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キリスト教の救いって
僕は特定の宗教に所属していません。 しかし、僕は過去に悪いことをしてしまったことがあって、 今更になって悔やみ、できうる限り日々の生活の中で償っていこう と思っています。 自分の犯してしまった罪と、キリスト教の定義する罪とは 別のものだとは思うのですが、最近考えてしまうことがあります。 それは、キリスト教やイスラム教などに出てくる全知全能の神は、 信仰して、祈らなければ救ってはくれないのか?ということです。 僕達のように神を信じることさえできない人間の方が、 よほど(自分で言うのもなんですが)哀れな気がします。 「信じてないなら、別に関係ねーじゃん」という疑問はおいといて、 キリスト教の信者の方、またはそれについて勉強している方、 稚拙な質問ですが、回答よろしくお願いします。
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- 1a2b3c4d5e6f7g
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NO3です。 >全知全能であるはずの神が、何故、人間をすべて自分を信じる様に >創らなかったのか、という疑問が生じました。 何故なら、人は自由になるために生まれてくるから、らしいです。 信じざるをえないのなら、それは自由ではありませんね。 というわけで、信じる人も、そうでない人もいるのだそうです。 キリストを信じなければ救われない理由とは、 キリストの存在、その在り方に関係している、らしいです。 例えば太陽の光に照らされている世界を、目を瞑れば見ることが できなくなりそれを受け入れることができなくなるように、 キリストを信じなければ、かつても、これからも存在しているであろう 神の愛を受け、それを自分のものにすることができなくなるからだそうです。 私はこのことについて、本当の意味で知っているとは、とてもじゃないが 言えない人間ですので断言することができません。なぜなら私は、 ただ本を読みそれを感じただけの人間だからです。しかし、 それに感動し、非常に、非常に多くをもらったということもまた事実です。 あなたが、あなたの疑問に対する答えを本当の意味で手に入れることが できることを祈っています。
- mmky
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[…ですが、大量殺人を犯してしまったり、独裁的な政治で人々を苦しめた人はどうなってしまうのでしょうか?彼らの被害にあった人々は無論ですが、そういう悲惨な人生を歩んでしまった人たちにも救いがあってほしいと思います。] あの世での個人の罪というのは、あの世を統べるお方が決めるんですね。一方、あの世を統べるお方は、個人を含むすべての生き物の創造主でもあるんですね。つまり親ですね。親から見れば、悪さをした子供をどのよに叱れどもかわいいものなんですよ。確かに天国も地獄も厳然としてあります。天国にかえった子供はかわゆくて地獄に落ちた子供はかわゆくないということはないんですね。例え、この世で悪さをして大失敗した子供でも行き先の地獄をその手で支えているのは親なんですね。ありがたいことなんです。この世での失敗をあの世に持ち帰ってもそのようですから、この世の失敗に気づき反省して何とか償っていこうとする子供をみると親は泣いて喜ぶんですよ。また、この世でどんな苦しい悲惨な人生を歩もうとも手を広げて「よくがんばったね」と迎えてくれるでしょう。あの世とはそうゆう世界なんですよ。
お礼
二度にわたる回答に感謝します。 いろいろ沸いてくる疑問にお答えいただけて嬉しいです。 ありがとうございました。
ちょっと、追記と訂正。おゆるしを(__) 私の回答のなかで >信、帰依、信仰の強さの現われは・・ >・・日本でいう弁護士の役割をすると言われています ここ訂正、たいてい、死後、自己のカルマによって来世を転生するといわれてますが、宗教的な指導者に帰依、信が、強い場合に、あの閻魔大王の裁判に立ち会う場合が、あるという意味。無いとこないかもと。そして、宗教事態が、本物である場合ですよね。例えば最近の宗教??のすべての指導者が、助けてくれるとは限りません。 ただ、ここ質問に直接関係ないので、興味を持つ程度で。 あと別の方法、直接、迷惑を与えた、本人のイメージを心の中で描いて、口にだして懺悔します、何回も。よく「あやまりたいけど、本人には心のひっかかりが、あって、言いづらい」という時、これをすると段々と、心が軽くなり、罪悪感が、出てきて、言いやすいです。まあ、誤る予行練習??のようなもの。 これ、私は結構やってます。それに、知らない宗教の指導者を観想し、意識を近づけるよりも、直接、本人をイメージした方が、相手の潜在的な意識の方が、楽に近づけると思うし。 今回の追記も参考の程度で、やはり入信せずに、相手(指導者)の意識に 近づくのは、大変だということは言うまでもないので。 (だから、『入信が、必要』といっていたのかもと。) 以上
