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渡来人や遣隋使はどうやって言葉を覚えたの?
歴史の授業で 渡来人が来て仏教を広めただの 進んだ文化や学問を取り入れるために遣隋使をおくった とありますが この人たち ことばはどうしてたんですか? すごく簡単に 隋や唐に行って とか唐から来日して と授業は進みますが ことばの壁の事はあまり先生も触れません 学校に5年いる英語の先生はいまでも 日本語あんまりうまくないのに すごいなと思いました 昔の人はどうやって外国語を覚えたのですか? 今私は中1ですが 英語を学ぶのに スマホやDS使って勉強してもたいして上達しないです....
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- fumkum
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*倭人が朝鮮半島に移住・居住=鳥越憲三郎は、倭人は朝鮮半島の南部にも居住し、対馬海峡を挟んでその北岸(朝鮮半島南部)と南岸(九州)に分布したとしています。賛否両論がありますが、参考まで。 *百済などでは倭人が官人層に進出する=『日本書紀』の欽明天皇2年(541)7月の条に、百済の官人として「紀臣奈率弥麻沙(きのおみなそつみまさ)」の注に、紀臣が韓人との間の子で、百済に残留して奈率(16階級中の上位6番目の階級)になったと記述しています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%BC%A5%E9%BA%BB%E6%B2%99 *倭人との混血児=『日本書紀』の継体天皇24年(530)9月の条に、朝鮮半島南部の安羅に派遣された近江毛野臣を非難する任那の使いの話の中に、「倭人と任那人の間に生まれた子供の帰属争い」のことが出てきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9F%E7%A5%9E%E6%8E%A2%E6%B9%AF (「日本書紀の記録」の部分) 言語活動には聞く・話す・読む・書くの四活動がありますが、聞く・話すは、幼時に母親などから自然な状態で習得することが言語を一番覚えるとされています。これを母語と言います。日本に集団で、家族で、個人でも移住した漢人などが日本人との間に子供を作ると、その子供は生まれながらにして、二か国語を自然に習得しやすい状態にあることになります。朝鮮語についても同じような集団・家族・個人の移住には同じような状態になる可能性があったと思います。次に、現地に派遣される者は覚えなかればならない環境に置かれることになります。中学校のネイティブ・スピーカーのように日本語がうまくならない人間もいますので、全てが当てはまるわけではないでしょうが、言語を習得する状況・環境に置かれることにより、多言語を習得できる人間が出現することになると思います。 さらに、遣隋使の学問僧として隋に渡った南淵漢人請安・新漢人日文(僧旻)は帰国後学塾を開いたことが知られており、その他の学生・学問僧も、学塾といかないまでも、同じような活動をしただろうと思います。またそれが学生・学問僧として派遣された者の使命でもあります。言語を含め、先進的なあ文物を学習し、それを教えていくシステムもでき始めたとも言えます。 文字の習得が未発達な社会において、源吾を含め文化・文物を伝えていくのは、人間であり、人間は最大のデーターバンクとも言えます。情報・技術は人から人へと伝えられて行くことになります。その中でも聞き・話すという言語活動や技術的なものは、文字が発達しても、人から人への伝達を通じて伝えられる時期が長く続きます。外国語の習得にあたっては、親から子という伝え方もあったでしょうし、師から弟子という伝え方もあったでしょうが、親や師がスマホやDSに変わっても、基本的な構造に変化はありませんが、絶対に覚えなければならないという必死さに違いがあるような気がします。 以上、長くなってごめんなさいね。内容も少し難しいかもしれません。参考程度に。
- fumkum
