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信じる心の閉じられていないこととは?
- 信じているとは心が閉じられていないことであり、《信じる》は心に《非思考の庭》が成ることだと理解されています。しかし、具体的にどういうことなのでしょうか?
- 非思考であるがゆえにハカラヒ(思考や考え)はないが、心の志向性のようなものがあると考えられます。ハカラヒはないが、どこからかやって来るヒラメキのようなものが存在し、内外に関係なく直感や直観が働くのです。
- 信じるということは《心が閉じられていないこと》であると言えます。それは《信じる》の対象がひとつであり、全体としてのひとつ、つまり《かみ》であることが想定されます。人間にとっては、《信じている》とは無差別に神を信じることであり、無い神も含まれることです。このような信じる心の自由が信教・良心の自由の中身であると言えます。
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こんばんわ。 >信じているとは 心が閉じられていないことである。 すこし重い言葉ですね 開いている と言えば楽なのに・・ 開いている と言えば自然です 閉じられていない と言うと 心が何らかの働きかけを受けている それは意識する、しないに関わらず といった感じにも取れます。 閉じようとしても閉じられない何か それは信心における他力ではないでしょうか 信心における根底というか、礎というか そうしたものが崩れ去らない限り、無くならないのだと思います。 闇に差す 細い光が自分を照らしているという自覚が信心だとすれば 信じて いる とは、光が見えなくても受け止めて いる ということでしょう。 信じる と 信じている とでは深さの違いがあると思います。 その違いは、他力の感得が意識下に及ぶものになってゆく違いのように思います。 心が閉じられていない とは すでに深い意識の下に、見えざる光が入ったことを表しているような気がします。 光が内側から差すようになったのだと思います。 だから 閉じようがない。 そんなふうに思います。
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ブラジュロンヌさんの定理を無視しているわけではないのですが 書くことが、まとまって思いつかないのですよ。 ユウェナリス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9 健全なる魂は健全なる肉体に・・・。 なにかと意見の分かれる言葉のようですね。 経験論や現象学というのは 結局、身体能力の問題になりませんかね? 優れた肉体を持つ者のほうが より優れた経験ができるのではありませんか? だとしたら生まれついた段階で 自分の肉体に全て左右されることになる。 もちろん、知性に関する脳だって肉体だろう ということにはなるのだけれど。 絶対音感とか、わからない人にはわからない。 ということになりませんかね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆(No.21お礼欄) ____________________ ○ 世界におけるヒラメキの位置づけ:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~ (――または ロゴスの階層――) (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に もとづこうとする論理 * ~~~~~~~~~~~ ・ロゴス:ことば ・スピリトゥス:霊。聖霊 ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる) ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。 〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕 ・ラチオ( ratio ):理性 〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕 ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. 《アルケー》は 《ロゴス(α)》です。 2. それが《火また戦(戦争)にある》というのは 《ロゴス(β)=直感》を介して(γ)や(δ)までのロゴスに到ったときこれらのロゴスからのズレが生じることだと見ます。 3. あるいはロゴス(δ)つまり理性じしんの――同時に意志のへそ曲がりを介しての――ユガミにあるのではないかと。 (ユガミであるにもかかわらず 理性はその中でも論理性やその限りでの妥当性をうったえるようです)。 4. パトスもミュトスも 《ロゴス(β)=(γ)=(δ)》といった自然本性の基礎――心の自然におもむくところ――に根差せば へそ曲がりもユガミもなく 問題はないと見られる。 5. むしろ 感性やたとえ話の《非合理性》の領域での知覚やその認識内容のほうが 心の自然本性の基礎を表わすとさえ考えられる。(ヤマシサ反応の事例などが考えられる)。 6. ★ ~~~~~ 論理・ロゴス⇔感情・情動・パトス という対立の構図 ~~~~~~~~~~ ☆ これは 論理が《ロゴス(δ)》であるとすれば ここの《感情・情動・パトス》は けっきょくロゴス(δ)=理性のユガミから(または理性のユガミと同時に)生じた感情・情動のことであると考えられる。 7. 理性なるロゴス(δ)と感情なるパトスとは 自然本性の基礎として《直観・さとり》と同一の内容であり また反面でその基礎からのズレとして ユガミの共犯である。 8. ★ プラトンの三元徳は、《知恵》、《勇気》、《節制》でしょう。 ☆ これは したがって 《理性なるロゴス(δ)と〔それと同道するところの〕感情なるパトス》とのあいだにおけるその関係具合いを 知識習得やクセ・ナラワシとしての文体形成となるような広い意味での境地のあり方として言っていると思われる。一般にはユガミやへそ曲がりが無い状態と有る状態とが 繰り広げられることになる。 9. アポロンとディオニュソスとは 《やましさのない基礎の諸ロゴスの筋》と《その基礎からの遊離としてやましさやらへそ曲がりや何やらをひっくるめた諸ロゴスのあり方》とをどちらかに重点をおいたかたちで それぞれ表示しているかも知れない。 10. あるいは《ロゴス(β)=異言》としての《混沌》を 特別に取り出し《カオス》というわざわざ神として取り立てているように見られる。 11. ★ 《大地母神》(特にバビロニアのティアマット) ☆ これはまだ 歴史知性の以前の原始心性をあつかっていると見られる。 12. すなわち ヨリ(憑り):歴史知性以前=原始心性:アニミズム・シャーマニズム イリ(入り):歴史知性:世界へのイリ(世界内存在) ヨセ(寄せ):超歴史知性:ヨリをそしてイリをも みづからの アマテラス普遍語のもとに束ね寄せる。 13. 《イリ歴史知性》が 諸ロゴスの基礎なる筋だと考えられる。《わたしがわたしである》ふつうの動態をあらわす。 14. 《ヨセ超歴史知性》は 理性と感情と意志とが共犯して基礎から離れたときの《人間性のユラギ》であると考えられる。 (アマテラス普遍語と言うからには 世界のものごとの認識にあたっての抽象化から成っていて 純粋論理にも成り得る。けれどもそれの単独の(自己神格化による)分立になるなら ユラギである)。 15. 《ヨリ原始心性》は 対話以前である。すべてが《混沌》の中にある。 むろん イリ歴史知性の洗礼を受けてから――ヨセ超知性が 上へ上へとアマガケリを敢行したように―― わざわざディオニュソス的世界と称してこの場合は地下へ地下へと降りて行く場合がある。 その混沌の世界へみだれ入って行きたいという動きも――意志自由のもとに――見られる。 16. いわゆるムイシキが 仮りにも現実的であると見られるなら それは《ロゴス(β)=異言:イメージ( imago )》に発するところがあるからだと考えられる。ただし それ自体の単独分立は あり得ない。ズレとへそ曲がりとユガミによるのでないなら ムイシキの独立歩行はあり得ない。 17. ★ ペルソナ ☆ これは 軽いかたちで――仮面だとすれば―― ユガミを反映しているのであろう。ただし 《ロゴスの階層》全体から見て けっきょく――もし《人格》という概念に落ち着いたとするなら―― 《諸ロゴスの一筋の基礎――自然本性――》を表わすものとして躍り出たものと考えられる。 * (余計なお話) かざみどりさんには この定理の汎用的な有効性を幾度も伝えているのに どうして無視するのか。