お礼
追記、訂正、わざわざ痛み入ります。 ありがとうございました。
良く、「TVドラマ」などで見る、イエス(マリア像でも)の像の前で、牧師・神父に罪を告白し、許しを請う… いわゆる、懺悔し贖罪を贖う ---- 神に「ゴメンネ」すれば、許されると言うのは、おかしいのでは無いかと思います。 本当に、悪い事をしたと感じるなら、一生を(生涯を)かけて償うべきで、一寸したミスを度々神に報告してたのでは、神も迷惑では無いかと思うのですが… --------- 一応、教会にも通った経験があるので、上のような不謹慎な事を言うと天罰が下りるかも…
お礼
神がどう思うか、までは考えがいたりませんでしたが、 許されることに関しては僕も同感です。 妥協せず、一生懸命償おうと思います。 回答ありがとうござまいした。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
信者でも勉強してもいない、だたの神話好きなだけですが。。。。 (あくまで私の個人的に分析した中での見解ですので参考程度でお願いします) まず、イエスという人物がやっていたのはユダヤ教です。 「これは私の肉である。血である」という儀式はイエスが考え出したのではなく、クムラン宗団のとても高位の祭司が共餐の儀式でやっていたものです。 これが、イエスはクムラン宗団に所属していたのではないかと言われる理由のひとつでもあります。 ナザレのイエスとはナザレ派のイエス つまりクムラン宗団に属していたというもので、ナザレという土地出身という意味じゃあないようなのです。 (当時 ナザレという町は無かったらしいです) 聖書は誰が書いたのか? 実は筆者不明なのです。 イエスが死んだとされて100年もたたないうちに、イエスの教えだとされるものが多様に誕生していきました。 エイレナイオスは、キリスト教社会の教師たちが、自ら捏造した数々の怪しげな文書を広め真の聖典を知らない愚かな人々の心を惑わしていると嘆き、自分が信じる文章以外を撲滅するために聖典を作った。 つまり自分と違うイエス理解をする人たちを撲滅したかったので聖書を作ったわけです。 「汝の敵を絶滅せよ」だったわけです。 聖書ができた理由は、人々のイエスの教えを広めるためではなく、他者を絶滅するために作ったわけです。 こういうことだったわけです。 さて、エイレナイオスがたくさんの文書の中から選んだのが現在新約聖書にある4福音書のみ。 では、その4福音書の産みの親は誰か。 さきほども述べたとおり筆者はわかりません。 が、紀元前数百年、義の証明として古代ギリシャ人が考え出した方法にすごく似ている。 その古代ギリシャ哲学の義の証明の理論を元にして、イエスの磔刑が創作として挿入されていると思えます。 イエスが生きたとされた時代より何百年も前にあった思想なので。 新約聖書はヘブライ語ではなくギリシャ語な理由のひとつはここにもあるようです。 というわけで、イエスの磔刑の物語は、贖罪ではなく義の証明という哲学がもともとだったと思えます。 他には神がイサクのように最後にはクムラン集団を助けてくれるはずだという確信。 イエスはイサクとして指名されたことになる。 それがどうして全人類の罪を背負った子羊という物語になってしまったのか。 誰が捻じ曲げたのか。 イエスの磔刑後、イエスを受け継ぐ集団を弾圧していた一人の男がいました。 名をサウロといいました。 サウロはヘロデ家とは親戚だったようです。 ちなみにヘロデ大王はエルサレム神殿を再建した人で、ユダヤ人ではない。 ユダヤ人ではないヘロデは、自分を受け入れない祭祀を殺し、受け入れた祭祀に対しては姻関係により自分の血を入れていきました。 イエスはサンヘドリンに捕らえられ処刑されたとなっていますが、サンヘドリもヘロデ系列でした。 サウロもヘロデ関係者。 だからイエスの思想を受け継ぐものを弾圧していたわけです。 ところが3年の空白の後に突然イエスの思想を受け継いだヤコブに弟子入りしました。 ところが、やがてヤコブを裏切り破門 そうしたら今度はヤコブの殺害を謀った。 このコロコロと変わる男は破門され追放されたので、エルサレムにはとどまれません。 クムラン宗団の規定にそむいたので、規定とおりの処分を受け破門され追放された。 