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大阪城は江戸城の半分の規模?
大阪城と江戸城はどっちが大きいのかな?とおもい、比べてみるとお城の重要中心部分でも面積は二分の一ってこと?
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秀吉が築城した直後は現在のほぼ4倍の規模で、江戸城よりは大きかったと思われます 大阪の陣で徳川方に現在の規模に縮小されてしまいました。 参考 大阪城とその周辺の 移り変わり - 大阪経済大学 www.osaka-ue.ac.jp/zemi/kusanagi/2010nagizemi/pdf/125_ooi.pd... 抜粋 豊臣秀吉が築城したとされる大阪城は、現在の大きさの4倍あったといわれている。 東は玉造・森ノ宮の環状線が走っているあたり。 西は高麗橋から、松屋町あたり。 南は空堀 北は淀川 と今から比べると大きな広さをもった城であった。 江戸城というのは城と街の判別が難しいレイアウトでした。 そういう意味では城郭としては中途半端な構造です。 どこからどこまでが江戸城か、と言われると咄嗟に返事に困るお城です。 お城の重要部分と言われておられますが、どの範囲を比べられたのでしょうか。 江戸城は元々東京湾の最奥にあった双子の島の上につくられた城です。 家康時代に両方を削って間を埋めて境に濠を残した地形でした。 城の前に広がっていた遠浅の海を埋めて街を作っていきました。 現在のお堀端の日比谷公園あたりから、新橋、浜松町までの一帯は、地図の上で区割りして、各大名(主として外様大名)に住みたければ自分で埋めろ!とやりました。 現在の日比谷公園も長州毛利家の屋敷跡です。 日本橋方面も埋めながら掘を残すというやりかたでどんどん広げていきました。 大阪城のように城壁で仕切って城域とするデザインではありませんでした。 主要部分に城門だけを建ててハイオシマイというある意味で横着なお城です。 現在も四谷見附とか赤坂見附などと地名が残っています。 日本全国の大名がぐるりと塀をまわした屋敷を周囲に建てていましたから、人様の塀や建物を城壁がわりにしていました。 現在の皇居前広場から東京駅にかけての一帯も、丸の内とはいえ、大名屋敷がずらりとならんで、町人も自由に往来していました。 現在の東京駅八重洲口前の外堀通りは文字通り外堀ではありました。 神田川の淵に土手を築いて城塁らしくしましたが、町人がよってたかって上に古着屋の店を出してしまいました。 柳原の土手と言って江戸最大の古着屋街になってしまいました。 時代小説ではよく辻斬りの舞台にされています。 一応隅田川を外堀かわりにしましたが、東岸一帯は本所深川と町人街になってしまい、本来は江戸の郊外だったのを江戸の範囲に組み込まざるを得なくなりました。 天守閣の規模も、現在残っている石垣からみても大阪城に比べると隅櫓程度の規模です。 地図の上では本丸が広く見えますが木造平屋建ての事務所がずらりと並んでいただけです。 西の丸も隠居用の屋敷で自然林状態でした。いまでも名残りが残っています。 まぁ~城郭建築設備として比べれば大阪城や名古屋城の方が立派でしょう。
- Saturn5
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大きさはそんなものかもしれませんね。 でも、石垣の高さや緻密さは大阪城の方が上でした。 どちらも、その当時の最高権力者の居城であり、防御力は それほど重視されていなかったと思います。
お礼
確かに大阪城の巨大な石垣は他に見ないですね
- 1paku
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最初に建てられた大阪城は、規模が大きいですよ。江戸城など他の城より一回り大きな城だったようです。 大阪の陣以後に建て替えられたとき、かなり小さくしたようです。 建て替えたのは、徳川幕府ですから、江戸城より大きくはしません。
お礼
google地図でみると主要部分は江戸城の半分程度の面積のようですが
お礼
城の境界がはっきりしないということですね