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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:欧米の個人主義者は 孤独につよいか? ぎゃくでは?)

欧米の個人主義者は孤独につよいか?ぎゃくでは?

このQ&Aのポイント
  • 欧米の個人主義なる思想はすでに孤独を言わば織り込んでいて、しかも孤立することなく社会関係の中でふつうにしかるべく孤独であって強い。
  • 欧米の個人主義なる思想において、孤独は自明であり、独りある境遇につよいか?ぎゃくではないか?
  • 欧米の個人主義者は孤独を積極的に受け入れており、社会関係の中で自己を維持しながらも強さを持っている。

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  • kohichiro
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回答No.4

ブラジュロンヌさんおはようございます。 >幾何学の精神と繊細の精神について 拝見しました。仰るとおりだと思います。人間は感性の生き物ですから、真理と感情との矛盾を常に感じながらバランスをとってきたというのは間違いないところでしょう。それを前提にしつつこの課題を考えていく必要があると私も思います。 振り出しに戻って、「孤独に強いとはどういうことか」を考えた場合、やはり社会があって、その社会と矛盾しない安定した孤独、社会も許す孤独というものが「強い孤独」というものであろうと私は思います。西行のように社会から截然と離脱して仏と芸術に捧げる人生を送るというのもひとつの孤立の方法であり、勝海舟のように、激しい社会の矛盾と圧力の中にあって孤立しながらその圧力に負けない強力な独自の思想で周囲を黙らせる、自身の孤立孤高を社会の標準にしてしまうという種類の孤独もあります。 西洋の個人主義とは、高さと強さの差はあっても、おおむね自分の立場は立場として周囲をともかく黙らせる、その立場を納得させるという、海舟系の孤独であり、強い孤独だろうと思います。周囲を黙らせる、納得させるにはやはりそれなりのコミュニケーションが必須です。西行には芸術があり、これも一般に通用する力がなかったとはいえませんが、やはり次元としては社会とは異なったものであるといえないこともないと思います。一般的に芸術魂はやはり市民一般にはそれこそ感性でしか交流できないものでしょう。 同じことをるる繰り返しているような気がしますが、市民の中の個人主義は、確かに狼の論理が含まれます。ここで議論が深まらない場合、決裂した場合は、やはり喧嘩しかないという破滅的な事態もありえるかもしれません。しかし、それはやはり人間関係の失敗であって、お互いにそれを避けねばならないという考え方も論理には含まれると思います。それは必然的に感性の出番かもしれません。 私の今の思いの披露はそこまでにします。 疑問など多いと思いますが。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。土曜の朝は外出の日課がありました。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  同じことをるる繰り返しているような気がしますが、市民の中の個人主義は、確かに狼の論理が含まれます。ここで議論が深まらない場合、決裂した場合は、やはり喧嘩しかないという破滅的な事態もありえるかもしれません。しかし、それはやはり人間関係の失敗であって、お互いにそれを避けねばならないという考え方も論理には含まれると思います。それは必然的に感性の出番かもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《意識の関係におけるややもすると対立とそして そうは言っても均衡をもたらし調和を図ることをも知っている》その論理性に 繊細の精神を加味して 出来るものなら情感の共同性の中に入って《意識における対立と均衡をさらになめらかなものにする》。といったところでしょうか。  わたしは 日本人のあいだでは 情感の共同性がまだまだ生きていて有効である。その土壌の上に 論理の世界が繰り広げられている。というふうに見ています。  でも:   ★ 西洋の個人主義とは、高さと強さの差はあっても、おおむね自分の立場は立場として周囲をともかく黙らせる、その立場を納得させるという、海舟系の孤独であり、強い孤独だろうと思います。周囲を黙らせる、納得させるにはやはりそれなりのコミュニケーションが必須です。  ☆ というふうに 欧米人のあいだに見られる《個人と孤独とそれらの人間関係》が 海舟といった日本人らにも見られるのではないか。こういった観察がありうるようだ。ということですね。  こうやって話をすすめてくると お互いのあいだにそれほどの違いがあるわけでもないようです。東と西とのあいだでは 重心を 理性におくか感性におくかの違いだけであるのかも分かりません。  まぁ 穏当な結論は 《まあまあ主義》に落ち入らないとも限りませんが そうですね いまひとつ 将来へ向けて《波風を立たせ》てみましょうか。  ★ 西行のように社会から截然と離脱して仏と芸術に捧げる人生を送るというのもひとつの孤立の方法であり  ★ 西行には芸術があり、これも一般に通用する力がなかったとはいえませんが、やはり次元としては社会とは異なったものであるといえないこともないと思います。一般的に芸術魂はやはり市民一般にはそれこそ感性でしか交流できないものでしょう。  ☆ この浮世離れした《独り道をゆくわたし》の思想(生活態度)は あんがい日本人のあいだでは ひとつの基礎にさえ成っているのではないか? という問いを添えておきたいと思います。  芭蕉にも見られる《旅》の精神ですね。  うたが優れているとか 俳諧とはすぐれた芸術であるといったことを言おうとするのではなく そうではなく 《罷宴》の思想ですね。  実業人が社会という・経済活動という大きな《宴会》の中にあって――つまり決してそれを避けてとおると言うわけではなく しかも――これらの浮き世(憂き世)から超然とした精神の人物〔の行き方〕を好むといったクセのことですね。  ただし 世はすでに経済の高度成長の時代をとおり過ぎて来ています。あるいは 身分制が固くあって 自由な身動きが出来ないといった世の中でも無くなりつつあります。  そうなると おそらくは 西行や芭蕉の《遊離するヱクトル》も 海舟のつよい精神と相い合わさって 人間の人間のための人間による社会が出来上がって行くのかも分かりません。  言いたいことは 海舟の強さは 旅に出るという精神のことを知っていたからではないか。というふうに思ったものですから。  また お会いしましょう。

