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シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

 1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界 (相対・有限)      非経験の場 (絶対・無限)  2. 非経験の場とは 人間の知性という観点からは 《非知》として想定されている。    人間の現実      経験世界 (経験事象)         可知 (可感をふくむ)            既知            未知         不可知 (知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この広い意味での現実を持って生きる。それは言うなれば 《非知》へのあこがれのもとにある。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。《考える》ものである。  5‐1. むろん 《非知》はそれを われわれがおのおのあたかも生まれつき持っていたかのようなあこがれとしてただ受け容れるに過ぎない。《考える・また感じる》を超えているので 《信じる》という言葉で表わす。あこがれの園を《信じない》というのは 《信じないと信じた》ことである。    《わたし》なる人間の知性もしくは霊性      非知     = 信じる:非思考の庭      --------------      可知・不可知= 感じる:感性の原野                 考える:思考の緑野  5‐2. ブッダとなることは 経験行為である。多少は知性がついたという状態である。ところが ブッダター(仏性)あるいはつまりアートマン(霊我)は 非知なのだ。  だから 霊とも言う。だから ただあこがれとして理屈抜きに受け容れるのみである。考えても分かるわけがない。分かるか分からないかが分からない。――そのような非知として想定しているのだから。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引くその補助線である。非知を神とすると その神の霊の依り代なのである。いくら聖なるオシエだと言っても 認識知は 考えるものであって 神としてはお呼びではない。  7. ところが・かくして オシエを神として信じるという場合がある。  7‐1. たとえば非知すなわちふつうに言う神についてそれは 不可知であると見た人がいる。  けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  7‐2. 神は感じるものだというシュウキョウもある。  これは それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。補助線であっても補助線だと知っていながらも その補助線たる神しか神はないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  7‐3. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。  それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または ひとりのわれ)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張る場合。その代理人が みづからを神の補助線だと言い張り その補助線の言うことは 神の言葉であるというタワゴトにまで発展する。ローマ法王が かつてそうであった。  7‐4. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説く恍(とぼ)けたシュウキョウがある。  これは 悪しき無限に落ち入る。《未知》には 答えはない。つねにあたらしい未知が現われる。  そのようなあしき無限に落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。未知も既知もまた不可知もみな われわれが《考え認識すべき経験事象》である。これを信じるとは言わない。    8. これらすべては 神の補助線を神そのものと見なしているからには 単純にみなアポコロキュントーシスであって すっとこどっこいのアホンダラ教である。  9. われわれが顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

みんなの回答

回答No.5

Bragelonneさん、律儀にコメントいただきました。 いろんな宗教がありますが、どんな宗教も個人の内心での奉抱です。 内心の奉抱が欠落しているような信仰というか宗教は信仰でもしゅうきょうでもありません。 個人の内心の奉抱の内容を紡ぎ形成しているのは個人です。 それはあなたの言う《オシエ》の理解、解釈からしています。それは個人の内心の作業です。 これを覗き見、知ることはどんな他人も教祖もなしえません。 この解釈、理解は景気でしかありません。これにより自己のうちに聖なる世界を抱き、決して意識の外に対象化はしていません。ですからあなたのいう補助線でもなく、それを神ともしていません。 どんな素晴らしい教え、宗教であってもそれは一つの内容ではなく、個人の数だけあります。それが所謂る一(いつ)なる多であるということでもありません。ただ、その多も実は同じなんですが、個人個人の持つものであって、多様です。しかし同じなんです。 ≪かぎりある生と能力を省みず 神を人間が勝手に決めており≫ということですが、人という存在をどうとらえるかの問題です。 人は神、創造者の多様な現れであるのが本来であり、そういう深奥なる意識が直感的超意識的に尊崇し見る本源たる自己、これを自己の神とする。 だから鵜呑みではない。 あなたはご自分の論述の展開が主要となっており、ご質問で何かを理解しようということが第二次的です。 そしてあなたとやり取りすることは、あなたの頭の体操の観念の遊びとなりがちです。 時としてご分析に閃きがあるものの、あなたは観念をもてあそんでいる。これは哲学や思索をするものとしては邪道です。 あえて親しいbragelonne さんにその欠点を指摘します。真剣さがない。遊びである。

