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歌を忘れた哲学の価値とは?
- 「歌を忘れた哲学」には、人間の感じる心と表現する心の世界の本質を見失ってしまった思索だけではなく、感じる心の思索を通じて道徳を深めることや文化改革を起こすことの重要性を問いかけています。
- 歌は言葉だけでなく、音声や節回しによる深みや心の触れ合いを表現する手段です。歌を通じて西洋哲学が追求してきた言語学の世界や生活の中の想いのうねりを生きたままに感じることができます。
- 感じる心と表現する心の結びつきを失って、思索や技術追求に偏ってしまった場合、ビジネスや文化、生活に革命が起こらず、道徳の弱さや偽善に陥ってしまう可能性があります。歌を忘れた哲学は、この点を問いかけています。
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「哲学」という、特殊な存在がある訳ではない。 概して、本質性への探究を伴う、認識的深まりの ことを言う。 曲解であれ誤解であれ、そこに「認識的深まり」 としての悟性を有するなら、迂回であっても至る 先は一つである。 その点、歌のように、自己の感性に内向した芸術 表現とは、全く異なる価値に属する。
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- MOG56222
- ベストアンサー率12% (6/50)
お礼ありがとうございます。 幽界のようなという表現ですが、感覚から切り離され頭の中の概念や思念のみに脳が集中ないし執着している状態を表すと思ってください。 欲望に関しては、こちらから質問をたてさせていただきます。
お礼
》幽界のようなという表現ですが、感覚から切り離され頭の中の概念や思念のみに脳が集中ないし執着している状態を表すと思ってください。《 解りました。 そのへんがはっきりしている方(かた)なのですね。 すっきりしました。 ありがとうございます。 欲望に関する MOG56222さんの質問 お待ちしております。 よろしくお願いします。 ありがとうございました。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
哲学=「智を愛する」ですので、「愛する」部分がなければ、哲学たり得ません。 この「愛する」は、まさに仰るところの「歌」に通じる部分です。実を言えば、このように「愛する」とか「歌」とか記号化された途端、「智」として扱われはじめ、議論の俎上に載せ替えられてしまいます。 それらの本質は、このように記述可能な「もの」(今眺めておられるディスプレイ上の文字列)に対して直交する方向性を有するものです。まさにそれぞれの視点から、これらの文字を通じて「分かろう」とする思いの方向性・強さ、ないし「質問をしよう、質問に答えよう」とする背景に潜む動的な情の方向性・強さといった概念になるでしょう。←このように言葉にした途端、すでに静的な概念になってしまい、本質を見失いやすいものでもあります。 このことは、哲学的な用語での「超越的」と「超越論的」との差異にも見て取ることができます。 http://okwave.jp/qa/q6017403.html いや、もっと卑近なところでは、「こころ」という概念が「知・情・意」といった3つの方向性をもつ概念にてある程度捉えうると、既に「知っている」ところに根ざしているでしょう。 よろしければ、 http://okwave.jp/qa/q6710406.html でのNo.9 http://okwave.jp/qa/q5292450.html?pg=1 でのNo.4 などを参照願います。
お礼
ありがとうございます。 実は 2度も なぜか失敗をしてしまい 書きましたお礼文が消えてしまいました。 二度あることは3度あるとならないことを祈ります。 しかし 私は設備業を生業としていますし、 87歳の母と暮らしていて 時間的に大変な中でこれを書いています。 せっかく 詳しい資料を提供くださったのに 補足質問 やそれぞれへの感想を詳しく書けないで残念ですが、 ここは、 これにて締め切らせていただきます。 愛智を 智の俎板に載せルことが出来ず残念です。 ただ、 その「超越論的構想力」にしても「統覚」にしても、ご紹介の文の限りは カントにしても 感性に関しては、その深みについて語っていない気がしました。 