その他の回答 (3)

  • kohichiro
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回答No.3

ブラジュロンヌさん、しばらくあいてしまいました。申し訳ありません。 今回は西行を日本人の代表にしたてて西洋の賢人たちと対決させるというお話でしょうか。 お礼にあった「西欧の個人主義にこそ真理がある、のかどうか?」というそちらの解釈は、私の書き方に問題があったのでしょうが、それはちょっと違っていて、西欧人の個人主義は、それこそ人間とは何かというつきつめて真剣に考える姿勢にこそあるので、そこに真理へのまじめなストレートな態度が日本人とは違うのではと思うのです。必ずしも彼らが人間の真理をすでに把握したといっているわけではありませんが、そのまじめな姿勢が真理に近いものだということです。 西行はある意味実人生を捨てて仏教の修業者になった人間ですから、あるいは西洋では政治的な立場を捨てて芸術一本に入った後のベートーベンのような存在であり、必ずしも普通の市民の代表にはなりえないと思うのですね。はっきりいって彼らには敵も仲間も存在しないわけですから。 一般の人間は敵も味方も作らねば生きてはいけないわけで、それを前提にしての孤独です。 補足のなかでの ひ は、確かにその通りです。そういった複雑な人間関係で孤立する、そのうえでその孤立を自身なりの立場を周囲からアイソレートして守っていくための哲学的信念が真理に通じる態度になっていくのではないでしょうか。 日本人のなあなあ感覚は、そのあたりをごまかして情緒へ流れているという感が私はしてならないのです。 国会質疑などを見ていても、どうも日本人は言葉を大事にしない、というか言葉を信じては居ない。むしろ細かい禁止令をいっぱいつくって守らせるというドイツ式のほうが論理的で、私には人間としてのあるべき一般性に通じるのではないかと思います。どんなものでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 こういちろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。時間をじゅうぶんに取って ご投稿ください。こちらは だいじょうぶです。  ★ 西欧人の個人主義は、それこそ人間とは何かというつきつめて真剣に考える姿勢にこそあるので、そこに真理へのまじめなストレートな態度が日本人とは違うのではと思うのです。必ずしも彼らが人間の真理をすでに把握したといっているわけではありませんが、そのまじめな姿勢が真理に近いものだということです。  ☆ 微妙ですね。  そして  ★ 必ずしも彼らが人間の真理をすでに把握したといっているわけではありませんが、そのまじめな姿勢が真理に近いものだということです。  ☆ という事情にあるのだと。    (ま) たぶん《真理を見出した》とか《真理に近づいた》とかというふうに問いを立てると 誰もがもうそこで足踏みをしてしまうと考えます。なかなか 結論は出ません。  (み) だから たとえば《――主観の範囲でよいとするかたちで――おのが固有の時を見つけた》かどうか? といった問い方をわたしならしています。《わたしがわたしである》。《わたし》が数字で一なら 《 1 = 1 》という自己なる心のあり方です。脱線しても つねに我れにもどる。つまりは 1x1 = 1 となって《わたしはわたしでありつづける》。 1^n = 1  これが 《わたし》でありその動態です。  (む) その固有の時にあっても――むしろ固有の時ゆえにこそ――なおわたしは孤独である。のですが しかも同時に その孤独は 誰もがそれぞれの固有の時にあって見出しているものであると知るからには 孤独どうしの関係である。と知ります。独立した我れであると同時に その我れは 我れと我れとの関係であると。この関係は 絶対であると。(一生のあいだ いつ・いかなる所でも つきまといますから 絶対です)。  (め) 西欧人には その《孤独》があるか? どういう孤独観なのか? ――こういう問題ですよね。  (も) 《人間とは何かを真剣に考えるそのまじめな姿勢》が 真理に近いというときには おそらくたとえば《日米決戦は どこまでも避けたいという偽らぬ心で真剣に最後の最後まで考えしかるべき行動を打っていたというまじめな姿勢》は 日本人にもありますよ。  ★ 西行はある意味実人生を捨てて仏教の修業者になった人間ですから、[・・・]必ずしも普通の市民の代表にはなりえないと思うのですね。はっきりいって彼らには敵も仲間も存在しないわけですから。  ☆ (や) ですからその《心無き身》にも もののあはれは知られたというのですから 《心ある身》なら余計そうだという事例になると思うのですが。  (射) 《敵も仲間も存在しない》からこそ そのもののあはれとしての孤独を見出したのであって 敵も仲間もいるふつうの人にとっては 別だということでしょうか? ――でもそういう見方に立つなら 世を捨てていないかぎり 孤独は味わえない。と決めつけたことになるのではありませんか?    ★ 一般の人間は敵も味方も作らねば生きてはいけないわけで、それを前提にしての孤独です。  ☆ (ゆ) では 孤独に違いがあるのでしょうか? 言わば出家した世捨て人の孤独と在家にあるふつうの人びとの孤独との二種類があるのでしょうか。  (江) 海舟は 頭を丸めたわけではなく幕府に仕える境遇にあって みんな敵でいいぢゃないかと言っていましたが。  ★ 補足のなかでの ひ は、確かにその通りです。そういった複雑な人間関係で孤立する、そのうえでその孤立を自身なりの立場を周囲からアイソレートして守っていくための哲学的信念が真理に通じる態度になっていくのではないでしょうか。  ☆☆  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (ひ) おそらく《個人》どうしの社会的な関係というコトをも言っているはずだ。その関係とは じつは 《狼として互いの意識において対立するかたちでそれぞれ教養や財産等々で自分を飾り立てている。その飾りの対立関係の中で 狼の戦略として鳩のごとき隣人愛のかたちにおいてもさらに――別様に笑顔によって――飾り立てて対立の均衡を図る。むろん 調和と秩序を知らないのではない》 こういった人間関係なのではないのか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (よ) そういう視点に立ってのご見解でしたら それはそれで受け留めます。  (ら) 問題は――この質問では―― 別にあって 人間の真実のあり方(つまりは おのが固有の時を見出したという我れなる存在)は そういった《飾り立て》関係における対立と均衡ではないのではないか? と睨みつけています。 シガラミと栄誉とのいづれも或る種のカザリであるそういう人間関係の狭間から真理に近づくといった姿勢は まだまだあいまいではないか? という物言いです。  (り) 飾りをつけたクリスマスツリーどうしの関係のあわい(間)から覗くという視点は それとしてあって構わないわけですが その孤独と 樅の木本体だけの孤独とは 違って来ているのではないか? です。  (る) われわれ日本人の感覚から行けば 裸の樅の木どうしのおつき合いゆえに 孤独を知りつつ いざという時には 互いに助け合いをもおこなう。《狼や鳩やの互いの意識関係》は 無い。と思うのです。  (れ) その自然な裸の飾らない人間どうしの関係の場合には ややもすると:  ★ 日本人のなあなあ感覚は、そのあたり(=ややもすると誰もが落ち入らざるを得ない孤立関係)をごまかして情緒へ流れているという感が私はしてならないのです。  ☆ と見られる問題が出て来るのでしょう。  (ろ) でもそんなことを(つまり 最悪の場合を取り上げて)言うのなら 欧米にあっても意識の対立関係が生涯解けないまま いがみ合って過ごすことにならないとも限らない。つまり 《まあまあまあ なあなあ よっしゃよっしゃ みんなでシャンシャン大会》に対して 《あちこちにハリネズミ関係》が現われて来るのではありませんか?   (わ) 《情緒へ流れること》も問題ですが 《情緒へ流れることの無さ》も 問題です。  ★ むしろ細かい禁止令をいっぱいつくって守らせるというドイツ式のほうが論理的で、私には人間としてのあるべき一般性に通じるのではないかと思います。どんなものでしょうか。  ☆ (ゐ) ここは わたしの――生活体験の無さの――泣き所です。  ( wu ) 問題は 《幾何学の精神――論理性の追究 また 意識の対立と破綻と均衡――》と《繊細の精神(情感の共同性)》との調和にある。これが 安易に導き出した結論である。となるとは 思います。   cf. 【Q:幾何学の精神と繊細の精神について】     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6780348.html  (ゑ) よろしかったら全体として 議論を継いでください。ゆっくりでかまいません。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.2

