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神を信じる彼と信じない私、霊の存在についての疑問
- クリスチャンの彼は神を信じているが、霊の存在には疑問を持っている。一方、私は神よりも霊を信じやすい。世界には霊の存在を証明するものが多くあるが、神の存在を証明するものはない。彼は「スピリチュアルな何か」が神を見つける手助けになったと話している。
- 彼に質問すると、自分でもよくわからないがスピリチュアルな何かによって神を信じることができたと言っている。私は霊を信じることに疑問を感じているが、彼は神を信じられると話している。
- 私は彼に霊の存在についての疑問を持っているが、単に興味本位で聞いたというだけであり、彼が信じるものには何の疑問もない。私には理解できないが、それが彼の信仰の一部なのだろう。皆さんの意見を聞きたい。
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今のキリスト教は輪廻を否定しているので霊というのも無しとしているからでは? 人が死んで魂の状態で生きるという概念があれば霊も信じるんじゃないですかね。 霊の存在を証明するものって何でしょう? 本当にあるのか? 精神状態での錯覚や幻覚という説もあります。 一方キリスト教の奇跡なんかも同じようなものととらえる事も出来ます。 それぞれ信じている人からすれば証明するものはあると言いますし、信じていない人は存在していないと否定するでしょう。 宗教も霊も科学的に証明されていませんので、どこまで行っても切りが無い論争です。 貴方が理解すべきはキリスト教の歴史と考え方です。 同じキリスト教でも色々な歴史や宗派があります。 キリスト教がどこから派生したものかも知るべきでしょう。 それが彼を理解する一つの手段になるでしょう。
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何かを信じて他人に害をなすのでなければ、 信教の自由が日本にはありますからね。 今回は神様についてはパス。 霊について私見の欠片をご参考までに。 コンピュータ、勿論ご存知ですよね。 心は持たないけど、思考はしていると思います。 ただ、生物の思考が「自分」という内的世界を 持つのに対して、現時点での機械の思考は単に プログラムの上で動く、条件分岐の情報処理の域を 出ていないかも知れません。 主体性が無い、と言った方が私達には判りやすい。 人間の脳もまた、電気化学的な巨大なコンピュータ ですが、余りに構造が複雑すぎて、どの「野」で何を してるか、おおざっぱなモザイク画のように 領域地図がやっとできたかな、辺りまでが漸く 科学が到達できたレベルです。 要するに、人間様はおろか、動物の脳だって 昆虫の脳でさえ、造れと言われても造れない。 動く原理さえ、まだ手探り状態の仮説ばかりです。 でも。 シリコンウェハーの上で動く電子回路であれ、 タンパク質で構成されたシナプス回路であれ、 材料と仕組みがあることには違いありません。 他の質問の回答にも書きましたが、電気信号の 代わりに水を流す・流さないに変えて、回路の 代わりにパイプを張り巡らせて、スイッチの 代わりに水の弁に置き換えると、役に立つか 立たないかは別にして、水コンピュータだって 造れます。 人を信号に、道路を回路に、会社や建物を 素子やデバイスに置き換えて考えれば、 人間に把握できないだけで、都市が思考して いないとも言い切れません。 起承転結といった文法的な思考はしていなくても 刻一刻と雲の形が変わるような、全く別な形の 「思考」を形成している可能性は捨てきれません。 