西洋の哲学の流れにはそのへんに やはり限界があったのでしょうか? 後の2つの 質問への そちらのご回答には それぞれ深みと豊かさを感じさせられました。 ほんとうは 一文一文 補足質問させていただきたいところが多いご回答となっているかと思います。 ですが、 ここは これにて締め切らせていただきます。 ありがとうございました。 もしよろしければ 今後も 哲学カテも活用してゆきますので そこで 機会があれば お互いに、より真実を明快なものへと浮かび上がらせてゆきましょう。 勝ち負けではなく 私は そこを求め続けています。 よろしくおねがいいたします。 ありがとうございました。
- dsdna
- ベストアンサー率24% (308/1281)
>なにか そういったおかしな世界を考えられての 発言でしょうか? いいえ、考えるまでもありません。歌は歌。哲学があってもなくても歌は存在します。おかしな世界で歌われている歌と、そうでない世界で歌われている歌を区別するのであれば、それぞれについて考えましょう。あなたの質問文には区別の定義がなかったし、区別する必要もありません。したがって、考えるまでもありません。
お礼
再度御回答ありがとうございます。 Ano3の御回答 読み返してみました。 含みの豊かな御回答 理解できていなかったようで反省しております。 》歌を忘れた分、歌を意識しない純粋な哲学になります。それはそれで価値があります。そこにしか価値がないかもしれないし、そこに価値を見出すのも哲学になりえるかもしれないし。《 子どもの頃、何度も極度に苦しい死の床を何度も体験しています。 その中でも、やはり、感性は失われていきます。 変わりに生まれるのはいろいろな幻想だったりします。 また 私の質問文でも 感性が失われた(かんぜんにということではなく)3年もの期間のことに触れています。 子供の頃、 もとは体が丈夫であった私が 虚弱体質のなったのには いじめが原因。 その時に 自分がそのいじめている人を「憎い」と 何とか友だちには解ってもらおうとしたとき 友だちは「どんな時にも人を憎んではいけないよ」との一点張り、 私は その日から 更なる孤独へと入ってゆき、 やがて気がふれてしまうような地点までいっています。 まだ両親にもだれにも いじめられている話を信じてもらえ無かった時です。 人を憎まず、 こちらの方が広い視野ではあるでしょう。 しかし どうしても「憎んでしまう」視点も 弱い生物ですから持っていますし、 そのような視点や立場があることは そのような体験をしてみなけらば わからないところかもしれません。 歌を忘れた世界、があるからこそ その視点からの哲学にも そこにしかないような価値 それはそれとしての価値などが 存在する といった解釈でよろしいでしょうか。 ふくみ豊かなそちらの文章 理解できていなかったと思います。 ありがとうございました。 あr
感性の調べのない哲学は死んだも同然である、と仰っているように聞こえます。 ですが、感性の凝縮された言葉を符号として受け止める時、果たしてそこには「調べ」なるものがあるのでしょうか。 誰かがタクトを振らなければ「歌」にはならない。 タクトの微妙な違いによって、すべてが変わってしまいます。 意志に基ずく感性の操作には、あらゆる可能性があると同時に、あらゆる危険性が秘められている、のかもしれません。 感性の優位に立つならば「歌を忘れた哲学」は音符のない楽譜のようなものでしょう。 意志という動態が感性の束縛を離れた時に始めて楽譜は現れます。 楽譜があっても歌わないだけのように思えるのですが・・・ 或いは、楽譜に見合った歌手の登場を待っているのかもしれません。 楽譜の価値は演奏家によって決まるのでしょう。 演奏とはすなわち実践のことです。
お礼
ありがとうございます。 》感性の調べのない哲学は死んだも同然である、と仰っているように聞こえます。《 そこが 大勢の回答者様が 気になった 私の性急な 飛躍性のある質問文の大きな欠陥でしょう。 右脳左脳で言えば その両方が無ければ、私たちは感性をも高めてゆけないですよね。 まるで 左脳は切り落とすべきだとか言っているかのような質問文となっているのかもしれません。 できるだけ早く 締め切って 書き直すべきところかと思います。 ありがとうございました。 感性とその表現の世界での技術との関わりについて書かれていますので そのへん補足質問したくなってしまうのですが、 ここは少し迷ってしまいます。 まずお礼をのべさせていただきました。 ありがとうございました。