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遣唐使などには、「訳語生」「新羅訳語生」「奄美訳語生」という役職があり、「訳語生」は唐(中国)語の通訳、「新羅訳語生」は新羅(韓国)語の通訳、「奄美訳語生」は奄美語の通訳です。新羅・奄美語の通訳が遣唐使船に乗船するのは、当時の造船・航海技術では船が難破することが多くあり、その漂流先として新羅・奄美が多いので、新羅・奄美語の通訳が乗船したとされています。このように公式の通訳だけでなく、留学生・留学僧などは個人的に通訳を同行させる者が多くいました。特に公式派遣(私費に乗船する者もいました)の留学生・留学僧は短期で帰国する予定の者が多く、言葉を覚えるより、文物や仏典などを持ち帰ることが優先したためだと思います。現在でも同じような面がありますが、遣唐大使などの使者は、外交関係のことなので、たとえ中国語の会話が可能であっても、正確さや言葉による行き違いを防ぐために、通訳を使用したと思います。ただ、遣隋使の時代から遣唐使の時代になると、日本人にも漢文を作れる人物が増えてきますので、*筆談で唐人と意志を通じさせることはできますので、筆談も利用したと思います。 *訳語=和語・やまと言葉では「おさ」と読み、古代では通訳の意味で使われています。同じ通訳の意味としては「通事」という言葉も使用されます。 *筆談=口で話す代わりに、文字や文章を紙に書いて意志を伝えあうこと。 この遣唐使については、中国の随との交流を通じ、また日本が組織化・官僚化していったために遣唐使派遣の組織が整備されて行った結果の面が高いと思います。 遣唐使の前の、遣隋使については、『日本書紀』の推古天皇14年(607)7月3日に、小野妹子を随に派遣したとありますが、鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳としたと明記しています。翌年、小野妹子は隋の使者である裴世清(はいせいせい)と共に帰国しますが、裴世清の帰国を送るということで、小野妹子を遣隋大使として派遣します。これにも鞍作福利を通訳として同行させたことが記載されています。つまり、遣隋使・遣唐使には通訳が同行しています。 ところで、裴世清の帰国を送る遣唐使には、*学生として倭漢直福因(やまとあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)・高向漢人玄理(たかむくのあやひとげんり)・新漢人大国(いまきのあやひとおおくに)。学問僧として新漢人日文(いまきのあやひとにちもん・後の*僧旻)・南淵漢人請安(みなみぶちのあやひとしょうあん)・志賀漢人慧穏(しかのあやひとえおん)・新漢人広済(いまきのあやひとこうさい)の8名が一緒に派遣されています。 この8名に共通するのが「漢人」という言葉です。「漢人」は「あやひと」と読みますが、渡来系氏族、特に中国系と称する渡来人の通称です。実際にそうであるのかは今となってはわかりませんが、*全員が中国系渡来人(正確には渡来人の子孫)ということになります。 *学生=がくしょう=学問・学識・文物を学ぶための現代で言えば留学生のことです。 *僧旻=そうみん=「旻」は縦書きの「日文」二字を間違えて、「旻」一字とされたとの説があります。 *全員が中国系渡来人(正確には渡来人の子孫)=隋で学習するにための基礎的会話力・文章力を持つ者は、渡来人の家庭に生まれた者しかいなかったとも言えます。 8人の中には、奈羅訳語恵明のように「訳語」が付いている人名もあります。また、鞍作福利も渡来人ですので、この二人に注目すると次のようになります。 鞍作福利は、仏師として有名な法隆寺の釈迦三尊像を作った鞍作止利(くらつくりのとり-鳥とも表記されます)の子とされます。止利の父は鞍作多須奈(くらつくりのたすな)。その父は司馬達等(しんばだっと)とされます。司馬達等は『日本書紀』の雄略天皇の時代に百済が日本に派遣した才伎(てひと=技術者)の鞍部堅貴(くらつくりのけんくい)の一族とされます。この鞍部堅貴と一緒に来日したとされる中に、訳語卯安那(おさみょうあんな)がいます。さて、司馬達等は中国南梁出身か、その子孫との説があります。 奈羅訳語恵明は、秦(はた)氏の一族とされる楢己智(ならのこち)を祖先とするとされます。秦氏は『日本書紀』に、応神天皇の時代に、途中経過はありますが、秦氏の祖先の弓月君が、120県の人々を率いて、百済から日本に渡来したとされます。秦氏はその祖先を秦の始皇帝としています。 さて、中国では後漢の末期(200年頃)から唐の成立前後(600年頃)のおよそ400年間は混乱の時期で、全国規模の農民反乱、統一国家の分裂など、戦乱の時期が続きます。この間にも平和の時代もあるのですが長続きはしません。そのため都市・農村を問わず荒廃し、住民は居住地から離れて各地を転々とする者が出てきます。その一部が中国の支配下にない地にも移動します。現在の難民と似たような状況ですが、他国の支援を得ることは少なく(中国人の技術力目当てに支援する勢力もあります)、自力で生きていかざるを得ない者も多数いました。