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bragelonneさん、こんばんは。 そして、 kazamidoriさん、こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ kazamidoriさん、 いつもいつも、 kazamidoriさんに余計な話題提供をして、手をわずらわせる結果になって、ゴメンです。 NO23で紹介されているハイデガーのサイトをチラッとみたんだけれど、 「古代ギリシア───と言っても、プラトンのころまでくらいの意味です───的には、 ロゴスは、《語るもの》、《陳述するもの》ではないのではないか。 語り手は、《ミュトス》───単に《語られたもの》の意味ではなく、その能力、精神的作用・原理みたいなものの意味───とするべきではないのか」 と、ちょっと思いました。 さらに、概念的というか、古代ギリシア的な文脈では、 「ロゴス───と言っても、bragelonneさんの主張するロゴスの意味ではなく、人間の心に内在するなんか───は、《形式》、あるいは、ロゴスは《形式》をもっているんじゃないか」 とも、思いました。 なので、 問題は、ミュトス化の過程にあるんじゃないか。。。。。。。 人間は、その言葉、あるいは、言葉としてあらわされたものを通じてしか、考えることができない、有意識的には知覚・認識できない。。。。。。 なんか、《ジョン・ロック》の認識論みたくなってきた。やめておこう!! そういえば、ロックは、《第一性質》とか、《第二性質》とか言っていたなぁ~。 で、例によって、ジョン・ロックのリンク先!! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF Wikipediaの、「哲学」のところに書いてあるとおり、 ロック自身は、大陸合理論的な《生得観念》の存在を認めていないけれども。。。。。。 人の心は、生まれたときにはまったくの白紙、《タブラ・ラーサ》!! また、余計なことを長々と書いてしまった。 でもまぁ~、ロックの考えた《自然状態》は「牧歌的・平和的」で、bragelonneさんのおっしゃる《スサノヲ的ムラ社会》に通じるものがあるので、 それで、 bragelonneさんには、本質問に関係ないことを長々と書いたことを許してもらおう。 にしても、ハイデガーの文章は、難しいな~。 猫の貧弱のオツムでは、何が書いてあるか、さっぱり分からない(笑い)。 と同時に、ハイデガーの《ロゴス》観では、赤いりんごの《赤》という《普遍》をうまく説明できないのではないか、とも思いました。 たぶん、『存在と時間』のどこかに書いてあるのでしょうが……。 わたくし、ハイデガーの著作や彼の思想に関する著作を一切読んだことがないので(ポリポリ) ☆☆☆☆☆☆ 話の前後が逆転しましたけれども、 bragelonneさん、 NO22にある補足欄を読んで、いや~驚きました。 僕は、単純に、 《万物の根源・アルケ》→《神》 《事物》→《ヒト・人間》 と置き換え、 なんかキリスト教的な世界観に似ているな~、と思っただけでした。 そして、そこに《ウロボロスの蛇》的な時間観をちょっとまぶしただけ(笑い)。 でも、たぶん、アナクシマンドロスの考えの根底には、《自然の循環》的なもので、自然的再生、つまり、プラトンの《輪廻》的な考えの原初形態があるんでしょうね。 よくは分かりませんが、 《存在の終末》といっても、いわゆるユダヤ・キリスト教的な終末観とはまったく無縁で、存在の絶対的な終末を意味しないのでは、 という気がします。 ということなので、立ち位置・視点の相違はあるにしても、 ~~~~~~ 1. 《終末論》は 現在論であると見ます。現在時における《わたし》が問われていると。 ~~~~~~ となるのではないでしょうか。 《終末》は、《静態》ではなく《動態》、そして、《現在》《現時点》と結びつけて考えなければならない。この両者に断絶はない。 それゆえにこそ、《生》の《一回性》は重視されなければならない。今、この時、この瞬間こそを大切にしなければならない、 と思います。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ロゴス / ミュトス ▲ レゴー λέγω(A) ~~~~~~~~~~ http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*l%3Aentry+group%3D16%3Aentry%3Dle%2Fgw1 A. lay, ▲ レゴー λέγω(B) ~~~~~~~~~~ http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*l%3Aentry+group%3D16%3Aentry%3Dle%2Fgw2 A. pick up,;gather, pick up 2. Med., choose for oneself, pick out II. count, tell 2. recount, tell over III. say, speak 1. say, speak, never in Hom., first in Hes. l.c., freq. from Hdt. and Trag. downwds.; of all kinds of oral communications ・・・ 4. call by name 5. λ. τινὰ ποιεῖν τι tell, command one to do 6. λ. τι say something, i.e. speak to the point or purpose ・・・ 9. wish to say, mean ・・・ 11. of orators, speak (emphatically), 12. boast of, tell of 13. recite what is written 14. say or send word by another 15. maintain as a thesis 16. nominate ▲ ロゴス λόγος , ὁ, ~~~~~~~~~ http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*l%3Aentry+group%3D47%3Aentry%3Dlo%2Fgos verbal noun of λέγω (B), with senses corresponding to λέγω (B) II and III I. computation, reckoning 1. account of money handled b. public accounts, i. e. branch of treasury 2. generally, account, reckoning 3. measure, tale 4. esteem, consideration, value put on a person or thing II. relation, correspondence, proportion 1. generally 2. Math., ratio, proportion 3. Gramm., analogy, rule III. explanation, 1. plea, pretext, ground b. plea, case 2. statement of a theory, argument ・・・ c. in Logic, proposition, whether as premiss or conclusion, d. rule, principle, law 3. law, rule of conduct 4. thesis, hypothesis, provisional ground 5. reason, ground 6. formula (wider than definition, but