補足
ヘタノスケさん^^、 ありがとうございます。 お礼にて書きましたが 締め切る意志があり ゆっくりそちらの御回答に対する補足質問を書くことができません。 しかし、 ほんとうに ヘタノスケさんに対しても そのネーミング^^に関するところからも質問したくなってしまいます。 そちらのご回答文自体の 一文一文への質問は、結構それぞれ重要な内容を引き出すものとして私の中にありますが、 実は 私はある意味舞踊の専門家のようなものなので 歌も同じく、専門的にみても、 》感性の調べ《の深さが大事であり、 結果 声に肉体的問題があったり リズム感に問題があったりして、 上手く歌えなくても、 価値的には 感性がどれだけ歌われようとしているのか、 というところを 結果のうまさよりも 評価すべきところと 考えます。 喉自慢大会というのは、けして歌の大会の本質をしっかり汲み取った文化とは言えないわけです。 まず へたであっていいんです。 そして 心から歌う文化 想いや 情熱 あるいは情感をしっかり追求する歌の文化が 大切です。 その実践を 私は大事にしています。 がゆえに ここは一度 退散させていただくしだい。 どうか そのへん御了承ください。 また 機会があれば タクトのあたり まが楽譜と 感性のリズムの違いなどなど 具体的にいろいろお話できればと思っています。 短い文の中に 豊かな思索展開を含んだご回答 ほんとうにありがとうございました。 また これからも よろしくおねがいいたします。 ありがとうございました。
- MOG56222
- ベストアンサー率12% (6/50)
おはようございます。 私にとって「感じる」というのは、幽界のような抽象的思考の世界を散策するときの命綱のようなものです。 言葉を変えれば、集中力のある思考というのは地上からの離陸であり、「感じる」というのは着陸であります。 質問に答えると、戻って来れない哲学は発狂の危険性があるということです。
お礼
「補足入力」欄の 最初に 「ありがとうございます」と書いたつもりのところ 「あ」が抜けていました。 すみません。 実はお礼を 先に入力したつもりになっていたのですが、 最後のボタンを押し忘れたようです。 ユニークな かつ 真剣な内容の御回答ありがとうございます。 実は 飛躍と 言葉足らずの至らない質問との反省から この質問は書き直そうと思っていますが、 その前に MOG56222さんの御回答には 補足質問させていただきたくなりました。 よろしくおねがいいたします。 ありがとうございました。
補足
りがとうございます。 私の質問には、言葉足らずと飛躍という欠陥があり そのへんをAno2の方の「補足入力」欄に 補足させていただきましたが、 まだ言葉足らずでしょう。 質問をしなおそうと思っていますが、 その前に、 そちらの書いてくださったご解答には、 別な意味でも 補足質問させてください。 ↓ 》私にとって「感じる」というのは、幽界のような抽象的思考の世界を散策するときの命綱のようなものです。 言葉を変えれば、集中力のある思考というのは地上からの離陸であり、「感じる」というのは着陸であります。《 難しい 表現ですね^^。 まず、最初の質問は 》幽界のような抽象的思考の世界《という 文についてです。 これですと 二つの意味にとれてしまいます。 抽象的思考は幽界のようなものだ という意味合いで使っている場合と、 抽象的思考の中の幽界のような思考をいう意味合いで使っている場合の 二つの意味合い では どちらを意味しているのでしょう? いずれにしても 全体の文意は似ているのだろうと思います。 こんな解釈でよろしいのでしょうか? 幽界という言葉は もちろん幽玄という意味あいは含んでいないですよね。 それだと 全体の文意はつかめなくなります。 まず、幽界を 死後の世界にも霊を考えるような、そういう意識についての思索の世界と解釈すれば、 そのような意識観にては、例えば 「欲望」という存在を 完全な無欲こそ完全な至福の必須条件という考えかたをしたりします。 死後 感覚がなくなり 欲望の世界から解放されることで 成仏してゆく過程があり それが49日、 その成仏の瞬間の至福はとても語りがたいすばらしいものだ といったふうにです。 しかし 実は 欲望はそれにとらわれず、それにおぼれなければ それこそ それ自体が そのぐらいすばらしい至福の感性のエネルギーにもなるものです。 