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江戸・東京の都市規模
江戸は、家康の移封を契機として、武蔵野がどんどん拓かれて江戸の街が「の」の字型に拡大していったわけですが、その規模は世界的に見てどうでしょうか? 人口ならば、 ・江戸=10km四方に人口100万人 大坂42万人、京都34万人 (1801年:ロンドン86万人、パリ55万人) ですが、 面積でいうと、どうなのでしょうか? 紫禁城のあった北京やある時期の首都南京、 人工計画都市のパリ、モスクワなど、 世界の主要都市との比較。 あるいは現在の東京都面積との比較でいうと、どうでしょうか?
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%9C%8F%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E3%81%AE%E9%A0%86%E4%BD%8D 都市圏ということで考えると、東京が圧倒的に広いですね。 広義の東京に住むカップルが、どのくらいまでデートの範囲に入るだろうかと考えると、東は中山競馬場(西船橋)あたりまで、北は赤羽あたりまで、西は多摩動物園やサンリオピューロランドくらいまで、南は横浜まではデートコース(活動圏内)に入ってくると思います。 たまには幕張メッセやさいたまスーパーアリーナ、高尾山、江の島あたりも圏内です。 ロンドンやパリレベルの大都市でも、だいたいは山手線の内側くらいの規模なんですよね、中心地はね。上海は近年どんどん大きくなっていると聞きますが、行ったことがないのでどのくらいまで大きくなっているかは私も分かりません。 江戸時代にはどうだったかというと、今は東京圏内の高島平は幕末に高島秋帆という人が西洋式の軍事演習を行って江戸っ子の評判となって高島平と呼ばれるようになったといいますから、幕末も軍事演習が行えるような広い原っぱでした。 また落語の「黄金餅」では、麻布のお寺が江戸から離れた田舎のボロ寺として描写されますので、六本木は大名屋敷がぽつぽつある程度の郊外でした。 東側の下町と呼ばれる地域は今よりミチミチだったかもしれません。でも両国は「あちらの世界とこちらの世界の分岐点だから両国と呼ばれるようになった」という説があるくらいなので、両国が江戸の東のちょっと外れ。 南は品川が江戸の入口という感じでしたね。ひと昔前まで西川口は荒川を渡って東京ではないから規制が緩くなるということで西川口流と呼ばれるリーズナブルな一大風俗街でしたが、そんな感じで品川宿や新宿なんかは吉原なんかに比べるとリーズナブルな郊外の歓楽街という感じでした。 中国やヨーロッパの都市は、歴史ある都市の多くが城壁を持っていました。ここが日本と海外の都市の違いです。日本の城は城だけが軍事施設として城壁に囲われますが、海外の場合は都市が丸ごと城壁で囲われます。なぜそうするかというと、そうしないと攻めてきた異民族に皆殺しにされるから。 だから城壁の内側が「旧市街」で、城壁の外側が「新市街」とされている都市が多いですね。ウィーンはかつて城壁があった場所が今は道路になっていて、その城壁跡の道に市電が山手線みたいにぐるっと回っています。だからその市電の内側が旧市街で、外側が新市街ですね。旧市街の面積がどの程度なのか分かりませんが、感覚的に皇居くらいの広さのイメージです。
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- Zazie5
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世界でもトップクラスの人口を擁する都市に発展しました。江戸の町の構成というものは約100年をかけて行われましたが、それは人口増に対応するための措置です。エポックになったのは明暦の大火による都市改革です。これによって、武家地の整理と庶民の生活圏が拡大しました。
お礼
ありがとうございます。
お礼
こんなサイトがあるとは! あらゆる点に於いて「世界都市・トーキョー」ですね。 びっくりです(@_@)