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yes or noに対する日本語

日本語には欧米語のようなyes or noに当たる言葉がないのではないか?ということです。 yes or noは砕けすぎてもいず、かしこまりすぎてもいません。そんな丁寧さとか尊敬度とか言うものを超越した、「肯定否定」という概念に直接結びついた言葉ではないかということです。 しかし、日本語で考えてみると、「はい、いいえ」はあきらかにフォーマルであり、かしこまっています。砕けた会話には使えない。では「うん、ううん」みないなものは、砕けすぎていて、ちょっとかしこまった会話には使えない。 だから、かしこまりすぎていず、砕けすぎてもない「yes or no」の表現を探すのに苦労する。というかそういうのってないんじゃないですか? なぜ、日本語はこれほど質問に対する答え、純粋な「肯定否定」概念を表す言葉としての単純な「yes or no」というのが存在しないのでしょうか?

みんなの回答

  • PaPaJohn
  • ベストアンサー率41% (48/116)
回答No.2

なぜ、日本語だと純粋に「肯定否定」の概念を表す言葉が存在しないのか?といわれていますが、英語も同じ。 YES NOを日本語にした場合はおっしゃるように段階的な表現は多いと思いますが、英語にしろほかの国の言葉にしろ言語によってその成り立ちが違うので「YES=はい」というように1対1で対応できる言葉を捜そうとするのは固有名詞でない限り無理があると思います。 たとえばYESに対応する日本語が一つではなく「はい」「うん」というように複数ある例を出していますが、実は逆も真で、「はい」に対応する英語もシチュエーションによって、「YES」「YEAH」「AYE」「SURE」「OK」など同じようにさまざまな単語が対応するのです。 なぜかと聞かれても「文化が違うから」としか言いようがなくて申し訳ないですが、たとえば人によっては小高くなったところを指して丘と言うこともあるでしょうし、山と言う人もいると思います。つまりは物事や事象を計る物差しが文化単位で違うからお互いが1対1で補完しあえる単語はきわめて少ないのだと思います。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

そのことに関して、下に載せた徒然草の第百四十一段をお読み下さい。 「悲田院尭蓮上人は、俗姓は三浦の某とかや、双なき武者なり。故郷の人の来りて、物語すとて、「吾妻人こそ、言ひつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実なし」と言ひしを、聖、「それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔かに、情ある故に、人の言ふほどの事、けやけく否び難くて、万え言ひ放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思はねど、乏しく、叶はぬ人のみあれば、自ら、本意通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情おくれ、偏にすぐよかなるものなれば、始めより否と言ひて止みぬ。賑はひ、豊かなれば、人には頼まるゝぞかし」とことわられ侍りしこそ、この聖、声うち歪み、荒々しくて、聖教の細やかなる理いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心にくゝ成りて、多かる中に寺をも住持せらるゝは、かく柔ぎたる所ありて、その益もあるにこそと覚え侍りし。」 要するに、京の人は吾妻人のような野蛮人ではなく、吾妻人より遥かに人情味が在るので、「はい」とか「いいえ」とはっきり言わないのだ。吾妻人も京の人のようになれると善いね、と言っているのです。ここで京の人に対応するのが日本人、吾妻人に対応するのが欧米人だと言うことです。

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