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「直観」と「直感」の違いは?その意味とは?
- 「直観」という言葉は哲学でよく使われますが、「直感」という言葉はあまり使われません。
- 「直観」は二つの意味で使われます。一つは、現に目の前にあるものについての知識を指し、もう一つは、論証的な認識に限定されない知識を意味します。
- 一方、「直感」という言葉は、哲学ではあまり使われませんが、普段の会話では感覚的な直感や勘を指す場合に使われます。
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たしかに、おっしゃるとおり「直感」は「勘」と同じような意味で使う日常語で、哲学用語として使うことは、ふつうないように思いますが、小学館の『日本国語大辞典』で「直感」の項を引くと、 >説明や証明をまたないで、直ちに物事の真相を心で感じ取ること。直観。 とあり、「直観」の同義語とされていますから、そのfrauさんのいうことも間違いとはいえません。 あげられてる用例からも、本来、哲学的な意味合いで使うことばだったことはたしかなようです。 >*悪魔〔1903〕〈国木田独歩〉八「爾の生命其者の存在を直感(チョクカン)せよ」 >*こゝろ〔1914〕〈夏目漱石〉上・六「然し其私丈には此直感(チョクカン)が後になって事実の上に証拠立てられたのだから」
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- frau
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あっ、 『ヤフーの知恵袋で嫌われているBainiao56さんが、このたびOKウェイブに公園 デビューしました。 人の心に暗い闇を抱えていると、それが他人にも暗い闇を伝染する...』 の人か(笑) 削除されてもスレや回答しまくっているやっかいな人ですね。
- ノーバン(@nobound)
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よくお笑いの人が、頭の回転が早いと言われますが、その場合の頭の回転とは、直感力のことで、同様に、東大生が頭の回転が早いと言われる時の頭の回転とは、直観力のことのような気がします。どちらも頭がいいということでは同じですが、たぶん 使っている脳の領域が異なっているかどうかは、脳科学などで解明されるのでしょうか? そもそも直観力が頭の回転だとすると、頭が回転するとはどういうことかもよく解らない日本語表現ですね。思考が目まぐるしく動くということでしょうか?対照的に思考停止という言葉もありますが。
補足
ありがとうございます。 「使っている脳の領域が異なっている」とは、「左脳」が「直観」で、「右脳」が「直感」ではないか、ということですか? それとも逆だということですか? さあ、どうですかねえ。 私は脳科学に詳しくないので、ちょっとお答えできません。 それに「頭を回転」させたら、目が回って、「直感」どころではなくなると思います。 東大生の場合は「直観」で、私たちバカは「直感」ですか? 差別していません? 「思考が目まぐるしく動いたら」思考なんてできないと思いますし、対照的に「思考停止したら」それこそ何も考えられないと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★(No.4補足欄) ~~~~~~~~~~~ (あ) 感覚器官(五官)を経由しないものが「直感」で、 (い) 感覚器官(五官)を経由するのが「直観」ということ。 (う) 例外はあるとしても、それが基本ということですネ? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (う)は 一般論としての例に漏れることなく つうじょうそう言えるものと思います。 (というよりは ヒラメキは いったいどこから現われるのかが 検証しうるかたちでは分からないと思われ その限りで 推測による議論になっています。その関係で ≪原則と例外≫といったことがらも あいまいです)。 以下 (あ)(い)について 重箱の隅をつっつきます。 (え) ヒラメキは 言葉≒概念をそのかけらとして帯びているとしてもほとんどは イメージのごとく・また雲をつかむがごとく あいまいな何かです。 (お) ただし 言葉≒概念をそのかけらとしてでも帯びているとすれば それはすでに――何らかのかたちで経験的な事態であることにおいて 感覚(五感)の経由をも排除し得ないと同時に―― 概念としての思考にも手が届いている状態にある・・・と思われます。 (か) そのあと とうぜんのごとくそのヒラメキ内容は 理性のもとにゆだねられ思考され推論の道具としても使われて行きます。 (き) 特徴的なこととして 直観なるヒラメキは この推論のために用いられるというとき ちょうどミッシング・リンクのごとくその欠けていて探し求めていた何かが見つかったという事態が挙げられるものと思います。 (く) あらためてまとめます。: i 直感なるヒラメキ一般は 混沌としたイメージのごとく現われる。 ii ただし その雲をつかむかのようなイメージの内に 経験的・具体的な知覚としての内容をも得ることがあるし さらには何らかの言葉もが得られていることがある。 