だからサウロはエルサレム以外に自分の思想を「これがイエスの思想」として布教することになったと思えます。 サウロはヘロデ家の関係者なので、お金はたくさん支援されており、各地を豪遊できたわけです。 悪さしてつかまっても、ローマととても仲がよかったヘロデ家の関係者なので、特別待遇の禁固刑。そして何度も簡単に釈放されている。 イエスの思想を受いだ者から破門されたサウロ。 このサウロの思想が後にキリスト教となりました。 初期教会父でリヨン司教であるエイレナイオスが引用しているエビオン派の文書によると、パウロは律法への背教者。2世紀初頭のものとされるエビオン派文書ペトロスの宣教によれば、パウロは律法の背教者、邪悪と虚偽の雄弁者、イエスの教えを歪める者。 すごい言われようですね。 (なお サウロ=パウロ) サウロは割礼や食物規定に関する規定を否定しました。 おおよそのトーラを否定しました。 そしてイエスの思想から民族的情熱を剥ぎ取り、自分の教えがイエスの教えだとして布教していった。 無抵抗の子羊を製造していたわけです。 エルサレムの崩壊にどうやらサウロも関連していたようです。 2000年近くもユダヤ人を放浪させた人の中にサウロも一枚噛んでいたというわけです。 死海文書には光の子と闇の子の戦争という巻物があります。 勝利を確信し、光の子が闇の子を倒し、神の国が降りてくると書いてある。 ところが、後に追加で書かれていて、おそらく光と闇の戦争の後に、予言が外れた結果を書いているようなのです。 義の教師が悪の祭司に殺される。(古代ヘブライ語は過去も未来も同じなので、おそらく「殺された」という意味だと思います。 私の推理では、義の教師とは義人ヤコブ。 悪の祭司と当時考えられたのがサウロ。 新約聖書の作家は、ユダヤ教には詳しいようですが、どうやら高位の人ではないようです。 なぜならメシアの贖罪の動物は羊ではないからです。 羊は一般人の贖罪の時に使用されます。 が、民族全体を神へ贖罪するときは、別な動物なんです。 しかも無傷で、一度もつながれたことが無いもの。 つながれて鞭打たれて、槍でさされたものが神への購い? とんでもない。 これは平信徒やちょっと学んだ程度の祭司ではこの秘儀を知らされないと思います。 モーセが神からもらったとされるアークに描かれた絵にも、この動物は描かれているが羊は描かれていない。 だからユダヤ教はイエスをメシアだとしていないんです。 でも親切なのか あきれているのか 愚かだと哀れんでいるのか 「メシアが購いの儀式として使うものは羊じゃあないんですよ。神は別なものを指定したんです。」と言わないようです。 さて、神が直接指で書いたとされる文章が十戒だそうです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92 1に関して、ヤハウェ以外 人間イエスを神として拝んでいる。 2に関して、偶像を崇拝している。 3に関して、イエスを神の名としてみだりにとなえている。 4に関して、日曜日を安息日に変えて教会で行っている。 5に関して、イエスを神とし、イエスが父や母に背かせるためにやってきたと言ったとしている。 6に関して、大量虐殺をやりづけている。イエスは武器を取れと言ったとしている。 7に関して、教皇ですら数人の愛人を囲っていた。 8に関して、他の領土に行って強奪をしてきた。(今もしている) 9に関して、略奪、殺人を正義だと偽証している。 10に関して、侵略を今もしている。 神との契約全部を破っています。 トーラの否定だけではなく、神が示したとされた教えも否定しているわけです。 この十戒さえも否定しトーラをあざ笑う宗教の神の名はサウロ。 (死海文書には悪の祭司がトーラをあざ笑うと書いてある) あなたはサウロのこの十戒の否定に賛成します? サウロの思想を受け入れなければ、地獄に落ちると思います? イエスが言ったとされた言葉に、信仰者になると誓っていない人が悪いことをしても罪ではないが、一度誓ったものが違反した場合は、、それはそれは大変なことになる とあったように記憶しています。 どんなことになるのでしょうか? 生命の木に逆さに貼り付けされ、ケリポット界に投げ落とされる? 最後の審判の結果なので、一度審判が下りケリッポトに投げ捨てられたら最後二度と救済はありえないそうです。 だってそれが最後なので。 なお、10戒のソースはどうやらエジプト神学のようです。(死者の書) エジプト人のモーセがアフリカから持ち出し、バビロン捕囚の時にユダヤ教の礎として確立したようです。
お礼
長文でのご回答、ありがとうございます。 理解するのに時間を要したために御礼が遅れてしまいました。 気軽な気持ちで質問したのですが、皆さん真摯に答えてくださり、 大変ありがたく思っています。 宗教を歴史で紐解くとすごいですね… また、是非お願いします。
