見てはいけないものを見て悲劇を生むことを「知らぬが仏」と言います
『知らねば仏、見ぬが秘事』 ちなみに故事です(上記)
この言葉を「故事」として解釈するのか?他の回答のように「諺」として解釈するのか?で、意味が変わります
諺としての意味は、他の回答に託すとして、故事としては昔の日本らしい考え方です
例えば昔は、家族が癌の末期であったら、もう治らないので、あえてそのことを告げないで、前向きな心のまま(治ることを信じて)、最後を過ごしてもらう・・・という感じです(モルヒネ・鎮痛剤で最後は意識も飛ぶので)
しかし、今は、個人の最後の過ごし方を尊重して、真実を伝えることが時制ですから、知らぬが仏は当てはまらない時代です
あるいは家族が、奇妙な服装を気に入っているが、ある程度周りの人も理解はあるので、あえてそこは指摘しないで、本人が幸せならそれで良い・・・いわゆる「裸の王様」の『物語』に似ています
この「裸の王様」もまた、諺にしてしまうと、悪い意味で捉えられ表現されるように、『物語』ならまさにアダムとイブに当てはまりますが、諺にすると意味が逆転します
諺とは、まさに時制の解釈です
言ってしまえば、その時代の「しつけ」「教育」で勝手に解釈が捻じ曲げられてきました
例で言えば「井の中の蛙大海を知らず」です
本来は・・「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」です
これももともとは「故事」で、ひとつのことを突き詰めて努力すれば、他のこと(世界・世の中)も解釈できるという意味で、「諺」の真逆なのです
つまり、ご質問も「故事」としての「知らぬが仏」と諺としての「知らぬが仏」では意味が違います
ので・・・・、
>諺?に知らぬが仏と言う言葉があるけれどそれってアダムとイブが禁断の果実を食べて自分達が裸であることを恥じたのと同じ感覚なんでしょうか?
「知らぬが仏」を故事として解釈すれば、その通りですし、諺として解釈すれば、意味が変わってしまうということですね
お礼
分かりやすい回答ありがとうございます