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中庸は正しいのか?
色んな宗教や思想で中庸が重んじられ「大きな喜びはよくない」というようなことがよく言われます。 しかし、成功した人間はリスクを踏んだ人間だけです。 目先の小さいリスクを避けて巨大な墓穴を掘っていることはよくある話です。 安定志向の人間は墜ちやすいということが人生の中では多々見られるんですが、本当に中庸というのは正しいのでしょうか?
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kotiya さん おはようございます。 先に私は、この考えは回答したことがありますが、「感情」というものを考察すると、中庸がよい、人はおごり高ぶり高慢になることがありますが、これは聖書にも書いてますが罪です。しかし、自信がなさ過ぎると、卑屈になってしまい、自己主張は出来ない。 中庸という線に「感情」を落ち着かせるのが一番と思いますが、私は人間の感情は波であり、中庸と言う線に保つのは難しい。私も特に「理性」という働きが「感情」に影響すると、高慢になったりして反省します。 また、医学的に健康というものを考えるとこれも中庸が良い。昨今、サプリメントだの酵素だの健康食品が宣伝販売されてますが、取りすぎは良くない。10年くらい前、食用油のリノール酸が心臓病や脳梗塞などの予防に良いと発表されましたが、その後の研究でわかったことは、コレステロールを上げるだったかの研究成果が分かった。 当事の北欧の健康に一番気をつける知識人はリノール酸を取りすぎたため、かえって死を早める事態が起きたそうです。これをインテリジェント・デスと言います。 では、中庸で自分を高めるためにはどうすればよいか。 ずいぶん昔に私はNHKの番組で現在に生きる、ある刀工職人の番組を見ました。 その刀工いわく、刀を造る際、ある日、偶然に、ものすごく出来のいい名刀や、もしくはものすごく出来の悪い刀が出来るそうです。 では、その偶然に出来た名刀を作品を出品し買ってもらえばいいと思いますが、その刀鍛冶職人の答えは否。 自分が見て、ほとんど多くの可でもなく不可でもない平凡な刀を、いかにレベルの高い平凡な刀を造り得るか、そこが職人たる心がけだ。と言ってました。 では、凡人の私も、今日の自分を少しでも高めるため頑張ります。
その他の回答 (8)
- kawasemi60
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中庸が正しいかという意味が理解できません。が・・・ コロンブスは中庸の行動では無かった。と思う・・・ もしコロンブスが中庸ならアメリカは存在しない。 近代史はずいぶんと違った事だろう。 中庸というのを現代で言えば常識マニュアルですね。 常識マニュアルが正しいとはとても言えない。 たとえば津波。 常識マニュアルではせいぜい1メートル程度の物。 それに従って行動したから数万人が同時に死んだ。 大部分の時間は中庸で乗り切れると言うだけです。 キリスト教の一時期では人間を鉄娘に押し込め 苦しめて殺すのが常識だったという事実が在る。 適切とか正しいという内容では無い・・・ 単に大ぜいと似た考えや行動が自分に都合が良い と言う主張に過ぎない。
- kurinal
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kotiya様、おはようございます。 「「六分の勝ち」を以て最上とする」とか。
- a_hona
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要するに、 生き方として中庸とったら楽なんじゃない?という発想だと思います。振れ幅が大きければ、落ち込みも、高登りも、激しいものになります。そうすると、疲れるわけです。 中庸とは、人生の省エネモードだと言えるのでは。
- kirameki_oo7
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中庸・中道は中の道ではなく、善に徹することや方法です。 例えば、明るい性格は良いが、躁病的ではいけない。 まじめなのは良いが、かたぶつではいけない。 知識を蓄えるのはよいが、知的競争心では、他を心配することができないのでいけない。 知的競争心は、核兵器開発が良い例です。 など、善の方向へ進むときにふらふらと横道にそれないように、 真っ直ぐ善の方向に進むことを言います。
お礼
参考になります ありがとうございます
- suzumenokox
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「中庸を起点にした模索から、少しだけプラス方向への前傾をつかんだベースラインを得る可能性が高くなり、そこからの形にとらわれない自由な発想の展開が意味あるものになる。」 そういう傾向はあると思います。
- hiak123
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大学・中庸は良くない書物です。 孔子先生の心から遠く離れている。 中庸は多くの人には理解できません。 そう言うとひねくれる。 困ったものだ。 良いものをうるには相当の努力を必要とする。
- titelist1
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中庸が正しいという根拠はありません。中庸とは多くの意見の真ん中ほどだと言うだけです。しかし正しい考えが成功するとは限りません。後世から見たら正しいことが現代で認められないことも多いのです。正しくても極端な考えは反発を受けて達成が困難にもなります。だから、中庸は反発を受けることも少なく成功の秘訣でもあるのです。 リスクを踏んだ人が成功するのではありません。成功したいのならできるだけリスクを踏まないことです。正しいと信じて成功した人はその考えをリスクだとは思っていないはずです。リスクだと感じる時点でもはや正しくないのです。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
中庸は正しいのか、はなはだ疑問は湧きますよね。 >色んな宗教や思想で中庸が重んじられ「大きな喜びはよくない」というようなことがよく言われます。 そんな事が言われているのですか。 それなら、何処か変に思えますね。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/china/thuyo005.html ここが割と分かりやすい感じです。 ちょと抜粋して 中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。 こんな感じと言うのが、中庸に近いところに思えます。 大きな喜びと言うことですので、たとえば錦織圭選手が優勝しました。 そこで、熱心に応援していた人が大いに喜びました。 もう一つあげます。 私が嫌な奴だと思っている人が失敗しました。 私はそれを見て、同じく嫌っている者と大いに喜びました。 二つには、違いがありますよね。 前者は、選手の努力と夢が叶った事を、まるで我が事のように喜び 応援していたみんなで、彼の努力と勝利の喜びを分かち合っています。 後者は、嫌な奴と思っている人を貶める気持ちで喜びを得ています。 中庸は徳を説いていますが、徳があるのはどちらでしょうか? って言う話しが、中庸の持つ概念から来るのではないかと思います。 私が本意で思うのは、徳があるかないかで考えるのではなく 自らが心から喜べるのは、どちらであるかが大切であり その違いが何処に在るのかを言葉に置き換える時 「徳」としての違いと言えるのではないかと思います。 「徳」があることを選ぼうとすると「徳」に囚われますが 自ずと徳があるもの方が、心底気分がいい物ではないかと思います。 本心から湧き出る気分の良さに従えば、ある意味それだけでいいのですが 自分の持つ視点や立ち位置が、恨みや憎しみ・批判や非難に支配されて行くにつれ 徳がない言動が段々と気持ちよくなってしまう。 自らがしっかりと自分の立ち位置や、自身の持ち得る概念が自分が真意で望む物かを 確認しながら歩まなければ、周りのことにどんどん違う解釈を用いて 苦しむ元凶になって行くかなと思う次第です。 喜びは、大いに結構じゃないかと個人的には思いますね。 リスクを取って、チャレンジして行くのも それによって後々大きな喜びを得るのもいいと思います。 それが逃げのリスク回避(実は回避できていない)で墓穴を掘らない方法だと 私も思うからでしょうね。
お礼
中国語の中庸と意味がずれてるのですね
お礼
たしかにそれも事実ですね