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宗教は人を幸せにするのか。

宗教によって価値観を固定されたり、人生をも左右されたりする。 神の名において戦争する事も虐殺や収奪する事も容認される。 宗教って結局狡賢い人間に都合よく利用されるだけの手段に過ぎないと思ってますが、宗教とは本当に人間を幸せにするのでしょうか?

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  • eroero4649
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回答No.4

日本は場所にもよりますが比較的温暖で砂漠もなく、何より水が豊富で自然が豊かです。そして幸いなことに、周囲を海に囲まれていて異民族が征服しにやってくるということもありません。特に東側と南側が太平洋なのでそっち方面からやってくる脅威は皆無だったわけです。 確かに他の地域に比べると飛び抜けて地震や噴火が多いわけですが、それさえ我慢すれば平和に静かに暮らせます。だから、神様に「すがる」ときは大地震や大噴火が起きたくらいです。しかしそういう天変地異はあまりにスケールが大きすぎて人間の力でどうすることもできないので、ただただ神の怒りが「鎮まる」ことを祈るしかありません。 しかし例えばユダヤ民族なんかの場合は砂漠の地で人間が生きられる場所が限られる上、周囲は異民族に囲まれていていつ征服されるか分かりません。それどころか、ユダヤ民族の場合は元々住んでいた人々を殺して追いやって自分たちの場所を確保しているわけです。「奪うか、さもなければ奪われる」というような文字通りに血で血を洗うような状況にいるわけです。 そういう環境にいれば、強力な宗教でももって民族を束ねないと生き延びられないという事情もあったと思います。卓越したリーダーがいつもいるとは限りませんからね。「神様」という永遠不滅のリーダーの元で結集すれば異民族にも対抗できます。 「神の名において殺しや略奪が正当化されるのはおかしい」と我々日本人は考えますが、それは我々が住む場所が「ちゃんと耕して育てればちゃんと実が成る場所」だからです。限られた耕作地で細々と生きなければならない民族は、もし自分たちの場所が不作になってしまったら隣のやつらから略奪しないとこっちも飢え死にしてしまうのです。 そのときに、「この略奪は神様が認めたものなのだ」となれば、人々は良心が傷まずに済みます。だってそれは神のご意志なのですから。 険しい山と砂漠の中で、オアシスにへばりつくように暮らしているアフガニスタンの人に「周囲の人たちと仲良くやりなさい」といっても、そんなことをしたら自分たちがオアシスから追い出されてしまうという事情はあるのですよ。

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回答No.3

全ての変化には、淘汰がはたらく。 宇宙開闢以来、安定した物質を蓄積していく物質進化、海 中での化合物の反応において安定な化学反応が持続して いく化学進化、その中で増殖性を生じて生存競争を始める 生物進化、人類の組織化における社会内淘汰による社会 進化に至るまで、一連の進化を遂げている。 原理的単位の相互作用の中から、より安定な反応が残り、 それが新たな上位現象の単位となる、階層現象化なのだ。 人類も、最初は個体が生存単位であったのが、血族のファ ミリーが集団生活し、集落単位で争うようになり、都市国家 から国単位へと生存単位(同等な機能を有するもの同士は 競合する)が拡張し、社会性(分業化・組織化)を発達させて きた。 その過程で、個人の意識に社会性を持たせる方法として、 分業化=助け合いにおける自己の生命性の社会的延長の 自覚化による自律的社会行動ではなく、お金や地位といった アメ(馬車馬の目の前のニンジン)や、モラル(宗教)や法規 (政治体制)といったムチによって、他律的に社会行動を導く 方法をとったために、社会進化は社会構造的な変質を伴う ものとなった。 血族の延長としての集落が生存単位だったのが、その競合に おいて他集落を統合して大きな武力を有したものが生き残る 封建社会へと変質した。 封建社会は、武力による土地の確保=農業を主産業とする 社会だったところ、手工業の発達による分業化とそれに付随 した貨幣制の浸透において工業と商業が力を得、権力者は 武力から市民へと移行した。 その工業が、手工業から産業革命による大量生産によって、 市場の拡大と物流の発達、地域格差、生産手段の高度化に よる資本家の台頭により、資本主義的な自由競争社会へと 移行した。 さらに、その市場の拡大と資本主義社会における投機や 株式市場が力を得る事で、そうした流通や経済を中間で コントロールする金融や政治家が、新たな権力者となった。 そうした社会性の発展とそこにおける社会行動の複雑化は、 個人の意識において、当初の血族的共同の本能的・情緒的 な社会行動と、それと遊離した死や自然の驚異に対しての アニミズムの二本立てから、個人の自己中心的な衝動が 社会的要請と乖離してゆくのに対応して、強力な教義を有す る一神教による社会性の維持が必要になり、ほぼ同時期に (国家体制の発展と平行して)キリスト教やイスラム教、仏教 といった世界宗教が勃興した。 しかし産業革命に付随した科学の発達と貨幣制の浸透は、 宗教の持っていた論拠=世界観や価値観を萎縮させ、人の 生きる指針を、「お金や出世といったアメと、モラルや法規と いったムチ」へと移行させた。 上記のような進化=階層現象化をそのまま延長するならば、 人は他律的に生かされる(お金をもらうためにイヤイヤ働く) 歯車として、社会的な二次情報に操られて実体としての環境 認識の希薄化を招き、かつて単細胞生物として個々の細胞が 環境に対して多様に対応していたのが、多細胞生物の中では 神経やホルモンに条件反射的に反応するだけになっている ように、生命としてしての“生きる意志”を教育や法規、社会 制度といった社会システムの上に転嫁して、個々人は無意識 の歯車に堕す。 人類は本来、脳の発達により、進化における適応を、遺伝子 の変異とその自然淘汰という遅々としたものではなく、認識 の発達=環境認識(自意識の目覚め)による行動パターンの フレキシビリティによって、迅速に行うところにああった。 そうした“ヒト型進化(自律的生存)”の極にある人類をして、 先天的多様性による他律的な社会行動という“アリ型進化” へと舵をきっているのが現代社会なのだ。 宗教は、そうした他律的な生のためのアメ(お金&出世)と ムチ(法律&宗教)に他ならず、人の真の生きる目的である 「人生を通算した精神的充足量の最大化」から外れた、必要 悪に他ならない(自律的生に反する外的権威)。

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noname#212854
noname#212854
回答No.2

1、「信ずるものは、救われる。」これは、全ての宗教に当て嵌まります。信じる人だけが幸せになれるのであって、疑問を持てるあなたは幸せになれる対象ではありません。 2、宗教は法人です。言うなれば産業です。「信仰」などを媒介にして、栄枯盛衰を続けている産業です。「信じる」人だけが対象です。 「人を幸せにする」というのはお題目であって、社会の現実でなく、信じる人だけの話です。

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  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

他人に改宗や財産の移転を強いるようなものは、「宗教」という名で活動している過激派なだけです。 「宗教」を名乗ってれば何でも良い、と馬鹿な輩を集めているのは、「自分が幸せになれば他人はどうでもよい」と思っている、宗教から一番遠い存在の人間たちのやる手口です。

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