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神が全知全能の造物主だと誰が言ったんですか?
聖書ですか? 聖書にもとづき人が言ったんですか? だとしても どうしてその見解にわれわれ一般の人間が従わなくてはならないのですか? 全知全能というのは そうだとしても ただの属性でしょう。 創造主だというのは そのように物語を描いて表現したに過ぎないことでしょう。 何で調子を合わさなければならないのですか? 神は 神でしょう。
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神がおっしゃった
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- purizuna
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こんにちは、プリズナーです。 深夜ですみません。 yuniko99さんの回答を拝見して、「聖書」を用いられておられるようなので少し寄り道します。 元々、「神」という名詞は文字を残せる時代になって現れたもののようです。。 現在のキリスト教の旧約聖書の最古の原書には「神」ではなく固有名詞(どのような名前かは解読されていない)にて記されていて、解らないので、共通認識として「神」とし、わからないでは民衆の心が掴めないので「キリスト」さんが神の代理として担ぎ上げられたのだと私は認識しております。 ですから「神」と呼んでいるのは一般的にはキリスト教の世界に限るということのようですが、我々日本人は、どこの宗教の「主」も「神」として認識しているから始末がつかないのだと感じます。 分かりきっていると思いますが、仏教には「神」は存在しません。 「仏」=「仏陀」=「人間」。 ですから「仏教」は正確にはシュウキョウではなく、仏陀の哲学に基づくオシエが正しいと私は思っています。 また、新約聖書は、ローマ時代に編成(編集が正しいかもしれません)され、結局のところ時の権力者達の都合のよい分だけを積み上げて出来たものですから、「神」の言葉や教えではなく弟子と呼ばれる者達と時の権力者の主観が多く含まれた道徳的物語の本というのが私の見解です。 ちなみに聖書は勉強ついでに全文写本し英語訳と比較してみました。 それで気付いたのですが、日本語訳聖書は英語訳聖書と比べるとニュアンスが違うし、韓国人の方に伺った韓国語訳もやはり少しニュアンスが違います。 ですから、原語訳→ギリシャ語訳→ラテン訳→英語訳→日本訳と翻訳される間にどれだけの誤訳と、訳した人物の主観的感性が入り込んでいるのかわからないわけです。 こうなると、「神」の存在を示す根拠が無いという結論になってしまうので、私は「神」はいないと判断し、結果、「無神論者」を装う事になった次第なのです。 ここで前回の続きに戻りますが、 (2) 《かみ》を《信じる》とは? ――《非知なる非経験の場》を心に受け容れること―― 「かみ」を信じていないので不問、もしくはbragelonneさんの哲学的意見に同意。 (3)、(4)も同じ 以降は継続して考察中なのでまたということに致します。
お礼
ええっとですね。まづは ご回答をありがとうございます。 少しく認識が異なるものを持っていますので 書きます。 旧約ヘブル語聖書では やはり《神》〔という日本語に当たる語〕が使われています。 ▽ (創世記 1:1) 初めに、神(ハー・エローヒーム)は天地を創造された。 http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001 ☆ あとで アドナイ(わが主)やあるいは《エフイェー(わたしは有る)》などなどの呼び名や名前そのものも出て来ますが 《かみ》に当たる語は初めから使われていると思うのですが。 セム民族のあいだでは 神は エルでした。これをもう一音 子音を増やして エル →(ヘブル語) エローホ →(アラブ語) イラーハ としました。さらに定冠詞を添えますので ヘブル語 エローホ ⇒ ハー・エローヒーム アラブ語 イラーハ ⇒ アル・イラーハ > アリラーハ> アッラーハ となったようです。ヘブル語は 複数形を用いているものです。 定冠詞は ハル( hal )だったようで へブル語は 末尾の《 -l (L) 》を落として ハーとなり アラブ語では 語頭の子音( h- )を落として アルとしたようです。アッラーハは the God と言っています。 キリストは ヘブル語のメシア(マッシーアハ)を意訳したものです。 もともと王に就く者に 祝福の意味で 膏(あぶら)を塗ったようです。《膏塗られた者》であり 神の恩寵を受けているといった意味があるのでしょう。 これが 救世主の意味に用いられ イエスもその名で呼ばれ のちに――復活したと言い伝えられましたので―― 神の意味にももちいられるようになった。のだと思います。 