bragelonne
質問者

お礼

 くわしいご回答をいただきました。ありがとうございます。  一つひとつに即して読んでまいります。  ★ いろんな宗教がありますが、どんな宗教も個人の内心での奉抱です。  ☆ 《個人の内心での奉抱》は 《信仰》と言います。宗教ではありません。  ★ 内心の奉抱が欠落しているような信仰というか宗教は信仰でもしゅうきょうでもありません。  ☆ 宗教は 別です。  ★ 個人の内心の奉抱の内容を紡ぎ形成しているのは個人です。  ☆ 信仰を(細かくは 神を・しかもその名を)えらびこれを心に抱くのは 《わたし》の意志行為です。つまりは 経験的な――かなしいかな 変わり得て移ろいゆかざるを得ない――意志行為ですが その《受け容れて抱いた》ものは 人間とこの世界とを超えています。  意志行為は 《わたし》が自由に考えて(あるいは 理屈抜きで)おこなうものですが もしその選びと抱きの対象が わたしたちの存在を超えているものであるとしたら その《選びや抱き》をおこなわしめたものも ひょっとしたら その超越的な存在のしわざであるかも分かりません。  つまり くだくだと言っていることは こうです。:  ★ 個人の内心の奉抱[・・・]を形成しているのは個人です  ☆ が ひょっとすると その形成の力をあたえその形成することをみちびいているのも 《この世界を超えたところのチカラ》であるかも分からないという点です。  ★ 個人の内心の奉抱の内容を紡〔ぐ〕  ☆ のは われわれ人間ではなく もともと生まれつきそなわったところの・たとえばアートマン(霊我)です。それが 《内容》です。――これは 個人が・人間が紡ぐものでもなければ形成するものでもありません。移ろいゆくことのない真理なのですから。  ★ それはあなたの言う《オシエ》の理解、解釈からしています。それは個人の内心の作業です。  ☆ 《オシエ》の内容は 《個人の内心の奉抱》すなわち信仰とは別物です。  オシエは すでに《なんぢむさぼるなかれ》というふうに人間のことばで書かれたものであり それとしての内容です。  信仰は むさぼることの無きように生きるチカラをあたえてくれるその根源のチカラを心に受け容れ抱くことです。  まったくちがう二つのものです。  神を信じるならば――わたしの我れは我れに還って わたしがわたしであるその自由を得ます その自由にのっとり―― むさぼることも少なくなって行きます。そのような信仰の徒が 一般に社会という人びとの集団のために・つまりそこでのともかくの秩序を保つためにその《むさぼり》問題をひとつの命題として言葉で表現し指し示したのが 《むさぼるなかれ》というオキテであり律法です。  このオキテをオシエとして おまえたちよ 信奉せよと――さも権威を帯びる存在であるかのごとく――説いて聞かせたのが シュウキョウです。  個人と集団。そして 信仰と宗教。これらは まるで違うふたつの別物です。  シュウキョウは オシエをほんとうは考えるものであるのに もはや無条件に考えることなく鵜呑みにせよと 何の権限もないのに説く運動です。支配欲に支配されているからこそ 他人にそのような間違った信仰を植え付けようとするものと考えます。  ★ これを覗き見、知ることはどんな他人も教祖もなしえません。  ☆ 個人の内面におけるアートマン これについて言ったものとして おっしゃるとおりです。  ★ この解釈、理解は景気でしかありません。  ☆ つまり そのような《景気》――あるいは 景気づけでしょうか――でしかないのに それでもオシエの解釈をまたオシエとして説くのが シュウキョウです。  ★ これにより自己のうちに聖なる世界を抱き、決して意識の外に対象化はしていません。ですからあなたのいう補助線でもなく、それを神ともしていません。  ☆ 《内面における非思考の庭――信仰の動態をそう呼びます――》は 《聖なる世界》であるかどうかも人間には分からないというのが 信仰の徒であると思います。  そうしてこの《非思考の庭》を《決して意識の外に対象化しない》のであれば それは いつまでも信仰の動態であると思います。そしてそのときには 信仰はあっても いかなる宗教も関係していません。何らオシエはありません。  《非思考の庭》は 神を受け容れ抱いている心の庭ですから いちおう《神を知るための補助線》ではあります。  ★ どんな素晴らしい教え、宗教であってもそれは一つの内容ではなく、個人の数だけあります。  ☆ それは わたしの知ったことではありません。ご勝手にどうぞとお答えするしかありません。つまり いま見てきている信仰なる心の庭は そこには いっさいオシエはありません。《義無きを以って義として》います。ましてや シュウキョウは完全にお呼びではありません。  ★ それが所謂る一(いつ)なる多であるということでもありません。ただ、その多も実は同じなんですが、個人個人の持つものであって、多様です。しかし同じなんです。  ☆ 《非思考――思考に非ず――》ですから 数も数えません。意識しません。《一か多か》という意識からも思考からも《われ――あるいはむしろアートマンなるわれ――》は自由です。  《一は多なり》とかいうふうにもまとめません。神本体は 人間が意識し得ませんから。多様性をもった同一性ないし同種性というのは あくまでこの経験世界における現象であると考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ≪かぎりある生と能力を省みず 神を人間が勝手に決めており≫ということですが、人という存在をどうとらえるかの問題です。  人は神、創造者の多様な現れであるのが本来であり、そういう深奥なる意識が直感的超意識的に尊崇し見る本源たる自己、これを自己の神とする。  だから鵜呑みではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ いえ。《非知》なる神はこれをわたしたちは 鵜呑みにするものとわたしは受け取っています。《非思考》ゆえ。ですから 神をわたしたち人間が決めてはいません。受け容れているのみなのですから。  ★ あなたはご自分の論述の展開が主要となっており、ご質問で何かを理解しようということが第二次的です。  ☆ もしそういうふうに見られたとするなら それにはワケがあります。  《信仰とそれにちなんで人間が勝手につくったシュウキョウ》について 何も知らない質疑応答が多すぎます。それゆえ 《わたしはご自分の論述の展開が主要となっており》ます。  いづれにしましても 質問の趣旨説明に対して 自由な批判をたまわればさいわいですし そのような労をみなさんには取っていただきたい。そのための質疑応答です。  わたしの《論述》には何の批判も示さずに 自分たちの意見についてもっと理解してくれというのは 虫がよすぎます。ゆにこ氏の質問にもしっかりと回答しています。ところが 理解を示さないのは――そして 何の批判をも成し得ていないのは―― みなさんのほうではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  そしてあなたとやり取りすることは、あなたの頭の体操の観念の遊びとなりがちです。  時としてご分析に閃きがあるものの、あなたは観念をもてあそんでいる。これは哲学や思索をするものとしては邪道です。  あえて親しいbragelonne さんにその欠点を指摘します。真剣さがない。遊びである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 理解力が及ばないなら はっきりそう述べればよい。もっとくわしく説明してくれと言えばよい。いくらでも説明しますし 説明して来ています。