ブラジュロンヌさんこんばんは。すぐに回答が欲しいということですが、出遅れました。ごめんなさい。 >西欧由来の個人主義は孤独に強いか、どうか? 面白いテーマですね。日本人が韓国の反日主義者に負けそうになっている。日本は国ぐるみ孤独になることでここを踏ん張ろう、とおっしゃるのですか?なかなかいいアイデアですね。でも、養老孟司というひとが「無思想の発見」という新書で「究極では真理が強いのは当然で、だから日本人は明治以来科学者が引っ張ってきた」と仰っています。 欧米人は個人主義というひとつの真理をみつけたので、そこにこもれば絶対強いです。やはり個々人では孤独でも我慢できるのではないでしょうか。もちろん孤独でとことんがんばれるのはやはりそこに真理がなければならないと私は思います。単なるやせ我慢ではながくはもちません。もっとも、戦争をする覚悟なら真理は不用ですが。 個人主義を社会に根付かせるには、やはり真理を大事にする思想、論理的な気風を社会にゆきわたらせる必要があるでしょうが、日本人はその点科学の真理いってんばりで、自我が未完成のひとびとは社会に応用する場合は分かりやすい実利の経済へ、もうかりまっか?という方向へ行ってしまう傾向が強いです。やはり神がいなかったせいで形而上学にうとい民族になってしまいました。 く、け、こ、についてはよく理解できません。申し訳ありません。和歌の世界は虚構の世界であり、仏教は寂莫をたっっとんでいますが、これは何でしょうか、思想ではなく、単なる個人的な詩の世界ではないでしょうか。 単なる私見です。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ でも、養老孟司というひとが「無思想の発見」という新書で「究極では真理が強いのは当然で、だから日本人は明治以来科学者が引っ張ってきた」と仰っています。  ☆ これは 落ち着いた見解だと思いました。  養老孟司という人の思想は あまり買っていませんが これは よいことを言ったと思います。水の低きに流れるように 事件や問題は 真理・真実に落ち着くものと思います。  ★ 欧米人は個人主義というひとつの真理をみつけたので、そこにこもれば絶対強いです。やはり個々人では孤独でも我慢できるのではないでしょうか。もちろん孤独でとことんがんばれるのはやはりそこに真理がなければならないと私は思います。単なるやせ我慢ではながくはもちません。もっとも、戦争をする覚悟なら真理は不用ですが。  ☆ ここには いろんな主題がふくまれていますね。  (さ) 《個人主義に籠もる》というとき そこに《真理・真実》はあるか? が一番の問題なのでしょうね。  (し) 人工の姿勢や態度であるなら まだまだ改良の余地があることになります。それとも 人造の思想や主義のほうが つよいのでしょうか?  (す) いづれにしても かれらは《単なるやせ我慢》ではない確かな生活態度を築いて来ているのでしょう。  (せ) 容易には崩れないようにも感じられます。  (そ) ひょっとすると 崩れかけるときには 《戦争》をしかけることで長い《伝統》のある個人主義を保持する。・・・というまでのことではないでしょうね。  (た) でも戦争をまだ手段として用意しているのは ひょっとすると《孤独》には耐えられない側面があるから・・・かも知れない。  ★ 個人主義を社会に根付かせるには、やはり真理を大事にする思想、論理的な気風を社会にゆきわたらせる必要があるでしょうが、日本人はその点科学の真理いってんばりで、自我が未完成のひとびとは社会に応用する場合は分かりやすい実利の経済へ、もうかりまっか?という方向へ行ってしまう傾向が強いです。やはり神がいなかったせいで形而上学にうとい民族になってしまいました。  ☆ ここは 最後のパラグラフとともに 論争があるかに わたしからは見られます。  (ち) いまはまだ深く立ち入らないことにします。  (つ) かんたんに言えば 《狼》ではなく 《兎》だと思想がないのだろうか? です。だまっていると 何も考えていないことになるのか? です。  (て) もののあはれを知ると言って世界を観ている態度は 思想に乏しいと見られてしまうのか? です。  わざと あいまいにしてひとまづお礼とします。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄で あまりにもあいまいなままにしましたので おぎないます。  (と) (お)のうたは 西行の詠んだものですが この人は武士でしたが 仏門に入りました。それが 《心なき身》です。すなわち 親兄弟はもとより親戚も知人も世の中すべてを捨てた身だという意味です。  (な) そんな親不孝者でバカモノで人で無しであるのに この秋の日の夕暮れ時に或る沢に来て 鴫の立つさまを見ていると いつしか《あはれは知られけり》と言っています。  (に) 世の中の・またそこに住む人びとの血のかよった結びつきが すでにまったく捨てて来たのに 思い出されると。  (ぬ) つまりは 味方も敵も人という人はすべて自分から失くして来たにもかかわらずその孤立した状態は じっさいに話を交わす人がひとりもいないのであるから なお孤独ではあるが じつはその孤独というものは 孤独なる人どうしの関係なのだと知った。と語っていませんか?   (ね) 頭を剃った沙門だからではなく 世の中の人だれもが じつは――おのれの《固有の時》を見出しその中にあるときには―― そういう孤独でありつつしかも孤独関係として存在する。のではないかと。  (の) じつは人は ここにおいて生きている。飾りをすべて取り払ったクリスマス・ツリーの樅の木として生きているし じつは共生している。  (は) ヨーロッパ・アメリカの人たちは 《個人》を発見したというとき その個人とは何か? 《孤独》とどう違うのか?   (ひ) おそらく《個人》どうしの社会的な関係というコトをも言っているはずだ。その関係とは じつは 《狼として互いの意識において対立するかたちでそれぞれ教養や財産等々で自分を飾り立てている。その飾りの対立関係の中で 狼の戦略として鳩のごとき隣人愛のかたちにおいてもさらに――別様に笑顔によって――飾り立てて対立の均衡を図る。むろん 調和と秩序を知らないのではない》 こういった人間関係なのではないのか?   (ふ) もののあはれを知った孤独なる身としての《樅の木》関係ではないのではないか? 個人主義なる生活態度は 言わばヤジロベエのごときもろいチカラの均衡に立っているだけではないか?  (へ) 欧米人は その心の中の世界になかなか入る機会がなく そのおのが固有の時を知らないのではないか?   (ほ) だとすれば その《きづな》はなお弱い。孤独なる身に立たなければ 絆は結べない。だから 日本人を見習って欲しい。――ここまでを思い切って言っています。どうでしょう。

