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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:第二章 オシエは 考えるもの。信じるものではない。)

宗教のオシエは経験思考の対象であり、信じるものではない

このQ&Aのポイント
  • 宗教のオシエは、一般的には事実を指し示す文章表現であるが、真理を規範とするものではない。
  • オシエは考えるために存在し、自身の考えや判断によって実存を形成する役割を持つ。
  • 神についての属性や能力は人間には理解できず、人間が自由に神を作り上げることはできない。

質問者が選んだベストアンサー

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  • daidou
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回答No.2

一般的に言って。 普通の信者にとって「オシエ(神の言葉、宗教の教義だと解釈します)」は「無条件に信じるべきもの」。 あるいは「それを持って生活の規範とすべきもの」。 言い換えてみれば「善悪の基準」であり、疑義を挟む余地のないもの。 それ以上でもそれ以下でもありません。 一介の信者が神の言葉を己なりに解釈するなど行うべき事ではありません しかし修道者や神学者にとってはやや事情が異なる。 その「オシエ」自体を信じ実行することは当然であるが、「神はなぜこの教えを垂れたのか?」それを考え始める。 「汝の隣人を愛せよ。」 「右の頬を打たれたら左を差し出せ。」 「汝の敵を愛せ。」 神の言葉として相応しい結果が現れることを前提に、その行為の意味を考え価値を評価する。 その結果、不備や矛盾を見出したとしても、その不備・矛盾はいかに補填・補完されるのかを考えます。 つまり、その言葉が「神のものである」事を大前提に、その言葉を考える。 修道者であれば「自分にとって隣人を愛するとはどういうことか?」 神学者であれば「なぜ自分は隣人を愛せと言われたのか?」 疑問形の主語は「我」であり「神」ではありえません。 もちろん、信仰を行う者にとって、神の教えは無条件・無批判で受け入れ実行すべきものです。 それとともに、信仰の道を修めようとする者、俗世を離れ信仰の道に深く帰依しようとする者にとっては、 神の言葉は常に己に照らして、自分を省み思考すべきものです。 ご質問の表題については私の考え方と方向性ではかなり近いものだと思いますが、視点がかなり異なります。 私としては、この表題はいただけません。

bragelonne
質問者

お礼

 だいどうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  みちびかれた結論が なかなか読み解けてないのですが まづ 質問者の趣旨に沿って ご見解について反応してまいります。    つまり 反応としては 単純なところからです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  (あ) 普通の信者にとって「オシエ(神の言葉、宗教の教義だと解釈します)」は「無条件に信じるべきもの」。 あるいは「それを持って生活の規範とすべきもの」。  言い換えてみれば「善悪の基準」であり、疑義を挟む余地のないもの。  それ以上でもそれ以下でもありません。  一介の信者が神の言葉を己なりに解釈するなど行うべき事ではありません  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 一般に宗教は このような事態であり情況を呈していると思われますが それが いけないと質問者は見ています。    なぜなら 単純に オシエは 概念から成っているからには これをそのまま受け容れるのではなく そうではなく 考えることが必要である。考えるために オシエがある。  《疑義を差し挟む》こともある。はずだ。こう言おうとしています。  けれども 《考える》ことをおこなう場合もあると言っておられます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  (い) もちろん、信仰を行う者にとって、神の教えは無条件・無批判で受け入れ実行すべきものです。  (う) それとともに、信仰の道を修めようとする者、俗世を離れ信仰の道に深く帰依しようとする者にとっては、  神の言葉は常に己に照らして、自分を省み思考すべきものです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (い)における《無条件における受け容れ》は ほとんどそのオシエの内容を信じるということを意味すると思うのですが それでしたら さきほどの(あ)と同じことだと思われます。  そして この(い)の原則が (う)においても――そこでは むしろ大いに《考える》ことを成すということを明らかにされていますが それにもかかわらず――あてはまるのだとすれば もうすべては (あ)の事態と情況が基本となると受け取られます。  質問者のたたき台では オシエは むしろすべからくつねに(う)のように考えることをとおして 実践するのだというふうに言おうとしています。  言いかえると 早い話が 《神の言葉》は そうは言ってもあくまで仮りのものであって まさか神として信じるものなのではない。こう言おうとしているものです。これについて 問うています。      必ずしもご見解を読み解けたとは思えない状態でいますが 問題点を挙げるなら 《オシエは つねに 考えるものであって 信じるものではない》 これです。  それに対して  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご質問の表題については私の考え方と方向性ではかなり近いものだと思いますが、視点がかなり異なります。  私としては、この表題はいただけません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というご見解の内容をいただいているようです。  もっと違いを際立たせようと思えば (5)で言っているように 《信仰にとっては オシエは なくてもよい》 これです。  ただし ご見解とうまくかみ合わせられずに とりあえず お応えとしなくてはならないかと思います。

