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英語の時制

英語の現在形と疑問文について教えてください 現在形は幅がありますよね。 例えば、I play tennisといえば、今テニスをしているという意味ではなくて、日常的にテニスをしているという意味ですよね ではHow do I use this?は、「日常的に」どう使えばいいか聞いているんでしょうか? 例えば、海外旅行中に使い方がわからなくて、どう使えばいいか聞くときに、日常的にどう使うかを聞くのも変ですし、こうゆう場合どう考えるんでしょうか? 現在形で、一回きりの、これからする未来的なニュアンスを表せるのか。それとも、疑問文にすると一回きりのニュアンスを表せるんでしょうか? また、たまたまNHK見てると。Do you mind if I take your photo?写真撮ってもいいですか?とういう内容の英語番組をしてました。 ここで気になるのが、mindとtakeです。 mindは日常的に気にする意味じゃないのは明らかですし、takeは現在系なのにこれからする、しかも一回きりのニュアンスだと思います。 これは現在形は、幅のあるニュアンスだけでなく、一回きりのこれからするニュアンスも表せるんでしょうか?それとも疑問文だから何でしょうか? 英語に詳しい方、こうゆうふうに考えてるというのを教えてください

みんなの回答

  • sknuuu
  • ベストアンサー率43% (408/934)
回答No.1

"一回きり"というのにこだわる理由がわかりません What do you usually do on weekends? I play tennis. (いつも)(多くの場合)(日常的に)テニスをします All day? No, I play tennis during the day. At night, I read magazines. テニスは日中やって、"夜は"雑誌を読みます 現在形は「日常的にすること」「習慣的なこと」「一般的なこと」を表します(というか、表せます) ただ、当然時間的な枠や方法など、個別の枠内で個々の主語が行う"あたりまえのこと"を表すだけです How do I use this? というのは、尋ねる先の人に使い方を聞いているのであって「(あんただったら)どう使うの?」とある条件の枠内での問いです Yeah, I know. But what about in this case? と聞けば、OK, in that case, you need to use it differently because the case is different from the usual pattern ... と、ある条件枠内での(一般的な)使い方を教えてくれるはずです もともと、「日常的にすること」「習慣的なこと」「一般的なこと」とは言うものの、必ず条件設定はされるわけです I eat (because I am a human being). I play tennis (when I have time). Birds fly (because they have wings and thus can fly). ( )内は言わずとも誰もが知っていることです ただし、動詞によってはそれだけで事を語れないものも当然あります Do you mind if I take your photo? You mind. という文は文法的には成り立ちますが、全く意味のない文です if I take ... という条件節などがあってこそmind という意味が成り立つわけです I take your photo. というのを「日常的」と考えることはできます(特定の制限がなければ) でも明らかに、「その場」とか「今」とか、使われている状況自体が制限されているわけです だから、日常的なことではもともとないわけです さて ここに来て、「現在形は"日常"や"習慣"を表す」という考えは捨ててください 逆です 制限がかかった中(個々の文脈の中)において現在行う場合に使われるのであり、その制限の度合いがどんどん少なくなった状態で使われた場合に"日常"や"習慣"を表す(せる, ようになる)と解釈した方がいいです 「現在形は"日常"や"習慣"を表す」から始まってしまうと、ドツボにはまって何も先に進まなくなります ましてや、"一回きり"という考えがわかりません 全て、使うごとに状況や文脈は違うのであり、"一回きり"なんですよ こういう文法的な解釈ばかりが頭にあると、あれはどうだ、いやこれなのか? いや違うだろ、とか余計なことばかり考えてしまい、最終的には不自然な英文しか作れなくなります 私の考えからするとこういうことは、「覚える必要が全くない」ことです もっと自然に英語を学びましょう あえて逆の説明の仕方をしたのは、考え方の方向を間違えるとどんどん苦しくなるばかりで、何も得ることがない結果に終わるということを伝えたかったからです