ブディズムにおいて ゴータマ・ブッダが いわゆる無神論に立つというのは おそらくおっしゃるのと同じように理解しています。ただし後世において ブディストたちは すでに有神論に立ったごとく 神を たとえばアミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)として立てたと考えます。 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~ A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ この《梵我一如》なる信仰の類型は 《非思考の庭》にて成っているという想定です。どうでしょうか。 このように神とわれ(人)との――霊における―― 一体が どの名の神の信仰にも当てはまると 潜勢的に言ったのは イエス・キリストだと捉えています。(わたしが このように図式化しました)。 シュウキョウは この信仰を言葉にし概念として捉えさらにそこからオシエをみちびき出した。しかも 集団として成り立った。ものと思います。 聖書の翻訳の問題は やはりおっしゃるように ありますし 大きいでしょうね。 でも いまでは ヘブル語やギリシャ語の原典から訳されてはいます。 ちなみに翻訳の問題がからむ問題を 次の質問で取り上げています。 【Q:ひとは 神の霊が去っても 心のすなほにて起ち上がる】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8931399.html 詭弁を弄しますが ★ 「かみ」を信じていない ☆ というのは 《神を信じないとして神にかかわっている》 つまり《神を信じないと信じている》 つまり《無い神を受け容れ信じている》のだというのが 信仰という動態の中身だと思っています。 無い神を信じる場合には 神についてはもうそのあとでは 持ち出すこともない 神はどうでもよい。ということになる思想(つまり 生活態度)なのだとわたしは捉えています。 こういう見方をする人は ほとんどほかに誰もいないと思いますので 突拍子もない説だと言って 批判を受け続けています。 この質問は そろそろ締めようかと思っていました。 もし締めた場合にも ほかに質問を挙げていると思いますので そちらへご投稿くださればよいと思います。 * ヤハヱ―(ヤフヱフ Yahweh )は エフイェー(われは有る)と同じ語源で 使役形として《かれ(神)が〔万物を〕有らしめる》と言っているという解釈があります。定説はまだないようです。
- yuniko99
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神であるる主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。 「わたしはアルファであり、オメガである」(ヨハネの黙示録)と聖書に書いてある ヨハネが言った。聖書が言った。クリスチャンが言った。イエスも言った? 全知全能の神が居るなら 災害や戦争から罪なき人を救ってくれ・・・ と言うと 罪のない人はいない。カインの末裔であると言われるのだろうか? 神はあまり慈悲深くはない あまりに厳しい神だ。私は信じてない。神も仏もないという人も多い。
お礼
ヤッホー。ご回答をありがとうございます。 鍵をお示しします。 もし神が 人間にとって・人間にじゅうぶん理解できるようなかたちで《慈悲深い》としたら どうなるか? 神のありがたさが 人間には分からなくなる。 思うようにでないとしても 思うことのどれだけかは 人間が信じることをあきらめてしまわない程度には 慈悲深くその願いに神は答えてやるとすれば どうなるか? 神とは まあまあ おれの思うようになるやつなんだなと思ってしまう。 もし神は 《あまりに厳しい》としたら どうなるか? いつもいつもいかなる時にも あまりにも厳しいとしたら? 神のカの字も 人間は 言わなくなること請け合いである。 神が 神という言葉すらもが もう残っているはずがない。 でも 言葉は 残っている。 では どう捉えるのが 妥当か? ・・・・・
- purizuna
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ふたたびのプリズナーでございます。 興味深く拝読し、buagelonneさんの各定義付が理解できました。 私がこれまでに対話してきた、いわゆるシュウキョウ人の方々は大半が日本人なのですが、中には外国の方も数名おられたのですが、同じ宗派でも、根本は同じ考えなのですが、微妙にその教えにズレを感じることが見受けられる事にきづかされます。 大きく感じるのは、日本人は「神」=「不確かなもの」に対して祈るとき、必ず「お願い事」が含まれるということ。(何かしらの見返りを欲する傾向にある) 対して外国の方々にとっての「神」に対する祈りは、「感謝」を捧げるが主な目的であることであるということです。