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マ(間・間合い)の理論

 マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。    この理論は けっこう広い範囲で有効ではないかと われながらひそかに期待していたのですが 一向にわたしの中で進展も発酵もしないままです。いまいちどみなさんの前に提出して ご見解をうかがいたい。こういうコンタンでいます。  (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (δ) ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してください。  感想もお寄せください。

みんなの回答

noname#205880
noname#205880
回答No.2

ことの発端は、言葉をつくり、善/悪をわけたことにあるんじゃないでしょうか。 本当は人間はころしあいませんが、現状ではズレ(とおっしゃってるもの)のおかげで、常に何処かでころしあいます。

bragelonne
質問者

お礼

 2580aaa さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 現状ではズレ(とおっしゃってるもの)のおかげで、  ☆ この原因を  ★ 言葉をつくり、善/悪をわけたこと  ☆ と捉えておられるのでしょうか?  たとえば 次のようにこの原因をふたつの場合に分けて問うています。  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   (α‐2)    (あ) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか?    (い) それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とすれば 《言葉をつくる》ことは 独りだけでは出来ないので (い)のほうで捉えてよろしいでしょうか?  ただし 《善 / 悪を分けたこと》は ひょっとして独りだけでも出来るのでしょうか どうでしょうか。  (あ) 《わたし》の内面に原因があって起きるのか?   という側面をもふくむ。ということになりましょうか? わたしは わたしの心にさからって善と悪とを知る木から採って食べた。からでしょうか?  そのとき でも《ことば》は出来ていたでしょうね。エワは 蛇と会話をしていますし アダムにも食べるように ことばで誘っています。  (い) わたしどうしのカカハリ / マジハリ  としての《言葉をつくったこと》のほうが 大きな原因になっているでしょうか?  ううーん。  ああ ただし これらの《言葉の問題》も《善悪を分けたこと》も  ★ ことの発端は  ☆ というかたちで捉えておられますね。必ずしも《原因》ではないのかも知れない。《わたしの内におけるマのズレ》にとって 間接的な原因になっている。ということかも知れない。    とすれば 直接の原因は おのれ自身の意図的なズラシ ここにあるのでしょうか?  どこか・何かが 《おのれのマ》の問題として チガイを生じたり抜けたりしたのでしょうか。  《たましづめ(鎮魂)》が 必要になりましょうか。  必ずしも生産的に・建設的に復唱しえなかったかも分かりません。  言葉の問題も 善悪観も 一筋縄では捉えられないでしょうね。

回答No.1

こんばんはです。 この質問は、難しいですね~。 ☆《わたしがわたしである》 ◇主語の「わたし」は、認識主体・心なのでしょうが、 述語の『わたし』が何であるのか、 これが問題だと思うんですよ。 ───主語と述語の《わたし》が逆転しても構いませんが─── たとえば、認識主体が私と考えるもの、肉体と心を含めた私であり、主観からすれば対象であるとすれば、 認識主体の「わたし」と『わたし』は、ものすごく近しい間柄であるけれど、 これは他者と考えるべきなのでしょう。 そうではなく、 述語の『わたし』がアートマンのごとき《真我》のようなものであるならば、違う話になる。 で、認識主体の「わたし」と『わたし』で考えると、 《わたしはわたしである》は誤解、認識の誤りなのでしょう。 この誤解からさまざまなことが起こるのであろう。 認識主体である「わたし」が役割や能力などで期待する『わたし』と、『わたし』の行いや結果と食い違ったとき、 「こんなのは、本当のわたしではない。本当のわたしは、こうではないはずだ」 などと言ったりすることがありますよね。 「わたし」、もしくは、「わたし」が期待する『わたし』と、『わたし』がまったく同じものではないにもかかわらず、同一であると、その距離感を誤っているから、こうしたことが起こるのであろう。 弁証法的に止揚したあらたな《わたし》、「わたし」と『わたし』を統括するような、あらたな《わたし》が必要なのではないか。 主客の対立を超えた《わたし》が必要なんじゃないか。 そして、それが本当の《わたし》なんであろう・・・。 はっきり言って、言葉遊びなんですが。 書いている本人が、何を書いているのか、自分でも分からない(笑い)。 そして、 他人と「わたし」は、関係性で考えていいんじゃないですかね。 ここで、大切なのは、交渉性と距離感ですよ。 特に距離感が大切だと思いますね。 AとBという特定の人の関係においても、この適切な間合い・距離はTPOで大きく変わるので、 難しいですよね。 かつてBを喜ばしたり慰めた同じ言葉でも、場面や状況が変わったりすると、Bを深く傷つけたり、Bに「ふざけるんじゃない」と怒られたりもしますので。 まぁ、怒らすのも、《魂振り》かもしれないんですけれども♪ 今日は睡眠不足の上に、暑かったので、 頭が難しいことを考えることを拒否しているので、 ひとまず、こんなところで。 「わたし」は『わたし』の頭に「もっと働けよ」と命令しているのですが、 『わたし』の頭が言うことを全然聞いてくれないので(ポリポリ)。