bragelonne
質問者

補足

 反対意見として BA です。

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その他の回答 (4)

  • daidou
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回答No.5

お礼をいただきまして、ありがとうございます。 もう少々お付き合いさせていただきたいと思います。 端的に言いまして、私の考える信仰のあり方からみて、最も違和感を覚えるのが、 《オシエは つねに 考えるものであって 信じるものではない》という言葉です。 これは信仰の外側に立つ者の見方ではないでしょうか? 信仰を行う者の立ち位置から見れば、「教えは常に信じるべきもの」だと考えます。 そして「信じた上で教えを考える」事は、求道者としてあるべき姿。 《オシエは つねに 考えるものであって 信じるものではない》 これでは学究の徒が学問に相対する際の姿勢のように思えます。

bragelonne
質問者

お礼

 だいどうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~  信仰を行う者の立ち位置から見れば、「教えは常に信じるべきもの」だと考えます。  そして「信じた上で教えを考える」事は、求道者としてあるべき姿。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。常識と言いますか これまで浸透して来ている通念ですね。  これに異を唱えています。  なぜなら オシエは あくまで思考において表現されており 受け取る人にとっても思考の対象であることに マチガイありません。  言いかえるなら 《オシエを無条件にただしいものとして受け取り受け留め受け容れてしまって その内容に 今度はそのオシエにちなんだ情況に遭うならば 条件反射のごとくして したがう》 このことは 思考の怠惰になりませんか?  思考をなまけるそのコトの前に ただただ洗脳されてしまったことになるのではありませんか?  つまり そのオシエの内容が 必ずしも自明ではなくいくらかは明確ではないと分かっていても それを押し切って その言葉に従う――このことは 人間の知性を麻痺させているという事態なのではないでしょうか?  それでよいというのは わたしは 精神錯乱に落ち入っているとしか思えないのです。どうでしょう。  ただしですね。敵を愛せなるオシエを そのまま実行している人に出会ったことは まづないですね。  となり人を 自分と同じように愛せなるオシエを 実行しようとしている人には会っています。《自分と同じように》という条件においては 実行が割り合い合点が行く内容として 実行に移すことにもためらいが少ないのだと思います。  ただしこの《となり人への愛》は オシエに関係なく ふつうに人びとが生活日常において 思いやりや助け合いとして 大昔からおこなって来ていることでもあります。  つまりは 要するに一方では 《オシエを神の言葉としてそのままうたがうことなく 受け容れなさい》と言いつつ 他方では 受け容れたのかも知れないけれど その内容の実践としては ほとんど成っていない。  これは 何が原因なのか? 考えるものであるのに《信じる》ものとして受け取る その時点の姿勢が そもそものボタンの掛け違いなのではないか。通念もしくは正式のオシエ〔にかんする注意としてのオシエ〕に対するこういう物言いです。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

B先生。 >「★ おそらく、「信じる」という表現には馴染まない世界も、あるんだと思います。  ☆ なじまないというだけではなく 信じるとははっきり違うところの経験行為や経験事物を扱う《考える》の領域がある。  ということは 《信じる》の領域をも確保しておいてよい。ということではないでしょうか。」 確かに。 《信じる》の領域を、確保していてくださって、何もモンダイありません。 (・・・ただし、人権侵害は、不可能なんですね)

bragelonne
質問者

お礼

 そういうことですね。  くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

B様、こんばんは。 >「普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》」 これは、どうでしょうか? おそらく、「信じる」という表現には馴染まない世界も、あるんだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ おそらく、「信じる」という表現には馴染まない世界も、あるんだと思います。  ☆ なじまないというだけではなく 信じるとははっきり違うところの経験行為や経験事物を扱う《考える》の領域がある。  ということは 《信じる》の領域をも確保しておいてよい。ということではないでしょうか。