freq. equivalent thereto), term expressing reason 7. reason, law exhibited in the world-process IV. inward debate of the soul 1. thinking, reasoning 2. reason as a faculty V. continuous statement, narrative (whether fact or fiction), oration, etc. 1. fable 2. legend 3. tale, story 4. speech, delivered in court, assembly, etc VI. verbal expression or utterance ・・・ VII. a particular utterance, saying: 1. divine utterance, oracle 2. proverb, maxim, saying VIII. thing spoken of, subject-matter IX. expression, utterance, speech regarded formally X. the Word or Wisdom of God, personified as his agent in creation and world-government ~~~~~~~~~~~ ▲ ミュトス μῦθος , ὁ, http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*m%3Aentry+group%3D94%3Aentry%3Dmu%3Dqos A. word, speech, freq. in Hom. and other Poets 2. public speech 3. conversation 4. thing said, fact, matter 5. thing thought, unspoken word, purpose, design 6. saying 7. talk of men, rumour II. tale, story, narrative 2. fiction (opp. λόγος, historic truth), 3. generally, fiction 4. professed work of fiction, children's story, fable III. = στάσις(placing, setting; standing, stature・・・) ▲ ミュテオマイ μυ_θ-έομαι ~~~~~~~~ http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*m%3Aentry+group%3D93%3Aentry%3Dmuqe%2Fomai I. speak II. say over to oneself, con over, consider, dub ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ロゴスはあまりにも長いので 途中はぶいているところがあります。 ミュトスのII-2で ロゴスが《史実》を意味するのに対して ミュトスは《虚構》だと書いています。 両者は 《言う・話す・語る また 語られたものなど》でその単純な意味としては 共通のようです。 ただし 辞典には むろんのこと用語例が出ていて 時代の違いについてもくわしく見れば分かるかも知れません。わたしはまだそこまで調べたことはありませんので 不便をかこつけています。 ハイデガーたちは そういう《勉強》をくわしくやっていたのでしょうね。
こんにちは。お久しぶりです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ とりあえず何かと問題になる ロゴスについてハイデガーの文章がネットにありました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『存在と時間』を読むためのノート Vol.009 序論・第二章・第七節・B ロゴスという概念 http://www.kengakusha.com/essay/son_ji-009.html ロゴスは、或るものを見えるようにさせる(ファイネスタイ)のである、つまり、それに関して語られている当のものを、しかも、語りつつある者にとって(中動相)、ないしはたがいに語りあいつつある者たちにとって、見えるようにさせるのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見えるものと見えないもの。 ということなんだろうか。 ロゴスの受肉はここらへんと関係があるのかな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 旧約聖書の創世記は 初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 混沌だった頃の描写が短い。いきなり「光あれ。」だもんなあ。 ロゴスとミュトス ミュトスを調べていくなら神話や心理学も調べていかないといけないかもなあ。 我ながら手を広げすぎというか、調べるものがどんどん増えていく。 いつも、トンデモな回答もしているが まあ、ブレインストーミングということで。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆(No.21お礼欄) ____________________ ○ 世界におけるヒラメキの位置づけ:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~ (――または ロゴスの階層――) (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に もとづこうとする論理 * ~~~~~~~~~~~ ・ロゴス:ことば ・スピリトゥス:霊。聖霊 ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる) ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。 〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕 ・ラチオ( ratio ):理性 〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕 ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. 《アルケー》は 《ロゴス(α)》です。 2. それが《火また戦(戦争)にある》というのは 《ロゴス(β)=直感》を介して(γ)や(δ)までのロゴスに到ったときこれらのロゴスからのズレが生じることだと見ます。 3. あるいはロゴス(δ)つまり理性じしんの――同時に意志のへそ曲がりを介しての――ユガミにあるのではないかと。 (ユガミであるにもかかわらず 理性はその中でも論理性やその限りでの妥当性をうったえるようです)。 4. パトスもミュトスも 《ロゴス(β)=(γ)=(δ)》といった自然本性の基礎――心の自然におもむくところ――に根差せば へそ曲がりもユガミもなく 問題はないと見られる。 5. むしろ 感性やたとえ話の《非合理性》の領域での知覚やその認識内容のほうが 心の自然本性の基礎を表わすとさえ考えられる。(ヤマシサ反応の事例などが考えられる)。 6. ★ ~~~~~ 論理・ロゴス⇔感情・情動・パトス という対立の構図 ~~~~~~~~~~ ☆ これは 論理が《ロゴス(δ)》であるとすれば ここの《感情・情動・パトス》は けっきょくロゴス(δ)=理性のユガミから(または理性のユガミと同時に)生じた感情・情動のことであると考えられる。 7. 理性なるロゴス(δ)と感情なるパトスとは 自然本性の基礎として《直観・さとり》と同一の内容であり また反面でその基礎からのズレとして ユガミの共犯である。 8. ★ プラトンの三元徳は、《知恵》、《勇気》、《節制》でしょう。 ☆ これは したがって 《理性なるロゴス(δ)と〔それと同道するところの〕感情なるパトス》とのあいだにおけるその関係具合いを 知識習得やクセ・ナラワシとしての文体形成となるような広い意味での境地のあり方として言っていると思われる。一般にはユガミやへそ曲がりが無い状態と有る状態とが 繰り広げられることになる。 9. アポロンとディオニュソスとは 《やましさのない基礎の諸ロゴスの筋》と《その基礎からの遊離としてやましさやらへそ曲がりや何やらをひっくるめた諸ロゴスのあり方》とをどちらかに重点をおいたかたちで それぞれ表示しているかも知れない。 10. あるいは《ロゴス(β)=異言》としての《混沌》を 特別に取り出し《カオス》というわざわざ神として取り立てているように見られる。 11. ★ 《大地母神》(特にバビロニアのティアマット) ☆ これはまだ 歴史知性の以前の原始心性をあつかっていると見られる。 12. すなわち ヨリ(憑り):歴史知性以前=原始心性:アニミズム・シャーマニズム イリ(入り):歴史知性:世界へのイリ(世界内存在) ヨセ(寄せ):超歴史知性:ヨリをそしてイリをも みづからの アマテラス普遍語のもとに束ね寄せる。 13. 《イリ歴史知性》が 諸ロゴスの基礎なる筋だと考えられる。《わたしがわたしである》ふつうの動態をあらわす。 14. 《ヨセ超歴史知性》は 理性と感情と意志とが共犯して基礎から離れたときの《人間性のユラギ》であると考えられる。 (アマテラス普遍語と言うからには 世界のものごとの認識にあたっての抽象化から成っていて 純粋論理にも成り得る。けれどもそれの単独の(自己神格化による)分立になるなら ユラギである)。 15. 《ヨリ原始心性》は 対話以前である。すべてが《混沌》の中にある。 むろん イリ歴史知性の洗礼を受けてから――ヨセ超知性が 上へ上へとアマガケリを敢行したように―― わざわざディオニュソス的世界と称してこの場合は地下へ地下へと降りて行く場合がある。 その混沌の世界へみだれ入って行きたいという動きも――意志自由のもとに――見られる。 16. いわゆるムイシキが 仮りにも現実的であると見られるなら それは《ロゴス(β)=異言:イメージ( imago )》に発するところがあるからだと考えられる。ただし それ自体の単独分立は あり得ない。ズレとへそ曲がりとユガミによるのでないなら ムイシキの独立歩行はあり得ない。 17. ★ ペルソナ ☆ これは 軽いかたちで――仮面だとすれば―― ユガミを反映しているのであろう。ただし 《ロゴスの階層》全体から見て けっきょく――もし《人格》という概念に落ち着いたとするなら―― 《諸ロゴスの一筋の基礎――自然本性――》を表わすものとして躍り出たものと考えられる。 * (余計なお話) かざみどりさんには この定理の汎用的な有効性を幾度も伝えているのに どうして無視するのか。 __________________________________
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こんばんはです。 ちょっと気にかかることがあって、カオスとガイアの関係を調べたてみたのですが、 ヘシオドスの『神統記』では、 最初に《カオス》があり、そこから《ガイア》が生まれた(?)となっているんですね~。 なのですが、わたしが愛用しているアポロドーロスの『ギリシア神話』(岩波文庫)によると、 「天空・ウラノスが最初に世界を支配した。大地・ゲーを娶って……」 とあって、《カオス》に関する記述がない!! で、 ヘシオドスの『神統記』は、どっかにしまってあって、見当たらない!! 困ったぁ~(汗、あせ)。 そして、眠り猫は、 「古代ギリシアには『ギリシア神話』なるものは存在しなかったのだ。古代ローマ人が散在するギリシアの神々の神話や伝説などの話を集め、それを元に勝手に作ったものだ」 と開き直る(笑い)。 さらに突っ込まれたのならば、それは《ヘシオドス》のいち見解に過ぎない、と強弁する!! それでも、「困ったときのネット頼り」とばかりに、あれこれ検索して、ちょっと興味深い記事を見つけましたので、ご紹介します。 カオス http://www.h6.dion.ne.jp/~em-em/page075.html ガイア http://www.h6.dion.ne.jp/~em-em/page071.html 宇宙ないし神々の生成の物語 http://www.ozawa-katsuhiko.com/3greece_syudai/greece_syudai_text/greece_syudai03.html で、さらに調べて見たところ、古代ギリシアの《アナクシマンドロス》なるミトレス学派(イオニア学派)の哲学者を見つけました。 あ~、ここでも《アルケ─》が。。。。。。 少し長いですけれども、Wikipediaの記述から引用します。 ───────── ミレトスに住んでいたようで、タレス、アナクシメネスと共にミレトス学派(イオニア学派)の代表とされる。自然哲学について考察し、タレスとともに最初の哲学者とされることが多い。 万物の根源(アルケー)が“無限なもの”(アペイロン)であることを論じた。彼が残した断片によれば「事物の起源は、限りのないものである。事物がそこから生まれたものへと、その死も必然的に帰っていく。なぜなら、事物はその不正の償いとして、時の秩序にしたがって、互いに正しい返報をするからである」と記されている。つまり、有限なもの(ペレス)はこれより生じ、寒熱をもち、罪によって滅び無限なものに再び帰するとする。この発想の画期性とはタレスが「水」という自然界に存在する要素を用いて世界の起源を説明しようとしたのに対し、「火」や「水」といったあらゆる対象物の根源を抽出するために「無限なもの」を概念化したことである。 「存在の終末論」かつてあった事が、いつかある。事物がそこからして、その生成を持つところのものへと、それらはまた必然的に消えなければならない。なぜならば、それらは時間と共に罪を償い、その不正の故に裁きを受けなければならないからである。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B9 ───────── 《時の秩序》……。ギリシア神話の時間の神・クロノス(ガイア、ウラノスの子で、ゼウスの父親のクロノスとは別の神さま)の存在を予感させますね。 オルフェウスに詩に基づくとされる、Orphic cosomologyとかいわれるものでは、時間の神・クロノスがAether(エーテル)とChaosを創造したとされているようです。 時間は、《無始無終》というわけですか……。 アナクシマンドロスの考えは、ニーチェの《永劫回帰説》につながるような、つながらないような……。 ウロボロスの蛇で《へび》が出てくるし、《アルケ─さま》は出てくるし、英語の記事をいくつか読まなくてはいけなかったし、頭いてぇな~、ほんと。 余計な問題に首を突っ込むのではなかった(笑い)。 でも、あれこれと調べられて、結構、勉強になった!! chaosの語源について、Online Etymology Dictionaryで調べてみたのですが、 もともとの意味は、”gaping void”らしいですね。 http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=chaos&searchmode=none に少しおもしろい記述がありますよ。 そして、Online Etymology Dictionaryのchaosの説明も、また、プリゴジンの《散逸構造理論》の話で締めくくられています(笑い)。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ chaos = ”gaping void” ☆ だとしたら 《混沌》には 《トフボフ》を当てましょうか。 ★ プリゴジンの《散逸構造理論》 ☆ の歴史社会への応用は――その理論を知らずに言うのですが―― 無理だとやはり考えます。《開放系》なる条件はよいとしても 《非平衡状態》というのは あいまいであって 当てはまるかどうかが定まらないと考えるからです。 社会の情況が 秩序がおびやかされたり混乱が常態であるようなことになったとしても その非平衡状態をつねに平衡させようとする動きは つねに起こされるでしょうし 平衡を取るというよりは もともとそのような秩序の破壊への動きがあったとしたら・そうだとしても それもゆくゆくはあたらしい秩序を築こうとしての運動であると考えられるからです。 放っておけば やがてあたらしい秩序が出来上がるというような史観に見えますが だとしたら そういう見方がなくても 同じく自己組織化は 遅かれ早かれ成る。というように見られるからです。 つまり その理論をとなえる理由も意味もない。大雑把にこのように考えて 保留をしつつも 採れない。まづは そう見ました。