bragelonne
質問者

お礼

 気持ちよく眠ってらっしゃる。この季節 コタツがちょっとという感じはありますが。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  きょうは 条件がよくないですか。  ◇ そうではなく、 / 述語の『わたし』がアートマンのごとき《真我》のようなものであるならば、違う話になる。  ☆ あぁ。それはそれでありなんでしょうけれど さすがこの質問趣旨としてはそこまで考えていませんね。  と言いますか そういう場合には その真我=おそらく霊我・つまり 非思考の庭 のことだと思われ ただちに信仰の問題になるかと思うのです。  この問題すなわち:  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~    ☆《わたしがわたしである》  ◇主語の「わたし」は、認識主体・心なのでしょうが、  述語の『わたし』が何であるのか、  これが問題だと思うんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なる問題ですが わたしの内では意外とかんたんです。わざと複雑に考えないということでもありますが つまりは   《わたし》とは そのわたしという言葉で呼ぶ対象です。   つまり 自称するのですから おのれみづからのことです。  しかもそのことが 《わたしとおのれとのマ》というふうにも あたかも隙間があるかのごとく言っています。  なぜかと言えば そこに おのれの心にさからってのように ズレないしズラシが起こるからです。別名で やましさ反応のことだと思います。  わたしは 単純太郎ですから 《自我》だの《超自我》だのにはついて行けない人間ですし 次のようにも考え慣れていません。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば、認識主体が私と考えるもの、肉体と心を含めた私であり、主観からすれば対象であるとすれば、  認識主体の「わたし」と『わたし』は、ものすごく近しい間柄であるけれど、  これは他者と考えるべきなのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうではなく わたしはわたしだの一点張りです。わづかに ズラシは起きる。こういう見方でいます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  で、認識主体の「わたし」と『わたし』で考えると、  《わたしはわたしである》は誤解、認識の誤りなのでしょう。  この誤解からさまざまなことが起こるのであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。こうなると わたしにはむつかしい。  《認識》のあやまりは 起きることはないと思うんですが どうでしょう?  すなわち 認識の主体としてわたしを意識したとき その意識対象はすでに認識主体であるわたしだと思うからです。意識・認識・呼びかけのいづれの場合にも 行為主体とその対象とは 一致してわたしです。  わたしとおのれとのマのズラシ これは けっきょくむしろ何かひとつの主題をめぐって認識なり意欲なり気持ちなりの違和感やさからいが起きることだと考えられます。  ワタシやオノレをわたしとは別のどこかにその像を描いたり観念としてつくったりして捉えるということは ないと思うんですがねぇ。単純右衛門之丞安易之守でしょうか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  AとBという特定の人の関係においても、この適切な間合い・距離はTPOで大きく変わるので、  難しいですよね。  かつてBを喜ばしたり慰めた同じ言葉でも、場面や状況が変わったりすると、Bを深く傷つけたり、Bに「ふざけるんじゃない」と怒られたりもしますので。  まぁ、怒らすのも、《魂振り》かもしれないんですけれども♪  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは おもしろいですね。    よって  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  他人と「わたし」は、関係性で考えていいんじゃないですかね。  ここで、大切なのは、交渉性と距離感ですよ。  特に距離感が大切だと思いますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ 弁証法的に止揚したあらたな《わたし》  ☆ これは たぶん 無いと思っています。反論を期待もしますが 弁証法と言う前にすでに はっと気づくなら わたしは我れに還っていると思うのです。認識行為を超えた《気づき》が ヒラメキのごとくはたらくのではないかと思っています。  取りあえず こんな感じでしょうか。

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