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  • 56560731
  • ベストアンサー率15% (46/300)
回答No.1

何が書いてあるかさっぱり分らん この世に神はいるけど人間の味方ではない 小動物の味方です 宗教については難しい 拝む対象を何にするか 太陽にするのか 木彫りのある形のものを拝む等 いろいろある 天理教みたいに山での厳しい修行を行い 意味不明な事をされている団体もある 信者=金ととらえ幹部や上部団体が金儲けしている 所もある 背後には極悪な坊主が付いている事が多い 宗教は信者をマインドコントロ-ルして金儲けをする 1部の宗教組織を除いて 金儲けには宗教は最高である これが宗教とはの答えです

bragelonne
質問者

お礼

 56560731 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。説明しました趣旨に沿って ご回答の内容に反応してまいります。  ★ この世に神はいるけど人間の味方ではない  ☆ これには 二段階のこたえがあるかと考えます。  (1) 神は 真理として非経験の場として想定されます。経験世界を超えているからには 経験存在である人間には いっさいそれが どういう存在であるのか。また 存在してはいないのか。などなどが 分かりません。分かるか分からないかが 分からないと来ています。  (1-1) 従いまして 神は人間の味方であるのかないのか。これも 人間には分かりません。  (1-2) ただし 問題は 分からないというとき それは《分かるか分からないかが分からない》のです。《分からないと分かったなら 何らかの概念として・その外形的な説明として分かっているのですから 非経験ではなく 経験事象である》となります。  (1-3) ということは 神は 《人間の味方ではない》と断定することは出来ません。  (2) すなわち 神は 人間の味方であるかも知れないし ないかも知れない。  (2-1) 神は 人間がおのが心に受け容れたとき そのひとの主観の持ち方において 《味方である》とも《味方ではない》とも 受け取るようになる。こう考えられます。    これが 二弾ロケットとしての《神にかんする説明》です。  ★ ~~~~~~~~~~~  宗教については難しい  拝む対象を何にするか  ~~~~~~~~~~~  ☆ もし《拝む》ということは 《信じる》ということであるとすれば それは 信仰の問題です。ワタシの主観〔だけ〕の問題です。宗教は関係ありません。宗教が口出しするのは 越権行為です。なぜなら 信教・良心の自由は ひとりの人間にとっての公理であって 集団にとっては 関係ありません。  ★ 1部の宗教組織を除いて / 金儲けには宗教は最高である これが宗教とはの答えです  ☆ ええ それが実態です。  ただし ここで定義し批判しようとする宗教は 《一部の組織をのぞく》必要がなく すべての組織宗教にあてはまる弾劾です。  《考えるものであるオシエを 信じなさい》というようなことを言っている。これが 精神錯乱であると指摘しています。  《右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい》というオシエを あろうことか そのまま何も考えずに受け容れる・つまり信じることが起きています。これが 精神錯乱です。  オシエは 考えるものです。自分で考え 自分で判断して生きます。行動します。  オシエをあたかも神であるかのごとく信じるという奇妙奇天烈な事態が 宗教の影響によって 起こっています。  しかも じっさいには信じるどころか ただその文句を知っているだけ・暗記しているだけという体たらくでもあるのですが。  とにかく 宗教によっておかしなことが あとを絶ちません。そういう問題を取り上げています。  金儲けは そう言ってはなんですが まだちょろいものです。金だけ〔とは言えませんが まあそんなところ〕ならまだいいのですが オシエを信じるという誤解は 精神が病んでいるという問題なのではないでしょうか。  もっとも 口で言っているだけであって じっさいに右の頬を打たれたら 左のを差し出す人などはいませんし いても それは ただふざけているだけのことになるはずです。それでも 宗教は オシエを信じなさいと 言いつづけているのではないでしょうか。

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