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もし 人間に考える能力がなかったら
キリスト教では 考えることは罪であるとされている。神のみが全知全能であり、人間は限られた知性を持っているとされています。そこで人間に思考力がないとしたら、みなさんが普段考えていることは何なのでしょうか。どのように人間が自信を持つことができるでしょうか。
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自信も考えないから問題ないのでは
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- ootemon
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人間に思考力がなかったら植物人間状態になるんじゃないでしょうか。 そういう人間しかいなかったら生殖もできないので人間は滅びてしまうと思います。
- kohichiro
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私たちの常識では、神も神の言葉もすべて人間の発想に由来しています。 なので、宗教の教義もその宗教の信者でなければ無視していいと思います。 >人間に思考力がないとしたら、みなさんが普段考えていることは何なのでしょうか。どのように人間が自信を持つことができるでしょうか。 「思考力」の定義にもよりますが、一般に「人間は考える葦である」という有名な偉人の言葉が示している通り、人間には考える力があり、地上の生物の中では特別強力な知能があるとするのが妥当でしょう。なので、貴方も自信を持って良いと思います。 ただ、 >神のみが全知全能であり、人間は限られた知性を持っているとされています。 この言葉自体は私見では真実だと思います。人間は謙虚であるべきであり、無限の可能性を持つという奢りを持つべきではありません。縛りの無い科学は人間の未来を危うくします。なので、そこにこそ人間は考える力を注力するべきであろうとおもいます。
- Nouble
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私もキリスト教の深部は解りません が 仰る記述が無い と、する方が多々見られます ね ムスリムなら 一部思考を 禁じている らしい です が 関係がある ので、しょうか? ところで 少し思考を お借りします 彼の約2000年前 当時の「人」に 全てはエネルギーが 個化したもの であり 素粒子からなり 大地は丸く 太陽に従属し ただただ振り回されるだけ の、素晴らしく薄い 全体からすれば 泡ほどに脆いもの と、伝えられますか? ましてや 量子物理、電子工学、モバイルコンピューター、バッテリー、燃料電池、太陽光発電、石油科学、 等、 例え、キリスト氏が知っていた と、仮定しても 当時の「人」に 果たして伝えられ得た で、しょうか? 殺戮、殺害、他傷、自傷、 此等を罪 と、解いた後 新陳代謝で毎秒毎秒 多量の死を、命を、下敷きに 人は生きている と、伝えれば いったい、どう 其に対し 悔い改めさせれば 良かった ので、しょうか? 命を絶やし 口にしなければ 生き得ぬもの達に 其の罪を正しく伝え 悔いさせる すると、 他殺を禁じて 自殺を禁じて 一体、どのような事が起こる で、しょうか? 想像してください キリスト氏は 人を根絶やしにしに来た そんな訳 では、ありません もとよりそんな指示は 彼には与えられていません 与えるようには 言ってません から、ね 帰ってきて嘆いて いた、そうです がね もう、お解り かと、思います が、彼は 全てを正しく伝えられ得た そんな事は 彼には、出来なかった ご理解、頂けますか? 彼は 当時の「人」に 伝わるだけ 其の 更に其の極一部しか 伝え得なかった 彼は 当時の「人」に 新たに付け加えるべき 其の一部しか 伝え得なかった 彼は 当時の「人」に 既にあるものの 肯定的に際し 全て網羅 し得なかった の、です ので、 できれば 彼をおもんばかり 察して頂ければ幸い なの、です が、 如何でしょうか?
- heyboy
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う~ん、別に人間でなくも動物でも考える力や思考はりますよ。 ただ、人間は動物の中でも神に近いので 他の動物よりより知性が高くなっております、、、、。 ただ、神の知性に比べたら年限の考える力は小さいと思うのですが、、、。
思考力がない、となると、動物と同じで「空腹」とか「危険」とか、そういった生命の危機にダイレクトに関することを感覚として察知する、という程度になるのではないでしょうか。
- 雪中庵(@psytex)
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我々が目にしているのは、思考そのものである。 脳死は宇宙の死だ。
- amenhotep2000
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kenzou709さん おはようございます。 ご質問の考えることは罪と言う言葉の出典はどこですか?キリスト教の概説書でしょか?聖書にはそのようなことは書いてないと思います。 私なりに、ご質問に回答すると、人間は限られた「知性」を持っているではなく、人間は限られた「命」を持っていると考えたほうが本質的と思います。 聖書の中の哲学的な言葉を書きます。 「だれも主の不思議な業を極めつくすことが出来ない。人が極めつくしたと思った時は、まだ始まったばかりであり、途中でやめてしまうと徒労に終わる。人間とは何ものか。その存在意義は何か。その行う善、その行う悪とは何か。人の寿命は、長くても百年。大海の中の一滴、砂の中の一粒のように、永遠という時に比べれば、この寿命はわずかなものにすぎない。」 シラ書18章 6節~10節 過去に偉大な哲学者がいましたが、人が永遠の真理と思われるものを作っても時代と共に考えは移り行き、古びます。特に現在において科学的知見とその応用の技術は、グローバル化の中の世界競争において、ますます、移り変わりのスピードが早まっている。携帯電話やスマホの進化を例にすればよいでしょう。新製品が出たと思ったら、すぐに古びてしまう。 考えることは何かと問われれば、現状において最善と思われることでしかないでしょう。 死というものがあることからして、人間は不完全なのです。完璧な人間などいない。だからこそ、人はひとりでなく、他の人と共に知恵や力を出し合いさまざまな問題解決をはかるべきで、ささやかながら、その一員である自分というものを肯定することで、自信というものが生まれるものと思います。
- hekiyu
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キリスト教のことはよく解りませんが、宗教は 信者が自分の頭で考えることに否定的です。 不完全な頭で考えても、良い結果は出ないという 理屈です。 しかし、本質は、宗教など矛盾だらけですから、考えたら 疑問が山のように出てきて、信者が逃げてしまう からです。 といういことで、そんな事に惑わされる必要は ありません。 考えるな、というのは商売の技術に過ぎません。
こんにちは。 先ず、どこで間違えてしまったのか解りませんが大事な点を訂正します。 キリスト教では考える事を別に罪とはしていません。 ただ、人が考える事の多くは善ではないと表現する時があるだけです。 ※善悪の比較対象は神ですから当然です。全て善ではないというのが正しい表現でしょう。 キリストは「賢くありなさい」と弟子に言っていますし、旧約でも思慮深さは徳の一つに数えられています。 さて、考える事がなくても自信は持てると思います。 自信とは文字通り自分を信じる事です。 この意味では大多数の人が考え無しに自信があります。 あなたの言う自信とは「何々ができる」とか「何々が人よりも優れている」などの比較した結果優れているという評価を下し、それを受け入れる事ができる一連の思考の事でしょうか。 それは自信。。。というよりは比較の結果では?