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常陸の国、佐竹支流石塚家について
戦国時代における佐竹支流で石塚(現城里町)を居城として活躍した石塚義国について、 その生涯を調べていますが、不透明なところが多くてこまっています。 義国はどこで、いつ亡くなったのか、お墓はどこにあるのかお分かりでしたら 教えてください。 よろしくお願いいたしまする
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- fumkum
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こんにちは。質問されてから時間が経過しているので、解決しているかもしれませんが、いくつか分かったことを。 石塚義国は石塚義慶の実子ではなく養子であることです。実父は小場(おば)義宗です。小場義宗は佐竹家の17代当主佐竹義昭の子で、兄弟に18代当主義重(鬼義重)がおり(義重と義昭は母が岩城重隆の女とする同母兄弟)、小場家に養子に入っています。 なお、小場家は佐竹家の3代当主佐竹義秀の子の南酒出義茂の子である義久が小場氏を称したのが始まりで、後に佐竹家の9代当主佐竹義篤(義敦)の子の義躬が養子に入っています。義躬の兄弟には、10代当主佐竹義宣(義信)の他、石塚氏の祖である石塚宗義がいます。 さらに、石塚義国の兄弟である小場義成は小田城城主で、関ヶ原後の佐竹氏秋田転封にあたり先乗りし、敵対勢力を掃討し、大館城を預かり、その子孫は代々大舘所預の職を引き継ぐと共に、子孫は藩主から佐竹の姓を下賜され、一門として佐竹西家と称されます。 次に、石塚義国はもとは小場義辰と名乗り、石塚家に養子入り後、石塚義国と名乗りを変えたとされていますが、石塚義辰の名乗りも使用したようで、石塚義国よりも石塚義辰の用例が多くあります。 石塚義国は養父の石塚義慶を継いで、石塚宗義以来200年以上保持した石塚城城主となったようですが、その後佐竹義重の命で片野城の城主に転じています。その時期ですが、片野城主であった太田資正(三楽斎-太田道灌の嫡孫)が死去した天正19(1591)年説と、文禄元(1592)年の二説がありますが、太田資正の子の太田資武が片野城主とする記録もあるので、文禄元(1592)年に片野城主に転じたとする説の方が説得力があるように思います。 *太田資武は佐竹氏のもとを去って、結城秀康に随い、関ヶ原後には越前に移っています。 関ヶ原後石塚義国は佐竹氏に随って出羽の秋田(久保田)に移住したとされていますので、終焉の地は秋田、もしくは大館ではないかと思います。 以上ですが、蛇足になるかとも思いますが参考まで。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 失礼な言い方かもしれませんが、一小国の豪族については、中々PC上では探せないと思います。 一番良策は、県や市町村には必ず「歴史編纂室」があります。 また、必ず本としてまとめられ出版されているはずです。 但し、非売品の場合もありますが、大概は有料で頒布してくれるはずです。(在庫があれば・・・) 従って、「(城里)町史編纂室」(大概は町役場内)へ問い合わせをされた方が早くて正確な史料が手に入ると思います。
お礼
新しい情報有難うございます。 私が持っている石塚義国に対する情報のなかでは最も新鮮な情報です。 こうなると益々義国のお墓がどこにあるのか、位牌がどこにあるのか知りたいものですね とにかく感謝申し上げまする