補足
★ アナクシマンドロス ▲(ヰキぺ:同上) ~~~~ 「存在の終末論」 かつてあった事が、いつかある。事物がそこからして、その生成を持つところのものへと、それらはまた必然的に消えなければならない。なぜならば、それらは時間と共に罪を償い、その不正の故に裁きを受けなければならないからである。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ この部分について思うところをしるします。 1. 《終末論》は 現在論であると見ます。現在時における《わたし》が問われていると。 2. ただし善悪の判断や善行悪行の判定は 一人ひとりの主観において行われるとしても 外には出かけないということ。 3. 他者の思想や行動について 妥当性を問うて批判をおこなうことはあっても 善悪の判断については――相手との信頼関係などに応じて触れることまであったとしても―― 最終的な判定を決めることはあり得ないということ。 4. 法律による処理は 公共の秩序のための仮りの行為である。そのようにみなで取り決めあったものである。 5. よって《終末》は 現在時点におさめられる。 6. よって《罪のつぐない》にかんしては ひとつに個人の主観の問題であり そこにおさまる。 7. ▲ 《かつてあった事が、いつかある。》 ☆ その他より ★ ~~~~~ 時間は、《無始無終》というわけですか……。 アナクシマンドロスの考えは、ニーチェの《永劫回帰説》につながるような、つながらないような……。 ~~~~~~~ ☆ ということのようですが ふたつの要点があるのでしょうね。 8. ひとつは そのときの現在時点におけるワタシもそれを取り巻く情況も つねに変化しているので 一回性の原則が当てはまる。《かつてあった事》が起こったという場合 それは内容が似ているとしても 同じ事ではない。《回帰》ではない。 9. もうひとつに そうは言えども 悪行というのは あくまでおのれの心にさからって・それとしておのれの善なる存在に損傷をおよぼしたことだと見るとすれば その《善の損傷ないし善の欠如》を埋め合わせる機会が――主観の動態にかんするかぎりで―― 必ずおとづれると考えられる。 それは 《永劫回帰》ではないか? 10. それは 永劫回帰なのではなく 《わたし》の――《永遠の現在》なる動態としての――自己同一性のことである。ワタシの自然本性の――面白おかしく言うとすれば――《逆襲》である。 11. わが心に反していて その反している状態のままにありつづけているとすれば 自然本性からの逆襲を受けるのは――あくまで一主観の問題としてながら―― それこそ自然でありふつうのことだと見られる。 12. 自己同一性――《わたしがわたしであること》――が 自己をつねに主張するというそれほどまでに有効であるのか? 有効であるとすれば 何故か? 13. 自由意志によると思われる。その自由が持つ――相手のであれ自分のであれ――人の意志行為について妥当性を問うところの批判行為の自由。この批判の自由において つねにその批判という自己表現に責任を持つというところに 自由意志の〔経験世界における相対性としてのでありながら〕有効性があると見られる。 14. 自由意志による自己表現の自由は 答責性を帯びる。人は互いに(そしておのれ自身の内面においても)問答の過程として生きる。 15. このことは 人間の行為が そのつどの一回性において成るという性質を帯びさせる。あのときは 責任を持ったが このときは 答責性をまぬかれたかたちで意志行為をおこなったのだということは あり得ない。(事実がそうであったとしても 理論上みとめられない)。 16. 過去にあった同じような事態について同じような答責性について見直すというとき とうぜんその事態の意味する問題は変わっている。 17. 考え方として仮りにまったく同じ事態についての同じ答責性が問われているとしたら どうか? 18. それは 《一回性》としてのコトが繰り返されていることである。 19. その意味は 人間の意志行為が決して同じ一つの内容のコトとして繰り返されるという意味での《永劫回帰》などはないという前提を示すことになる。 20. ヒトの意志行為は 動物の本能による行動などと違って 決して《永劫回帰》しないという大前提に立って 展開されるものである。 21. もし永劫回帰するなら それは ただただ動物の行動のごとくつねに のっぺらぼうの振る舞いが繰り返されるに過ぎないことを意味する。《顔無し》の人間が そこら中にうようよしているという世の中である。 22. ニーチェは 阿呆である。つまり 一回性として成るその現在時におけるおのれの自己表現としての意志行為 これが けっきょく答責性を持たない場合に まったく同じコトが同じ説明責任を問うかたちで起こるということを言おうとしている。 23. 説明責任に目覚めるまでは 永劫に同じひとつのコトがその責任を問うかたちでつねに追っかけて来つつ 回帰するかのごとく起きるのだと言おうとしている。これは 大人になる以前の問題である。 24. あるいは ディオニュソスの混沌に満ち満ちる狂喜乱舞をたたえることで 人びとよ おとなになるなかれと言っていることになる。
- NemurinekoNya
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kazamidoriさん、お久しぶりです。 ☆☆☆☆☆☆ で、 NO17にあった 「でもヘラクレイトスはロゴスについても言及していたのでしょう?」 というkazamidoriさんの質問について、Wikipediaで調べてみました。 ───────── ロゴスを最初期に世界原理とした哲学者はヘラクレイトスである。ヘラクレイトスは世界の本性であるアルケー(:根源原理;ただし、原子の意味ではない)が火また戦(戦争)にあると説いた。そのような絶えず流動する世界を根幹でつなぐのがロゴスである、とされた。ロゴスはここでは、世界を構成する言葉、論理として把握される。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9 ───────── らしいでゲス。 で、ストア派の目指す境地は、《アパティア》!! アパティア・《apatheia》は、分離・否定を表す《a》と、感情・情動を表すパトス・《pathos》の合成語なんよ。 論理・ロゴス⇔感情・情動・パトス という対立の構図から生まれたんかね~、ストア派の禁欲主義は。 なんともいい加減、かつ、形式的な説明(ポリポリ)。 あと、プラトンの、肉体蔑視、現象界の否定みたいな考え方も、深く関係しているんじゃないの。プラトンの三元徳は、《知恵》、《勇気》、《節制》でしょう。《節制》は、《禁欲》に通じるしさ。 ☆☆☆☆☆☆ それはそれとして、 ニーチェは、自分の思想の系譜はヘラクレイトスに連なる、といっているんですか。 ニーチェの生の哲学・ディオニュソス的哲学は、プラトン的なアポロン・ロゴス哲学の対極にあるんじゃないですかね~。 ディオニュソスは、いってみれば、混沌・カオス(無秩序じゃないよ、カオスという概念!!)の神。これが、どうロゴスと結びつくのか、興味ありま~す。 発想の源泉は、神話なんかね~。《大地母神》(特にバビロニアのティアマット)によって象徴されるカオス・混沌から、秩序・ロゴスが生まれたみたいな……。 それとも、読み解くヒントは、ユングが提唱した《アニマ》かな~。 で、《アニマ》→《ペルソナ》路線で、古代ギリシアの仮面劇・悲劇や、合唱・コロスに立ち戻る(笑い)。 ☆☆☆☆☆☆ 思いつくままに、書き散らしてみました。 kazamidoriさん、 今回の話は、な~んも裏をとっていないから、眉にツバをつけて、読んでね。 で、 bragolonneさんは、これを笑ってください。
お礼
