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理解と受容
今まで幾人かの方々と、此処で会話をさせて頂いて来ました。 其のうちの何人かは、自己を自身で未だに捉え切れていない言動が目立ちます。 「守・破・離」 折角、先人が残してくれた物を活用しないのは勿体無いです。 斯く言う私も幼い頃は迷走していましたから、偉そうには言えませんがw 事実を理解では無く、正面から受け止める。 此れだけでも、結構キツイ修行です。 人は直ぐに「理解」したがりますから。 理解は自分の中に、「外」を取り込む行為です。 「外」にあるモノは「外」のモノです。 また、「他」から見た自己は、見たモノにとっての「外」です。 自己の「理解」を外に広げても、他の「理解」とは交わりません。 理解は解釈や分析と呼んでも良いでしょう。
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- kurinal
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こんばんは。 >「貴方が受容出来るか出来ないかは、私の感知する所ではありません。 まさか、私に貴方の人生の責任を取れと?w 私は問われれば答えます。 其れが私の責務と思うからです。 しかし我侭に付き合うほどに優しい人間でも無いのです。 釈尊は本当に素晴らしい方だったのでしょうね。」 事実は、事実であって、その全てを「受容」しなくてはならない、というものではない、 (すなわち「受容」とは「侵害(さえ)を「評価」するもの」ではない、 「教育刑」ですら、侵害を評価したりは、していない) ・・・「事実」とは何か、と言えば、それは「師」を待つより無いですか?
- kanto-i
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お礼ありがとうございます。 気になったので追加です。 >殺し合いも「愛」です。 >ポイントは「誰から見るか」です。 >殺し「合い」も助け「合い」も、所詮は仲間内の話です。 >誰と殺し「合う」のでしょう? >他の種から見た場合は、どうでしょう? >ハンティングは殺し「合い」? >其れとも食事?又は共食い? 人間も生き物ですから、食べる上では同じです。 それ以上殺さなくて十分であれば、殺し合いは無いのではないでしょうか? 他種でも必要以上の殺戮は、愛でしょうか? 同種と食べ物を分かち合わない時に、愛はあるのでしょうか? 生きる必然の「食欲=愛」は、分かち合い無しに成立しますでしょうか? 反論と言うより、0fool0さんですから疑問に感じました。 他種を食すための殺生は、私にとっては悪ではなく 生きる摂理という認識だからかもしれません。 必要悪と言う言い方もありますが、行為は目的で悪と 呼ばれるようになるものと思います。 故に遭難した時、話し合いで犠牲者が出ても法でも裁かれません。 悪意でやっているのでは無いからだと思います。 悪意から悪行は生まれますが、生きる営みの行為は行為として 区別して受け止めています。 殺生は全て悪と捉えてあっても、それはそれで構わないのですが ウサギが食べる草も生き物ですし、生き物括りですと トータルで見た矛盾無き落とし所は微妙になるようにも思えます。 >自己が磨耗してしまう生き方は、楽しくないと思います。 確かにそうですね。 私の場合、磨耗せず充電でいいかなと思っています。 磨耗なしで磨く方法も有るかなと。 人それぞれで好きな方法を選ぶことができますが そう言う方法もあると言うことで。 反対したい訳ではなく、自分と向き合い対応して行くと 観える範囲が広がっていく。 広がるに連れて、選択肢は驚くほどに増えていく。 そうなっていくと、精神的消耗が無い選択肢も出てくると言う話しです。 勘違いが無いように言っておきますと、その選択肢は諦めでは無いです。 諦めは、生きるエネルギーまで奪いますから。 気がつく所まで行けば、誰にでも多くの選択肢が待っています。 自分と向き合える人は、本当に少数ですので 言いたかっただけなのですけどね。
お礼
どの様な助け合いも殺し合いも、条件の下で行われます。 ある条件下、判断を下して行います。 その判断は、双方が望んで行われる訳ではありません。 あくまでも「一方の判断」です。 此れは例え善意からであっても悪意からであっても、一方を排する「差別」であり「区別」なのです。 しかしその「差別」が世を「世」たらしめています。 其れを「愛」と呼ぶのは間違いでは無いが、不足していたので、「助け合いも殺し合いも」と補足しました。 仮にどちらかだけを論って「愛」と形容するならば、其の愛への対語が生じます。 其の場合は「アガペー」ではなく、「エロス」となります。 私は通常は「道」とか「真理」とか呼びますね。 助け合いだけを「愛」と呼ぶのならば、其れは「真理」からは程遠い行為だという事です。 はい、選択肢は「無限」です。 そして同じ「時」「場」「人間」がそろう事が無い事を思えば、他人の行いは「糧」等にはなっても、「答え」にはなりません。 ですので早いか遅いか、留まっているか位の歩みの違いはあるでしょうが、其の価値の差は鳥の速さを羨む程度の意味もありません。 早いが良いか遅いが良いかは、唯の「判別」でしか無いからです。 何時もお付き合いありがとうございます。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
