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弘前城の規模
弘前城の規模、面積は本州の北、田舎の小大名にしては規格外の規模をほこるといわれていますが、なぜ、そこまで大きな城を築くことが出来たのでしょうか? また、実際日本の城の中で、弘前城はどのくらいの基本的をほこっていたのでしょうか? ご存知の方宜しくお願い致します!
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五万石にも満たない辺境の小大名が、五層の 大天主閣を持つ、立派な城を持つことが出来た のは、徳川家康の後ろ盾があったからである。 当時津軽は空き地が多く、新田開発が進められる 良い土地なので、関ヶ原(1600年)の功で、 表高4万7千石を与えられてからの内高(実収入)は 正保2年、10万2千石、(1645年) 寛文4年、15万5千石 (1664年) 貞享元年、26万2千石、 元禄7年、29万6千石 約30万石に達した裕福な藩だった。 (表高も7万石、10万石と増えることになったが) ただし元禄8年東北大飢饉で苦しむ。 弘前城(高岡城)の築城時は慶長15~16年で そんなに裕福ではなかった。 家康は秋田の佐竹、盛岡の南部、仙台の伊達の 抑えとして津軽の起用を考え、家康の養女(姪) の満天姫を、藩主津軽信枚に嫁がせることとした。 このため幕府の援助により築城を開始し、慶長 16年(1611)」5月入城し、6月には満天姫が 輿入れした。 築城にあたり、江戸より検使、石築方奉行らの他 相当数の大工が派遣されたという。 こうしてして、42万m2 もの広大な丘陵性台地の 上に、堂々たる五層の天守閣、櫓八つ、城門十二 という壮大な城が完成し、その威容を誇った。 満天姫輿入れの化粧料みたいなものであろう。 しかしその僅か16年後の寛永4年(1627)落雷火災 により威容を誇った天主閣は焼失した。 元和堰武を過ぎ、天主閣は不要として長く再建される ことはなく、200 年近く経った文化7年(1810)に 三階櫓が代用天主閣として造られ今に残る。 以来威容というより美しい城として名声を博している。
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- あずき なな(@azuki-7)
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弘前城が復元ではなく現存だから広く見えるだけ 実際は5万石の城の大きさで妥当です 石田三成の佐和山城も18万石には過ぎたる城と言われましたね
- tanuki4u
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http://www.hirosaki-u.ac.jp/jimu/gakumu/gakuen/168.pdf 弘前大学の方が語っています。 ○ 特別に巨大ではない ○ 北方の守りとしてちょっと大きめかもしれない ○ 幕閣に受けが良かったのかもしれない というようなことが要点となります
- pri_tama
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>そこまで大きな城を築くことが出来たのでしょうか? 私の実家の近く美濃黒野藩(4万石)の黒野城(まあ直ぐ転封で廃城にされてしまうのですが)は東西南北約1Kmの方形で、弘前城(東西612m、南北947m)より広大ですよ。 鉄砲が主流になり一部では大砲すら使われる戦国末期では、城郭としての縦深防御を確保するには、この程度は必要になります。 (ちなみにオスマントルコの大軍を防いだハプスブルグの帝都ウィーンの城壁の総延長が4kmだという事を考えると日本の城がいかに大きいかわかります。ちなみに江戸城の外郭は15kmを超えます。) なお、同じ4万石の大名の城だと、島原藩の島原城という極端な事例があります。 総石垣(費用がかかりすぎるので関東では極めて稀なのに…。)で天守と櫓49棟を造り、その天守はなんと姫路城、熊本城より大きい[高さが有る]。(独立式層塔型5重5階で30mを超える。) ←弘前城の天守は14m(尾張藩の家老の城である犬山城の19mより小さい) そりゃ島原の乱も起きますわな…。
- mekuriya
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津軽氏は田舎の小大名と思われているようだけど、実際はそうでもない。 大名旗本の実高ランキング http://homepage3.nifty.com/ksatake/libinde.html 表高35万石の水戸藩よりも、むしろ実高は多いぐらいだったのです。津軽氏は外様だったし、南部氏との確執もあって、名目的に家格は低く抑えられていたけど、実際の経済力はそうじゃなかったんです。 豊臣氏にとっても外様だったし、あまりに辺境だったからか、幕府から全く警戒された節が無いのです。 津軽氏は中央政局に関わることもなく、知名度は低いと思うけど、実際の経済力は大大名だったのです。 城そのものについては私は疎いので回答できませんが、ご容赦願いたい。
お礼
参考になりました!回答ありがとうございます。 今も残る大きな櫓門と城郭からどう考えても小大名とは思えませんでしたので!
お礼
回答ありがとうございます。戦国時代末期には大きい城郭が主流だったのですね!