いつでも 美味しいほうが いいという正直な心も持ちつつ 現在の状況にも満足し安定している心です。 日々新鮮な 子どものような心になれるなら、 欲望は それがなんらか人との醜い争いの因やその種とすらならず、 でありつつ 切々と分かり合う気持の根元にもなり、 かつ 欲望は開放的にもなり 気持も明るくなったりするところ、 これが 上記の抽象的思考が 絶対的欲望の否定に進んでゆけば 感性(「感じる」心)はひずんでいってしまいます。 だからといって、 幽界 死後の世界の想像の世界で 成仏を語るその抽象的示唆の世界に 意味合いが無いわけではなく、 それもまた 》散策《することで、 欲望を真に人間的なものに変えてゆく基点を捕まえる大きな力になったりもする。 その時点において、 まさに、 抽象的思考の世界には 大きな集中力も必要となるし、 「感じる」という着陸地点、命綱という観点を 忘れるなら それは、 健康な欲望認識にいたらないで 袋小路の陥ってしまう危険性がある といった解釈で、よろしいのでしょうか? これですと 》幽界のような抽象的思考《という文で 2つにとれる意味合いの両方を含んだ解釈となるところだと思いますが、 でも 2つに意味が受け取られてしまう文は やはり 読み取りにくいです^^。 いずれにしても 興味深い御回答 ほんとにありがとうございます。 もし よろしければ ということですが、 もう少しだけ このへん説明していただけると わたしとしては、大変ありがたいのですが、 よろしくおねがいいたします。 ありがとうございました。
>もしこの世に歌やその源泉としての感じる心が無かったら、 哲学(深く考える力やその力の結果の思考世界)は半欠けとなり、 半欠けのままでは そこに意味や意義が出てきますか? という問いかけです。 いいえ。 仮定に意味がありません。 歌は厳然として存在し、それ故に哲学の意義も存在します。 歌がなくて、哲学の意義がない世界を仮定して、そこからなにを議論するのでしょうか? 仮定法の使い方に混乱が見受けられます。 >哲学が 哲学の中の論理性のみしか思索できないのではそれって哲学ですか? という問いかけなのですが? 「哲学の中の論理性」は意味不明です。定義を明らかにしましょう。 あやふやな観念を投影して批判するのは、「藁人形論法」という重大な過失の一形態です。 偏見・差別・抑圧の温床です。
補足
再度御回答ありがとうございます。 質問の仕方に 言葉足らずと飛躍があったことを感じ Ano2の方への「補足入力」にそのへんを書かせていただきました。 まだまだ 飛躍がゆえの誤解を招いているかもしれません。 また、 そちらの言われるように 「もし」という仮定を 文の中で使ってしまったことも たしかに誤りだと思います。 》偏見・差別・抑圧の温床です。《 何か不快な想いをさせてしまったのであれば それもまた 私の不徳のいたすところです。 申し訳ありません。 まだまだ 言葉足らずと思いますが、 是非 Ano2の方への「補足入力」欄をお読みいただければと思います。 よろしくお願いします。
- dsdna
- ベストアンサー率24% (308/1281)
>「歌を忘れた哲学」にどのような価値があるのでしょうか? 歌を忘れた分、歌を意識しない純粋な哲学になります。それはそれで価値があります。そこにしか価値がないかもしれないし、そこに価値を見出すのも哲学になりえるかもしれないし。
お礼
ありがとうございます。 なるほど そちらの視点 勉強になります。 実は 私の質問はかなり飛躍した視点からの質問だったようで、書き直そうと思っています。 Ano2の方への「補足」欄のそのへんのことを書いていますが、このままでは お礼入力の前に 多くの方(かた)へ、補足説明を どんどん加えていかなければならなくなりそうです。 すこし そちらの視点に 一応補足質問させていただこうと思いますが、 たいへん参考になります。 ありがとうございました。
補足
