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「嫌われる勇気」における他者貢献に関する疑問
アドラー心理学に関する書籍の「嫌われる勇気(岸見一郎、古賀史健)」を読まれた方に質問です。 第3夜で哲人が「他者の期待など、満たす必要はない」と言っています。 しかし、第5夜では哲人は「他者に貢献するのだという導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、何にをしてもいい」とも言っています。 他者に貢献するということは他者の期待を満たすということと同じような気がするのですが、少し矛盾していないでしょうか? 何かお分かりになられる方がおられましたら、宜しくお願いします。
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簡単に説明します。 他者の期待というのは他者が勝手に自分に寄せる期待のことなので満たさなくていいんです。 例えば親がプロ野球選手になって欲しいといってくるようなものです。 他者に貢献する~というのは、 例えば家の風呂の掃除をするなどの親孝行するということです。 こういう違いを言ってるんだと思われます。
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矛盾してますよ。 それが何か? 時と場合によります。 右へ行きすぎなら、左へ行けと言う。 左へ行き過ぎなら、右へ行けと言う。 それだけのことです。 他人の期待や世間体を気にして、自分を犠牲にしてはいけませんよ。 自分の人生は自分のものですから。 というのが前者。 一方で この宇宙で自分ひとりが存在するわけではない。 他者との共存が必要。 完全なエゴ一色では生きられない。 また、貢献感を得ることは幸福につながる。 だから、他者に貢献しようという気持ちがあれば、自分も他人もしあわせになれる。 迷ったら、他者に貢献しようという気持ちを軸よせよ。 というのが後者。 言葉というのは事実の一面しか表現できません。 言葉で矛盾してるのは当然のことなのです。
- pupupu
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こんにちは。 他者に貢献する事と他者の期待を満たすことは別のものだと思います。 他者に貢献は、自分中心の行動であって自己満足の世界だと思います。 他者の期待を満たすことは、他者が満足しているかどうかが問題になってくるので 自己満足とは違うのだと解釈します。
- ノーバン(@nobound)
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一応読みましたが、いろいろ書いてありました。 「他者の期待を満たす」のは、ほとんど他者から承認してもらおうとするため 承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない 共同体感覚がある他者貢献には、他者からの承認はいらないなどなど 自発的貢献感と、他者の期待を満たすことは、違う心の持ち様だということです。 オウムとか、戦後の談話とかでも、自発的謝罪の難しさを感じます。
こんにちは。 解答つきませんね。 読んでませんので、ケースに適した解答になっているかわかりませんが、 他者の期待を満たす事と、他者に貢献する事の違いは別に本を読まなくても普通に違う事です。 例えば、お金を節約してその分欲望の追求に散財したい人が居たとします。 いくらそんな人でも家を清潔に保ちたい気持ちはあるので、洗剤が必要になりますが、 それは欲望に関する散財とは違う経費なので、可能な限り安く納めたいと考えています。 環境に良くない洗剤は洗浄力も高く、かつ安いですから、そういう洗剤を買って来てあげる事は その人の期待に可能な範囲で応えていると言えます。 でも、環境には良くありません。 そこで、少々高いが環境に良い洗剤を買う事にします。 その人からは疎まれるかもしれませんが、多くの人に貢献しています。 長い目で見ればその人に対しても貢献している事に気づけるはずです。 人の期待はおうおうにして欲望に準拠している事が多く、それに応える必要はなく、 それに応えない事を持って嫌われる事になんら非を感じる必要はありません。 大切なのは「何が大切な事か」をその時その時ちゃんと判断する事です。 知識は勉強によって得られますが、その知識が生きるのは知恵によります。 知恵の無い知識は無意味...どころか有害な場合がほとんどでしょう。 しかし、知恵が働くなら知識は知恵を助け、相互作用でより大きな働きができます。 知恵が働くためには知識は必ずしも必要ありませんが、洞察は絶対必要です。 欲望は往々にして多すぎに用いられますので世も人も荒廃に導きますが、 知恵は世も人も良い状態に導きます。 何が正しく、何が誤りかはその都度異なり、一概に言えるものではない事が多いですから、 一刻一刻いつも洞察と正しさとを求め、判断する事が大切です。 過ぎた欲望を満たされない事によって憤慨している人など捨て置きなさい。 という事ではないでしょうか。