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現代人の病いを突破して未来社会へ
- 現代人の内向的な精神分析による抑圧や自己表現の欠如について考える
- 社会における相互抑圧の雪合戦が無意識のうちに行われている
- 相互抑圧合戦に参加しない選択肢もあるが、それは孤立と病いを招く恐れあり
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いえ、裸で往来を歩くというのはもちろん心の話です。飾らない気持ちで生きる、ぐらいに思っていただければいいです。 そういえば以前は、素の自分で居ることが多かったのですが、つまり裸に近かったのですが、その時には外国人と言われることがありましたよ。友人にw 日本は窮屈かもしれないですねぇ。建前が人を安心させるようなフシがありますから。 しかし、心理的に素朴な状態でいるのが難しいのは、あながち社会だけのせいではない気もしますが、つまり自分自身にも問題がある気もしますが、その問題自体が育ちによるものであるなら、外的要因、社会的要因によってそうなったと見ることも出来るでしょうか。 世間では皆、心理的に服を着て、それに見合った居場所を持って暮らしていることがほとんどです。気に入らなくても、我慢してその服を着ているうちに、馴染んでしまうこともあるでしょう。しかしそれは本来の人間の姿ではなく、型にはめられた姿であって、自然ではないのかもしれません。肩の力を抜いて世の中を見るならば、文明が発達して自然の猛威(災害や病気、害敵など)からは遠ざかった反面、自らのうちにあった自然さえも淘汰してしまって、生きづらくなっていると観察できます。素朴文明論といいますか、垢抜けた文明というのはこれからの世界なのかもしれませんね。支配者層と非支配者層の両層を自身の内に持つ現代日本人であるから、その内的な、或いは社会的な葛藤を克服することが第一歩目かもしれません。そもそも支配、被支配という二つが存在すること自体がナンセンスです。自分は自分であり、他の誰でもなく分裂することもありませんから。 未来が少しでも生きやすくなっているとよろしいですね。
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- NemurinekoNya
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痛いところを突かれてしまいました。 アマテラス界の住人でなく、地べたにすんでいるのですが、 わたしの頭は根っからアマテラス型───小さな子供の時から超~理屈ぽい───なので、無意識のうちにアマテラス型の思考をしてしまうんですね。 アマテラス論理で考え語り、結論も結果アマテラス型のものになってしまう。 そして、 知らず知らずのうちに、アマテラス界を弁護することになっているのか。スサノヲ村を攻撃して、変わらなければいけないのはお前たちの方だ言っているのか。 なるほどなるほど、 アマテラス型の思考をするわたしが変わらないといけないというワケですか(ポリポリ)。 でも、もう骨の髄まで刷り込まれてしまっているからな~(笑い)。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まぁ この議論を説明して分かるひとは そうざらにはいないと思いますよ。 また 精神分析は 特にたちがわるい。ものだと思います。 ムイシキなる装置 これは 自分たちも批判者の側もどちらもその機能を果たす脳の部位を実証できないのをいいことにして 仮説した。というタチのわるさがあったのではないか。なかなか批判が通らなかった。 そういう歴史を経て来ていると思います。 ジョウシキ――これには困ります。よね。
- NemurinekoNya
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抑圧は、こころの防衛機構の一つです。 快感原則と現実原則。 ヒトは快感をえようとするけれど、時に、しばしば、現実や社会、他のヒトがそれを許してくれない。現実原則に反することをすると、叱られたり叩かれたりするから、仕方がなく、その欲求を抑えつける、抑圧する。 そのことを叱られたり、打(ぶ)たれたりして、学習する・・・。 でも、 この抑圧された欲求不満は、無意識下に残り香のように残りつづけ、成長しつづけ、ある時、違う形で爆発する。 この他に、昇華(社会的に認められる別の形でその欲求不満を満足させる)、代償(ダイアモンドは高くてかえないから、イミテーションで妥協し、満足する)や合理化(いわゆる酸っぱいブドウの論理)などなど、いろいろとありますよね。 