値を考えることは目的を戦略を考えることにもつながります。 ☆ というのは 当たり前のことなのでしょう。 この風潮に違和感を感じるのは わたしだけでしょうか。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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価値ってタームは制限的閉じ込め的に使用されますね。 これをどう外しその枠を出るかが人の課題ですね。 ラートブルッフはその法哲学でいう 価値以前:没価値の世界。 理念価値の世界:規範や理智理論の世界 超価値の世界:まぁ信仰など価値を超えた世界。だから価値の世界にも有効。 美や芸術はどうか、文学などはどうか。これも一定の意図のもとに価値を内在させている。 bragelonne さんの価値のない世界、価値の世界。それは意識化がまだ不完全な世界。
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ご回答をありがとうございます。 《価値》って言葉を相手に使われたなら それに合わせていればいいのではないでしょうか? 質問の趣旨は そういうものです。 あるいは 世界のものごとのすべてに価値があると いっそのこと前提として言っておくのもよいのではないか。 でもねぇ。価値を付与するから 権利ってヤツが顔を出して来るんですよね。 そこに見返りとして義務をともなうならば よいはずだとね。 次の認識は あまり耳慣れない表現ですが そういう意味なのでしょうか?: ★ 価値ってタームは制限的閉じ込め的に使用されますね。 ☆ すなわち 世界は すべてのものについての価値づけにもとづき 権利と義務とが張り巡らされる鉄格子の体系であると。 ★ これをどう外しその枠を出るかが人の課題ですね。 ☆ どうなんでしょう。外せはしないのでしょうね 法治社会であるかぎり。 しかも 法三章で行けるかどうか。 ★ 美や芸術はどうか、文学などはどうか。これも一定の意図のもとに価値を内在させている。 ☆ やはり行き渡っているようですね カチカチ教が。
- DESTROY11
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グローバリズムなんかは一切関係ありませんよ。 人間が他者より上に立とうとする本能を持つ以上、なにがしかの「価値=他者との差異」を重要視するのは避けられません。 人間が「他者と同一である」ことを好ましいと思うようになっても、今度は「どれくらい同一か」が「価値」になりますね。23円賭けてもいい。
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ですとろい11さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 グローバリズムとは関係ないですか。 ★ 人間が「他者と同一である」ことを好ましいと思うようになっても、今度は「どれくらい同一か」が「価値」になりますね。 ☆ という発想は カチカチ教の信者として 優等生ですよね。 そういう思考形式は 欧米主導のグローバリズムの一環ではないですか? ★ 人間が他者より上に立とうとする本能を持つ以上、なにがしかの「価値=他者との差異」を重要視するのは避けられません。 ☆ 日本ぢゃぁ 《他者より上に立とうとする》クセのない人間が 会社などの指導者になる。のではありませんか? そういう《差異》を われわれ日本人はとうとぶ。のではありませんか? そんな感じがします。 価値で測りたくないので 賭けはバーチャルなだけにします。
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ぴーくおべ99さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ かといって、何が優で何が劣でとすれば差別になりますし、その根拠も不明であったりします。 ☆ ふうーむ。優劣を決めるために 広い意味で価値を捉えそれによって ものごとやさらには人間を測っている。のではないですか? 価値を共通の尺度としている。その意味で 優劣を決める根拠であるとみんなが思っていることになっている。のではないですか? すなわち: ★ 価値観がなければ、アイデンティティなど存在せず、物事が価値というものはないとすれば、原理や科学の正しさという無機質や機械的なものしかなくなるように思えます。 ☆ これは 申し訳ないが 典型的なカチカチ教のオシエですよね。オシエの第一条にある命題ですよね。 価値で測ることをみとめたとしても それは ものごとをめぐるその取扱い方を 人びとにとって共通の方法において持つためだと思います。 それでも 価値観は 人によって違うと見られています。 すなわち 特にはものごとではなく 人間についての価値〔観〕をここでは課題としましょう。 すなわち ふつうは 人それぞれについて捉えるとき最も一般的に共通の尺度は 《存在》です。《わたしはある》という見方で 人を――そうとすれば――取り扱っている。 この《わたしがわたしである》とき アイデンティティがあると言われる。あるいは 《わたしはわたしである》じたいが アイデンティティである。自己の同一性。つまりは 自己が自己に還っている状態。 もし価値と言うならば それは この自己同一性としての人間存在にある。つまり こうではないですか?: 人間がいる。わたしがある。 わたしがわたしである。 このアイデンティティにおいて 存在が存在である。 もし言うとすれば この自己同一性において人間は ――へんな話ですが――《価値》がある。 さらにはこの人間存在としての価値にもとづき その 人間がものごとなり世界を見るとき 一つひとつに価値 を付与し それらの集まりとまとまりが 価値観を形成 する。 そしてちなみにその価値観を形成するとき 《原理や 科学のただしさ》に一般にはもとづいておこなう。 こうではないのですか? 人間存在と価値観とが 順序がさかさまに成ってはいないでしょうか? ★ 簡単な例でいえば、英語帝国主義といわれるもの。 ☆ これは きちんと説明されていると思いますが いわゆるデ・ファクト・スタンダードにもとづくものですね。言葉は その変化について およそそのような既成の事実のほうが だいたい有力であってそれにもとづいて移って行きます。 最後にまとめておられるところは そのように思いました。 ★ 価値観は喪失してはいけないと思いますけど、価値で優劣をつくる、淘汰すれば根拠も不明だったり失われるものも存在するということではないかと。 ☆ つまり 《価値で優劣をつくる》ことを始めたあと その尺度が便利であると何かとそれに頼るようになる。ますますその尺度が機能するとなると 価値観の多様性は《淘汰》されたとえその尺度について《根拠が不明であった》としてもますます《普遍的に用いられる》ようになる。 さきほどの英語帝国主義も そうなのでしょうね。 ですから せめて《言語が意志疎通によいハタラキを持つ。そのあとは 既成事実にしたがい成り行きの結果 その中のひとつの言語を尺度のようなものとしているに過ぎない》と見て欲しいし 言って欲しい。 そこからカチカチ教ではなくなって行く。と考えてみました。