(全てがとは言えませんが) ですから「神」がいかにも魔法使いかの様な立場として捉えられているのが、日本人に多く見られる思考ではないでしょうか。 (1) 《かみ》とは何か これを定義付けすることは、おそらく《かみ》とは何か、buagelonneさんにとっては無意味なことなのだが、論争の手前提示しないことには理解できないからに違いないと感じます。 なぜなら、《かみ》とは何かを定義することにより《かみ》の存在を認めているじゃないかという天邪鬼的不毛な議論を生む可能性があるからです。 (2)、(3)、(4)、(5)、(6)に関しては興味深く読まさせていただき、buagelonneさんの哲学として受け入れることに致します。 とにもかくも、こうして文章にして多くの思いを一度に表現することはかなりの困難を要し、ましてや、シュウキョウ的哲学を色々な角度から示唆しなければならない難しさを久しぶりに味わえていることを喜んでおります。 (2)、(3)、(4)、(5)、(6)に関しての考察をまた後日ゆっくりと考えてご返答致したいと思いますので、その節は宜しくお願い致します。
お礼
そうですね。一度にすっかり片づいたというには おおきな問題ですよね。 ご回答をありがとうございます。 ぜひ時間をかけてご検討ください。 そうですか。外国人をも入れて多くの人と対話をされて来たのですね。 願いの問題ですけれど これは よわい立ち場の――つまり特に社会的に職場の中でにしろ高い地位の人を相手にする場合にしろ弱い立ち場の――者にとっては どうしても助け手が欲しいと思うときがあります。《奥の手》を使うよりは すなおにお願いをするということは それほど責めることもむつかしいかとは 思っております。 イエスでさえ 願い事は何でも願いなさいと言います。その通路が開かれているということが 大事であるかとも思う次第です。どうにかなるわけでもないのでしょうが。 それにしても 外国人の人たちは 感謝をささげるために祈るというのは 見上げたことであるように思います。なかなか出来ないことのように思います。 (1) 《かみ》とは何か ☆ まぁ これは 政治的な駆け引きがあるわけでなく あるいはシュウキョウ間の社会力学を考慮した定義だけでもなく まあまあの想定内容であるかとは思っています。 それ以降の命題について どうぞ吟味検証されてください。
- purizuna
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ふたたびおじゃま致します。 NO.9さんの主張もなかなか興味深く拝見させていただきました。 私の見解としては、「無」に関する思考は東洋人的思考で、元々西洋宗教にはなかった考え方なので、やはり日本人的というか、どちらかといえば「仏教」的刷り込み思考によるものではないかと考えます。 まぁ、シュウキョウと呼ばれるものの全てが元々、個人の哲学による押し付けで、それを「集団」で推し進めてきたものだから、「個人的見解」では説得力をなさないがために、何かしらの神秘性やカリスマ性を持たせるためにひねり出したのが「神様」という代物なのだと私は理解しております。 少し感じた事を述べさせて頂くとすると、この意見交換の場において、議論の根本を何かしら一本の種類に絞らないと混乱と矛盾を生むばかりなような気がします。 哲学には哲学をということなのですが、宗教に個人の哲学を取り入れても不毛なやり取りにしかならないと感じるのです。 また、科学的見地に基づく主張も同様に思います。 これを踏まえて私の主張は 「シュウキョウのオシエ」は集団的哲学による押し付けである。 「神」は押しつけを正当化する人間よる創造物であると結論致します。 全て、私個人の経験則に基づきます。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 腰を落ち着けてお応えするご回答が このところ続いていて うれしい限りです。あそびの――あそびは好きですが 脱線し過ぎもいただけません――投稿が目だっていました。 さて これはどうもきちんと シュウキョウに対する質問者としての哲学の立ち場というものを まづ初めにお示ししたほうがよいようです。 神を定義します。そして それは 想定です。 (1) 《かみ》とは何か――《非経験の場》と想定―― 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと証明されたもの) 非経験の場(経験事象を超えたところの場) 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) (2) 《かみ》を《信じる》とは? ――《非知なる非経験の場》を心に受け容れること―― 神を心に受け容れると その心に《非思考の庭》が成る。 これが 信仰の動態である。 ただし目に見えない。 思考に非ずなる庭としてかつ動態として わたしに寄り添っている。 (または わたしが この庭をとおして 非知なるナゾに寄り添っている)。 《思考》の問題なら この非知なるナゾは有るか無いかが決まって来る。 非思考ゆえに それは有るとも無いとも決めかねる。 よって この神を有ると言っても無いと言っても 同じことになる。 (3) 《非思考の庭》の位置づけ 信じる:非思考の庭:ヒラメキをつうじて 思考などとつながるか ------------------------------ 考える:思考の緑野:コギト。言葉・概念となっているものの思考 感じる:感性の原野:直感。センスス・コムニス(共通感覚⇒常識) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (4) 《オシエ》は 言葉で表現された文章であるかぎり 《考える》の対象です。 (5) シュウキョウは 《信じなさい》という言葉を発しますが じつは往々にしてこのオシエを信じよ・つまりは 無条件に鵜呑みにして受け容れよ・つまり行き着く先としては権限関係の上の者の言うことに従え ということに実態としてなると見ます。 (6) オシエは 信仰ゆえに得られた観想や直観としてのヒラメキから概念を得てそこから理論づけて来たものだと見られます。ただし 文章となるとすでに《思考》の問題とその領域に足を踏み入れています。個人の内面における《非思考の庭》からすでに離れました。つまり 《信じる》とは無縁です。口でそう言っているだけになります。 (7) ヘブライイズムやヘレニズムに《無》の思想がなかったとか。 ここで取り上げようとしていることは イエスが去って行ったあと弟子たちの新約聖書をつうじて言おうとしたことは 《わたしは有る》というヤハヱ―なる神は もし普遍的な非知なる神であるなら すでにそれが有ると言おうが無いと言おうが 同じことなのだということだと捉えます。 (8) イエスのイの字もキリストのキの字ももう言わなくてよいということ キリストなる神というのも要らないということ この方向性が打ち出されたのだと見ます。それでこそ 普遍なる神であると見られるからです。 哲学としての神学は こんなところでしょうか。今回のご回答内容に反応するとすれば こういうかたちになるかと考えます。
- kohichiro
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ブラジュロンヌさんおはようございます。 NO.9 です。 いつもご丁寧かつ全力でのお礼をいただき感激しております。 >つまりたとえば仮りに その神をじつは《無》だったと言ってしまえば それも 擬人化やそれにまつわる 属性の付与の物語と同等の神論を築けると思われるのではないでしょうか。 そういう相対化した見方が必要である。――いまここでですが こう言いたかったのですが 果たしてどうでしょうかね。 それについてはもちろん同意できます、つーか 「神のなされたことども」をいったんちゃらにして現代の科学が始まったのはいうまでもなく常識です。今では造物主というものは自然の偶然性に初期のブレークするーを任され、あとは進化論による必然性がここまでの展開を引っ張ってきた、そうかんがえられているのではないでしょうか。そのために必要時間がべらぼうに長くなってしまったというへいがいはあってもですね。 それが現代人のほぼ共通の認識だろうと思います。 それともブラジュロンヌさんは 《無》というものを更に深遠なあるもの、不可思議な しかしなにか気をそそられる人知の彼方のものと考えておられるのでしょうか。それはたとえばサイテックスさんの曰く「なにかがある」というような”もの”かもしれませんが、ならば私の手には負えかねますw。
お礼
神を説明するための《無》をめぐって ひとつに進化論がそれを引き継いだ(またはそれに取って代わった)こと そしてもうひとつに《もの》として捉える場合があること この二つが わたしはなお課題であるように考えられます。 お早うございます。ご回答をありがとうございます。 簡単に言うことになりますが 二つの見解ともどもそれらは この経験事象のことがらに片寄ってしまっているように思われます。 ★ それ〔=《無》というもの〕はたとえばサイテックスさんの曰く「なにかがある」というような”もの”かもしれませんが、ならば私の手には負えかねますw。 ☆ ええ。わたしも手に負えません。《なにかがある》と言っておきながら 実は何もないんだという言い方をします。これは 経験事象としての有る無いだと見られます。 神としての《無》を不問に付してその有る無いの話をしているとことわるならば ふつうの議論です。ですが 他方では 《無の射影》としてこの世界(あるいは量子のことでしょうか)があるとも言います。 だったら その・ここで出て来た“無”のことについて定義することから始めなければならないはずです。これについては 無言ではないでしょうか。 進化論ですが 苦手ですが 要するに種の中で突然変異を初めとして異種を形成して行くこととそして種が変化するかたちで進化することとは 別ではないか。