iii 言いかえると ヒラメキも 身体の五感とかかわりを持つと思われ 言葉を得るという限りで思考にもつながる段階に入っている。 iv ヒラメキと五感とのかかわりは 身体の機能として〔のみ〕であって つうじょうの知覚(感性)が ≪感じる対象と感じることおよび感じる器官が互いにそれぞれ対応している≫かたちであるのとは違う。五感と直感とは 別である。 v 直感=ヒラメキは 言わば身体の五感を超えている。 vi すなわち イメージのようなヒラメキ内容は 視覚像・聴覚像・触覚像・味覚像・嗅覚像とは 基本的に別である。または――イメージであるかぎりでは たとえば視覚像でありうるかも知れないとすれば 細かく規定することにすると―― その出どころが違うのだと考えられる。 vii 五感は あくまでこの経験世界に根ざしている。直感は あたかもその世界を超えている。つまり 直観じたいは 経験事象でありつつ その源泉がどうも別であると推し量られる。 このように考えます。
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
frauですけど、議題はともかく、個人IDを載せる必要はあったのでしょうか? あまり気分よくないですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
1. ヒラメキが 直感です。すべての直感は ヒラメキです。 2. 多少とも世界観の構築に寄与するヒラメキ=直感は 特に直観と呼ぶ。こういう区別だと考えます。 3. 直感は 知覚・感覚ないし感性とは 別です。一般に知覚は すでにある何らかの対象に接して起きる五感です。 4. ただし 直感=ヒラメキも 言葉や概念などを含む何らかの対象に接して起きることがあります。ありますが これは その対象の知覚をとおしてその対象そのことの認識に到る場合とは別だということになります。 5. つまり 風景や誰かの発言に接して直感=ヒラメキが起きたというときには その風景や発言の内容とは別のことがらが 感じられ想起されていることになります。 6. ヒラメキ=直感をわざわざ インスピレーション=霊感という場合があります。これは 直感の源泉が 必ずしもこの時空間における経験事物ではないと思われる(推測される)ことにちなんでのことです。 7. ★ アンセルムス:一つは、直観的認識は、現に目の前にあるものについての知識という意味。 ☆ これは (3)の知覚〔から悟性をつうじての認識〕のことです。 8. ★ もう一つは、いかなる直観的な認識も先行する認識に限定されていない、論証的な認識の反対という意味。 ☆ これは (4)(5)の説明に対応すると考えられます。ただし 後半の≪論証的な認識≫という推論の作業は ヒラメキ=直感そしてこの場合には特に直観を得たあと 明らかに≪思考≫をとおしておこなわれることです。 9. ★ カントが・・・要するに推論によらない知識を「直観」と言っていました。 ☆ そのものを得たあとそこから一定の理論をみちびくという意味で その最初のヒラメキを直観と言うのだと思います。 10. ★ そしてカントは感覚を「感性的直観」といい、そして時間・空間を非感性的「純粋直観」と言って直観的に知られると言っていました。 ☆ これは ≪感覚≫一般としての身の五感は 感性的直観とは言わない・言う必要がないと考えます。身の感覚は つねにものごととの関係において直接的です。 11. 直感=ヒラメキ=そして直観は つねに――その源泉があらぬところから来ると見られているかぎりで―― 純粋直観です。 12. ヒラメキとして得られたもの(こと)は 時空間における経験事象としてですが それでもたしかにその源泉は≪非思考かつ非感性≫と呼びたくなるほど あらぬところにあると感じられそう捉えられていると思います。
補足
ありがとうございます。 「直感」はヒラメキですか? 霊感ということはオカルト、あるいは宗教的「啓示」ですネ? 道理で哲学で「直感」という言葉を使わないか、よく分かります。 感覚器官(五官)を経由しないものが「直感」で、感覚器官(五官)を経由するのが「直観」ということ。 例外はあるとしても、それが基本ということですネ? パースは「直観」といい「直感」と言い、何となくそんな感じがする、という以上のことは言っていない、と言って、「直観主義批判」を述べており、すべては推論だと言っています。 確かにパースは論理学者・数学者なので、「直観」といい「直感」という曖昧な言い方を嫌うのもよく分かります。 そしてパースは、「直観」に対して、こうも言っています 「直観は推論の前提にはなるが、結論にはならない。物事を直観することと、そうした直観がはたして本当の直観であるかということを直観的に知るということとは、明らかに別のことである。ある認識が他の認識によって限定されるのか、それとも心の外の事物によって限定されるのかということは、その認識からは決定できない」と。 つまり、「直観」は、それを自分がそういう能力を上回っていることを直観的に知ることはできない、単にそう「感じられる」と言っているだけで、もし持っていることを証明しようとしたら、無限背進に陥る、ということ。 したがって「直観」は「直感」というようなヒラメキを前提するとは言えない、それを証明できない、ということです。
