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ヒラメキは どこから来るのか?

 直感また直観と呼ばれるヒラメキは:  (あ) それまでの・あくまで人間の人間によるいとなみとしての思惟や行動が蓄積された記憶の中からであるか。  (い) いや 経験事象――世界を知覚し認識し加工する感性や理性にかかわる領域――を超えた場とチカラがかかわっているとしか考えられないか。  言いかえると:    (あ) 経験世界における出来事であるに過ぎないか。  (い) いや 経験世界を超えたところから〔と思われる〕か。  

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回答No.13

あなたの回答にいちいち反論するのは面倒くさいので、いくつか気が付いたことを参考までに回答します。 「重力について」 物体に重さがあり、それが落下することは古代から観察によって知られていました。 問題は、なぜ落下するのか、なんです。 それが分からない。 古代ギリシャには世界は4つの層からなり、下から土、その上に水、その上に空気、その上に炎、からなるものと思われていました。 そして大地の上には恒星天球というドーム状の天蓋が覆っており、その天球の真ん中には太陽があり、その周りを星々が取り囲み、そのドームは1日に1回地球の上を回転していると思われていました。 そして恒星天球の上は神々の住む世界だと考えられていました。 天上の世界と地上の世界は別世界で、その運動は天の世界は永遠の運動、地上の世界は静止しているのが本来で、運動は例外で、物体は強制力なしには動かないとみられていました。 そして石のように重い物体は本来のトポス(場所)が大地にあるから、上に投げられた石は本来のトポスに帰ろうとして落下し、地上に至って静止し、羽根のように軽い物体は本来のトポスが空気にあるから、上昇しようとすると考えられていました。 上に投げられた物体は空気の中の「媒質」によって、物体に次々に運動を伝えて、リレーしてゆくものと考えられ、放物線を描くが、その勢いが衰えるので、円を描いて地上に落下してゆくと考えられていました。 したがって、アリストテレスは「真空」の存在を否定しました。 「真空」では物体は運動ができない、と。 このアリストテレスの「自然学」の運動論は自然の観察と一致し、それをうまく説明するものだったので、17世紀まで基本的に正しいものとして信じられてきました。 17世紀の「科学革命」と言われるものは、このアリストテレスの天体論と「自然学」の運動論をひっくり返したので、ガリレオが「神の作った自然という書物は数学の言語によって書かれている」と言ったようにルネサンスの数学思想を自然に適用して、それまでの自然観・天体観をひっくり返すものでした。 しかし、ガリレオも、ケプラーも、運動というものは円運動が基本と考えていて、しかもガリレオも、デカルトも「真空」というものを否定していて、「真空」の存在が発見されたのは彼らの後のボイルとかパスカルを待たねばなりませんでした。 デカルトは哲学者である前に、何よりも数学者・自然学者であり、しかも彼は解析幾何学の創始者です。 デカルトは世界を質的な心と空間的な身体とに分離し、空間から質的なものを排除することで、アリストテレスのいう四層からなる空間を否定し、地上の空間も天上の空間も、差別のない一様なものと考え、みずからの解析幾何学を適用して自然のメカニズムを解明してゆきました。 アリストテレスは地上の空間と天上の空間は別で、別の法則によって運行していると考えていましたが、デカルトによって初めて、地上も、天上も、等しく数学的に考えられるものとしました。 こうしてデカルトはニュートンの古典力学の地ならしをしたわけです。 デカルトは言います、 「アリストテレスは物体は静止が本来だと言ったが、逆であって運動しているのが本来であり、静止は例外である。物体は、それを妨げるものがなければ永遠に直線的に運動を続ける」と。 こうしてデカルトはガリレオやケプラーが円運動が基本だというのを否定し、運動は直線運動が基本であり、円運動は直線運動に解析できるのであり、しかも物体は運動しているのが本来だということで、「慣性の法則」を発見しました。 デカルトは、それを実験によって知ったのではなく、数学によって、それを証明したのでした。 「慣性の法則」は「真空」がないと実験できませんが、ガリレオも、デカルトも「真空」の存在を否定していたので、実験ができませんでした。 ガリレオは有名な「ピサの斜塔」から石と羽根を同時に手を放して実験し、「落体の法則」を発見しましたが、しかし、なぜ重いものが落下するのかについては分かりませんでした。 それが解明されるには17世紀の末のニュートンを待たねばなりませんでした。 単に物体が重いと分かっていただけでは、重力の発見にはつながらなかったのです。 それを発見するには「飛躍」が必要でした。 「ヒラメキはどこから来るのか?」 この問題は、これまでさんざん述べてきましたように、私は唯物論、あなたは唯心論・観念論で、まったく考え方が違うので、議論にはならないと思います。 「どこから来るのか?」という問いは、ワナであって、あなたはそこから「非経験の庭」とか「非経験の場」というのに議論を持って行きたいという企みがミエミエで、私はそのワナにはまりたくありません。 たぶんあなたも、私も思考というものが実体的に存在するものではなく、「機能」だということでは、共通していると思いますが、私は思考が何の「機能」かといえば、脳の「機能」だと考えています。 そして脳は神経・ニューロンと化学物質・シナプスの膨大なニューラル・ネットワークと考え、心というのは刺激・インプットと反応・アウトプットを中継し、変換する装置だと考えていますので、脳にはどこにも理性だとか、精神だとか、私というものは存在しないと思っています。 