ご存知だとは思いますが、 参考までに 防衛機構 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ 7. どんでん返し つまりそれというのも いままでガミガミ電波の排泄をおこなって来た人びとが ほんとうに反省し 人間(現実)が変わるときが来ると考えられ ~~~~~~ 現実が変わるのではなく、現実を人間が変えるんじゃないですか。 快感───しあわせ───をえるために、現実原則のほうを変える。力───物理的な力、暴力だけではないですよ───づくで現実原則の方を変える。 一つの手段ではありますね。事実、歴史はこうして変わってきたし、これからも変わりつづけるんでしょうね。 人間のみならず、動物だって、自らが住みやすいように環境を変えちゃいますし、環境破壊をする。それがすぎると、地球やシステムとしての自然からとんでもないしっぺ返しをくらったりして、新たな均衡・調和が生まれます。 ~~~~~~ 8. 何もしないたたかい。 何もしないでよいはずです。 ~~~~~ これでは、世界や現実原則は何も変わりませんよ。 これは、現実を全面的に受け入れ───その意味で現実に敗北している───、妥協し、自慰することに他なりません。他に慰めを求めることは可能なのでしょうが、現実としっかり向き合い、それに対峙しなくてはならないのではないですかね。 完全な同意形成を得ることはできないにしろ、話し合いや交渉によって、少しでもよい、ましな合意形成をすること、落としどころを見つけることが大切だと思います。 一方的にこちら側が譲歩し、それで世界や現実と和解してはいけないのでは?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現実が変わるのではなく、現実を人間が変えるんじゃないですか。 快感───しあわせ───をえるために、現実原則のほうを変える。力───物理的な力、暴力だけではないですよ───づくで現実原則の方を変える。 一つの手段ではありますね。事実、歴史はこうして変わってきたし、これからも変わりつづけるんでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええっとですね。かつて 尊属殺について 一般の殺人犯罪よりもその処罰を重くする理由は少ないと見られるようになったときがありました。 このときわが親たちは びっくりしていました。そういう意味での現実の変化は ありえます。 戦後 アメリカの文化(?)が日本人のあたまにも侵入し席巻するようになりました。こういった現実の変化は 起こり得ます。 では 人間(現実)が変わるというときは それらの変化とは どう違うか? かんたんに言って 社会の二階建て構造にかかわると考えます。 一階の住人と二階に住む人びととの或る種の区別 これが 常識となっていたなら それが変わる。どんでん返しが起きる。こういう意味です。 《現実原則》というのは ほとんど《快感原則+合理性》のことだと思います。たぶん《合理性》なる物差しをうまく扱い操作できるのが お二階さんの特技であるのでしょう。実質的には 快感原則を追求しているのだと言ってもよいと考えます。 つまりは お二階さんたちの行動形式に合わない・従わないのは ハダカのきわめて見苦しい快感原則の追求でしかないと見られる。そういうジョウシキです。 快感原則には 衣を着せて合理的なタテマエをまぶさなくては ダメだというのが 支配的な現実原則なのだと考えられます。 つまりは スサノヲ人間語をそのままに表現して生きるのは 見苦しいという判定が 日本国中にすでにクウキとしてはびこっています。 よって少なくともこのクウキを読む人たちのあいだでは その快感原則の追求にストップがかけられます。 これが 《抑圧》です。 すなわち 決して《自己防衛機構》なのではない。と考えます。 もしありのままを言うことによって 快感原則の追求が みっともないというのであれば そう言えばよいのです。そのことを 問題としてみなで話し合えばよいのです。 ところが そうではなく《ヨクアツ》というのは すでに見苦しくて見っともないことを 一階のスサノヲ庶民たちは 根っからのそういった根性でやらかすのだという決めつけのもとに しかも《和を以って貴しと為す》からなのか それをスサノヲ市民たちがこぞって物分かりのよい社会人としてすでにクウキを感じたなら そのクウキの禁じるままに従う。 つまり ヨクアツは 単なる統治の――支配の――道具であるしかない。こういう見方をします。精神分析が そもそもその根っ子にこういった体制におもねる根性を持って その根性のもとにみづからの理論を打ち建てた。と見ます。 もしこういう理論にもとづくならば ◇ 現実としっかり向き合い、それに対峙しなくてはならないのではないですかね。 ☆ と言われなければならないのは 二階の住民たちのほうなのです。 自分たちには 互いに対等な交通をおこなう民主制が実現している。