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現代人の病いを突き抜けて未来社会へ
- 現代社会において自己表現を抑圧する問題について考える。
- 社会における相互抑圧の雪合戦の存在とその助長要因について検討する。
- 社会力学上のチカラ関係から来る相互萎縮合戦を背景にした精神分析の影響を考える。
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質問の詳しい内容はよくわからないんですが、対人関係のことかなと。 自分も対人関係の悩みはあっても、大学まで不登校にならなかったのは、幼なじみがいたからかも知れません。社会人になってその幼なじみともうまくいかなくなって、悩みのドツボにはまりました。 問題は幼なじみのような人がいるかどうかが、個人の能力や度量の問題かどうかですね。 もしかしたら偶然の問題を、必死に自己の内面のことにしていないか?友達作りに近いですが、偶然を意識化する難しさかも知れません。本当は意識的に友達が作れれば、みんなの参考になると思います。 思いやりを持てというのは、持てる人は持てて、持てない人は持てないというだけです。持てない人がどうすれば持てるかがあまりないような気がします。個人的には、ずっと研究していますが。
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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おはようございます、ぶらじゅろんぬさん。 この質問については全面的に同意します。 異議なしです。 ところでぶらじゅろんぬさんの方こそ なんでもかんでも自分が悪いのではないかと 考えすぎです よ。 きりんの背が高いのも ぞうの鼻が長いのも ナマケモノが眠ってばかりいるのも 全部ぜんぶ ぶらじゅろんぬのせい、 勝手にそんな風に思われたら こっちこそお手上げです よ。 人との境界線の厚みは人それぞれ。 鉄壁のような境界線を持つひともいれば ベニア板ぐらいの人もいて、 カーテンぐらいの人もいて、 オブラートぐらいの人もいて。 それで、へりくだる人は、 壁が淡いのぢゃないかな。 少しの風で壁が壊れてしまうような家の中、 強い恐怖に怯えているのが当たり前の状態で。 それでもどうしても自分を守りたくて へりくだるのぢゃないかな。 あまり今回の質問には関係ないけど。 ___________ あと、病院で書いた 落書きの添削をしていただけると よろこびます。笑。 辞書もないから本当に落書きで はづかしいんだけど。 マシュマロの花 ビルまで切りそうな 鋭い鉄色の三日月が 凍えそうに震えながら 藍の深い空を泳ぐ晩 君は洞窟の奥に眠る 鍾乳石のように わずかな物音も立てず 少しの雫をしたたらせ 僕の世界の隅っこを それはひそかに漂った 花粉ほどの君の気配を なぜか僕の五感は捉える 世界はこんなに美しく 喜びに満ちているのに どうして君は 錆びついた悲しみを きつくきつく抱き続け 蝉のように幾年も 硬く冷たく閉ざすのか いつまで君は閉ざすのか 墨のような暗闇に そこにいるのだろう? 僕には君の鼓動が 確かに聴こえる 異国の楽器のように謎めいて それでもくっきりと 僕は君に叫び続けよう 太陽が西から昇ったって 月が三つになったって 大丈夫 かまうものか 僕の声が いつか君にも届きますように 君は花 真冬の透き通る どこまでも突き抜ける空 たおやかに咲き誇る マシュマロの花 僕は君の 空気になり水になり光になろう 明日もあさっても来週も 10年後も50年後も 来世紀もずっと さあ咲きなさい ひらきなさい ゆっくりでいいから PS.もう少ししたら病院に戻ります。 書きっぱなしになります。
お礼
あぁ よかった。つまり この質問は つねに開けておくかたちにするのを忘れていたことに きょう気づきました。気づいて開けてみたら ちょうどご投稿時刻のすぐあとでした。知らずにいたところでした。 へんなご挨拶の前ふりになりましたが こんにちは。ご回答をありがとうございます。 にゃんこさんに続いて 投稿してくださいました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ きりんの背が高いのも ぞうの鼻が長いのも ナマケモノが眠ってばかりいるのも 全部ぜんぶ ぶらじゅろんぬのせい、 勝手にそんな風に思われたら こっちこそお手上げです よ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ こういうふうに言うのですね。 