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《信じる》とは 《心の明け》のことだ。
- 心の明けが確立する。
- 心の明けとはわが心が閉じていないということだ。
- 信仰は非思考であるゆえ、ほかの信仰や宗教に対しても心が開いていることだ。
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NO・3 です・ どうも落ち着きが悪いままなのですが、私が理解したと思っているところを試しに書いてみて、またブラジュロンヌさんのご批判を仰ぐということにしましょうか。 信仰は宗教ではない。 (ブラジュロンヌさんの)信仰は心の明け、つまりひらべったい地平のような視界がもともと開けた場所で、生れ落ちたときのままの心が自然に会得した、していたものだ、教条とかとは無関係に。それが(ブラジュロンヌさんの)キリスト信仰だとおっしゃるのでしょうか。思考する以前に、ア・プリオリに存在していたものがそれだ、つまりブラジュロンヌさんはたまたま生得でキリスト者になっていた。その観点で周囲をみれば、他の多くの信仰があり宗教があるのが見える、ああ、それもよいだろう、という許容と受け入れの気分。受け入れといっても、自分がそれに共感するのではなくて、他者がそうしているのを笑って見守るといった鷹揚な精神。 そんなものなら、ありうるのではないか、多くの宗教国で生れ落ちたときに洗礼を受ける無辜の子供たちのように、貴方が信仰者であろうが学者であろうが(これが一番妥当かもしれませんんが)論理的にも倫理的にも文句はつけられないように思えます。ただ言葉を知るようになったあとの貴方が他宗教の教条との矛盾をどう考えておられるのか、そこが良く分からないのです。その状態で心が明けるという平明な気分がたもてるのかどうか。 結局、それはがりがりの個人主義ということなのでしょうけれど。貧しい私がかつかつ解釈するならば、ですが。 なんだか攻撃的に成ってしまいましたがw。
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- kohichiro
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信仰 というのは、やはり宗教でしょう。 なにかある特定のものを信じる、となると、その特定のもの以外のものは信じないということに、当然成ります。非思考 という言葉もそれからみれば論理的です。まさしく、信じるということは、それについては、もう考えないということですし。 しかし、貴方は >非思考であるゆえ―― ほかのどの信仰や宗教に対しても つねに心が開いているということだ とおっしゃいます。ここが論理的でなく、納得がいかない。 信仰、あるいは宗教、世界にはたくさんそういったものがあります。すべてにこころを開いているという状態はありえますが、そのすべてに信仰を結ぶということは出来ません。おたがいに矛盾することがあるわけで、あちらを信じればこちらは信じられないという状態が現出します。信仰はなりたちません。宗教の方からお断りといわれるでしょう。 私がぶラジュロンヌさんの語彙を誤解して解釈しているのかもしれませんが、ここでいわれる非思考は、やはり無神論者でしかありえないと思います。なぜそれが「心を開いている」ことなのか、あらゆるものを受け入れるというのなら要は日和見論者というか八方美人ということです。まだ考え続ける人のほうが上等でしょう。
お礼
★ 信仰 というのは、やはり宗教でしょう。 ☆ そうですかねぇ。――まづは ご回答をありがとうございます。 つまり シュウキョウというのが やっかいな代物であるはずなのです。 ★ なにかある特定のものを信じる、となると、その特定のもの以外のものは信じないということに、当然成ります。 ☆ いえ。議論を端折って高飛車なものの言い方をしてまいりますが 《信じる》と《特定のもの》とは どだい結びつきませんよ。 それは――特定のものというのは―― シュウキョウのオシエのことです。これは 信じるものではなく 考えるものです。言葉で表現され概念にもとづき思想を形成しています。 特定されたなら そのものが表象されます。概念でなくてもイメージとして表象し得ます。つまりは それについていちいち無条件で受け容れるという意味での信じる必要はいっさいありません。観念としてすでに得ているものを どうしてもういちど受け容れる必要がありましょうか。 特定のものを《信じる》というふうに文学的には表現し得ますが それの意味するところは 《そのものについて すでに受け容れているところをさらに特別の思い入れをして受け留める》といったところでしょう。 ★ 非思考 という言葉もそれからみれば論理的です。まさしく、信じるということは、それについては、もう考えないということですし。 ☆ いいえ。といやに否定的な応答がつづきますが 非思考はそういう意味ではありません。 《もう考えない》というのは 無思考ということであり 或る時には考えていたりそのあとでは考えなくなるといった場合の無思考のことです。 けれども 非思考は そのように思考をわれがおこなっているときにも思考をおこなっていないときにも 言わば《非思考の庭》としてわが身と心とに生まれつきそなわっている――アートマン=霊我がやどっている――ことを意味します。これが 《信じる》という人間の動態です。 また 非思考は 論理を超えています。 ものごとについて因果関係を考えるのが(それだけではありませんが) 思考です。非思考と言えば この経験法則としての因果関係をも超えている場について 受け容れるという人間の――おもに心の――あり方です。 と捉えたならば ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、貴方は >非思考であるゆえ―― ほかのどの信仰や宗教に対しても つねに心が開いているということだ とおっしゃいます。ここが論理的でなく、納得がいかない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と見えたところも納得が行くかと思います。《非思考》なのですから 《どの神どの信仰どのシュウキョウにもつねに心は開いている》のは当然です。よね。 ★ すべてにこころを開いているという状態はありえますが、 ☆ とこちらも言っていますが ★ そのすべてに信仰を結ぶということは出来ません。 ☆ そのとおりです。そんな《すべてに信仰を結ぶ》というようなことはこちらは言っていませんし 出来っこありません。おのれの主観というものがあります。 いかに《無い神》も《有る神》と同じだと言っても ひとりの人間であるわたしが 有神論者であると同時に無神論者であることは おかしい。(時間過程を経て 変わることはありえます)。 ★ おたがいに矛盾することがあるわけで、あちらを信じればこちらは信じられないという状態が現出します。 ☆ これは いま上の説明をさらに展開すれば 無神論も有神論も 《信じる》という中身としては 同じなのです。ただしその信仰の中身を アートマン信仰と無神論とを同時にいだいたかたちでは 持ち得ないでしょう。 すなわち・ただし ブッダの信徒は――親鸞であれば―― 無神論にもほかの神に対しても心を開いています。同時にふたつの信仰形態を持つことは 出来ないでしょうし そうする必要はないでしょう。 ★ 信仰はなりたちません。宗教の方からお断りといわれるでしょう。 ☆ つまり 信仰はいづれか一つの形態だけで 他の信仰形態と中身を同じくすることが成り立つのです。 ただし そういう信仰の中身が 形態の如何にかかわらず同じであると見ないし認めないシュウキョウが どういうわけか生きながらえています。それは 心の明けをないがしろにする閉じた人間性に立っていると知られます。そのシュウキョウの神は すべての人には開かれていないとみづから認めたことになります。 ★ なぜそれが「心を開いている」ことなのか、あらゆるものを受け入れるというのなら要は日和見論者というか八方美人ということです。 ☆ (1) 心を閉じていない。門も垣根もない。 (2) したがって ほかのどの形態の信仰であっても それとして受け留める。しかもその《信じる= 心の明け》という中身としては これも受け容れる。 (3) ただし わたしが キリスト信徒であると同時に 別の形態としてのアッラーフ信仰の徒であることは ないわけです。受け容れてもいません。しかも《心の明け》という中身については いづれの形態の場合をも受け容れます。同じひとつの人間性だと受け留めるからです。 だいぶん戦闘的でしたが。・・・
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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人は心を閉じることも無思考であることもできません。 信ずる、信じる。 これはもっとも自然の状態なんです。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 たぶん現代人は そのおっしゃる《自然の状態》が分からなくなっているのではないかと思われます。 《信じる》という言葉ひとつを取っても その意味が分からない場合が見受けられます。強く思うことといった意味であるらしい。 おそらく ★ (編集しました) 心を閉じることができないのはもっとも自然の状態なんで ☆ しょう。マチガイないでしょう。 あとは ★ 無思考 ☆ と非思考とは別だとわたしは考えます。 思考しないという主義であったりそのいま思考していない状態にあったりするというのは 《無思考》でしょう。 ところが そのような思考の有る無しを超えている状態――それがあるならだと言わなければならないかも分かりませんが――を 非思考と言うと思います。 論理に合っている・または反しているという問題ではなく 論理を超えている領域。 とにもかくにも 《信じる》とはどういうコトか? これについて みなさんとのあいだでしっかりとした・できれば共通の定義を持ちたい。こののぞみが この問いです。