種が変わってしまうところの進化は 見られているのでしょうか。検証出来ていましょうか。 ★ 今では造物主というものは自然の偶然性に初期のブレークするーを任され、あとは進化論による必然性がここまでの展開を引っ張ってきた、そうかんがえられているのではないでしょうか。 ☆ そうならば 種が変身するといった《進化》のたびにそのブレークスルーにもファイナルタッチのごとき何がしかのチカラの作用が介在したとでも言えるかも知れません。 なにしろ非知なるナゾとして想定しているからには 経験世界の何にでも透明存在者のごとく介在して来ることは 物語として可能だと考えられます。 いやぁ 分かったような分からないような。くわしい説明の出来る方の解説を俟ちたいと思います。
- purizuna
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御返答ありがとうございます。 「無神論者を装う」に関しましては、宗教を哲学的に論じる場合どうしても宗教信仰者の立場では矛盾が生じ、問題解決えの道のりが遠くなり、 信仰者の方と論じ合う場合にはどうしても「無神論者」の立場では討論のしようもない、というのがこれまでの経験から導き出した私なりの結論なのであります。 それらを踏まえて言わせてもらうとするなら、貴殿の根本が宗教にあるのか、哲学にあるのかを明確にしておいた方が良いのではないかと感じました。 どうしてもこの問いかけは、「宗教的」回答を求めているようにしか伝わらないような気がします。 ですからどうしても貴殿にとって的外れ的な回答を生み出す結果となっているのではないでしょうか? 宗教に対して宗教でしか答えは見いだせず、宗教に哲学を求めても、せん無い結果しか生み出せないと感じます。 それを踏まえて、返答していただいた。 【たとえばこの質疑応答の場などで 神と言えば創造主なのであるとか 神はいないとする立ち場からは 全知全能と言うがそんなものは人間がつくったに過ぎないとか 《そういう説に合わせて》神を捉えているように思うのです。 ここをすっきりさせたい。そういう魂胆での設問です。】 は、宗教論ではなく、哲学の問題だと感じるからなのです。 如何なものでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ それらを踏まえて言わせてもらうとするなら、貴殿の根本が宗教にあるのか、哲学にあるのかを明確にしておいた方が良いのではないかと感じました。 ☆ やり取り――情報交換――は 哲学にもとづきます。 主題は 神にかんする議論や理論についてです。 ご自身の信念なり信仰なり哲学なりにもとづき 回答をよせてくださればよいものと思います。 ★ どうしてもこの問いかけは、「宗教的」回答を求めているようにしか伝わらないような気がします。 ☆ はっきり言えば 《宗教》については それがマチガイであるという見方を持って この二つの概念のオシエを信じるのはいけないと言おうとしています。 オシエではなく ただの擬人化であり 創造主としての神の物語であるというのであれば そういう一つの見方を表わしたに過ぎませんから 問題はないと考えます。 そこらへんを やり取りをつうじて 明らかにさせることができればというのが 目指すところです。 ★ [・・・]は、宗教論ではなく、哲学の問題だと感じるからなのです。 ☆ ええ。そうですよ。扱う主題は シュウキョウのオシエであり 議論の基調は 哲学です。よ。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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君は観念上の想像力に際限はないとか何とか言ったね。 違うんだよ。 人間の想像力は自由ではないんだ。 その世界で、完璧に自由自在なのが全知全能だ。 それが現実にも反映するんだろうな~。 言いだしっぺがいなかったら、根拠が無いとか言い出したりは君はしないだろう。 誰もが認めればそれでいいんじゃないかな。
お礼
ご回答をありがとう。 ★ その世界で、完璧に自由自在なのが全知全能だ。 ☆ どの世界? いづれにせよ そのように全知全能を《想像して絵に描いて見せること》は出来るのです。しかも その絵の中身は 想像の世界を出ることはないでしょう。 《観念上の想像力に際限はない》と同時に その描いた世界像が現実性に乏しいという点で《人間の想像力は自由ではないんだ》と言えると思います。 つまり《全知全能》と ★ 誰もが認めればそれでいいんじゃないかな。 ☆ と言えば それとして言えたことになる。と同時に その現実性は やはり乏しい。 つまり 理念や観念の共有にまでは到るけれども その世界像には実際には限界がある。 だから 全知全能とは別の神の属性を考えることもありうる。こう言おうとしたものです。
- purizuna
- ベストアンサー率100% (1/1)