ナマケモノって 鼻がでかくて 目がかんたんについている感じですね。 いえいえ。電信柱も郵便ポストも かの《ニックキ》ぷらぽメに対する当てこすりです。ひとえに。何でもかんでもわるいことは わたしの所為にするのですから。油断も隙もあったものではないです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 人との境界線の厚みは人それぞれ。 鉄壁のような境界線を持つひともいれば ベニア板ぐらいの人もいて、 カーテンぐらいの人もいて、 オブラートぐらいの人もいて。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。そういうわけですか。 これはあまり考えていませんでした。つまりわたし自身については 一般的に付かず離れずで行くのだと思っていました。それ以上考えませんでした。 なるほど。でも かの悪名高きぷらぽ氏は それらのどれにも相当するようですね。のらりくらりのようで 臨機応変 そのつどそれはそれは上手に立ち回るんです。 つねに《鉄壁のような境界線》だとすれば もうそれは 境界線と言うよりは 太平洋なる溝であるように感じてしまいますね。あるいは要するに 蛸壺。p氏のほかに うりが・・・氏も そのように感じます。こっちの言っていることにぜんぜん耳を片向けません。ニーチェの一点張り。 ★ それで、へりくだる人は、 / 壁が淡いのぢゃないかな。・・・ ☆ これは 分かるように思います。いま そう聞いて分かるように思いました。 ただし 《壁が淡い》ときに 相手に対する態度としてつねに《へりくだる》というかたちではないようにも思います。 基調は つねに相手を立てるという意味で へりくだりである。 でも つねにその姿勢の一点張りでもないのではないか? というのも ただちに思った一点です。 なぜって 例のぷらぽのヤローにそのようにつき合っていてみてください。身が持ちません。 こっちから 攻勢に出なければ やられてしまいます。 という場合もあるのではないか? ・・・ まぁ 特殊であり 例外的であるかも分かりませんが。 * マシュマロの花。 これは 転調でもないのですね。 どんでん返しというのでもなく もともと《鍾乳石のように雫を垂らした》そのときから 花であったのですね。いまにも咲こうという花だったのですね。 すでにじゅうぶん《たをやかに咲き誇った》ことさえある大いなるマシュマロの花だったのですね。もう一度咲きなさい。何度でも咲きなさい。 ヘンな茶々を入れるなら 冬はやっぱし寒いですね。その空も 透き通っていても 寒そう。 寒がりなのかな わたしは。まぁ じっさいそうですが どうも冬は寒そうです。 かと言って春や夏にしてしまうと それはたぶん安易に明るく描こうとしているように見えてしまう。かも知れない。でしょうか。 ちからづよさに中に あったかさが わたしには欲しかった。自転車で出かけるとき マフラーはもちろん頭を覆う毛糸の帽子がないと寒い。耳当てを百均で見つけましたけど。 闇を切り裂く花粉のあかるさを感じましたが 冬は寒い感じでした。というのが 正直なところです。これは 個人的なわたしの弱みかな。
- nyan_nyanko
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こんばんは、お久しぶりです・・・ > 内向的な精神分析の説くところについて考え方や捉え方を変えるという作業が 第一歩であるのではないか。 以下は斎藤環(精神科医)さんのトッド・デュフレーヌ著「<死の欲動>と現代思想」へのコメント・書評です。 ----------------------------------------------------------- 20世紀は「精神分析の世紀」だった。いまや精神分析は、効果の疑わしい過去の治療法として、共産主義よりは緩慢な死を迎えつつある。 精神分析は二度死ぬ。一度目は治療の技法として。二度目は批評理論として。心理学者ハンス・アイゼンクらの手によって、一度目の死は確認された。問題は二度目のほうだ。思想や批評理論における精神分析の影響は、いまだきわめて大きい。 デュフレーヌは賢明にも後者に的を絞った。この領域ではフロイトが“発明”した〈死の欲動〉こそが諸悪の根源なのだ。 フロイトは、そのもっとも思弁的な論文「快感原則の彼岸」において、孫の遊びに注目する。