そのために集団で生活することも多くあったようです。この時期の中国側の史書に、朝鮮半島南部に中国人の集落があったことが書かれています。このような中国人が日本の漢人たちの祖先だという説が有力です。その朝鮮半島も中国の影響力が後退し、400年前後からは高句麗・百済の間に戦争がおこるようになり、500年頃になると新羅が加わるようになります。これに国家形成が遅れた朝鮮半島南部(九州の対岸)地域や日本が絡み、600年頃からは統一を回復した中国の隋・唐王朝による介入も始まります。663年後の白村江の敗戦(百済の完全滅亡)後のことになりますが、百済の民男女400人余りを近江国神崎郡に住まわせ、さらに百済の民男女2000人余りを東国に住まわせ、3年間国費で食料を給付したとあります。その後の高句麗滅亡時には高句麗の難民も日本に流入します。それ以外の時期にも朝鮮半島から多くの人々が日本へ移住してきたとされます。 漢人の祖先も秦氏の記載にあるように、集団で日本に移ってきた者も多いとされます。集団で移住すると、移住先でも集団内では母国語(漢人の場合は中国語)が使用され、日本人(朝鮮にいた頃は朝鮮語)との接触がある者・場合だけ必要に応じて日本語を習い、使用するようになるわけですが、後述するように朝鮮半島にいる頃より一部の者は日本語を習得したのではと思います。日本で子ができ、孫ができると彼らは中国語だけでなく、日本語の環境近くで成長していくので、日本語を使用できる層は厚くなっていくと思われます。結局、中国語・朝鮮語・日本語に堪能な者が出てきますし、*漢字・漢文の使用に優れた者もいたことになります。そのような語学に多能な一族に奈羅訳語氏のように訳語の姓をあたえて、通訳の家系とします。 ところが、言葉は変化しないようで、時間がたつと変化します。渡来人の場合、移住した時(実際上はそれ以前)の中国語で、本国の言葉が変化していることについて行けなくなります。ですから新たに移住した渡来人に取って代わられることになります。遣隋使の通訳に奈羅訳語氏のように訳語の氏を持つ者ではなく、鞍作氏が任命されている背景はこのようなものだったとされます。 *漢字の音読みに呉音・漢音・唐音などの種類があるのは、日本に読み方が伝来した時期・地域の違いが背景にあるとされます。漢音が遣唐使の時代の長安、呉音は漢音以前の読み方。唐音は鎌倉時代以降の中国音とされています。 さて、鞍作福利の曽祖父にあたるとされる司馬達等は、『扶桑略記』という書物に、仏教の公伝(公式に伝来)以前に、草堂をつくって、仏像をまつったと記載されています。司馬達等は一応鞍部堅貴の一族と考えられていますが、新たに移住してきた人物・集団を、以前から日本に在住する渡来人の集団に入れることも行われていました。ですから、司馬達等が日本渡来一世であった可能性もあります。百済で仏教が広まったのは500年前後とされます(仏教が入ったのが350年前後)。ですから、この頃に日本に渡来した百済系の集団もしくは他の集団に、仏教の信仰を持って移住し、日本でも信仰を持ち続けた司馬達等のような人物・集団があった可能性が高くなります。 中国系とされる漢人及び中国語関係の話が中心になりましたが、朝鮮半島については、『日本書紀』を見ると、相互に頻繁に行き来していることが分かります。日本(当時は倭)が朝鮮半島南部の鉄資源を求めて海を渡っていたことは知られた事柄ですが、使者の往復、軍隊の派遣などの記事が『日本書紀』には多数出てきます。また、日本が一方的に渡来人を受け入れただけではなく、*倭人が朝鮮半島に移住・居住する例も見られ、*百済などでは倭人が官人層に進出するなどの例が見られます。また、そのような経歴の人物を日本との交渉に使ったりもしています。それだけでなく、*倭人との混血児の帰属のことが記載されるなど、日本と朝鮮半島の交流は頻繁で、深いものがあったと考えられます。また、日本は、百済などに、学者・技術者(才伎-てひと-手人)の派遣をたびたび要請し、実際に日本に来ています。一部は日本に在留したようですが、帰国したものも多いようです(帰国したので、別の学者・技術者の派遣を要請したりしています)。 長くなってごめんなさいね。次に続きます。