けれどもそのことは 自分たちが上からのまなざしを注いでクウキをかもし出し その二階としての民主制をまもるために 一階の住人には 自分たちの言うことに従いなさいという姿勢を採り続けるということと 盾の両面を成している。 この現実をしっかりと見据え おのれを見つめ直すことが 二階の人びとには すでに現代では遅きに失するほどの頃合いとして 要請されている。なぜなら 民主制をとうとんでいるのだから。それが 局地的であってよいわけがない。 すなわち ◇ 完全な同意形成を得ることはできないにしろ、話し合いや交渉によって、少しでもよい、ましな合意形成をすること、落としどころを見つけることが大切だと思います。 ☆ このことは すでに出来上がっている。と見るべきだと考えます。誰もが分かっている。だからこそ地域主権とも言うぢゃないですか。 そのことは 二階の世界に住む人であっても 冷たくあしらわれている場合には すでに自己了解を済ませている。のではないでしょうか。 フクシマ原発の事故とその処理の過程で こういった《 A - S 連関構造》は かなりそのありのままの姿を露呈して来ている。のではないだろうか。 つまり ◇ 一方的にこちら側が譲歩し、それで世界や現実と和解してはいけないのでは? ☆ 一般的な問題としては そうなのでしょうが アマアガリ・シンドロームなる問題は すでにスサノヲ市民たちは いやというほど・どれだけ巻き上げられてもどれだけ虐げられても 《くにゆづり》をして来たし いまも しています。もう《何もしないたたかい》の段階に入っている。こういう見方です。 お二階さんたちは その場で踊り出し オモテを練り歩くようになるものと見ます。 スサノヲ市民たちの・声を荒げての抵抗や反対運動が もう阿呆らしいこととして止んだときに。
- ukiyotonbo
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>お大事に。 暉彦は病んでいる自覚があるし、分かっているということか。そういう質問になっとるぞ。 かなり重症だけど、すぐにどんでん返しはないから暉彦が《患者》としてちゃんと治療を受けなさい。 処方箋はいくら書いてやってもいいが、実際に薬を飲まないといつまでたっても直らないぞ。
お礼
どんでん返しが起きるとは思っているんだな。っはっはっは。
- a_hona
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そうですね、おっしゃる通り、理想視するのは社会の現況に当てられているせいかもしれません。 ですが、人間の自然状態が、理想と一致するかどうか、という点で、少し待ったをかけたいと思います。確かにフレンドシップは理想というよりは普通、と言った方がいいのかもしれませんが、ではなぜその普通が、現実社会において普遍的に見られる現象ではないのか?といった疑義が生じます。人間の自然な気持ちとは何か、これは深い問いになるかと思います。そこにはフレンドシップなどよりもずっと平かな気持ちがあるように思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 人間の自然な気持ちとは何か、これは深い問いになるかと思います。そこにはフレンドシップなどよりもずっと平かな気持ちがあるように思います。 ☆ これは どうですかねぇ。つまり 用語を取り替えて人間の心の同じ状態を別の視点からそれぞれ言い当てているに過ぎないように思えるのですが。 ただ 確かに違うところは 《平らかな・自然な気持ち》は 必ずしも相手のある二角関係においてこそ成る状態だとは見なくてよいかも知れない ここにあるかも知れません。 つまり《フレンドシップ》のように〔相手をつねに必要とした状態〕ではないのかも知れません。 ううーん。どうですかねぇ。つまり フレンドシップが得られていて その友から去って独りでいるときの心の自然の状態をも実現し得ている。といった場合には やはり互いに同じ状態の ふたつの違った場合であるに過ぎないかも知れません。相手と共にいるか そうではなく独りでいるかの違いに過ぎないかも知れません。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