糸巻きを投げては引き戻す遊びを、母親の不在の苦痛をあえて再演する行為と考え、そこに自己破壊衝動、すなわち〈死の欲動〉を見いだす。 著者はこの概念が、すでに過去の遺物となったヘッケルの発生理論やラマルクの進化論から決定的な影響を受けていることを厳密に論証してみせる。次いで、この“トンデモ”な概念が、精神分析はもとより思想界にどれほど深甚な影響をもたらしたかが徹底的に検証される。 このくだりだけでも本書の資料的価値はきわめて高い。 ----------------------------------------------------------- ソース: http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071704530.html また、”無意識”なるものが、今日では、少なくとも治療現場では、利用されていないように思います(今まで数人の精神科医と接してきた経験からです)。 というよりも、フロイティアンと自称する人たちは、まず”無意識”の存在を実証して見せるべきだと思います。もちろん、挙証責任はフロイティアンにあります(それ以外の人たちは「”無意識”は存在しない」などを証明する義務などは当然ありません)。 余談ではありますが、斎藤環さんの精神科医としての考え方や取り組み方は存じてはいないのですが、斎藤環さんの新著『承認をめぐる病』への書評が以下にありました。 http://president.jp/articles/-/12302 とりとめのない文章[回答]で心苦しいのですが、ご参考になれば幸いです。
お礼
お早うございます。お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。 ▲ (評・斎藤環(精神科医)) ~~~~~~~~~ しかし、序文でボルク=ヤコブセンも指摘する如(ごと)く、フロイトのメタ心理学は実にしたたかだ。叩(たた)かれ、批判されることで息を吹き返し、批判者をいつの間にか分析的思考に取り込んでしまう。そう、たとえばデリダがそうであったように。 それゆえ物足りなさも残る。たとえばラカン。〈死の欲動〉の誰よりも忠実な相続人であった『エクリ』の著者を前に、デュフレーヌの舌鋒(ぜっぽう)はいささか鈍る。彼はラカンがフロイトの理論から非科学的要素を巧妙に取り除いた点を批判するのだが、これではただの否認にすぎない。 本書は、ラカン派たる私を“改宗”させるには至らなかった。ただしメタ心理学的世界観が「他者への無関心」とナルシシズムにつながるという本質的批判に対しては、実践をもって反証に代えるしかないだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と聞くと 《しぶとい》というようにも思ってしまいますね。 たぶん・おそらく ムイシキつまり意識し得ない領域を立てるので 分からないところはそこへ何でも放り込んでおくことが出来るのかも分かりません。 ▲ 精神分析は二度死ぬ。一度目は治療の技法として。二度目は批評理論として。心理学者ハンス・アイゼンクらの手によって、一度目の死は確認された。問題は二度目のほうだ。思想や批評理論における精神分析の影響は、いまだきわめて大きい。 ☆ こういう見方は すでに出されているのですね。超然として このいまの質問などをわたしは挙げています。 なるほど。さすが おかしいと感じるところがある。というわけですね。 つまり ★ というよりも、フロイティアンと自称する人たちは、まず”無意識”の存在を実証して見せるべきだと思います。もちろん、挙証責任はフロイティアンにあります ☆ という問題である。きちっとおさえておかねばなりません。 ▼ (『承認をめぐる病』斎藤環著――東京工芸大学教授 大島 武) コミュニケーション能力 ☆ わたしなどは 《知らないことを知らない》と言い 相手にたずねる。わかるように尋ねる。そうして 自分の意見をまとめる。これを明らかにする。 こういったことでよいと思っているんですから 暢気なんでしょうか。 なるほど わたしの知らないところで ことは進んで来ているのですね。
- a_hona
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自信をもって、もっと伸び伸び生きよう、という感じでしょうか。
お礼