心とは、その脳の活動に伴う随伴現象とか、派生体です。 デカルトの心身二元論は、すでに同時代のドイツの皇女エリザベートからの書簡の質問で、心と身体が相互作用するためには接点とか接触面がある必要がありますが、いったい非・物質である心と物質である身体がどのようにして接点があり、接触しているのでしょうか、と問われ、困惑したデカルトは脳の前頭葉の松果腺で心と身体は接触しています、と答え失笑を買いました。 さらに、18世紀末に、カントの「純粋理性批判」の弁証論の「実体論的誤謬推理の批判」で、デカルトの心が実体だとする考えが完膚なきまでに論破されると、以後、デカルトの心身二元論は維持できなくなり、今では誰ひとり、デカルトの心身二元論を正しいという哲学者はいなくなりました。 現代のアメリカの「心の哲学」のデネット、チャーマーズという哲学者にとって、心というのは脳という物質的なものに基盤を置く、「機能」だと考えられています。 脳状態に対応する心的状態があり、それが心だと考えられています。 これが現在の私の心に対する考えであり、それが正しいものと考えています。 だから最初に申しあげたように精神というものは存在せず、それは概念の構成物だと申し上げております。 しかも心にしても、それは存在するものではなく、脳にもなく、どこにもあらず、「どこにも由来する」ものではないと思っています。 それは「ヒラメキ」も同じです。 あなたの「ヒラメキはどこに由来するか?」という質問はワナだから、私はあなたのワナにはまりたくありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうむ。講義に向いていますね。  ご回答をありがとうございます。  講義だとかあるいは これこれはそもそもどういう謂われがあって一般にどう捉えられているのか――つまり 百科事典の解説ですね――には とんとわたしは向いていません。百科事典を講義と同じ列に持って来ると 嫌な顔をするかも分かりませんが まぁ そういう対比です。  デカルトって そんなに偉かったなぁ?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   「ヒラメキはどこから来るのか?」  この問題は、これまでさんざん述べてきましたように、私は唯物論、あなたは唯心論・観念論で、まったく考え方が違うので、議論にはならないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ わたしは 実存思想ですよ。本質には実存が先立つと思っていますから。唯物論も唯心論もそういう本質論の系譜は採りません。  ★ 「どこから来るのか?」という問いは、ワナであって、あなたはそこから「非経験の庭」とか「非経験の場」というのに議論を持って行きたいという企みがミエミエで、私はそのワナにはまりたくありません。  ☆ まぁ 質問趣旨を書いてから 確かに誘導尋問みたいだとは思いましたが でもよく考えてみると ねらいは そうでもないんですよ。  やはり《ヒラメキを すべて人間の努力と能力の範囲内に閉じ込める》思想 これはおかしいと言いたかった。   《人間のみ主義》の思想に異を唱えることです。《飛躍》などは一切ないという考え方を 根底からゆるがすこと。これが ねらいです。  心の場所は どこか? これは どうでもよいと思いますね。言いかえると 存在の全部 人格の全体です。そして それが《わたし》でもあります。  (わたしは 心か? 心は わたしか?――いえいえ。そうではなく 《存在・人格》が《わたし》です。そこに《心》は――どうしても場所を決めろというのなら―― 場所を持つのだと言っています)。  (《わたしなる存在 人格なるわたし》に 心は場所を持つと言いましたが そのハタラキを起こしているのは とうぜんのごとく 脳の神経組織でしょう。しかし そのように一つの部位に特定して 心の場所だとはあまり見たくはないですね。だって わたしなる――心的現象をともなって動く――存在は やはり身と心との全体として捉えてなんぼの世界だと思うからです)。  デカルトが ニュートンの力学を準備したのですか? これが引っかかっています。

bragelonne
質問者

補足

 《飛躍》に一票と行きましょうか。

その他の回答 (12)

  • 783KAITOU
  • ベストアンサー率43% (1758/4022)
回答No.2

(あ)過去の認知、認識の記憶と現実の思惟がふれあったとき。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    (あ)ですか。  それについては No.1のやり取りで 次のように応答したところですが どうでしょう?  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  すなわち問い返しになりますが:  あたらしい理論や定理は それまでの《経験の蓄積》の中にあったものでしょうか?  ヒラメキは 歴史の中になかった内容にかかわるのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.1

  経験の無いところにひらめきはありえない

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですか。  それについては こう考えます。すなわち問い返しになりますが:  あたらしい理論や定理は それまでの《経験の蓄積》の中にあったものでしょうか?  ヒラメキは 歴史の中になかった内容にかかわるのではないでしょうか?

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