何が言いたいかというと、何かの仕組みと言うものは 材料や媒体が変わっても、その仕組みそのものは 変換・置換が可能だ、ということです。 もう一つは、人間の脳を形成する神経細胞が古代からの 生物の神経系を再現するように胎内で発達するのを見ても 判るように、ハードウェアである脳神経系はDNAの シーケンスの中に、まだ解明されてはいないけれど 生成の順序と発達過程の取捨選択などで「人の脳の 造り方」がコードされている、ということです。 つまり、脳神経それ自体が「こういう訳でこう造った、 こう造り直した」という生命史の設計情報の塊でもある、と いうことです。 三つめに、人の意識が形成される過程というのは、 ある程度の基本機能、PCで言えばOSやドライバを 組み込んだ状態で生まれて来る真っ白な脳ですが、 その白い脳は、周囲の情報を「見て、聞いて、なぞる」 という模倣機能を駆使して、脳の中に自分を取り巻く 世界の「模型」を造りながら成長していきます。 認識した外の世界がモデルとして脳の中に形成されて 行きます。 これに、体の調子が良い、悪い、母親から 愛情を受けた虐待を受けたなどの内的な感覚が組み 合わさったものが、ソフトウェアである人格、という ことになります。 私の私見でしかありませんが、 人の人格という物は、その人が見続けたその人の世界、 そのものだと考えています。 まるで、ピンホールカメラの暗箱の中にぼんやりと さかさまに映る風景のようなもの、その閉じられた系 こそ、「私」という、外界と繋がりながらも切り離された 限定領域・「自我」を感じる仕組みに違いないと考えて いるのです。 命の歴史そのものが設計情報の巨大データベースに なっているDNA。 脳神経系というハードウェアに共通する造り方。 言ってみれば、設計図というより料理のレシピの ように、順番に造っていくと最終形が完成する、 脳の出来方、育ち方。 そして三つめの「内的世界モデル」という、人の 人格であるソフトウェア部分。 この三つが複雑に絡み合い、時間的にも空間的にも 外の世界と連続体を成す、その「一部分」として出来て いるのが人間をはじめとする生物の意識体なんだろう、と。 最初にお話ししたとおり、これらは巨大ではあるが、 生きた情報データベースや途方もないプログラム群でも あります。 しかも、海の海流や大気の対流の様に 非常に流動的で、互いに密接に関連し合いながら 常に変化していく巨大なシステムです。 生き物の個体は、この巨大なシステムの生々流転する 部分であり、生まれてきた故郷も、関わっていく世界も、 消滅していくその先も、全てダイナミックに動き続ける、 目に見えない、というよりも巨大すぎて全体像が全く 掴みようがない、情報としての海と不可分です。 そして、最初の話が繋がるのですが、人の意識という ものが、生きている間はDNAコードの上で動作する 脳神経システムとその内部のドーパミンなどの生理作用と インパルスの複雑精緻なパターンの変化だとしても、 それが世界から隔絶されて脳神経系の中にしか存在 しない、とは考えにくいのです。 最初から終わりまで、世界と繋がりながら連動して 変化していくものだから、です。個体の命、というものは。 生まれる遥か前から・・・遠い古代から、連綿と 自然と、世界と、関わり合いながら様々な個体として 試され、経験された蓄積は、人間にはまだまだ伺い 知ることのできない機序・仕組みによって遺伝子に 反映され、それが進化の原動力そのものでもあったはずです。 だから、僅か数十年の人生を終えて無に帰すように 見える私たちの命も、はるか昔から続いている、そして 有名だろうが無名だろうが一切無関係に、自然と世界と リンクし、相互干渉しながら全体を形成する、途方もない 大きな「システム」の一部だ、と考えた方が様々なことに 説明がつくのです。 