受容のこと?あるがまま受け入れるとは違うわけ?ややっこしいこと考えてるね。
お礼
えるえるえる915さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ややっこしいこと考えてるね。 ☆ たぶん ぎゃくだと思います。能天気であると言っているはずです。 ★ 受容のこと? ☆ そうです。無条件に受け容れることです。つまり: ★ あるがまま受け入れるとは違うわけ? ☆ 違いません。違いませんが そのあとが違う。受け容れたときから 身と心とは・すなわちわが存在も人格もは 思考を超えた状態にもあります。 何か・どこかいわゆる決まったオシエを持って心を構えたり身構えたりするようなことは いっさい無い。言ってみれば天然ボケですが こういうことを言おうとしています。どうでしょう。
お礼
ていねいにご回答をつづけていただきありがとうございます。 ★ 思考する以前に、ア・プリオリに存在していたものがそれだ、つまりブラジュロンヌさんはたまたま生得でキリスト者になっていた。 ☆ この部分について少しわたしの考えをおぎなってみます。 (あ) 思考する以前に、ア・プリオリに存在していたもの 〔したがってものごころが着いてからも 思考しているときにも思考していない時にも そのア・プリオリなる《非思考としての信仰の場》が存在しているもの〕がそれだ、 (い) つまり〔もともと生まれつきそなわった信仰の場であると同時に ものごころが着いてからさらにその場に気づきその信仰というコトを自覚するようになった。そうするとアプリオリな場は あたかもわが心なる非思考の庭――それは動態――と成る。わたし自身はそのことに アウグスティヌスや聖書のパウロをつうじてイエス・キリストが指し示した神の信仰だと知って〕ブラジュロンヌさんはたまたま生得で〔および意識的に自覚のもとに〕キリスト者になっていた。 ★ その観点で周囲をみれば、他の多くの信仰があり宗教があるのが見える、ああ、それもよいだろう、という許容と受け入れの気分。 ☆ 《信仰――無条件に神をないし無い神を受け容れる およびその保持――》については どの人のどの信仰でも無条件に受け容れます。人間が勝手にその一定の定義に従えというようなかたちでは規定することが出来ないと考えるからです。 ただしシュウキョウは別です。一般にオシエがありそれは 非思考の庭なる日々の動態から得られたものであるとしてもすでに 言葉に置き換えられ思想としても思考の対象になっているからです。つまり 合理性という基準にかんするかぎりそのオシエについては吟味し検証する余地があると言わねばならないからです。 ★ 受け入れといっても、自分がそれに共感するのではなくて、他者がそうしているのを笑って見守るといった鷹揚な精神。 ☆ 信仰にかんしては つつしんでほかの方のそれをもすべて受け容れます。 シュウキョウは 《信じる》にかんしてはその信徒それぞれの主観内面のことだとして信仰の場合と同じですが オシエにかんしては・あるいはその《聖なる権限(?)》の組織としてのヒエラルキアについては――そのオシエを信じなさいとかその《信じる》をめぐって組織に従いなさいとかというコトに関する限り―― 受け容れません。むしろ 良心・信教の自由ないし広く表現の自由を侵しているおそれがあると言います。 このような考え方で次の疑問におこたえ出来ているでしょうかどうでしょうか。: ★ ただ言葉を知るようになったあとの貴方が他宗教の教条との矛盾をどう考えておられるのか、そこが良く分からないのです。その状態で心が明けるという平明な気分がたもてるのかどうか。 ☆ (あ) オシエを信じよというのは そもそも論理矛盾である。それを無理強いするなら 信教・良心の自由の侵害である。 (い) オシエじたいの中身については 個々に具体的にしかもそれぞれのシュウキョウが互いに自由に批評し批判して行けばよい。 と考えます。 (あ)(い)をおこなっているときにも ほかのことを行なっているときにも 非思考の庭は そのまま《心の明け》としてはたらき続けます。意識はしていませんが。意識することは出来ませんが。――ただし ヒラメキという果実がその庭において得られます。 大道は無門ゆえに――信仰としてはほかのそれに対して閉じることなく―― オシエにかんしては互いに自由に思考を及ぼし賛同したり批判したりすることが出来るのだと思います。 こんなふうに考えています。
補足
質問をあらためます。