すでにパート1で 投稿してもらっています。(BAとさせてもらっています)。 現在においても なおみんなに共有して欲しいという思いがあって パート2を挙げました。 ★ 自信をもって、もっと伸び伸び生きよう、という感じでしょうか。 ☆ なるほど。言い得て妙ですね。 観念論に落ち入りやすいところの本質がどうぢゃこうぢゃ論を言わないかたちの・簡潔な表現でまとまった掛け声になっていますよね。 かつて ムイシキなる議論が掲げられ問われるようになったとき 人びとは なるほどと合点が行ったところがあるように思いました。 けれどもそれは たとえばガミガミ電波を受けてこちらはアース役に成っているのだというその人間関係の中身が まだ意識し得ていなかった。だけだと思うのです。 関係として認識しえていなかった。それが 《ムイシキ》という独立した部位が脳にあるかとなると 話は別です。現在では 見つけられていません。何かよろしくない突発的な行動を起こす要因がその部位にあるといったそのような作用は確認されていません。 じつは アーラヤ識の問題にもつながるのですが もし《独立した存在として人間にハタラキをおよぼす部位》があるとすれば それは あたかも神がかりや狐憑きの問題として扱うしかないようになります。それは 少なくとも文学の分野にまかせておけばよい。と考えられます。そう考えるべきでしょう。 この一点については 精神分析は 屁の河童である。と言ってすすんで行ってよいものと思います。 ★☆ 自信をもって、もっと伸び伸び生きよう、という感じでしょうか。 ひとりの人の内面だけに問題を見るのは すでにマチガイだ。あくまで関係の問題である。人と人とのあいだに問題が発生しているのだと。 わが心は晴れ晴れとしている。富士山の日本晴れである。と堂々と言って行く。言わなくともいいわけですから 思ってすすむ。のだと。 この問題は 我れながら言うのですが 実践向きであり きょうからでも その一歩をあゆめる。と考えます。 ひろく人びとに声をかけて行きたいと思います。
を 「探して」← これがポイント
お礼
まぁ 探究する人びとに信頼を寄せることを怠るわけには行きませんが あまりその持てる理論や仮説に信用を置いてはいません。自分で考え続けようとはしています。 ところで たとえば ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~ 5. 《あぁ アース役はつらいよ》の大合唱 社会力学上のチカラ関係に原因があるとするなら それは ガミガミ電波であるに決まっている。 だからたとえば全国的に 《あぁ アース役はつらいよ》と大合唱すればよい。 自分が自分で自分をヨクアツしてるって? 外のものが中にあるって? あぁ それを言っちゃあ おしめぇよ。ガミガミ役のガミガミ役のためのガミガミ役による世の中の秩序作業でしかない。あーぁ けっこう毛だらけネコ灰だらけ・・・と大合唱すればよい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは あたまの中の観念論ではなく じっさいの行動をしめしています。 それについて 批評はありますか? ご回答をありがとうございます。
≧(´▽`)≦アハハハ そんなの簡単ですよ(#^.^#) 自分が考えたって判らない 知らない でも 知りたい・・・・それなら 知ってる人に習えば良いだけ 簡単でしょ・・・ そんな事をしてる人 或いは団体 或いは学校 或いは教団 或いは政治団体 或いは国・・・を 探して 勉強すれば良いだけなのだから・・・
お礼
★★ (回答No.5) ~~~~~~~~~~~~~ 人類が幸せになる為には 誰もが他人を憎まない 傷つけ合わない事 あなたも俺も そして他の人達も 全ての人が 他人を思いやる心があれば それだけで良いのです ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だから ★ それだけで良いのです ☆ と書くから 《かんたんではないですよ》と応じたのです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ それなら 知ってる人に習えば良いだけ 簡単でしょ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ って書くから 《かんたんではないのではないか?》と応じなければならなくなる。 ってのは うそ。 《知っている人》がいれば よいです。 ただし そういう人がいますか? いるかも知れない。ので こうやって質問している。 ♪ ちゃんちゃん ♪ って どうなってんですか。 ご回答をありがとうございます。