人が霊魂と呼ぶもの。ゴーストと呼ぶもの。 それらはこの巨大な情報の海の一滴であり、つかの間の 波形であり、波紋であり、落下中の雨粒のようなものかも 知れません。 人の意識の残滓、或は、記憶の断片が、タンパク質や 脳内パルスパターンだけでは無く、それに影響された、 あたかも凹凸の型やネガポジの様に、或は池に投げた石が 水面に波紋を呼び起こすように、人の脳神経の外側に記された、 意識の反映や手形、のようなものだと考えるならば、 所謂、幽霊というものもあながち非科学的とは言い切れない だろうなと、私は考えているのです。 今も私たちの周りには荷電粒子が飛び交い、電磁波が 様々な情報を載せて飛び交っています。 テレビ、ラジオ、ネット、スマホ。 宇宙から、何万光年もの彼方からも、星の呟きだって 電波として地球に届いています。 電界や磁界という、目に見えない媒体に、そっくりそのまま 人間の泣き顔や笑顔、おしゃべりや歌声、考えたことや 絵画などの作品などが。 それらの情報が、これらの電界と磁界の揺らぎの中に、 実に精緻に描かれ、運ばれ、様々な受信機によって 再現されます。肉眼では見えませんけどね。 人がまだ観測することが出来ないだけで、電磁波を 更に拡張した「場」の考え方、先ほど述べた「システム」の 一側面ですが、そこに人の生が全て、生きとし生けるものの 全ての足跡が、描かれている。 個体は死んでしまったけれども、その個体の膳情報は、 様々な形で手形足跡を世界の「場」に刻み、しかもそれは 様々な「部分」がパーツとして、或は作り直されて、 再び世界のどこかで命として活動している。 故に、個体の死は、その命そのものの消滅では、 あり得ない。 そういうことなのだと、私は考えているのです。 オカルトでもなんでもなく、命は生まれる前から、滅びた後も、 全て、この巨大なシステムと繋がった連続体の一部なのだと。 目に見えるものなど、この世界のほんの一部でしか ないんですものね。
お礼
詳しく書いていただき、どうもありがとうございます。 本当その通りかもしれないです。 目に見えるものなど世界のほんの一部ですね、 新しい視野が生まれました。 ありがとうございました。
- kyo-mogu
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神の存在って自然現象も含めて強い力のイメージです。しかし幽霊は亡くなった人の姿で悪霊とか悪いイメージもある。それを使った小説や劇などもあります。そこで描かれている姿と実際の姿では異なる等も関係するかな。 霊的に強く成れば神扱いされますけどね。 それと宗教的な意味合いで幽霊が居る事は生まれ変わりもという流れも出てきます。死後の世界が無いとすれば幽霊の存在は矛盾します。宗教的に認めないというのもあるかな。 科学的に実証も難しいので無いとするけども、人はやっぱり誰かに頼りたいので神という万能の存在に頼るという事もあるかもしれませんね。 私はどちらも現象としてはあるという立場ですし、親が亡くなったときに不思議な感覚なども体験しているので信じるという立場ですけどね。
お礼
イメージの違いもそうですね、考慮すべきでした。 わたしもどちらも否定はできません。 が、彼のようにいるいないを断定することもできません。 このことはとても難しく、切りが無い論争のようですね。 ご回答ありがとうございました!
- lunatism
- ベストアンサー率33% (197/594)
キリスト教には、幽霊はなく、悪魔と呼ばれます
お礼
そうなんですか?知りませんでした! ご回答ありがとうございました!
≧(´▽`)≦アハハハ・・理解して無い(笑) 神と霊は同じなのに・・・
お礼
そうなんですね。 ありがとうございました!