ありがとうございます。 Ano2の方(かた)への「補足入力」欄に この言葉足らずの私の質問の顛末を書かせていただきましたが、 そこにも、書きましたが仕事が終わってこちらを覗いてみましたら すでに多くの方(かた)から回答を頂いています。 ほんとうは、質問しなおしたいのですが、 めんどうでも 一応 再度 Ano2の方に書いた内容を読んでいただいた上で あらたに皆さんに もう一度「あなたは、社会にとって 歌を忘れた哲学に価値があると思いますか?」という まだそれ自体を自明としていない段の質問へと切り替えて再質問させていただきます。 このままでは その価値観への反対意見には 耳を貸さない形となってしまうところ、 ほとんどの方が 反対意見のようですので、 きりかえさせていただきました。 まだまだ おそらく言葉足らず形でしょうが、 どうか もしよろしければ Ano2に書きました「補足入力」を読まれました上でも 私のその価値論の世界に反対であるも含め、 再回答おねがいいたします。 今度は 即まずお礼入力させていただきます^^。 よろしくお願いします。 なお それとは別にも dsdnaさんには 補足質問があります。 》歌を忘れた分、歌を意識しない純粋な哲学になります《 歌と言っても、 現代では 不純な世界もたくさんあります。 深く考えれば 喉自慢なんていうのも、 歌が自慢のためにあるなんておかしな世界です。 なにか そういったおかしな世界を考えられての 発言でしょうか? そのへんが 興味を惹かれましたので もう少し説明していただけるとありがたいところでした。 これも、もしよろしければ おねがいいたします。
- atomonados
- ベストアンサー率31% (55/174)
歌の価値,感性の価値を十分認めている。 あえて,哲学の意義を言えば,思考によって得られたものが,感性を修正することもあるということである。
補足
ありがとうございます。 私の質問の仕方が 中途半端だったと思います。 質問しなおしたほうがいいのかもしれません。 このままですと、 ほとんどの回答者の方(かた)に、お礼入力の前に、 補足を入力しなければならなくなりそうです。 猿から人間に進化した時、 簡単に言えば、その生物の脳は 「物事を《みつめる》能力」あるいは俯瞰の能力が宿ったことで人間という種の動物になったのだと思っています。 《みつめる》ことができるからこそ、 物事を分類したり比較したりして よりよいものを選んだり、 失敗を認識して反省したり出来 それによって 人間が進歩という世界をも手に入れることとなったということもいえます。 思考する《ゆとり》も生まれ こうしてどんどん思考する能力もはってんしていったと思われるのです。 そして その能力は言葉が生まれることによって さらに物事の分類や比較の力を得て、 思考力事態がさらに進歩もしていったとは、 私も思っているのです。 そのこと自体の価値を否定してるわけでもなんでもないのです。 ただ、 私は 言葉以前の人類の方が 感じる心や、それを太鼓等で表現する心をも 《みつめる》能力は しっかりしていたと思えています。 海の波 水の流れにしても それを 子どものように新鮮に感じる能力 とその意義(「幸せ」と言ってもいいと思う)を感じる能力も 体の心から理解され、かつ《みつめられて》いたと思うのです。 ほんとうは 言葉を獲得してこそ、そこをさらに磨いてゆく必要があり さらに《みつめ》られるべきところだったのだと思います。 まさに、 そちらの言われる 》感性を修正する《 能力こそが大切であるわけです。 そこが、しっかり《みつめ》られない形で 西洋哲学が発達してしまったのであれば、 《半欠け》と私は 簡単に質問で表現しましたが、 半欠けどころでは無い 間違いという風にもいえる出発をしてしまったのでは という疑問だったわけです。 そこに 道徳やその反面の偽善が生まれてしまう因があったのではとも 問いかけています。 これでも この質問はまだ 言葉足らずでしょう。 私は 現在設備業に勤めていますが、 仕事を終わって覗いてみましたら、すでに大勢の方(かた)の回答が入ってしまいましたので めんどうなことになってしまいましたが とりあえず、 お一人お一人に補足を入力させていただくことにしました。 私の質問は 歌を忘れた哲学に価値は無いと言い切った上での質問となってしまっています。 しかし よく考えてみれば、 今まで そのようなことを言った哲学者とか聞いていませんよね。 わたしにとってはあまりにも当たり前の考えであったために、こんな形の質問をしてしまったわけです。 そこに価値は無い ということを前提に なぜ今までの哲学ではこんな当たり前のことが説かれてこなかったのかについての意見を求めていたのです。 考えてみれば 飛躍ですね。 ここで ではatomonadosさんにも、 「「社会全体にとって、歌を忘れた哲学に価値があると思いますか?」」と問い直すところから 出発しなおしたいところ、 おそらく まだまだ 言葉足らずとなってしまっているかと思われてきています。 一応 補足すると こんな意味あいの質問となると思いますが もしよろしければ、 再回答おねがいいたします。
