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仏教の因果、最初は?
こんにちは。 キリスト教にはイブが蛇にだまされて禁断の果実を食べた現在が有名です。 私は仏教には「因果」という概念があると認識しています。 この認識が間違っていないなら、原因があって初めて結果がある「因果」の最初には何があったとしているのでしょうか。 よろしくお願いします。
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- kurinal
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>「私は仏教には「因果」という概念があると認識しています。」 ほう。
- Mokuzo100nenn
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仏教では、世界の初めや、世界の終わりを考えません。 貴女が生きている現在を中心にして、過去の因縁を考え、現在の因縁がどのような未来をもたらすか、それを考えるだけでも大変な作業だから、大切な作業に時間を集中するのだが賢いと考えるのではないでしょうか。
因果の考え方は「原因があって初めて結果がある」という一つに割り切った考え方ではありません。 この考え方は仏教というよりもむしろ古典物理学など科学の世界での考え方です。 仏教の場合はもう少し広い意味で使われています。 更に厄介なのが、初期の考え方に時代とともにドンドン新しい考え方が加わっていき、現在では非常に分かり難くなってしまっています。 因果という言葉も下記のサイトにありますように多種多様な使い方がされています。 いんが【因果】の意味 - 国語辞書 - goo辞書 dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/16185/m0u/ 仏教で因果が使われる場合は必ず縁起という言葉とセットになって使われます。 実は縁起という考え方の方が先行していてそれに伴って因果という考え方が加わったとお考えになられても差し支えはありません。 超大雑把に言いますと、因と果はそれぞれ独立していて、それを一つの因と一つの果を結ぶのが縁である、というイメージです。 さらにこの因と果も無数にあるとされています。 縁によって網目状に繋がっているとイメージしてください。 つまり一つの関係では因果、つまり原因であり結果ですが、この結果もほかの事柄の原因になっている一方で原因の方も何か他の原因の結果である、という関係になっていて、これを橋渡しといいますか関係づけているのが縁だ、とイメージして下さい。 現在のパソコンの世界のネット、ウエッブという考え方といいますかクラウド形態と同じようなイメージと考えて下さい。 ご質問にありますように、原因と結果があるのであれば、それを遡れば最初の原因は何だ?という考え方にはならずに、どこが初めでどこが終わりか全く判別がつかなくなる考え方だ、とお考えください。 参考 因果 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/因果 縁起 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/縁起 十二因縁 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/十二因縁 蛇足 仏教はキリスト教などのように、誰かが常に統一した考え方をする、という方法がとられなかったことから、時代や人によっていろいろな解釈や理論が後から後から追加されて出来上がっています。 キリスト教にせよイスラム教にせよ聖典と呼ばれるものは一つですが、仏教は数千点あります。 いわゆるお経と呼ばれるものですが、この個々のお経を読み比べると矛盾だらけという現象が起きています。 インドで始まってタイなどの南アジア地域に伝わったものが南方仏教(南伝仏教)、部派仏教、小乗仏教などと呼ばれています。 これに対して、ヒマラヤ山脈の北側の北東アジアに伝わったものが北方仏教(北伝仏教)大乗仏教などと呼ばれます。 北東アジアへ伝わる過程で、中国で中国流の解釈が付け加わったものが日本へ伝わりそれに日本流の考え方が加わったものが現在の日本仏教です。 つまり日本仏教といいますものは古代インドのものともタイなどに伝わっているものとも違ってしまっています。 室町時代にインド洋を経由して日本へ来たヨーロッパの宣教師達も、初めのうちは、日本仏教はインドやタイのものとは異質な独自のものだと考えたという記録が残されています。 日本仏教に慣れ親しんでいるために、仏教用語を調べようとして解説などを読んでも非常に分かり難いかと思います。 とくに現代人が日頃馴染んでいるのは鎌倉仏教と呼ばれる極めて日本色が強い考え方ですので、空海などの平安時代の考え方でも、違和感を覚えるかと思います。
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ご回答ありがとうございます。 大分噛み砕いて説明下さっているのは解る様な気がしますが、まだ難しいですね(笑) 私には仏教センスが欠けているのかもしれません… 現状、既に多種多様な因と果が存在し、それらを繋ぐ縁という関係で見る事ができるのは解り(つもり)ます。 では、仏教はあくまで現状に対する物事の見方や考え方などを教える宗教で、世界の始まりはどうだとか、そういう事には一切触れていない宗教であるという事でしょうか。
- titelist1
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因果とは原因があって結果があると理解するよりも、結果には必ず原因があると理解することです。お釈迦様が菩提樹の下でこの悟りを開いたと言われています。私はこの真理に誤りはないと思っています。 結果が悪いと次に良い結果になるように原因を解析することです。PDCAサイクルを回すことに通じるのです。あるいはその結果になってしまったのはその原因があったからであると悟ることで納得することもあります。自分が生まれたのも親が愛し合ったからです。結果が悪いからと言ってそれを否定することはできません。 過去から現在を見ても結果論になるだけで発展的にみることはできません。現在から過去を見ることで原因を正すことにより発展的にみることができます。さらに原因である現在から結果である未来を見通すことも出来るのです。 したがって遠い過去から歴史的に現在を見るのではないのです。一番最初を知ることよりもその結果の直接的な原因を見ることです。、視点はいつも現在なので、歴史の勉強ではないのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 仰る事は仏陀が伝えたかった事と一致するのかもしれませんね。 確かに歴史を知るだけで現実に活かせなければ意味がありません。 ただ、起源を知る事は今を知る事に通づる場合もあると思います。 もし仏教で「起源」を説いているならと思い質問を立てさせて頂きました。
- 新鮮な シーチキン(@hinomoto1104)
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難しい質問ですね… 仏教の因果はキリスト教と違って発生源の話ではなく、個人的な見方(行動)としての原因であるので、強いて言うなら仏陀が説法を始めたことが発生源なのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 仏陀の説いた教えと現在の仏教との差異を全く知らないため、色々と解りません。 仏陀は前世の存在を説いたのでしょうか、それとも前世の概念は後世の仏教の産物なのでしょうか。 もし前世があったとするなら、「初めの生」は何の業で生じたのでしょうか。 仏教は専門用語が多かったり小乗とか大乗とか原始仏教とかよくわかりません(^^;)
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お礼
ご回答ありがとうございます。 No.3さんへのコメントで最後にした質問がいきなりここで回答されていました(笑) 仰る事は解るのですが、今回は仏教では世界の始まりをどのように捉えているのかという素朴な疑問から質問をしてみました。 仏教には世界の始まりや終わりに関する記述はないという事ですね。 それは、現在の日本仏教での教えであり、実は仏陀は説いていた等という事はありませんでしょうか。 先の方が仰っている様に、仏教はもう原型をとどめているのかいないのかすらわからない面も多く、仏陀の教えに遡って観たいのですが。