0fool0様、今晩は。 >「「受容」は別に他の単語で表しても何の問題も無いのですが、少なくとも現在の貴方の行動様式では捕らえ切れない物です。 折角ですから楽しみましょうよ。 何(理解)をそんなに護るのですか? 書き込みありがとうございます。」 「理解を護る」では、ありません。 「受容」にも限度がある(他者への侵害行為は、許容されない)、ということです。
お礼
>「受容」にも限度がある(他者への侵害行為は、許容されない)、ということです。 貴方の限度を軽く超えているのは当たり前です。 その様に発言したのですから。 ポイントは「貴方が正しいならば、私を論破すれば良い」だけです。 貴方が受容出来るか出来ないかは、私の感知する所ではありません。 まさか、私に貴方の人生の責任を取れと?w 私は問われれば答えます。 其れが私の責務と思うからです。 しかし我侭に付き合うほどに優しい人間でも無いのです。 釈尊は本当に素晴らしい方だったのでしょうね。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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おふろさん、ご返事ありがとう。 赤緑シキモウ? トマト色やキュウリ色がわたしと違うってことかしら。 信号の色は? あ、すみません、訊いてみたいだけです。 言葉で説明してもらっても、同じ感じ方はできないんですが。 他の感情なんかもそうで、誰かの怒りをわたしが怒ることも 誰かの痛みをわたしが痛むことも無理でせいぜい想像するぐらい。 それも自分の内側のものを使って、です。 どうでもいいんですが、わたしは泣いているときに慰められたり なだめられたり励まされたりどうして泣くのか尋問されたりするのが 大嫌いでした。泣きっ面をポケ~っと眺めてもらうのが一番。 _______________ >此の挙げてある言葉は、此れは全部私の発言ですよね? :そうなのですか。気のせいです。 わたしはあなたのファンですがストーカーではないので。 >私の匂いがするので、多分そうなのでしょうが :そうですか。移り香なんぢゃないですか。 ではでは。
お礼
>わたしは泣いているときに慰められたり なだめられたり励まされたりどうして泣くのか尋問されたりするのが大嫌いでした。 面白いと思いました。 私と同じだなと。 私と感じ方が同じとは限りませんが、私は「強く」在りたかったので、同情は侮辱に思っていました。 「同じにすんな!!」とね。 今思えばどっちが侮辱しているんだかw 私の発言で無かったとは、赤面の至りです・・・ 人の功績を掠めるとは恥ずかしい事です。 申し訳ございません。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
お礼ありがとうございます。 本の紹介、ありがとうございました。 >追加の一言として、「助け合いも、殺し合いも、根底は愛」と、補足しておきます。 殺し合いは、情なら分かるけど愛ですかね? 自分の中にある純粋な愛を感じ取れる人は、どのくらいいるのでしょうか。 これは以前からの疑問ではあります。 愛情じゃなく、純粋な「愛」 最初に見つけた時は驚きましたが、愛を探して見つかる物では 無いですから、如何ともしがたいものです。 学びは日常で自分と向き合えなければ、理解度は下がります。 哲学と心理学においては、それが顕著に出てしまいます。 勿論、数学や物理にも出ますから論理的思考も阻害されるんですけどね。 自分と乖離するほど、思考は矛盾が増えます。 目の前にある答えにも気がつかない、多数の進言があっても 自分だけの理論にはまってしまう。 それに良し悪しや是非を問うものでは無いですが 結局は矛盾ですから、他者とも自分とも摩擦が絶えないだろうなと。 0fool0さんなら分かるかなと思って書きます。 私、Q&Aに自分を観に来てるのが本来の目的です。 外部刺激が無いと、発想は広がりが出ません。 ですから、この手の質問は非常にありがたいです。 自分で全て選べると、今の自分を超えることは無い。 人との関わりが無いと、人間は成長が下がります。 常に外界との接触で、自分の理解が深まる。 理解も受容も、関係性から触発されて行くので 人間にとっての関わりは、愛を育む成長を続けたい気持ちを 持つ者の必然でしょうかね(^ ^) 自分の中で、いい完結が出せました。 一つスッキリしました。 またの質問を楽しみにしています。