人類が幸せになる為には 誰もが他人を憎まない 傷つけ合わない事 あなたも俺も そして他の人達も 全ての人が 他人を思いやる心があれば それだけで良いのです
お礼
それが かんたんには行かないのです。 1. 思いやりで 他人(ひと)に手助けしようとしても 要らん 大きなお世話だと言われることがある。 2. たとえ相手がこちらの思いやりを受け容れてくれたとしても それは 義理やタテマエとしてであって 助けは要らんと本心では思っているときがある。 3. 要するに 他人の思いやりというのは それを受け容れれば 重荷になる。あとで負い目を感じる。ことが いくらでもあります。 4. ましてや 《思いやる心》だけあるのでは・つまり《わたしはいつもあなたの仕合わせを思い願っていますよ》などと本気で言われたなら それほどうざっこいことはない。と思うひとは いくらでもいる。 5. 人間は 関係ではありませんか? こちら一人の考えや思いだけでは 何ごとも始まりません。 ということではありますまいか。 そこんところを考慮に入れると どういう哲学が帰結しますか? ご回答をありがとうございます。
処方箋は 常に自分を捨てる事です
お礼
そうですか。それは そうなんですか。 ご回答をありがとうございます。 ★ 処方箋は 常に自分を捨てる事です ☆ ということは 《自分を捨てた》状態にある《自分》とは どういうふうに人びとに受け取られますか? 対等だという受け留めになりますか? あるいは へりくだって下に立つようになっているということなのですか? それとも 対等になっていたりへりくだっていたりするように見えるだけであって もともとの上に立っている姿は 隠れているだけだとはなりませんか?
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 基本的に言おうとしていることは: ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~ 8. 何もしないたたかい。 何もしないでよいはずです。 おそらく もし病いの道をたどって来ていたなら その道を必ずしも引き返すというのではなく むしろ同じ道を前へとあゆみ その道を――その病いのトンネルを――突き抜けて明るい場に出るというシナリオになるかと考えられます。 わが心は 大海である。波風はただうわべをかする心理の動きであるに過ぎないと。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この点でしょうね。 すなわち 問題は ★ 対人関係のことかなと。 ☆ ということでありつつ その処方箋もしくは対処法は――ちょっと分かりにくいかも知れませんが―― 何もしないたたかいだというかたちです。 ★ 幼なじみがいたから ☆ 人間関係の脱線をまぬかれた。ということは そのとおりであると思います。 ★ 本当は意識的に友達が作れれば、みんなの参考になると思います。 ☆ といった方向へもひろがると思います。 すなわち その方向としての中身は: ★ 思いやりを持てというのは、持てる人は持てて、持てない人は持てないというだけです。持てない人がどうすれば持てるかがあまりないような気がします。個人的には、ずっと研究していますが。 ☆ といったこと つまりそのまま人間関係の問題であろうと思われます。 そして冒頭にかかげた処方箋としては 《すでに解決は 成っている》という出発点であると いまの段階では 考えています。 いわゆる《内向的な自省》としての精神分析などなどを要らないという見方です。 なぜなら 自分自身の内面における問題だけというかたちはあり得ないと考えるからです。つまり 問題点は じっさいの《人間関係》の過程にある。というかたちです。 へんな言い方をすれば 自分自身の中に《幼なじみ》なる友を持てばよいと考えられます。自分が自分に対して幼なじみになればよいと。生まれつきの自然本性には そういうチカラがそなわっている。のではないでしょうか。 ☆☆(趣旨説明欄) 5. 《あぁ アース役はつらいよ》の大合唱 ☆ といった方向がよいと考えています。《アース役のつらさ》を内面へと入って行って ああだこうだとその枠内で考えるのは ほとんどよい結果を生まないと思ってのことです。なぜなら アース役の問題も何もかもの問題が 人間関係という過程に起きることだと見るからです。 ひととひととのあいだに問題はあり。だと思うからです。