回答No.1

私は、8年間の海外勤務の中で、多くの白人と 敵対したり同僚として働いてきた。 基本的に彼らといる時は、緊張感がとけない。 日本のように遠慮・以心伝心の世界とは異なり、 常に自己主張し、争い、妥協点を見出す事が必須 なのだ。 逆に遠慮して何も言わないのは、気持ち悪がられる。 そうした緊張感のある社会生活だからこそ、プライ ベートな時間が貴重なのだ。 彼らは、社会生活とプライベートを完全に使い分ける。 社会生活においては、孤独を恐れない。 他人を、まず敵だと考えるか、味方だと考えるかの 違いだ。 日本人は、謙遜したり自らの弱みをさらして、相手に 甘えようとする。 「やさしい(Tender)」という単語は、日本では良い 印象しかないが、英語だと「虚弱な」という印象が伴う。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  1. 旅行ではなく生活するということは 貴重な経験だと思います。    2. この問題は 大きい主題のもとにあると思うので かんたんにやり取りできるとは思えないところがあります。  3. そこで 二点 もしよろしかったら次の問いにさらにお答えいただければと思います。  (β) 「虚弱な」という印象が伴う英語の《 tender 》は そうしますと 仕事関係の社会生活では あまり使わない。ということでしょうか。オフの生活で使った場合 虚弱のニュアンスがあっても 愛情をもってしかるべき相手には使うのか? それとも それを使う場合は――はっきり《虚弱》の印象をあたえてもよいと思ったときでなければ―― ないと見るべきか?  (γ) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  彼らは、社会生活とプライベートを完全に使い分ける。  社会生活においては、孤独を恐れない。  他人を、まず敵だと考えるか、味方だと考えるかの違いだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この観察は 分かりやすいと思われる反面で かんたんに応用してしまいがちになるかと思います。  そこで いろいろお聞きしたいのですが 一点です。:  その《孤独を恐れない》というとき それは《味方の一人もいない孤立をもおそれない》ということか? あるいはつまり 実際問題として《もともとプライベートでも孤独であるからそれがそのまま 仕事の面にも出ているだけ》なのか?