割って入るかたちになりますが ご回答をありがとうございます。 と言いますか ひとつの見方を脇から入り込ませます。 もう何度も――手前味噌が耳蛸のごとくなったかたちで――ご披露している図式です。 ○ 世界におけるヒラメキの位置づけ:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~ (――または ロゴスの階層――) (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に もとづこうとする論理 * ~~~~~~~~~~~ ・ロゴス:ことば ・スピリトゥス:霊。聖霊 ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる) ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。 〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕 ・ラチオ( ratio ):理性 〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕 ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. 《アルケー》は 《ロゴス(α)》です。 2. それが《火また戦(戦争)にある》というのは 《ロゴス(β)=直感》を介して(γ)や(δ)までのロゴスに到ったときこれらのロゴスからのズレが生じることだと見ます。 3. あるいはロゴス(δ)つまり理性じしんの――同時に意志のへそ曲がりを介しての――ユガミにあるのではないかと。 (ユガミであるにもかかわらず 理性はその中でも論理性やその限りでの妥当性をうったえるようです)。 4. パトスもミュトスも 《ロゴス(β)=(γ)=(δ)》といった自然本性の基礎――心の自然におもむくところ――に根差せば へそ曲がりもユガミもなく 問題はないと見られる。 5. むしろ 感性やたとえ話の《非合理性》の領域での知覚やその認識内容のほうが 心の自然本性の基礎を表わすとさえ考えられる。(ヤマシサ反応の事例などが考えられる)。 6. ★ ~~~~~ 論理・ロゴス⇔感情・情動・パトス という対立の構図 ~~~~~~~~~~ ☆ これは 論理が《ロゴス(δ)》であるとすれば ここの《感情・情動・パトス》は けっきょくロゴス(δ)=理性のユガミから(または理性のユガミと同時に)生じた感情・情動のことであると考えられる。 7. 理性なるロゴス(δ)と感情なるパトスとは 自然本性の基礎として《直観・さとり》と同一の内容であり また反面でその基礎からのズレとして ユガミの共犯である。 8. ★ プラトンの三元徳は、《知恵》、《勇気》、《節制》でしょう。 ☆ これは したがって 《理性なるロゴス(δ)と〔それと同道するところの〕感情なるパトス》とのあいだにおけるその関係具合いを 知識習得やクセ・ナラワシとしての文体形成となるような広い意味での境地のあり方として言っていると思われる。一般にはユガミやへそ曲がりが無い状態と有る状態とが 繰り広げられることになる。 9. アポロンとディオニュソスとは 《やましさのない基礎の諸ロゴスの筋》と《その基礎からの遊離としてやましさやらへそ曲がりや何やらをひっくるめた諸ロゴスのあり方》とをどちらかに重点をおいたかたちで それぞれ表示しているかも知れない。 10. あるいは《ロゴス(β)=異言》としての《混沌》を 特別に取り出し《カオス》というわざわざ神として取り立てているように見られる。 11. ★ 《大地母神》(特にバビロニアのティアマット) ☆ これはまだ 歴史知性の以前の原始心性をあつかっていると見られる。 12. すなわち ヨリ(憑り):歴史知性以前=原始心性:アニミズム・シャーマニズム イリ(入り):歴史知性:世界へのイリ(世界内存在) ヨセ(寄せ):超歴史知性:ヨリをそしてイリをも みづからの アマテラス普遍語のもとに束ね寄せる。 13. 《イリ歴史知性》が 諸ロゴスの基礎なる筋だと考えられる。《わたしがわたしである》ふつうの動態をあらわす。 14. 《ヨセ超歴史知性》は 理性と感情と意志とが共犯して基礎から離れたときの《人間性のユラギ》であると考えられる。 (アマテラス普遍語と言うからには 世界のものごとの認識にあたっての抽象化から成っていて 純粋論理にも成り得る。けれどもそれの単独の(自己神格化による)分立になるなら ユラギである)。 15. 《ヨリ原始心性》は 対話以前である。すべてが《混沌》の中にある。 むろん イリ歴史知性の洗礼を受けてから――ヨセ超知性が 上へ上へとアマガケリを敢行したように―― わざわざディオニュソス的世界と称してこの場合は地下へ地下へと降りて行く場合がある。 その混沌の世界へみだれ入って行きたいという動きも――意志自由のもとに――見られる。 16. いわゆるムイシキが 仮りにも現実的であると見られるなら それは《ロゴス(β)=異言:イメージ( imago )》に発するところがあるからだと考えられる。ただし それ自体の単独分立は あり得ない。ズレとへそ曲がりとユガミによるのでないなら ムイシキの独立歩行はあり得ない。 17. ★ ペルソナ ☆ これは 軽いかたちで――仮面だとすれば―― ユガミを反映しているのであろう。ただし 《ロゴスの階層》全体から見て けっきょく――もし《人格》という概念に落ち着いたとするなら―― 《諸ロゴスの一筋の基礎――自然本性――》を表わすものとして躍り出たものと考えられる。 * (余計なお話) かざみどりさんには この定理の汎用的な有効性を幾度も伝えているのに どうして無視するのか。それが分からない。というより ほとほと疲れました。
面白そうな箇所というのは ヘラクレイトスの話です。 理性のヘーゲルも 狂気のニーチェも キリスト教のロゴス論も ヘラクレイトス。
お礼
つづいてです。 ★(回答No.19) ~~~ ヘラクレイトスに言わせれば、 宗教戦争だろうと、自爆テロだろうと、魔女狩りだろうと 世界大戦だろうと民族紛争だろうと やったほうがいいみたいな考えなんですかね? いくらなんでもそれはないだろうと思うのですが。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ ヘラクレイトスの説じたいについては分かりませんが この文面から察するに 《おもしろそうだったが 内容そのものとしては 受け容れられるものではない》という趣旨ではないかと思います。 それだったら 今回 ふたたび・みたび ★ ~~~~ 面白そうな箇所というのは ヘラクレイトスの話です。 ~~~~~~ ☆ と言って持ち出すことには どう受け取ればよいのか まよいます。 ★ ~~~~~ 理性のヘーゲルも 狂気のニーチェも キリスト教のロゴス論も ヘラクレイトス。 ~~~~~~~~ ☆ まったく通じていませんが こういう紹介や取り上げに接して ぢゃあヘラクレイトスを調べてみようかとは 残念ながら 思いません。あしからずご了承ください。
補足
お礼欄をおぎないます。 x ☆ まったく通じていませんが こういう紹介や取り上げに接して ○ ☆ 〔ヘラクレイトスの説の中身に〕まったく通じていませんが こういう紹介や取り上げに接して
そういえばなんで日本でニーチェは最近、ブーム? になったのでしょうかね? こんな、戦ったほうがいい みたいなことを書いているのに。 どちらかというと日本は平和のほうがいい という考えなのではないでしょうか? 和を以て貴しとなす。みたいな。 何かと調べているといつも、ヘラクレイトスが出てくる。 弁証法もニーチェも、ロゴスでも。 で、戦争したほうがいいみたいなことを ヘラクレイトスはいったそうな。 本当かどうか知らないけど。 まだ詳しく調べていません。 物騒ですよね。 ふつう、平和が良いと思いませんかね? 善も悪もないから 戦争もかまわないということになるのでしょうか? 傷つけあうのは、痛いと思うのだけれども。 ヘラクレイトスに言わせれば、 宗教戦争だろうと、自爆テロだろうと、魔女狩りだろうと 世界大戦だろうと民族紛争だろうと やったほうがいいみたいな考えなんですかね? いくらなんでもそれはないだろうと思うのですが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 前回の ★★(回答No.17) せっかく面白そうな箇所を見つけたら ☆ という表明と今回の回答内容とのあいだに つながりがなくなっているように思われます。問題ではありませんか?
- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 Ano.4です。 ★ ただ、裁判所と致しましては、「信教の自由だ」という表現には、別の意味・次元で注意が必要かと思われるところです。 ☆ どうしてですか? 《別の意味・次元での注意》とは どういうことが考えられますか? 仰るところの「非思考の庭」、これが、「信じる」対象であれば、他人にとって信じない自由もあるところでしょう、けれども、、、もしかして「証明」と同じように扱われて、「(反論不可能な)絶対」として、信じない者にも(物理的に)君臨し始める、ということがあれば、それは「信教の自由」を逸脱している、と考えられます。
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ええっとですね。 1. 《非思考の庭》は ワタシ(任意の或る人)が神ないし《無い神》を その名で受け容れたときわが心に成る信仰のかたちです。そういう心の庭です。 2. ですから この《非思考の庭》が 《「信じる」対象であ》ることはありません。そういう説明です。 3. ★ 他人にとって信じない自由もあるところでしょう ☆ これは そのとおりです。信教・良心の自由の――公理としての――内容です。 4. 言いかえると この《信じない》ということを ここでは 《信じないと信じる》と捉えています。《神を信じないと信じる》です。なぜなら 神は《非思考》ゆえに 《思う・考える・想像する》とは言えないからです。 5. 《神を信じないと信じる》とは けっきょく《神は無いと信じる》もしくは《無い神を信じる》ということです。そのようにここでは解釈しているという意味です。 6. つまり 《信じている》ことにおいて《心が閉じられていない》なら 一般に《神》は どんな名前のものでも・そしていわゆる無神論の《無い神》をも 神として互いに同等で対等なものとして 受け容れるという意味です。 7. ★ もしかして「証明」と同じように扱われて、「(反論不可能な)絶対」として、信じない者にも(物理的に)君臨し始める、ということがあれば、それは「信教の自由」を逸脱している ☆ 上に述べたように遠回りしていますが 結論としては 非思考の庭にとってマチガイのない神であれば どんな神でもそれを人間の信仰として受け容れるという意味です。《自由》を守るという意味です。 8. 《マチガイのない説明における神であれば》という条件については それは確かにマチガイがあるなら 認められないということをも意味します。 9. この神を《絶対》としても説明するのですが たとえばこの《絶対》を・もしくは《絶対》だから 認めよとかいうことはありません。《絶対》は 神についての説明ではありますが それは言葉であり概念です。経験事物です。そして神は 経験世界を超えたところのナゾです。ですから ★ 「(反論不可能な)絶対」として、信じない者にも(物理的に)君臨し始める ☆ ことはあり得ません。 10. いいですか? 《非思考の庭》と言っています。《絶対》にしても《真理》にしてもそのような《思考の対象》でもある概念であるなら それらは 神ではありません。説明のための表現であり それに過ぎないということが 大事です。 11. 《思考にあらず》。これはそしてこれなら 強制的に押しつけることは出来ないようになっています。 12. 説明として妥当かどうか? これは 哲学としてみなで議論して話し合って行く主題です。 13. 《信教・良心の自由》をまもるためにも 信仰を《非思考の庭》だと説明することは 有効であると考えますが いかがでしょう?
ヘラクレイトスにおける流転と破壊の肯定は、ディオニュソス的哲学における決定的要素であって、対立と闘争とを然りと肯定し、「存在」という概念をさえも徹底して退けて憚らない生成――私はこの中にこそ、何はどうあろうとも、過去に思索された考えの中で私の考えに最も親縁性を持つものがあると認めないわけにはいかないのだ。「永劫回帰」説、万物は何の制約も受けず無限に循環を繰り返すという説――ツァラトゥストラのかの教説は、結局は、ヘラクレイトスによってすでに一度は説かれていたといってもよいのかもしれない。少なくとも、ほとんどすべての基本的観念をヘラクレイトスから受け継いでいるストア学派は、この教説を説いたらしい痕跡を残している。―― 『この人を見よ』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ せっかく面白そうな箇所を見つけたら どんな神が死んだかの質問が締め切られていたので こちらに投稿します。 でもヘラクレイトスはロゴスについても言及していたのでしょう? ここでニーチェがヘラクレイトスに似ていると書いているのも不思議。 ストア学派のストイックな人たちは禁欲主義的ではないのでしょうか?
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 正直に言って どこがいいのか わたしには分かりません。 確かにヘラクレイトスという名を挙げてひととおり解説せよと言われても言えないのですから だまっていろと言われればしりぞきます。そうなのですが 引用の文章で何がよいのか わたしには分かりません。 ▲ 「存在」という概念をさえも徹底して退けて憚らない生成 ☆ ここは 人間の放棄という意味に採ります。つまり意味がないとしか思われません。 ▲ 「永劫回帰」説 ☆ くだらないのではなく 意味がないと見ます。意味をおしえて欲しいということになります。 ○ ニーチェは死んだ。 と言っておきたいと考えますが どうでしょう。
- NemurinekoNya
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こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ NO14にあった、 ~~~~~~ ところで ねむりねこさんは その《散逸構造》の理論が 社会科学にも応用されているってご存じでしたか? わたしはそう聞いても調べてもいませんので 知らないのですが アメリカの大学の物理学教授だった人(日本人)が この質疑応答の場で(哲学カテで)頻りに説いていました。 ~~~~~ の返答です。 かなり前に、現代用語の基礎知識の現代思想という項目で、ブリゴジンの《散逸構造理論》をチラッと読み、それが社会科学に応用されているということを知りました。具体的に、どのように応用されているのかは知りませんけれども、構造主義などに結びついているのではないでしょうか。 開放系として、生物の体の話を少しだけしましたけれども、これも《散逸構造》のひとつの例です。たしか、量子力学で有名なシュレディンガーは、生物現象で見られるこうした力、エントロピーに逆らう力みたいなものを《負のエントロピー・ネゲントロピ─》とか呼んだんじゃなかったかな~(とあやふやな記憶をたよりに、適当なことをいう)。 光合成を引き合いに出していたのではなかったしら。 高校生のころに読んだ科学の啓蒙書に何かそんなことを書いてあったような記憶がします。 ☆☆☆☆☆☆ 《散逸構造理論》について、哲学に関係しそうな幾つかサイトを見つけたので、以下にリンク先を記します。 http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/prigogin.htm http://ohah.net/~pari/work/04comp_11san_itsu.html http://digitalword.seesaa.net/article/136911010.html ───────── プリゴジン博士の「散逸構造論」は、<意識>である生命現象がこの物質次元に突出するための可能根拠を解明したものだろう。プリゴジン博士がそのようなことを主張しているわけでは無論ないが、「散逸構造」あるが故に物質次元が生命を“誕生”させ、ついにはこの宇宙に自省的<意識>を“発生”させたと考えるなら、そんなことはやはり万にひとつもありえないことを確認しておかなければならない。 宇宙が<生命>を“誕生”させ、<生命>が<意識>を“発生”させたのではない。 <意識>そのものが<生命>なのだ。この順番を逆転することはできない。 