回答No.4

bragelonne さん、 相変わらず大論文のご質問ね。 宗教:不可知、非価値、未可知。 そして補助線とやらの境界線。 まぁbragelonne さんはbragelonne さんでよろしいんでしょう。 そんなもんですが、宗教ってbragelonne さんが思うことで終始していませんよ。 でもbragelonne さんの限りではそれでいいんですね。 その通りです。でもそうではないんです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ひとつに絞れば 《オシエ》の問題です。オシエをどう扱うかです。  これを――神を知るための補助線であり 補助線でしかないのに――神と見做し そして信じる(そのまま無条件に是として受け容れる)。このことが もしシュウキョウであるとすれば アウトです。  かぎりある生と能力を省みず 神を人間が勝手に決めており 信じるものではないものを信じている。  神でないものを神とし 考えるべきオシエ(人間の自己表現)を考えずに鵜呑みにする(信じる)ゆえです。  ご回答をありがとうございます。

回答No.3

宗教がなければ精神的に荒廃して、社会性が劣化する 自己チューな文化を有する国は多い。 「必要悪」を短絡的に否定はできない。 それは「お金(自己チューな人間を操る“馬車馬の目の前の ニンジン”)」も同じ事。 人は寒くなくても、パンツをはかなければ欲情する生き物 なのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「必要悪」を短絡的に否定はできない。  ☆ 《必要悪》と言うのであれば 短絡的にも長絡的にも《否定している》のですよ。これこそ 《認識》の問題です。《必要性》が残っている場合にこそ 《認識論》〔としての実践〕が必要になります。  ★ 人は寒くなくても、パンツをはかなければ欲情する生き物なのだ。  ☆ それは それこそ 《必要悪》についてのしっかりとした《認識》が足りないときに起きる現象でしょう。  

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.2

自らの屁理屈に凝り固まっているのは、誰が見ても分かる。 どちらかと言うと病院で診断を受けるべきであろう。 いちばんのツッコミどころは、宗教に対する定義づけが甘すぎるという事です。 まあ、鳩山や福島瑞穂が路地裏で独り言をつぶやいているようなもんですな。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。それは わるかったね。

回答No.1

霊体離脱と一般にいわれる処方と同質の観念世界への入場を果たすと、その観念世界は、現実世界で五感を確認するのとまったく変わらない実感を伴うよ。 その神の世で、自らが化身した精霊セレビィとなって同じポケモン仲間と遊んでいる。 これは、君達には私の一人遊びだと言っておかなければならないな。 観念世界でも、他者の意思を確認できるよ。 一人遊びでも、人形遊びじゃない。 世界で遊ぶんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 霊体離脱と一般にいわれる処方  ☆ わたしはこれを議論するほど 物好きではありません。  ★ 観念世界  ☆ これは 現実のモノゴトからは一たん切り離された言葉=概念 の世界 つまりは 一般に想像の世界のことです。何も特別な世界ではありません。  そのほかの文章は 哲学の内容としてわたしには 通用しません。

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