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孤独とはアートマンの電磁場である
- 《孤独》はアートマン(霊我)の電磁場であり、神秘的な存在である。
- 個は風船の中にあるように見えるが、実際には外に存在し、神秘的な領域に包まれている。
- 死は個が神秘的領域に同一化することを意味している。個の消滅という死に際して、個はすでに神と同一化している可能性がある。
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思いついたので投稿してみます。 語学力はないので、恥をかくことにします。 堕天使で考察が終わるのもなんだからね。 サンスクリット aham asmi ラテン語 ego sum 主語はいらないから asmiとsumを見て、 たとえばラテン語の esseならまだ人称変化する前で、 sumがesseに回帰すれば 一人称の私は消えるけれど、なにかが存在するのだろうか。 esseだけだと、どうなるんだろう。 「私はある」は神。そこから私をなくすとどうなるか? それはともかくネットでサンスクリットだのなんだの書き込みをしているところに 私の孤独があるが、かといってフツーの暮らしでは、そもそもサンスクリットの話なんかでてこないし。 あの人からも手紙の返事も来ないし、ネットでいろんな人に批判されたり、いやみを言われる時点で なんか生活を間違っているよなあ。かといってパーリ語の仏典なんか一生読まなかっただろうしなあ。 それがよかったのかどうなのか。幸せではないよなあ。
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どうぞ安らかにと願いと感謝を込めて念じ申し上げます。 言葉になりません。。
お礼
そうですね。 たとえば ☆☆ (く) 自覚するかどうかを別として ひとは すでにその自然本性において 神なるナゾ――神秘――のもとにある小宇宙である。か? ☆ この命題などは 一般にふつうに すでに受け容れられているのではないか。とさえ思うのですが それほどイッチャッテいますか? こんばんは。ましゅまろ3さん。ご回答をありがとうございます。 あるいはたとえば ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ (こ) 神は神秘でありナゾであるから 雲をつかむような話として《霊》と呼ばれ その名前はいろいろ違っても 同じく神であり霊でありその場である。・・・ (さ) ひとが孤独であるというのは この神の霊をやどした存在としてあることを言っている。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というようなかたちにおいて いわゆる宗教の違いや宗派の差を乗り越えることが出来るのではないか? という方向をめざしています。という魂胆ではあります。 もう一点としては ☆☆ (し) この孤独からのがれようとするのは 人間の目から見ての一人ぼっちにならないように その意味での除け者にならないようにするためのウゴキなのである。 ☆ とまで言うことによって 《一人ぽっち ないし 孤独》という概念の内容を百八十度転換しようと言っています。 《人びとと一般にふつうにまじわること》 これは何らおかしなことではなく いわゆる共生としてとうといことですらあるのですが それはそうとしてしかも 《わたしのわたしたること》 これは むしろ《人の目から見ると 一人ぽっちである有り方》のほうに基礎がある。 こういうぶっ飛びの議論です。 これは どうしてこんなことまで考えたかと言えば いまもカトリック教会では 例のエクソシストが職務として任命されていて 特に若い人びとから求められているといった実態を知ったことからです。精神科医のあつかう範囲を超えて むしろ本人たちから 《悪魔祓い》なる儀式を受けたいという心の状態がある。のだとそうです。 このような《不安と孤独》 この現実を聞かされて みなさんとともに 《孤独》論を一二の質問で模索していて ひとつにここにたどり着きました。まぁ ここでの極論は わたし〔だけ〕が言っているのですけれど。 命綱のない宇宙遊泳のようであっても むしろそのような一人ぼっちなる状態において〔こそ〕 《わたし》の人間としてのチカラは発揮されて来る。――と言おうとしています。 みこころのままに というささやかな人間の心です。どうでしょうかねぇ。
雑談です。難しくて難しくて。 ラテン語の Ego sum qui sum について esse を持ってきて、 わたしはある に対して とにかく ある 不定詞をつかって、 存在者と存在の区別はこういうことかな? とか考えたりしたけど、 スペイン語の例を出されて そういえば サンスクリットで存在を意味するのに √bhū もあるようで、 bhavaで検索すると仏教用語としての「有」もでてきます。 有 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89 本性 (仏教) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%80%A7_(%E4%BB%8F%E6%95%99) √as ある サンスクリットでも、動詞が使い分けられているとしたら、 仏教的に√asのほうの、「ある」はどういう扱いになっているんだろう。
お礼
ふーむ。まづは ご回答をありがとうございます。 《ある。存在する》――《ある。成る》 Skt: √as ・・・・・・ √bhū Russ.: es-t' ・・・・・ byi-t' Lat.: es-se ・・・・・ fu- (完了)/ fut- (未来) Eng.: it is・・・・・・ be ☆ ・・・かなぁ? ロシア語の ブイ-チ( byi-t')は 現在のかたちがありません。それは ィエス-チ( es-t' )が担います。しかも 一般に 《である / がある》というときには この動詞を省略します。 Ya --------studyent. I am a student. Gdye ----- vyi ? Where are you ? ところが ブィ-チの現在形だと思われる ブードゥー( budu ≒ I become )は 未来形をみちびくために用いられます。英語の will のように。 Ya budu tytat'. I will read (books). あまりはっきりしないかと思いますが 《ある》にふたつの種類があるということが 分かって来たようです。 ちなみに 例の《目覚める》の ブーヂーチ( budi-t' )は ブィ-チ / ブードゥーから派生したかと考えられます。ブッダですね。bud-ta 。-ta は 受け身の完了相だと思われます。work---work-ed----work-ed / think----thought------thought の / t, d /。 《本性》には プラクリティとバーワ(スワバーワ)とがあるのですね。バーワは √bhuu つまり be 動詞の系統であろうと。 それとともに √as と √bhū との違いなどについて さらに明らかになるとよいのですが。 けっきょくラテン語も英語も ロシア語と同じように ふたつの系統がこんがらがっているように見えますし。
お礼
ご回答をありがとうございます。 つまり こういうことですか? 孤独なる存在・・・・・・まじわる存在 (根源的孤独)----(社会的不安からの孤独) ____________________ (Skt) as-tum・・・・・・・・as-mi (Lat) es-se・・・・・・・・su-m (Eng) be・・・・・・・・・ I a-m. (不定法)------《われ あり。》 スペイン語では 恒常性を表わす《である ser 》と可変性としての《がある estar 》とを語で区別するようです。 ・ 〔 Yo 〕 soy español = I am Spanish. ・ 〔 Yo 〕 estoy fatigado. = I am tired. ですから もし 女性にお世辞を言おうとして ・ Estas bonita. = You-are 〔 being 〕 pretty. と言うと 《いまこのとき きれいですね。》という意味になってしまう。 ・ Eres bonita. = You-are pretty. と《 ser 》動詞で言わねばならない。 このように考えると 恒常性は 《孤独》であっても ちからづよいとも見られるのかも知れません。 あるいは 人称の活用をする前の不定法のかたちのほうが 自由であるということかも分かりません。 たぶん どちらも重要であるとなるのでしょうが。