英語の先生は5年も日本にいるのに日本語が上手じゃないんですね。それはきっと、普段日本人とあまり話をしていないからでしょう。英語を話せる外国人や日本人の友達と話をしているせいでしょう。 日本に来る外国人の中で、日本語がすごくうまくなる人たちがいます。それは大相撲の力士、つまりお相撲さんです。今はモンゴル出身の力士がたくさんいますが、彼らは日本に来ると、先輩の日本人力士たちと同じ部屋で生活します。個室などなく、広い部屋で共同生活をするのです。そうすると日本語がどんどん上手になります。 ですから、中国や朝鮮半島から日本にわたってきた人たちも、日本から中国や朝鮮半島に渡った人たちも、そうやって外国の言葉を身につけたのでしょう。周りの人がみんな外国語を話している中で生活すると、次第に話せるようになるのです。 やがて、そういう人が増えてくると、そういう人が先生になって自分の国の言葉を教えるようになったのかもしれません。 例えば遣唐使として中国に渡ることになった人は、中国から日本に渡ってきた人から中国語を学び、ある程度話ができるようになってから船に乗ったのかもしれませんね。 もちろん、才能のある人もいればない人もいますから、日本に来て何年もたつけれどなかなか日本語がうまくならない渡来人、なんてのもいたかもしれません。 ただ、遣唐使や留学生に選ばれるような人は、きっと頭のいい人だったでしょうから、外国の言葉を身につけるのも早かったでしょうね。
日常会話というのは、簡単に収得できるものです。 質問者さんも、一人でアメリカへ旅行に行って半月も旅行すれば通じるようになります。 バックパッカーが世界中を気楽に旅行できるのもこの為です。 文法もへちまもありません。 単語を一つ一つ覚えて文法通りに並べようとするからムチャクチャになります。 お友達の会話を録音して書きとってみてください。 日本語の文法などどこにもありません。 それでも話している時には充分にお互いに通じています。 学校にいる先生はおそらく家に帰るとアシストしてくれる人がいるので上達しないのでしょう。 ただ学校の授業や生徒とのやりとりではキチンと通じていますから、それで充分です。 遣唐使や来日僧にはお経というものがあります。 お経というのは全部漢文即ち中国語で書かれています。 発音が違うだけです。 これをお互いに見ながら教えたり教わったりしますから特に問題はおきません。 遣唐使に選ばれるような人は事前にお経がスラスラ読める程度の勉強はしていました。 古代朝鮮などから渡来した人たちは、集団で来て農耕などの技術を伝えました。 実際に作業をやってみせれば良い訳ですから時間はかかりますが問題はありません。 現在の日本の工場でも外国の方を受け入れて働いてもらっています。 日本人の新人よりは時間がかかりますが、問題はありません。 有名な話があります。 国語辞典などで知られている金田一京助という人が明治時代に北海道のアイヌ語を調べにいきましたが全く通じませんでした。 仕方なくノートに人物画を描いているのをアイヌの子供が覗き込んで、アイヌ語で目だ鼻だと言いだしました。 ここで、出鱈目に線を描いたら、子供のがアイヌ語で「なにこれ」と言いました。 金田一京助はこの一言を憶えて村中アイヌ語で「なにこれ」と言ってあるいて、言葉を集めました。 直ぐに自由に会話ができるようになりました。 大黒屋光太夫という人が江戸時代に難破して当時のロシアに流れ着き、シベリアを横断してモスクワまで行って帰ってきました。 日本を出た時にはロシア語など全く知りませんでした。 モスクワでは女帝エカティリーナに拝謁してロシア語で日本の説明をしました。 女帝の好意で無事日本まで送りとどけられました。 命懸けでシベリアを横断する間に完全にロシア語を収得したということです。 蛇足 言葉というのは毎日聞く話すを繰り返す必要があります。 スマホやDSで思い出して聞くだけでは絶対にダメです。 入試の英語で○を取るのとは全く違います。 もし、親御さんが許してくれるのであれば、夏休みにホームステイをしてみてください。 帰るころには日常会話では何の不便もなくなっているでしょう。 アメリカへ行けば幼稚園の子供でも英語で話しています。
お礼
ありがとうございます これなに? を覚えて 言葉を習得する方法は凄いですね 確かに これなに? で 名詞ならすぐわかりますもんね 英語というか 他国語は私はあまり好きではない感じで 兄が大学で中国語を勉強し始めた時 私も マー の練習から一緒にさせてもらって CDとかも一緒に聞かせてもらっていたのに お兄ちゃんはどんどん上達していきました テストがある から必死だったのでしょうけど.... 必死さは必要ですよね 今中1ですが 2年後に 中学生高校生の部門で ガールスカウトから 世界のスカウトの交流会みたいなのが イギリスであるそうなので それはぜひぜひ参加したいと思っていて 少しだけ英会話を兄に教えてもらったりしています 便利さに負けないよう 時々遣隋使の事を思い出して がんばってみたいです ありがとうございました!