なかなか興味深い考察だと感じます。 前置きが遅れましたが、私は「無神論者」を装っている立場の人間です。 過去に悪事を働き、それゆえに一時期「宗教」に没頭した時期もあり、様々な宗教に触れてみましたが、現在の時点でたどり着いたのは、「神様」という存在はいない。というのが結論となりました。 その上でこの「神が全知全能の造物主だと誰が言ったんですか?」という質問に対しての回答として選んだのが、「人間」という回答です。 貴殿が欲している回答は、この単純な質問ではなく、その奥に潜む何か深いもののように思うのですが、私の考えすぎでしょうか? 神は神です。 それ以上でもそれ以下でもないと思います。 各人にとって「神」はそれぞれに少しずつ役割が違うのですが、古来からの教育と言いますか、道徳といいますか、捻じ曲げられた刷り込みによって生じた歪みが、「神様は全知全能」で「全知全能」なんだからきっとこの世界を創造したに違いないという物語を造り上げてきたのだと思います。 もう一つよくわからない点は、「何で調子を合わさなければならないのですか?」 何に対して「調子」を合わされようとされているのでしょうか? ご自身が捉えられている「神」*(神をもし信じているとしているのならですが。)その「神」=「信念」を通せばよろしいことなのではないでしょうか? もし的はずれな回答でしたら容赦して下さいますよう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ その上でこの「神が全知全能の造物主だと誰が言ったんですか?」という質問に対しての回答として選んだのが、「人間」という回答です。 ☆ ううーん。《無神論》からすれば そうなるのでしょうね。 そう言えば 何だかたいへんそうなご経験をなさったのですね。必ずしもわたしにはよく分からないと思います。 いづれにしろ その結果 無神論をえらぶに到った。ということでしょうか。 《装っている》とも書かれているので そこは一筋縄では行かないところがお有りでしょうか。 そうですね。 たとえば神が言ったとしても それを聞いた人間が 神の代わりに言うのでしょうから そのまま《人間が言った》にコトは収れんするでしょうね。 もっとも質問は そのような天地創造だとか全知全能などということは 神であれば必ずそうであるということではないであろう。と言おうとしたものです。 神は《無》だと言えば それでも 正当な神論であるのだと。 言いかえると 無神論と有神論とは 互いに対等で中身も同等であると見るし 有神論の中においても どの名前の神であっても互いにすべては同じであると見るのだ。――こう言おうとしています。 そういう意味で: ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 神は神です。 それ以上でもそれ以下でもないと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そこに《無い神》をもふくめて そのようだとわたしも考えます。 ★ もう一つよくわからない点は、「何で調子を合わさなければならないのですか?」 ☆ これはですね。理論から離れるかも分かりませんが たとえばこの質疑応答の場などで 神と言えば創造主なのであるとか 神はいないとする立ち場からは 全知全能と言うがそんなものは人間がつくったに過ぎないとか 《そういう説に合わせて》神を捉えているように思うのです。 ここをすっきりさせたい。そういう魂胆での設問です。
- amenhotep2000
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bragelonneさん こんばんは 閑話休題。情報提供。 ところでbragelonneさんは「ヘルメス文書」というものをご存知ですか? ギリシア語で書かれた文書ですが、紀元前3世紀から紀元後3世紀にエジプトで生まれたとされているそうですが、まだ研究中で、はっきり分かっていないそうです。 ヘルメスは本来、ギリシャ神話で活躍する神のひとりで「ヘルメス・トリスメギトス」として有名ですが、ヘルメスとはヘルメス文書では啓示者ないし、導師と考えられ、トリスメギトスは2代目で初代はトトであるそうです。 その宇宙観は同心円状に上から、神→星辰界→月下界→地、でありこの順に神の影響力が後退し、逆に質料(ヒューレ)が強まるという考えで、神は円の外の叡智界にいて見えず、可視的世界の宇宙では星辰界が、もっとも神聖で、秩序と善が支配し、地上は無秩序と悪に支配されている、魂と身体の二元論とこと。 この思想は、新プラトン主義のプロティノスに受け入れられたので、キリスト教のアウグスティヌスはどう解釈したかは分かりませんが、少なからず影響を受けていると思われ、キリスト教でパウロが、すでに使途言行録の中で異端視した、魔術師シモン(8章9節)はグノーシス思想のシモン派を率いており、そのグノーシス思想にヘルメス思想は多大な影響を与えました。そして中世の錬金術にもヘルメス思想は色濃く出てます。 ヘルメス文書は陶片やパピルスや碑文や壷として出土するので、まだ、分からない考古学的発見があるかもしれません。 この投稿の回答者は、ありがとうポイントのものすごい人ばかりなので、皆さんのSNSを駆使して、是非、戦艦武蔵を発見した、マイクロソフト創業者のポール・アレン氏に、お金が有り余っているなら、次はヘルメス文書の発掘をするようにメールしてください。 好奇心旺盛のインディー・ジョーンズ二世より(笑)
