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ショーペンハウアーについて

閲覧ありがとうございます。 ショーペンハウエルの「幸福について」を読みました。 彼の意見をまとめると『意志から起こった行動はやがて退屈と苦痛に陥る。なので「~しよう」等という意志を捨てて認識をするべきである』ということでしょうか?(´・ω・`) 退屈と苦痛の負の連鎖から脱却する方法は『精神的享楽を意志ではなく認識で行うこと』なのでしょうか? また、認識というのは、瞑想する時に心の中で「吸った、吸った、吸った」「吐いた、吐いた、吐いた」と唱えているもののようなことを表しているのですか?

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回答No.1

ショーペンハウワーを読むんだったら、ぜひ主著の「意志と表象としての世界」を読んでください。 私は18歳の時に、それを読んで哲学の世界に入りました。 それまでのものの考え方がひっくり返って、世界がまるで別の世界のように見えてきました。 なぜ、この世界は存在しているのか? という深刻な疑問に襲われ、そしてかれの「自殺について」というエッセイを読んで、死について考えるようになり、鎌倉の禅寺に行って半年間でしたが、禅の修行をしました。 結局、死の謎は解けませんでしたが、以来ずっと、世界はなぜ存在しているのか? そして自分というのは何なのか? という謎に取り組んできました。 「幸福について」という本は、哲学の本というより、人生論で、私もずいぶん読みました。 何回読んだか、分からないほどです。 ショーペンハウワーはドイツのダンチッヒの豪商の倅で、プロテスタント、だから禁欲的で、ケチでした。 ドイツ人にしては珍しくインド思想と仏教に傾倒し、バラモン教の聖典の一つ、ウパニシャッドを毎日読み、自分の書斎には仏像を飾り、そして飼っているムク犬には、アートマンという名前まで付ける、「オタク」でした。 インド思想と仏教によって、人間が苦しむのは「生きんとする意志」があるからだ、それを否定すれば苦しみから解放されると説き、意志の否定を説きました。 「幸福について」という本でも、人間が退屈に苦しむのも、「生きんとする意志」があるからで、その意志を捨てて、否定すれば、退屈も無くなると言いました。 私が禅をやっている時に感じたことは、座禅をしている最中はぜんぜん退屈を感じないということでした。 つまり、何ものも求めず、何ものも欲せず、自分を見つめて、自分に意識を集中すれば、退屈なんて全然感じないということです。 自分を無にすれば、退屈を感じることはない、と。 人が退屈を感じるのは、何かを欲し、何かを目的とし、人生を充実した豊かなものにしたいという欲求があるからで、そんなものをすべて否定し、人生に何の目的もなく、ただ存在していることに喜びを持つことができれば、退屈に苦しむこともない、ということです。 それともう一つ、哲学でも何でも、毎日何かを考えることに集中していれば、退屈を覚えるヒマなんてないということです。 なぜ、この世界は存在しているのだ? いったい自分というのは何なんだ? という疑問を毎日考えていると退屈するヒマなんてありません。 私があなたがショーペンハウワーの「幸福について」を読んだならば、ぜひ、「自殺について」(岩波文庫)を読んでもらいたいということです。 「自殺について」というタイトルですが、決して自殺を勧めている本ではなく、人間の死について論じている本です。 私が鎌倉で禅の修行をするようになったのも、その本を読んだからです。

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