お礼
殺し合いも「愛」です。 ポイントは「誰から見るか」です。 殺し「合い」も助け「合い」も、所詮は仲間内の話です。 誰と殺し「合う」のでしょう? 他の種から見た場合は、どうでしょう? ハンティングは殺し「合い」? 其れとも食事?又は共食い? >他者とも自分とも摩擦が絶えないだろうなと 素晴らしい表現だと思います。 自己が磨耗してしまう生き方は、楽しくないと思います。 しかし研がなければ、切れ味は落ちます。 「研ぎ」と観るか、「磨耗」と観るか・・・ 見方次第ですねw 私の書き込みに楽しんで頂けているのは嬉しい限りです。 しかし本当に楽しませて貰っているのは私です。 書き込み本当にありがとうございます。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんばんは、おふろさん。おもしろいです。 >自己を自身で未だに捉え切れていない言動が目立ちます。 :いやあ耳が痛い。最もとらえどころがないのが自分で、 いったい何者なのか、理解・判断できないのが自分ですから。 内側からは理解不能で、感じることができるだけだし、 それに分けられない、分からないのですよ、自分。 昔の恋人が、人間の幸せな状態は納得していることだ、というので、 それはおかしいのではないかと言い合いをしたことがあります。 フロイトが好きな人でした。 何が起こっているのか、どのように・なぜそうなったのか、 見ざる聴かざる言わざるでいるよりは知っている方がいいけれど、 人間の納得あるいは理解の仕方が正しい(?)のかは疑問。 思考回路はいつも直線的でクセや歪みがないのかも疑問。 アバタを見て、これはエクボであると理解したがるぐらいだし。 アバタはアバタとして眺めたり見つめたりできないものか。 あまりおもしろい例が思い浮かばないのですが、 たとえば直方体の3つの面が赤だった、これは赤い箱にちがいない、 そう決定(?)すると、他の面が何色なのか 気に掛けることすら一瞬で忘れてしまい、「赤い箱」と呼びます。 他の面が緑色かもしれなくても、どうでもよくなるんですよ、苦笑。 ラクですから。自分の都合で理解するのは。 五感の働きの省略といいますか、思考の省略といいますか・・・。 >自己の「理解」を外に広げても、他の「理解」とは交わりません。 :同意します。 どうもおじゃましました。
お礼
うわぁぁあぁ・・ 幾つも面白い言葉が掲げてあり、楽しいです。 一番感じ入ったのは、「アバタはアバタ」です。 そして「赤い面と緑の面」・・・ 実は私は「赤緑色盲」(軽度ですが)なので、他の方とは見える世界が産まれ付いてから違うのです。 私は私の見える世界を他の方は見る事が出来ない事を、子供の時に知りました。 逆に他の方の見え方を、私は永久に知る事が出来ない事も。 表と裏の例として挙げられたのですが、別の面がある事が、また楽しいです。 しかし、此の挙げてある言葉は、此れは全部私の発言ですよね? 私の匂いがするので、多分そうなのでしょうが、良く集めましたねw
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
お礼ありがとうございます。 最近やっと哲学は全て現実に展開できるのが理解できました。 現実化出来ないないのは、自分の問題であり 自分が自分を理解してなかったのが骨身にしみます。 自らの愚かさも全て認めていくと、見えてくる世界は それそのものが全て自分を導く糧となります。 人間は愛で作られていて、愛で生きて愛で生かされている。 それを深く理解したのが、この夏の収穫です。 全ては、愛するのが実態として備わっているためか その実態ゆえ成長できるのか、そこはまだ分かりません。 真の理解は、結局自分で歩くことかなと思う次第です。 分かれば分かるほど、自身の無知と出会います。 その出会いが結局は成長であり、自分が持つのびしろなのかなと思います。 いかに愚かでも、自分を愛し人を愛するのは素敵で素晴らしいこと。 未熟さは、愛によって変えることができる。 本当に愚かしいのは、無知より愛無きこと。 助け合いも分かち合いも、根底は愛。 Q&Aも、成り立つのは愛あればこそ。 自分の中の愛が見つかれば、生きるのは楽しいことだと思います。 人は生まれながらにして、見えない宝石を必ず持っている。 それこそが至上の宝だと思います。
お礼
「愛」 素晴らしい言葉が出ました。 私の感じ入った「愛」の語りを提示します。 「幸村誠 VINLAND SAGA ヴィンランド・サガ 第6巻 37話」 追加の一言として、「助け合いも、殺し合いも、根底は愛」と、補足しておきます。 此の世は「愛」で満ちています。 お付き合いありがとうございます。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