お礼
ううーん。どうなんでしょうねぇ。 ご回答をありがとうございます。 グノーシス主義のことではないのですか? 荒井献とその門下生が ヘルメス文書なりコプト語の文書などを研究していますね。そのとき だいたい グノーシス主義という名で一括して呼んでいたと思ったんですが きちんと分けて捉えるんでしょうか。何て言いましたか ナグ・ハマディ文献? (確かめずにそのままとします)。 ヨハネの福音は かなり哲学的あるいは神学としてでも理論的な文章なので このグノーシス主義と関係あるのではないかと言われますね。わたしは えらく違うと見ますが。 クリスチアニズムは その後 いくつか書かれていたイエス文書の中から 正式な聖書として採用するにあたって グノーシス主義のものは捨てました。(排除・迫害したことは もう取り上げません)。 よく読んでみると やはり――そうは言いながら・自分たちの判断でほかの派閥の文書を捨てさせたとは言いながら―― 内容は違いますね。雲泥の差とすら考えられます。 でも 資料としていろんな情報を提供するかも分かりません。知った上ででないと 何も分かりませんから 貴重なのでしょうね。
- kohichiro
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ブラジュロンヌさんこんばんは。 神という概念は聖書だけでなくて世界のあちこちにあるようです。必ずしもキリスト教世界の専売ではないと思います。 ですから、普遍性はある、と私は考えます。 キリスト教でなくても、神という概念にとらわれている文化や民族はまだ少なくないと思います。 そういったことを前提にして >神が全知全能の造物主だと誰が言ったんですか? 初期穴居人というか最初の人間たちが、基本的に自分たちの知能で理解できないものごとをひとまとめにして彼らの想像できる範囲でそれらを擬人化したということだろうとおもいます。自分たちはある程度のものは自分たちの手で作れるけれど、とても作れないものが自然にはたくさん存在する。これらもやはり自分たちとは異なった優れた「人間のようなもの」の手で作られたのは間違いない、そう思ったとしても不思議ではない、と私は思います。結局その想像上の「優れた人間」が神という全知全能の擬人的存在になったのは合理的なこうとだろうと思いますよ。 それだけのことでしょう。
お礼
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから、普遍性はある、と私は考えます。 キリスト教でなくても、神という概念にとらわれている文化や民族はまだ少なくないと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。つまり――おっと まづは ご回答をありがとうございます。―― 《神》は どこにでも持たれているでしょう。 《全知全能と創造主》 これらの概念の問題なのです。 あぁ それについては ★ [・・・]擬人化したということだろうとおもいます。 ☆ それは そうですね。 つまり 《絶対》を擬人化して《絶対者》あるいは《父なる神》と呼ぶ。 《絶対者》であれば 何でも知っていて何でも出来る。しかも 世界の初めからいたであろうし さらには世界を自分が創ったのだというところまで物語は伸びる。・・・でしょうね。 ★ [・・・]結局その想像上の「優れた人間」が神という全知全能の擬人的存在になったのは合理的なこうとだろうと思いますよ。 ☆ そうでしょうね。 ただし: ★ それだけのことでしょう。 ☆ とさえ言えるとして しかもその《擬人化》による物語の作成は 普遍性を持つか? ここに行き着くでしょうね。 つまりたとえば仮りに その神をじつは《無》だったと言ってしまえば それも 擬人化やそれにまつわる属性の付与の物語と同等の神論を築けると思われるのではないでしょうか。 そういう相対化した見方が必要である。――いまここでですが こう言いたかったのですが 果たしてどうでしょうかね。
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お礼
というご自身の主観を表明された。 それだけになります。 哲学は いかなる命題についても その成否や当否を問います。さらにそのあと 成立して妥当であるとしても その普遍性を問います。 そういう意味で ご回答な足りません。 ご回答をありがとうございました。