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庶民の埋葬法の時代的変遷
仏教と埋葬法は元来関係がなかったかと想像しますが、たとえば江戸時代の庶民などはどこにどのようにして埋葬されていたのでしょうか。戦国時代などは合戦で死んだ人たちの供養塔などがありますが、個人が入るべき墓を各自持っていたのでしょうか。
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>仏教と埋葬法は元来関係がなかったかと想像しますが その通りですね。 仏教では、死後は「無」になります。 遺体は、抜け殻に過ぎません。 ですから、各地に「遺体を捨てる場所」が存在していました。 一種の、自然葬です。 例えば、京都化野念仏寺近辺は「当時有名な自然葬(風葬)の跡地」です。 多くの遺体が、ゴロゴロ転がっていたようです。 >江戸時代の庶民などはどこにどのようにして埋葬されていたのでしょうか。 土葬ですね。 時代劇にでて来ますよね。白装束を着た遺体(膝を立てて座った姿)を入れた丸い木桶。 これを、寺院などの墓地または許された場所に埋葬します。 今でも、瀬戸内の島々などに土葬の風習が残っていますよ。 ※胴体と頭(首)は、繋がっていないと成仏できないと考えられていました。 ※ですから、刑で首を打たれた罪人でも「遺族に引き渡された遺体は、首と胴体を繋いで」土葬にしました。 ※罪人の死刑は、下手人・斬首・打ち首・火あぶり・鋸引きの5種類がありました。 ※下手人だけが、遺体を遺族に引き渡します。その他は、試し切りなどに遺体を用いて供養をする事は許可されませんでした。 つまり、下手人以外は成仏できない+死後も罪を償う事を意味します。 ※下手人は「容疑者」でなく、死刑の一種。多くの時代劇が、間違っていますよ。^^; 巡礼中に死亡した場合は、死亡した土地(遺体が発見された場所)に埋葬します。 巡礼に出る場合は「死後は、その地で葬って下さい。連絡は不要」との手形を持っています。 巡礼衣装は、既に死に装束ですよね。 西国三十三ヶ所霊場・四国八十八ヶ所霊場の巡礼道・旧遍路道筋には、無縁仏の墓石が立っています。 ※巡礼者を接待したり、弔ったりする事は「功徳を積む」と考えられていました。 ※町役人・庄屋などが、責任を持って埋葬しています。 >戦国時代などは合戦で死んだ人たちの供養塔などがありますが、個人が入るべき墓を各自持っていたのでしょうか。 これは、本人でなく「関係者・地域の住民が、建立」したものです。 戦いの後で、勝者は公に味方の戦死者を弔う事が出来ますよね。 が、敗者側の戦死者は堂々と弔う事が出来ません。 そこで、関係者・地域者が供養塔を建てるのです。 また、合戦後数十年過ぎた頃に「遺族が、建立」する場合も多かったようです。
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- suicyo
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現在と同様、墓地に埋葬されました。但し、庶民と言ってもピンキリですよね。 日本全国にある古くからあるお寺なんかに行くと、墓地には大小新旧さまざまな墓碑がありますが、江戸時代の年号のものが結構残っていたりします。古くからの集落の墓地でも同様です。 京都の寺院墓地には公家の墓塔が多数残っておりますが、○屋○兵衛などと彫られた、公家よりも立派な庶民の墓塔も見受けられます。これは恐らく裕福な商人のものでしょうね。 戒名が3人分ほど掘られた30センチくらいの小墓碑もよく見受けられます。これらが平均的な庶民の家族墓なのだと愚考します。一方で、集落の墓地などでは、墓碑銘のない丸い石などが墓地に点在している例もありますね。これらは水呑百姓などのような、庶民の中でも更に貧困層なのではないかと愚考します。 江戸時代の庶民の場合、本来ならば、墓碑銘のない丸い石や木製の卒塔婆などが大半を占めると思われるのですが、卒塔婆は年忌明け後に朽ちたらそれまで、丸い石は墓地の整理によって廃棄されて、残存数が激減していると思われます。一方石の墓碑はピラミットや雛壇のように集石されているのが、現在でも良く見受けられますね。 なお、現在の「○○家墓」などの半永久的な家族墓が一般化し、個人墓を殆んど建てなくなるのは戦後になってからです。
お礼
早速詳しく教えていただきありがとうございました。大変ためになりました。
お礼
いろいろたくさんのことを詳しく教えていただきありがとうございました。勉強していくときに使わせていただきます。