#2です。 「直感」、「直観」言葉の意味や 使い方のちがいではなく、 その「直感」と「直観」、二つが 同じことなら、それはどこから生じるんでしょうか。 それが分かりません。 哲学用語が分からなくて もうギリギリです。うまく説明できなくて ごめんなさい。
補足
ありがとうございます。 私も「直観」とか「直感」という言葉をよく聞きますが、そのような考えがどこから来るのか、正直よく分かりません。 「理性と直観」と、対比して使われています。 だから理性の反対が「直観」ということは分かります。 理性とは推論の能力のこと、だからその反対は推論によらない能力のこと、直接にそれを知ること。 言葉とか、観念とか、その種のものを間に挟まず、直接知ること、それが「直観」という意味だと思いますが、どうやったら言葉を介せず、観念を通さず、そのものを直接知ることができるのか、ということだと思います。 問題はそのような能力を人間が持っているのかどうか、ということだと思います。 パースは「ある認識が推論によって得られた知識なのか、それとも推論によらず直接得られた知識なのか、それをその認識だけからは決定できない」と言っています。 たとえば、あなたが、「富士山がそこにある」という認識を持ったとしましょう。 その認識は推論によるものなのか、それとも推論によらない直観によるものなのか、その区別ができるか、ということです。 目で見て、富士山があるのを認識するのだから、それは推論によるのではなく、直観によってそれを知るのだ、とたいていは考えると思います。 でも、そうでしょうか? 目で見て、それが脳に伝わり、脳で、これは富士山なのではないか、周りの状況から推論して、これはきっと富士山に違いない、という場合でもあるのではないでしょうか? そうなると理性で判断したのか、それとも直観によって判断したのか、ひじょうにあいまいだ、という気がします。
>直感の違い、その差って何ですか?」 そして、そもそも「直観」って何ですか? 哲学から外れた回答になりますが、 「感」、 嫌悪感、虚無感、 「感性」や「感受性」。 Koosakaさんの回答を読んでると 人間らしい人だなって親近感を覚えます。 ですがそれは直感的なものです。 価値観や倫理観、人生観に 「感」、つかいませんね。 >直観か、だったらそれ以上追及してもしようがないな」となります そう思います。 翻訳者って本当に大変だと思います。 一つの言葉にたくさん意味があったり、 単体では成り立たない言葉の意味は 自由に解釈していいと思います。
補足
「直感」というのは、哲学でいう「直観」を俗に言ったもので、「第六感」とか「勘」というような「ひらめき」のことだと思います。 競馬とか、花札とか、賭け事に「ヤマ勘」という言い方もします。 何となくそんな感じ、漠然とそんな感じがする、というあいまいな事柄に良く使います。 でも哲学は、そういうあいまいな言い方が嫌いだから、「直感」なんて言うのは嫌って、「直観」と言っています。 でも、「直観」という言い方も、あいまいである点では、何ら変わりません。 ベルグソンは「直観」という言葉を良く使いますが、彼は「運動だとか純粋持続のような動くものは知性をもってしては知ることができない。知性は固定したもの、変化しないものは認識できるが、運動するもの変化するものは認識できない。それは直観の役目である。直観とは、運動するもの、持続するものの中に身を入れてそれを知ることができるからである」と言っています。 しかし、運動するもの、持続するものの中に身をどうやって入れたらよいのか、それを一切説明しません。 だから、直観といっても、私には何だか分かりません。 ベルグソンに詳しい人がいたら、ベルグソンのいう「直観」がどういう意味か聞きたいくらいです。 また、カントは同じく「直観」という言葉を良く使います。 感覚のことを感性的直観と言い、時間・空間を純粋直観と言っています。 推論ではないという意味で、直接知ることができるという意味で。 確かに感覚は疑うことができないし、時間・空間はその感覚の前提だから、同じように疑うことができないという意味で、「直観」というのか? でも、すでに申し上げているように、「直観によって知られる」と言われると、どうしようもない、文句が言えない、というところがあります。 このように「直観」といっても「直感」といっても、あいまいな点が避けられません。なんだか分からない。
補足
ありがとうございます。 確かに仰るとおり、「直観」は哲学で使い、「直感」は文学などで使うという違いがあります。 そしてパースは「直観主義の批判」という論文で、「直観」であろうと「直感」であろうと、「私たちがそう言った能力を持っているという現実的な証拠はない。単にそう<感じられる>と言っているだけである。換言すれば、私たちが直観を持っていることを直観によって知っているというような証明は、あらかじめ証明すべきことを前提にしているのだ」と言っています。 つまり私たちが直観を持っていることと、それが本当に直観であることを直観で知ることは別の事柄である、と。 そしてパースはデカルトの、そしてカントの「直観」を実際は推論であると言って、批判しています。 「直観」と言っているが、推論である、そもそも人間には「直観」という能力は備わっていない、と。