- yoichi001
- ベストアンサー率32% (328/1007)
カトリックじゃないけど、神様はこの世には存在しないのでは? 神様が自分の分身として、人間達を導く為に遣わしたのがキリストなので、キリストが死んだ後の今の世の中には神は居ない、居ないので存在を証明する事は今はできない。 キリストが残した教えを守っていると、いずれ神様の元にいけるというシステムだから、神の存在を信じる=キリスト教の教えを信じれるかどうかであり、聖書なのど内容に深く共感できるなら、神の存在を信じるって事でしょ。 そしてそのシステムで言うと、神の存在を信じた人は神の元に行けて、信じなかった人は地獄に落ちるわけだから、幽霊という存在は居ないって事で、神は信じるのに霊を信じない彼は、熱心なクリスチャンなら矛盾してない気がするけど。 因みに私は神も霊も信じてない。神様は置いといて、霊は時代毎に流行がある、三角巾でうらめしやで足なし、貞子風な長い黒髪で足あり。マッチョ、デブの幽霊は少ない。う~ん、流行廃りがある幽霊って何?私は見えた「気」がした人の創造っていう風に思う。アフリカでもインドでもゾウはゾウ。遠く離れた場所でも、実在する物は昔から今と変わらぬ形で壁画などに描かれている。
お礼
神様の元に行けるということは、死後の世界は信じているということですよね? だけど、幽霊としてこの世には現れないということですよね? すごく難しいけどだんだんわかってきました。 ありがとうございました。
- k205t
- ベストアンサー率13% (345/2543)
実際に私も神様を見た事がありません。 逆に幽霊の方を何度も見ています。それに発光体も何度も見ています。 私の場合は、逆に神様は人間が作り出したものだと思っています。 日本では、いろんな宗教があります。何百と言った宗教の種類が存在します。 それだけ神様が居ると言う事になります。 キリスト教でもそうです。映画の見過ぎなのかなとも思えます。
お礼
はい、実は私も子供の時に霊を見たことがあるので(とか言うと、信憑性がないと思われる方も多いでしょうが苦笑)絶対いる!と思っています(笑) でも神様は一度も見たことがない、それなのに彼は神はいるが霊はいないと断言する。 なぜ断言できるのか、疑問でした。 私も、人間は神様が作られたもの、よりも神様は人間が作り出した、に賛成です。 早々のご回答ありがとうございました!
- moritaroh
- ベストアンサー率56% (658/1172)
>もちろん神と霊は全く別物であることは理解していますが。 いえ、一緒ですよ。どちらも人が頭の中で考えた認識論的なもので、それらは学問的に理論立てられています。 ですので、ご質問の趣旨としては、神の力を信じるか、霊の力を信じるか、ということへの疑問だと思います。 それぞれの「力」に関しては、科学的な根拠があったりなかったり、心理的に「善きこと」か否かで肯定感や否定感が左右されてしまうので、うやむやですが。 まあ、そういう意味では、彼氏さんも、神の存在と神の力を混同してしまっているのでしょう。特にキリスト教における神はあくまでも史実上では存在していたとされる人であり、その特定の個人が、他の人の想像の域を遥かに超えている力を見せたため、神として崇めれれているのです。 ヨーロッパの教会建築などを考えると、それらを写真で見るだけじゃ何とも思わないですが、建物内部でステンドグラス越しに差し込んでくる光を見たりしちゃうと、昔、テレビもインターネットなかった頃の人間であれば、そういった現象の美しさを「神の力かも」と思ってしまうでしょう。そうやって神の力に似せた空間をつくり、その神にまつわる素晴らしい物語を語り継ぐことで、後の世の人々が、人を「神」としてつくりあげてきたのです。 お分かりの通り私は無心論者なのですが、彼氏さんはおそらく、純粋で美しいものが本当に好きなタイプなのだと思いますし、また、汚れていたり恐怖を抱く存在には、できる限り触れたくない(否定したい)のだと思います。本気でちゃんと勉強しているクリスチャンだったら、まず、霊を否定しないでしょうし。 要するに彼氏さんは、キリスト教的な「父と子と聖霊の御名において…」みたいな祈りは捧げるが、アジア的なアニミズムや「幽霊譚」は信じない、ということです。 いまは流行りのスピリチュアルって言葉でなんでも一緒くたにしてしまいがちですが、思想の背景は、時代や地域性によってさまざま違います。そういうところへの学習をしっかりしないと、質問者さまも彼氏さんもうっかり新興宗教にひっかかったりしちゃいますので、気をつけてください。
お礼
ご回答ありがとうございます! なるほど。理解が深まりました。 本気でちゃんと勉強しているクリスチャンなら霊を否定しないのですね。 私も彼も勉強不足ということで、勉強し直します。 ありがとうございました!
お礼
ご回答ありがとうございました。 どこまでいっても切りが無い論争、まさにおっしゃる通りですね。 信じる人には存在するし、信じない人には存在しない、と考えるしかないのですね。 キリスト教の歴史を探ってみたいと思います。 早々のご回答ありがとうございました!