人が2人集まった時にできる力関係についての問題提起は興味深いですね。 わたしはそれを、自然な方で解釈するなら、大人と子供の関係、兄弟の関係、友人関係、などに分類を認めることができると思います。 二人集まったうちの、一人が明らかに子供でもう一人が大人である場合、大人は子供を大事にせねばなりません。二人集まったうちの一人が年長でもう一人が年少である場合も、まあ似たようなことでしょう。 つぎに、二人集まった人同士が対等である場合、二人は友人関係となると思います。 理想を語ったに過ぎませんが、以上のようなことになると思います。 実際を見渡すと、大人が子供に頼ったり、優れたものが劣ったものを虐めたり、友人関係ではなく敵対関係に陥ったりする場合もあろうかと思います。そのようなことにならないように、稚拙かもしれないが、理想を胸に掲げて生きて行くのも悪くないと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆(No.4お礼欄) 抽象的に言って 人がふたりあつまるなら およそどちらかが 《上からまなざしをそそぐ側》と《注がれる受け身の側》とに分かれると思います。 ☆ これについては 《年長と年少との関係》などなどとして分析しようとされていますが 別の角度からも捉えることが出来るかと考えます。 つまり 《まなざしを上からそそぐ側(ガミガミ役)》と《そそがれる側(アース役)》とに分かれるというとき それでは その人たちの実存は どのように成っているか? あるいはつまり どういう内容の意志行為として それぞれのガミガミ行為とアース行為とがおこなわれているのか? こう問うた場合 これはあんがい複雑です。 アース役が ゴミ処理工場の役をも合わせ持っている場合があります。 ガミガミ役は まったく《純粋に》おのれの意識の排泄を勝手におこなっているだけだという場合もあります。 アース役は おおいなる内容の実存になりえます。 ガミガミ役は けっきょく大人に頼る子ども役でしかない場合があり これは 実存以前の状態にある。こういう見方もあり得ます。 ★ つぎに、二人集まった人同士が対等である場合、二人は友人関係となると思います。 ☆ これは 互いに自由に相手の意志行為について その相手がおのれの能力を十二分に発揮することが出来るよう 出来るところで手助けをする。こういった実存行為になり得ます。 手助けをすると言っても 人が他者の意志行為をめぐって何か有益なことが出来るということでもないのですが たぶんその意志行為のときの情況をけわしいものでは無くし 心の中でこだわりがある場合にそのわだかまりのような思いを解きほぐすことは出来るのかも知れません。 こうであれば おそらく確かに マナザシを注ぐ・注がれるの二つの側に分かれるということはなく 互いに対等でありえるかも分かりません。 ★ 理想を語ったに過ぎませんが ☆ たぶん生まれたときからの持ち前のチカラという点では 互いに対等な意志行為の発揮のあり方(つまり 人と人との関係)は 《理想》ではなく自然の思いの発露であるかと思います。 それが 現実社会の中で ふつうに自然に自由にそうしようと思っていても出来ない情況がしばしばであるので まれにしか実現しない理想だと見るのかも知れません。けれども 実際は ふつうの思いであり心であるわけです。 《理想》視するのは 現実の社会力学のあくどさにやられていて 見方が狭くなっている。こう考えられますまいか。
- ukiyotonbo
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病んでいるんだから病院に行けよ。暉彦。 何度もアドバイスしているだろ。 その病のトンネルを抜ける処方箋は私が書いてしんぜよう。 処方せん Rp1) アムロジンOD(5mg) 1錠 朝食後 7日分 Rp2) フロモックス(100) 3錠 朝食後 7日分 メジコン(15) 3錠 朝食後 7日分 ムコソルバン(15) 3錠 毎食後 7日分 Rp3) インテバンSP(25) 1錠 朝食後 7日分 Rp4) マイスリー(5) 1錠 1回1錠1日1回 就寝前 7日分 ちゃんと飲めよ。
お礼
お大事に。
- a_hona
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腰が引けているといえばそうかもしれませんが。 しかし裸で往来を歩けるほど開かれた社会でもないですから。 中々難しいですねえ。
お礼
そうでしょう。――まづは ご回答をありがとうございます。 もし乱暴に言ってしまうなら 《腰が引けている》のではないなら 多少ともアイツは外国人だと見なされるか さもなければキ印だと見なされてしまう。そういう世の中でもあるようです。 ★ しかし裸で往来を歩けるほど開かれた社会でもないですから。 ☆ ハダカというのは 心のことでしたが いまは花を持たせることにしましょう。 一ミリづつでも前進できればよしとしましょう。
- a_hona
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結局は、心も裸では居られないということではないでしょうか。TPOがあって、普段着で居られることが幸せなのだと思います。そこに微かな本音を察知して、余韻を残すような、関わり合いがあればそれでいいのだと思います。それともブラジェロンヌさんは、裸でいいと思いますか?衣類を抑圧と見るか、着こなしと見るか。
お礼