「散逸構造』と〈意識〉 http://ohah.net/~pari/work/04comp_11san_itsu.html ───────── という記述は、論理的な飛躍があり、物理・化学的な理論を安易に生命現象に結びつけているので、どうかとは思いますけれど、 非平衡な開放系、つまり、人間と人間が結びつく社会で秩序や共同主観などが生まれる自然科学的(?)な理由の一つの根拠(?)になるのではないですかね~。 でも、 ───────── 無秩序と混沌の中に常にある「ゆらぎ」が「ポジティブ・フィードバック」を引き起こした時、「自己組織化」の過程を通して、混沌から秩序ある構造が自発的に生じてくるのである。そしてこれは同時に線形的決定論も崩壊させるものである。世界は決定論でもなく自由論でもなく、どちらにも働くことを示すものである。 散逸構造論(ブリゴジン) http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/prigogin.htm ───────── の記述は、少しだけ興味をひかれます。 ミクロの量子力学的なアプローチ以外から、人間というマクロの組織体における《固い決定論》を退けられる可能性があるので。 漠然とですが、 自由意志を、単なる選択可能性(そうしない自由もあった)という消極的なものではなく、もっと肯定的に・積極的に定義できる自然科学的な裏付けにはなりそうですよね。
お礼
★ ~~~~ 漠然とですが、 自由意志を、単なる選択可能性(そうしない自由もあった)という消極的なものではなく、もっと肯定的に・積極的に定義できる自然科学的な裏付けにはなりそうですよね。 ~~~~~~ ☆ うわあ。そこまでの《伸び》があるのですかぁ。やっぱ聞いてみるものですね。 ねむりねこさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 まづ散逸構造の件ですが 実際のやり取りを特定しておきます。読むにあたいするかは判断なさると思いますので わたしは掲げるのみです。 【Q:自分の身を守るのはいけないことでしょうか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4844443.html 回答No.15からやり取りがつづています。 二年前くらいに思っていたら 四年も前のことでした。すみません。 わたしは当時 けっきょくはこの理論を社会のあゆみに応用したなら・応用したとしても それは《成るように成る。とどのつまりは 秩序がもたらされる》と言っているくらいに受け取っていましたから――留保だけはしておいて あとは――放っておいてありました。 ★ たしか、量子力学で有名なシュレディンガーは、生物現象で見られるこうした力、エントロピーに逆らう力みたいなものを《負のエントロピー・ネゲントロピ─》とか呼んだんじゃなかったかな~ ☆ これも けっきょく楽観的な――とどのつまりの――秩序回復論の一環であるように 素人には 見えるといったそんな感じでいます。 ★ 非平衡な開放系、つまり、人間と人間が結びつく社会で秩序や共同主観などが生まれる自然科学的(?)な理由の一つの根拠(?)になるのではないですかね~。 ☆ とうかがっても けっきょくその条件つまり《非平衡な開放系》の何たるかが 読み解けていないので 何ともなのですが もしそのように《秩序》だけではなく《共同主観》もが生まれる自然科学的な理由の一つの根拠になるのなら いいことですね。 ★ 自己組織化 ☆ という事象は 分かりやすいですね。それとして秩序回復なる過程を言っているというように受け取ります。 もっとも・あるいはただし 先ほどは《自由意志》が打ち出されたのですから この意志行為とのかかわり方にも注意したい気持ちにはなります。 社会そのものが 開放系であるなら 何らかの熱力学的な沸騰なり対流なりが起こっても やがて自然史過程として 秩序を取り戻すのだと言っているようにも映りますから。 重なりますが 引用しておきます。 ▲ ~~~~~ 無秩序と混沌の中に常にある「ゆらぎ」が「ポジティブ・フィードバック」を引き起こした時、「自己組織化」の過程を通して、混沌から秩序ある構造が自発的に生じてくるのである。そしてこれは同時に線形的決定論も崩壊させるものである。世界は決定論でもなく自由論でもなく、どちらにも働くことを示すものである。 ~~~~~~~ ☆ 《非線形》ってやつでしょうか? 自由意志のはたらく余地もむろんあるってことでしょうか? ★ ミクロの量子力学的なアプローチ以外から、人間というマクロの組織体における《固い決定論》を退けられる可能性があるので。 ☆ ここは なかなかわたしにはむつかしいところです。 《ミクロの量子力学的なアプローチ》によって 《階層の違う》人間や社会のあり方が分かるということ自体が 腹にまだおさまらないようなので。 参考資料の読みをまだ残していますが とりあえずこんな感じにて。いつも ありがとうございます。
お礼
あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~ 開いている と言えば自然です 閉じられていない と言うと 心が何らかの働きかけを受けている それは意識する、しないに関わらず といった感じにも取れます。 ~~~~~~~ ☆ へっへっへ。それをねらっています。 だって《開いている》と言っても 何らあきらかにならないのではないですか? 窓が開いていると言っても 心の窓ですから けっきょく――そのレトリックとしての効果はあるかも知れませんが――じっさいには意味がないです。窓を開いても 外が見えるというわけではありません。内なる心もしくは思いが よく伝えられるとも限らない。 思想がどう相手に伝わるかは 決まっていないはずです。《開いていない》心の状態であっても 心つもりが相手に伝わることもあり得るように思います。 ところが このような何らかの具体的なものごとをめぐって経験行為として思ったり考えたり行動したりするのではなく もっぱら内面において何かを信じるというときには 《閉じている》のではダメなのだと見ます。自分の信じる神に向けてはよいかも知れませんが ほかの神に向けては 閉じていてはダメだと言わざるを得ないでしょう。 だってそのような異神に対して排斥するないし排斥しなくとも受けつけないというようでは 一般に意志疎通はかなわない。相手の神を端から受けつけないようでは 人間としての交通がきちんとは行かない。 と思います。 ★ ~~~~ 閉じようとしても閉じられない何か それは信心における他力ではないでしょうか ~~~~ ☆ ええ。つまり その《他力》なるナゾの何ものかをまづ受け容れることが先立つと思うのです。その受け容れが 信じることだと思うのです。 他力なる神を受け容れること これは 人間の側からする意志行為であるのですが じつはその意志行為をも他力ならばあたえるものだ(他力によってあたえられるものだ)とは考えます。つまり 絶対他力です。 これが 《信じる》の発進のあと ★ ~~~~~ 信心における根底というか、礎というか そうしたものが崩れ去らない限り、無くならないのだと思います。 ~~~~~~~ ☆ と見ているわけです。つまり いづれのときであれ ワタシには《信じる》という瞬間がいちどおとづれる。ということではないでしょうか? むろん主観内面における事件としてです。 ★ 闇に差す 細い光が自分を照らしているという自覚が信心だとすれば ☆ これは 敢えて反論してみましょう。 つまり そのようにわが心の大いなる闇を照らした一条のひかり これのおとづれを いちどは受け容れる――受け容れたという領収証を切る――という事件が 信じるを発進させるのだと思います。 《自覚》とまですでに言っておられますが 《受け容れた》そのあと自覚なり確信なりがさらに生まれます。ということではないでしょうか? そのあとは 述べておられるとおりだと受け取りました。 ★ 信じる と 信じている とでは深さの違いがあると思います。 ☆ これは 出発点において《発進》する瞬間とその後の――長き人生にわたる――保持・継続としての動態とを言っているのだと見ます。継続は チカラです。 ★ ~~~~ その違いは、他力の感得が意識下に及ぶものになってゆく違いのように思います。 心が閉じられていない とは すでに深い意識の下に、見えざる光が入ったことを表しているような気がします。 光が内側から差すようになったのだと思います。 だから 閉じようがない。 そんなふうに思います。 ~~~~~~~