理解の意味する所。 理解をどういう理解で使っているか。 外から取り込んだもので、自身を理解することも出来るように思います。 頭に知識(情報)と言う意味ですが。 自身に対する理解と受容で、外の理解と受容も高まります。 自分と言う基点が定まらないと、見るものが歪みを生じます。 許せると理解は深まりますが、自分を捉えきれれば 自身を適切に導けるかなと思う次第です。 「守・破・離」は、必要と思いますが 活用するに至るよう精進とセットです。 活用を考える人も、あまり居ないのかなぁと感じることもあります。 言葉は抽象化されますが、抽象化される前に事実がある訳で 抽象化はその後、実際は展開できますよね。 展開できるようになるための体験・経験や考察不足が問題を大きくするように思います。 意識的に展開し続けていると理解できてくるように思われますね。
お礼
全く持って、其の通りだと思います。 全ては「使い方」次第です。 「守・破・離」 と精進の言葉は楽しく思いました。 私なりの解釈ですが、「教科書」と「教師」に感じました。 いつも楽しい言葉をありがとうございます。
- 2014japan
- ベストアンサー率22% (35/159)
私も自己を捉え切れていません。哲学カテに回答する資格はないかもしれません。 私もですが、多くの人にとって師匠は書籍しかありません。 当然、誤解、不理解は避けられませんし、更に著者の真偽、能力がかかわってきます。 こうゆう状態で「守破離}の段階まで行けないように思います。 私は一時期、ある新興宗教を信仰していました、毎日のお経と集会、勧誘が修行でした、根気が無かったかもしれませんが、疑問もあり挫折しました。 その後キリスト系宗教系の集会へも何度か通いましたが、結局は寄付と勧誘目的でした。 このように、信頼に値する指導者を得ることが出来ないのです、仕方なく、少ない情報に自分勝手な想像を組み合わせて自分なりの哲学を作っているというところが、現在の自分です。 質問回答を見ていれば、多分他の方も同じ様なもの、のように感じます。 おっしゃる通り、私は物事を理解しようと努めますが、理解が重要でないことは理解しています。 ただ、事実を正面から受け止めることが、出来ているかは全くわかりません、それは大ごとが他人ごとだったからです。 自分に当てはめたことが有りませんでしたので、じっくりと考えてみます。
お礼
書き込みありがとうございます。 私は貴方に軽々しい言葉は言えません。 唯、私の言葉が、少しでも役に立てば、望外の喜びと言う物です。 一歩、一歩だと思います。 ご自愛を 追伸 私で良ければ、言葉遊びには幾らでも付き合います。
- kurinal
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こんばんは。 >「事実を理解では無く、正面から受け止める。 此れだけでも、結構キツイ修行です。 人は直ぐに「理解」したがりますから。 理解は自分の中に、「外」を取り込む行為です。 「外」にあるモノは「外」のモノです。 また、「他」から見た自己は、見たモノにとっての「外」です。 自己の「理解」を外に広げても、他の「理解」とは交わりません。 理解は解釈や分析と呼んでも良いでしょう。」 「理解」については、一家言、あるようですが、 それでは、(仰る)「受容」については?
お礼
んん~~・・・・ 貴方が私の言葉に真摯に耳を傾ける事かなぁ~~・・・・ 貴方は貴方の「理解」を振り回して終わっていますが、判ります? 「受容」は別に他の単語で表しても何の問題も無いのですが、少なくとも現在の貴方の行動様式では捕らえ切れない物です。 折角ですから楽しみましょうよ。 何(理解)をそんなに護るのですか? 書き込みありがとうございます。
お礼
>すなわち「受容」とは「侵害(さえ)を「評価」するもの」ではない 私の言う「受容」は全てを受け入れる事であって、「評価」する行為ではないですよ。 好きな回答だけ選んで、嫌な回答は無視する行為が、「真髄」を求める行為だと思いますか? 貴方は持っていない、私は持っている、だから私は教示したのですが、貴方が「真髄」を求める、又は得ているならば、正面から私を論破すれば良いだけです。 駄々を捏ねるのが修行になりますか? >・・・「事実」とは何か、と言えば、それは「師」を待つより無いですか? 文意が読み切れないので、何ともコメントがし辛いですが、他人の「師事」を受けた方が良いかと言うお尋ねでしょうか? となると「師」を持った事の無い私には答えは出せません。 私の師は先人達の残して下さった知識と、関わった世界と、私自身の人生です。 遊んで下されて嬉しいです。