ちょっとビミョーに食い違いがあるような。・・・ まづは ご回答をありがとうございます。 ★ それともブラジェロンヌさんは、裸でいいと思いますか? 衣類を抑圧と見るか、着こなしと見るか。 ☆ 裸のままの心でいるか 着物を羽織るか 武装するまでに衣装をつけるか・・・という分類は 問題の中心には来ない。のではないでしょうか? 薄着をしていたとしても厚着であったとしても いわゆるミラー・ニューロン現象において 相手によって・あるいはその場の空気によって わが心はかなりの程度において言わばあらぬところへ誘導されるでしょうし しばしばそのクウキの要請(あるいは命令)によってやはり萎縮するということ こういう――心理的なでしょうが――現象は 現実に起きている。こう見ます。 心理的なという意味は その時その場の一時的な影響を受けるだけだということが基本ですが ただしそのようなウワベだけの心理的な影響にしても それが度重なって来るならば 習い性となるまでに到るでしょう。ゆくゆくは それが DNA であるなどというまでにちょっとしたキッカケで条件反射のごとく行動してしまう。そういった悪影響を色濃く残す。こう捉えます。 つまり言いたいことは ★ TPOがあって、普段着で居られることが幸せなのだと思います。 ☆ というふつうで自然な思いを おそらく十中が八九 破られるものと思います。 そんな重大なわるい影響を受けていて では どうしてそれでもしっかりとほとんどの人たちが生活を送って行けているのか? おそらく仕事があれば それに従い そこに或る種のすくいを得ているのではないかと考えます。やる事があれば まづ満足するのだと思います。 それは ★ そこに微かな本音を察知して、余韻を残すような、関わり合いがあればそれでいいのだと思います。 ☆ といった事態とは やはりビミョーに違うのではないか? たぶんそういう好ましい事態を持ち得たとしても その持ち得たところから つねに相手とのあいだで互いの心は互いから離れて行く。いつも世の中全体としての感覚ではおのれの無力感や社会としての閉塞感を感じて 相手とのあいだに垣間見た《ホンネの察し合いや 互いの関わり合いとしての感覚》から 仕方なく去って行く。去って行かざるを得ないように 離れて行く。 つまりたとえば 《アース役はつらいよ》なる心が察し合えたのもつかのま そういう人間のほっとするような心は 隅に追いやられウラに隠さなければならないような感覚を持ってしまう。 つまりは かくなる上は これをオホヤケにすればよい。とも考えられるのです。メディアが取り上げるまでになれば しめたものだと言えるほど 公開され誰もが知っているジョウシキになるなら まづは未来社会への門がかろうじて開かれる。かも知れない。・・・ そういう意味での ★ 着こなし ☆ が必要であり 大事なのではないか? そして 心はハダカでいるほうが あんがい一番つよいのかも知れませんよ。どうですかねぇ。 つまりひと言でショウジキに言えば あ_ほなさんは 互いにほぼ同じ世界認識に立ったところにおいて どうもどこか腰が引けている。のではないか? どぢゃ?
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。展望が開けて行くように思われます。 ただし――例によってショウジキ話ですが―― 我れの姿あるいは人間像といったことを描く傾向がつよいのですね。 ★ 飾らない気持ちで生きる ★ 素の自分で居る ★ 心理的に服を着て、それに見合った居場所を持って暮らしている ★ 本来の人間の姿(自然)と 型にはめられた姿(自らのうちにあった自然さえも淘汰してしまって、生きづらくなっている) ☆ これらは これらですが いわゆる《日本教》の問題に触れておられますね。 すなわち: ★ 支配者層と非支配者層の両層を自身の内に持つ現代日本人であるから、その内的な、或いは社会的な葛藤を克服することが第一歩目かもしれません。 ★ そもそも支配、被支配という二つが存在すること自体がナンセンスです。 ★ 自分は自分であり、他の誰でもなく分裂することもありませんから。 ☆ あとの二つの命題は 自然で自由な存在のあり方を表わしていると思いますが 現実問題としては その姿のままではいられないのも 実際だと思います。 つまり何らかの着物を着る前の段階で どういう人と人との関係にあるのか? この問題があります。 抽象的に言って 人がふたりあつまるなら およそどちらかが 《上からまなざしをそそぐ側》と《注がれる受け身の側》とに分かれると思います。 この二分法の行き着く先は 支配者と被支配者つまりお二階さんと一階の人びととから成る社会の二階建て構造であると見ます。そういう社会力学がはたらくのだと見ます。つまり 日本教の問題です。つまり ガミガミ役とアース役との階層構造です。 この社会の構造について ★ 未来が少しでも生きやすくなっているとよろしいですね。 ☆ と展望するかたちで さらにもっと分析する科学ないし思想が出て来ることをのぞみ 俟ちたいと思います。