- pennteru
- ベストアンサー率10% (2/19)
No4です。 たしかに、救われないなら意味ないじゃん、という話になり、その当時から否定的な意見も多数あったようです。でも、ひとたび予定説を信じると、ものすごく熱狂的な信者になるんです。というのも、「なにをどれだけやれば救われる」などという基準がないわけです。しかし、どのような人間が救われるか想像したとき、より熱心に神を信じた人間が救われるはずだ、ということになります。 その当時の教会は腐敗していました。教会に寄付すると救われる、とか言っていたんです。カルバン派人間は、「そんなのは本当の信仰ではない」といって教会を否定します。そして、そんな人間達よりも、よほど真摯な信仰をもつ自分たちこそ救いに近いはずだ、と考えるわけです。そして、どのような人間が救いに近いか考えたとき、際限のない信仰に陥るわけです。これは恐ろしいことだと思いませんか? 博打が好きな人間の心理に似ているかも知れません。博打が好きな人間は「勝つか負けるかわからない」から博打が好きなんです。負けるとわかっていたらやるバカはいないでしょ。逆に、必ず勝つとわかってて、勝つときだけ博打をやるなら、これは博打じゃありません。 http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%8E%9F%E8%AB%96-%E5%B0%8F%E5%AE%A4-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4797671459/sr=8-7/qid=1167648794/ref=sr_1_7/250-0321253-8787451?ie=UTF8&s=books ほとんどこの本の受け売りですので、わたしの投稿が気になったら、是非、ご一読下さい。ちなみに、この予定説を信じた人間達が、絶対王政を倒し、近代民主主義を作り上げる。明治の天皇は予定説の絶対神をイメージして作り上げた、などなどと話は大きくなっていくんです。楽しんでいただけたら幸い。
お礼
度重なる質問に対する回答、感謝いたします。 なるほど、なるほど、と噛み砕きながら読ませていただきました。 是非、紹介していただいた本に関しては目を通させていただきます。 ありがとうございました。
私はイエスの遺したよい言葉を聞いたことがあります。 「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」 心がくじけたとき、心の平安を求めるときには、このような言葉が心を慰癒します。誰しもブッダのようになれる(安らぐ)ように、誰しもイエスのようになれる(安らぎを分け与える)でしょう。安寧とはそういうものではないですか。
お礼
URLまでつけていただいて、うれしいです。 参考にさせていただきます。 少し忙しかったため、お礼が遅れました。 回答ありがとうございます。
こんにちは まず、一般論かもしれません、それはご了承を。 結局は、信、帰依を強くもたないと、キリストとか、仏教の仏陀に意識が、近づかない。で、意識が、近づかない状況でざんげしても、それは効果が、ない。したがって、"祈り"、信仰をもたなければ、意味がない。・・ということと、かんじますが。 一般的に懺悔は、その宗教的な指導者が、その懺悔を受けることにより、懺悔した本人は、罪が軽くなる???、正確には、その行為をコンパクトに、まとめて カルマ的に軽くして、現象化し、カルマを返すという意味と感じます。 信、帰依、信仰の強さの現われは、例えば、仏教では、閻魔大王の裁きに際し、日本でいう弁護士の役割をすると言われています。ちなみに、信仰のないひと、又は、外道、信仰が、偽者だった場合は、あらわれない。 それだけ、正しい宗教の選択は難しいのかもしれませんね とにかく、懺悔をしたいなら、対象にたいして入信しなくても、心に強く信を持つことです。 以上
お礼
回答ありがとうございました。 やはり気持ちの面が大切なのでしょうか… 正直、さまざまな回答がでて戸惑っています。 もともと自分には宗教は向いていないとは感じていましたが… 弁護士という比喩はわかりやすくてよかったです。 なるほど~…
- hhituji
- ベストアンサー率30% (15/49)
