※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:第二章 オシエは 考えるもの。信じるものではない。)
宗教のオシエは経験思考の対象であり、信じるものではない
このQ&Aのポイント
宗教のオシエは、一般的には事実を指し示す文章表現であるが、真理を規範とするものではない。
オシエは考えるために存在し、自身の考えや判断によって実存を形成する役割を持つ。
神についての属性や能力は人間には理解できず、人間が自由に神を作り上げることはできない。
第二章 オシエは 考えるもの。信じるものではない。
神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論
第二章 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。それを神として 信じるということはあり得ない。――さらには 信仰の神は 非経験の場であり 信じるもの。この神を オシエや理念によって勝手に作り上げてはならないということ。
○ 真理と事実と真実 ~~~~~~
普遍真理――信じる
世界事実――考える
主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》
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1. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか人間の言葉で指し示そうとして引いた補助線である。
2. 真理を指し示すために たとえば《なんぢの敵を愛せ》というオシエがある。けれども このオシエは 考えるものであり 信じるものではなく 鵜呑みにして規範とするものではない。
3. オシエは あくまで考えるためにある。おのれの考えと判断とによって そのつどその場でみづからの実存を成してゆく。そのためにある。
4. あるいは 神のことを説明して 《全知全能》といった属性が与えられる。そこで これについて反駁する者があって 《もし全知全能なら 世の中の悲惨を早く無くしてくれ》とか あるいは《神は自分が持ち上げられないバーベルをつくることができるか》といった《難題》を提示するようですが これらは 《全知全能》という概念がそのまま神であると誤解したことにもとづいています。
4-1. 言いかえると 全知全能という属性がまちがっていないとすれば その知性と能力がどのように発揮されるかは 人間には分からないというのが 答えになります。
4-2. すなわち 神は 概念や理念ではない。神についてその姿や能力を考えて 像を描いたとしても その思考や想像の産物としての神の像が 神なのではない。勝手に人間が神をつくることはあり得ない。
5. 重ねて述べるなら 《となり人を 自分と同じように愛しなさい》というオシエは 至上命令のごとき規範ではない。つまり 神そのものではない。そうではなく 自分〔たち〕で考えて それぞれがおのれの実存を形成してゆくための指針のようなものである。 信仰にとって 無くても構わない。
☆ 以上の趣旨説明にて 表題の成否・当否を問います。ご教授ください。
お礼
だいどうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 みちびかれた結論が なかなか読み解けてないのですが まづ 質問者の趣旨に沿って ご見解について反応してまいります。 つまり 反応としては 単純なところからです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ (あ) 普通の信者にとって「オシエ(神の言葉、宗教の教義だと解釈します)」は「無条件に信じるべきもの」。 あるいは「それを持って生活の規範とすべきもの」。 言い換えてみれば「善悪の基準」であり、疑義を挟む余地のないもの。 それ以上でもそれ以下でもありません。 一介の信者が神の言葉を己なりに解釈するなど行うべき事ではありません ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 一般に宗教は このような事態であり情況を呈していると思われますが それが いけないと質問者は見ています。 なぜなら 単純に オシエは 概念から成っているからには これをそのまま受け容れるのではなく そうではなく 考えることが必要である。考えるために オシエがある。 《疑義を差し挟む》こともある。はずだ。こう言おうとしています。 けれども 《考える》ことをおこなう場合もあると言っておられます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ (い) もちろん、信仰を行う者にとって、神の教えは無条件・無批判で受け入れ実行すべきものです。 (う) それとともに、信仰の道を修めようとする者、俗世を離れ信仰の道に深く帰依しようとする者にとっては、 神の言葉は常に己に照らして、自分を省み思考すべきものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (い)における《無条件における受け容れ》は ほとんどそのオシエの内容を信じるということを意味すると思うのですが それでしたら さきほどの(あ)と同じことだと思われます。 そして この(い)の原則が (う)においても――そこでは むしろ大いに《考える》ことを成すということを明らかにされていますが それにもかかわらず――あてはまるのだとすれば もうすべては (あ)の事態と情況が基本となると受け取られます。 質問者のたたき台では オシエは むしろすべからくつねに(う)のように考えることをとおして 実践するのだというふうに言おうとしています。 言いかえると 早い話が 《神の言葉》は そうは言ってもあくまで仮りのものであって まさか神として信じるものなのではない。こう言おうとしているものです。これについて 問うています。 必ずしもご見解を読み解けたとは思えない状態でいますが 問題点を挙げるなら 《オシエは つねに 考えるものであって 信じるものではない》 これです。 それに対して ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ご質問の表題については私の考え方と方向性ではかなり近いものだと思いますが、視点がかなり異なります。 私としては、この表題はいただけません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というご見解の内容をいただいているようです。 もっと違いを際立たせようと思えば (5)で言っているように 《信仰にとっては オシエは なくてもよい》 これです。 ただし ご見解とうまくかみ合わせられずに とりあえず お応えとしなくてはならないかと思います。
補足
反対意見として BA です。