- chiha2525_
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漢字って、あれは外国語なんですよw 漢字の読み書きだけで中国語は何とかなる、中国人どうしでも会話できなくても漢字でなんとかなってた(てる?)らしいです。 なお、中国語は日本語とはまったく別の言語です。朝鮮語と日本語は非常に良く似た言語ですので、他の言語より習得は楽だと言われています。
お礼
ありがとうございます 漢字は便利ですよね 兄の中国語の本をみてなんかわかるーと思ったことありました 朝鮮語がまだ簡単かも とのことですが それでも凄いですよね 歴史で 白村江の戦いで 日本は百済を助けるために兵隊を送り込んだ と習いましたが 戦いどころか ことばわからーーん とならなかったのかなーと思いました ミーティングとか あったのかな.... いろんなこと考えて勉強が脱線してしまうのですが 楽しくゆっくり勉強していきます ありがとうございました
- zkxzm4kz
- ベストアンサー率11% (601/5075)
遣隋使のころですとすでに貿易があったわけですから 博多ー対馬ー朝鮮では人とものの交流があって 商人と船乗りのあいだでは取引の会話は必死で探るし それがつながっていって生活上の会話が成立していたでしょう。 国家間の交流でもいまでいうコーディネーター的な役割を その人たちがしていたと思われます。
お礼
ありがとうございます 生きるための言葉ならなんとか必死になりますよね 今 学年末で飛鳥時代のまとめをしてました 歴史って なんで??みたいな疑問がわいてきてなかなか勉強しにくいですが 定着はちゃんとできているので おもしろいです 聖徳太子もほんとはいなかったかもしれないってきいて 歴史かわるやん....とおもいながら勉強してます ありがとうございます なんとなく納得です ドラえもんの翻訳こんにゃくがあればよかったのに とおもいました
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
朝鮮や中国は日本語に非常に近い言語ですし 元々日本語だってこれらの国の言語から派生しているわけです つまりお互い(唐や隋、日本などの双方)言葉はある程度 しかも短期間で理解できたのでは? しかも言葉が分からなくても 漢字はもっと近いです(中国の漢字と日本の漢字はほぼ一緒) なので漢字で書いて これはこういう事ですよーと説明すれば双方で分かったと思います そうこうしているうちに互いの言語を理解する人も増え 通訳的な事ができるようになったのでしょう 鑑真和尚は来日して1ヶ月ほどで当時の都言葉をほとんど覚えたようです
お礼
ありがとうございます 文法が違うから難しそう....とお兄ちゃんの中国語の勉強をみていておもいました 確かに漢字は面白いです 意味わかる気がする字はたくさんありましたから.... 鑑真さん すごいですね 何度も失敗してやっとのおもいで日本にきた時には失明していたって.... どんなけ日本に仏教を伝えたかったん?と思いました 1ヶ月で言葉マスターするなんてすごいですね プチ情報ありがとうございます テストなんでいろいろ覚えられて楽しいです ゆっくり勉強していきます ありがとうございます
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
映画でみた「おろしや国酔夢譚」という作品で難破した日本人がロシア人から言葉を覚えるシーンがあります。「これは何?」という意味の言葉を異国人が日本人に話しかけて、知ろうとしていた。それでどうもこの言葉を使えば相手の言葉主に単語を覚え、文法は聞いて覚えていったと思います。 それで言葉を覚えていった。 電波少年の番組でも実際に聞いて、文字を覚えて理解した芸人もいました。 とにかく聞く、覚えるという事。有る程度理解出来れば、書物なりに記録する。また他の人にも教えるという事になっていきます。 まず聞く、特にシーンや物と一緒に覚えていくと良いですよ。 本などでは言葉と言うより文字列を覚えるという感じだと思うので、文章で覚えるのも良いですよ。
お礼
ありがとうございます もちろん 知ろう わかろうとする力って必要ですよね 通じなければどーしても困るー!みたいな切迫感 聞く は赤ちゃんがことばを覚える基本ですもんね ありがとうございました。