信じなければ救われることはできません。 とても理解しにくいでしょうが、クリスチャンがなぜそういうのか、なるべくわかりやすく話をしてみましょう。 あなたが、罪を犯したと仮定して、ある人に損害を与えたとします。あなたを赦すことができるのは、私ではありません。損害を与えられた人だけです。 もしあなたが、自分の内なる道徳律に完全に従って生きているとはっきり断言するのならば、ここから先は聞く必要がありません。 だが、もし、自分が、やましいことを一瞬でも考え、内なる道徳律に背く、またそのような傾向をもつ存在だとしたら、どうでしょう? ちなみに私は間違いなくそのような存在です。人の失敗を望んだこともありますし、行動はともかく、その動機についてとても誉められたものではないことはよくあります。 そのような時、損害を受けるのは誰でしょう。その代価は、必ず誰かが払っているのです。宙に消えることはありません。 価を払っているのは私たちを創造した神です。 ですから、まず最初に、自分の内なる道徳律、これは神が植え付けたものですが、これに違反していると感じるならば、神を信じ、悔い改める意外に道はありません。 では、クリスチャンは、なぜイエスを信じなければいけないと主張するのでしょうか。 あなたの父が裁判官だとして、あなたが逮捕されてきて、その父から有罪判決を受けたと仮定します。だが、その次の瞬間、父が裁判官席から降りてきて、あなたの側に立ち、「息子の代わりにこの私が罰を受けます」 といって牢屋に入れられたと想像してください。 神はこれと同じ事をしたのです。神は、正義であるがゆえに人間の罪を裁かざるを得ません。が、それと同時に自ら人間の所に下りてきて、その罪を引き受けてくれたのです。 これが、イエスキリストです。 だから、救いは、イエスしかありえないのです。仏陀や、ムハマンド、あるいは自分自身の正しい行動で、自分を救うことはできないのです。
お礼
自分もまた、とても自分を立派な人間と言い切れないので、 最後まで読ませていただきました。 なるほど…回答者様のお陰で、 信じなければ救われない理由はおおよそ分かりました。 しかし、自身を罪深いな、と思いながらも、 目にみえない神に、自分の罪を負わせた気分にして、 自身の心が軽くなるのを僕は許せないのです。 信仰が持てません…。 全知全能であるはずの神が、何故、人間をすべて自分を信じる様に 創らなかったのか、という疑問が生じました。 他の方との意見にも矛盾ができてしまっています。 わざわざ自分で創っておいて、自分を信じられるかどうか天秤にかける様な試練に見せかけたゲームをするはずないですよね? もしよかったらお教えください。 回答、ありがとうございました。
- pennteru
- ベストアンサー率10% (2/19)
みなさんカトリックのようなので、プロテスタント的に一つ。 キリスト教の罪とは原罪のことです。アダムとイブが神に逆らったことに端を発しています。だから、その子孫である人類は生まれながらにして罪を背負っているわけです。 で、カルバンという宗教家が「予定説」を唱えました。予定説とは、 神は全知全能である。神は全てを知り尽くしているわけです。もちろん、未来も知っている。すなわち、その人間が「救われるか救われないか」それを知っているのです。だから、その人間が救われるために善行をいくら積もうと、はっきり言って無駄。決まっていることは変わらないのです。じゃ、誰が救われて、誰が救われないの? ということになますが、カルバンは「神のみぞ知る」というわけで、それは最後の審判にならないとわからないとのことです。 ルターも最初はカルバンを気に入ってましたが、やっぱり過激すぎるので、後に一定の距離を置いたらしいです。 だから、質問者さんに対する解答は、 「信仰して祈っても救われません」 です。
お礼
信仰して祈っても救われない、ですか… それではプロテスタントの方々は何の為に信仰しているのでしょうか? もし、それに関して知識をお持ちでしたら、お教えいただきたいです。 いろんな面からキリスト教を垣間見ることができてよかったです。 とても興味深いご意見、ありがとうございました。
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お礼
再度回答いただきましたことに、先にお礼申し上げます。 疑問は氷解しました。しかし、他の方との回答に矛盾を感じるので、 どれが真実なのかは、回答者様が仰るとおり、 これから先自分で見つけていこうと思います。 その真実が普遍的で正しいものであるかは分かりませんが… そろそろ質問を締め切りたいと思います。 どれが絶対正しい、と今の段階では確信を持って言うことが できないので、ポイントもつけられないです。 ゴメンナサイ… 単純に自分の気に入った回答、では他の方に申し訳ないですし… それでは、1a2b3c4d5e6f7gさん、ならびに他の回答者の皆さん、 ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。