歌は意味や意義があるから大切なんじゃないでしょ? 歌は歌。 哲学は哲学。 美学や倫理学というのは、それはそれできちんと方法論があるので、勉強してはいかがでしょうか。
補足
ありがとうございます。 でも 私の質問は、 もしこの世に歌やその源泉としての感じる心が無かったら、 哲学(深く考える力やその力の結果の思考世界)は半欠けとなり、 半欠けのままでは そこに意味や意義が出てきますか? という問いかけです。 もしよろしければ そのへんを読み取られた上で 再回答お願いいたします。 哲学は哲学。 それはそうでしょうけれど 哲学という思索の世界(「学問の世界」という表現でもいいですが)は、 すべての思索しうる世界を総合した思索の世界、あるいはそれを求める世界なのではないですか? 右脳左脳で言えば、 その哲学が 右脳については思索しないなどということはありえないと思います。 哲学においては 美学も倫理学も 当然 総合的に考えられるべきところと 私は考えています。 スポーツでは ボクシングならボクシングという専門が生まれることで その技術が発展しましたが、 そういう技術の世界にても今では 総合的にその訓練システムすらも変化発展してもいます。 今後さらに スポーツは総合化を含んだ多彩化へと向かうでしょう。 哲学が 哲学の中の論理性のみしか思索できないのではそれって哲学ですか? という問いかけなのですが? よろしくおねがいいたします。
お礼
ありがとうございます。 なるほど そちらの視点 勉強になります。 実は 私の質問はかなり飛躍した視点からの質問だったようで、書き直そうと思っています。 Ano2の方への「補足」欄のそのへんのことを書いていますが、このままでは お礼入力の前に 多くの方(かた)へ、補足説明を どんどん加えていかなければならなくなりそうです。 すこし そちらの視点に 一応補足質問させていただこうと思いますが、 たいへん参考になります。 ありがとうございました。
補足
Ano2の方(かた)への補足入力欄にも書いた内容なのですが、 動物と人間の脳の違いに《みつめる》能力というのがあります。 簡単に俯瞰能力と言ってもいいと思います。 この能力は 藝術表現の世界でも、 認識的深まりの世界でも共通項だと思います。 また その能力によって 、物事を分類し、比較し、 検討したり反省したりして 経験や学習や技術を進歩させるという面でもほんらい共通しているところかと思います。 ただ、 ソシュールのような言語学者ですら、 言葉での表現だけでは表現しえないような感性については 物語らす、晩年にてそのへんを語り始めたようなのですが、かえってお茶をにごしてしまっているわけです。 psytexさんは、 》自己の感性に内向した藝術表現とは、全く異なる価値に属する《と 表現されていますが、 現代人におけるそのへんの内向の難しさと その表現の難しさをして、 》全く異なる価値に属する《と 表現されているのでしょうか。 たとえば、 私は 都会のみすぼらしいおんぼろアパートの2階の風呂場の窓から 下から伸びた大きな葉っぱの木の枝に 雪が積もり始めたのを 見たとき、 田舎で満天の星空を眺めた時のような いやそれ以上の 深い安らぎと感動を覚得たときがあります。 また同じ満点の星空への感動も 時と場により感じる度合いはことなったりします。 すぐれたオーケストラの演奏を聴いても 眠くなるだけのときと、会場の全体が自分の体の感動のゆれと一体になってゆれていると感じるほど 熱い涙とともに感動した時とでは、 天と地との差があります。 この感性の世界を 少なくとも 今の文明の中での私たちの「認識的深まり」と いっしょに考えてはならない、というご示唆なのでしょうか? いずれにしても psytexさんのご回答は 私の質問の全体をとらえていますので、 その視点は ほんとうに参考になったのですが、 もしよろしければ、 本来的には大きな共通項があるはずの世界を 》全く異なる価値に属する《と表現されるあたりを もう少し追加回答くださるとありがたいところです。 よろしくおねがいいたします。 ともかく 私の質問には 大きな飛躍があったと思います。 そのへんを反省して 質問しなおしたいと思っております。 ありがとうございました。