単純に研究と会話を繰り返したんだとおもいます。 身ぶり手振りで話が通じるのは今も一緒。 また、いつの時代のどの国にもエリート、天才、秀才ってのは いるもんです。 スマホやDSで上達なんかしないよー。 日本の英語教育は英語を「読む」ことに特化している。 特に論文なんかに対して有利だと聞きます。ほんとかは知らないw 反面、会話やコミュニケーションに向く勉強ではない。 ただし、英単語は仕込まれるのでボディランゲージを併用して会話は可能。 会話のための英語は実用的だけど、テストの点数には繋がらない。 あと、翻訳機が着々と進化してるので将来的にいるかどうかが 問われてる。 DSなんかで勉強するより 英語の映画やアニメ。セサミストリートかリトルチャロでも 見る方がよっぽど勉強になると 思います。 がんばれ若人~。
お礼
ありがとうございます 天才ですよね うらやましいです お兄ちゃんは私の年齢ぐらいから英語の本を読んでいったそうです 積み上げて 自分の身長と同じぐらい 本を読むとわかるようになるみたいです いまから始めてみようかなとも思いました セサミストリートってお母さんがみていたそうです 小野妹子も翻訳機があればなーと船に乗ってたかもしれないなーと考えながら テスト勉強してます ありがとうございます
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34517)
今はそれぞれ国家というのができていて、パスポートがないと外国と行き来ができません。しかし、昔は現代に比べればはるかに自由に行ったり来たりはできたんですね。そういう「行き来」があったんですね。 だから例えば昔でも対馬だと九州から来た日本人も住んでいれば、朝鮮半島から来た朝鮮人も住んでいたわけです。そうなると町内には日本語を喋る家族と、朝鮮語を喋る家族がいて、交流するにあたってお互いに言葉を覚えるのです。 オランダに行ったとき、空港のレストランのウェイターの青年は、オランダ語、ドイツ語、英語の他にフランス語も喋れるといってました。どうしてそんなに覚えたのかと聞いたら、オランダ語はオランダですから当然として、オランダとドイツは隣同士なので言葉が似ているのでドイツ系の友達から教えてもらい、フランス語は町内にフランス系の仲がいい友達がいて、その友達から教えてもらったそうです。 また群馬県の太田市だったかどこだかは工場の街で、日系ブラジル人が多く住んでいます。そこの八百屋のおっちゃんはポルトガル語を喋っていました。もちろん、文字は読めないのですが、ブラジル人を相手に八百屋をやっているうちに覚えたのです。商売上必要でしたからね。 質問者さんも若いから、アメリカに1年くらい放り込まれたら自然と英語を喋るようになりますよ。んで、話し言葉は自然には身につきますが、読み書きは習わないと覚えられませんから、それはお寺などで勉強したのです。
お礼
ありがとうございます 生きていくためならなんとか必死に覚えられそうですね 簡単に行ったり来たりするから当時の人は 方言みたいな感覚でいたかもしれないですね 私は関西ですが 沖縄の方言を聞くと 日本語なんだからなんか聞き取れるかも の姿勢で聞こうとしますから そんな感覚だったのかも....ですね 辞書や本も少ない昔なのに すごいーと感心しました ありがとうございます
お礼
ありがとうございます 命がけのことば習得なら 多分必死に勉強しているんでしょうけど なかなか私は英語が好きになれないし 他国のことばを覚える事にすごく抵抗があるみたいで 小さい時 NHKの子どもの英語教室番組で apple~(連桁付き16分音符)みたいにリズムで言ってくれているお姉さんに りー ん ーご!とテレビに向って訂正しているみたいに言っていたとお母さんからききました お母さんは 日本語が大好きなのよね と別に英語を強制することもなかったみたいでしたが やっぱりうまれながらの特性があるなーと正反対のお兄ちゃんをみていて思いました モンゴルからきたお相撲さんが 自分たちの国のことばを話しているのを聞いたことなかったし お顔も日本人みたいだったので 言われて そっかーと思いました。 日本人でもあんまりよくわからない漢字いっぱいの言葉を言ってるところをテレビでは見たことありますが 凄いですよね!! 生活に言葉が絶対必要なら覚えなきゃ お相撲の仕事もできないですもんね.... 英語の先生は いつも 通訳先生とペアで授業をしてくださいます うちの学校に来て5年だと 4月に言われてました わざと日本語をつかわないのかな と思っていたら 難しいねー と言われてるのをききました みんな その先生に話す時はムチャクチャな英語で でも先生はある程度理解してくれ 笑顔で返事してくれます 笑顔がこっちの勇気にもなります きっと遣隋使の人達も 言葉が通じなくても 笑顔でわかりあっていたりしたのかなーと思いました ありがとうございました