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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:マ(間・間合い)の理論)

マ(間・間合い)の理論とは?

このQ&Aのポイント
  • マ(間・間合い)の理論は、世の中におけるミスやズレが起きる原因を探求し、適切な間合いを探求する思考です。
  • 人間はお互いに殺し合わないものであるという命題から始まり、自己との間、相手との間の関係を保ちながら、互いの自由を侵さずに生きることが重要です。
  • また、マの理論は心理学や精神分析と関連し、人文科学や社会科学の応用となるほか、人間関係や社会の問題にも関わっています。

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noname#130919
noname#130919
回答No.3

(1)批判点 批判をして欲しいというご要望なので、3点、少し書きましょう。 まずA-S理論の利点が、私にはよくわからないのです。大まかに言えば、これは階級闘争なのでしょう。しかしそれをわざわざ日本の神話の名前をとって命名した理由が分からないのです。何か天皇制と関連した理論なのかもしれないが、この点は説明が欲しいところです。 そしてA-Sに従ってマの理論が階級闘争に関係すると、さらによくわからないことになります。マの理論では、鎮魂によって自己認識を改めることによって、丸く収まる、というわけでしょう。 しかし一般的な階級闘争は、マルクスのモデルに従うわけですが、抑圧された民衆が自己啓蒙して成熟し、自らの力で上層階級を打ち倒して(革命)、民主主義は成立することになります。しかし鎮魂されると民主化は実現されません。一般的な階級闘争のモデルと全く逆行しているわけです。 断っておくと、私はマルクスの信奉者では無いので、別段、マルクスに従ってないから受け入れられないとは言いません。ただ鎮魂されて丸く収まってしまうのでは、階級闘争の理論として、どういうメリットがあるのか皆目分からないことになるでしょう。 民主主義はいかにして実現されるのかという点について、どうも先鋭化されていない気がします。鎮魂で実現するのはシャーマン=天皇となった原始的な共同体でしょう。それを目指すならそれでもよろしいですが、どうも私には納得しかねるところです。 最後にマの理論のモデル・ケースはどこにあるのでしょうか。下手に理論家の名前を列挙してとりつくしまが無いと思われてもよくないですが、通例、理論はモデルとなる具体的なケースがあるはずです。モデルを作り、それを応用するというのが論理的です。ブルデューなら戦時下のアルジェリアであり、ホネットならイギリスの労働闘争、ランシエールなら六十年代パリの学生闘争です。鎮魂されて丸く収ったケースは何を説明しているのでしょうか。設問のテーゼで日本の戦後におきた民主化を説明できるのでしょうか。 (2)精神分析 さて質問があった精神分析ですが、自己考察できるというお考えのようですが、一般的にはそれは認められていないのです。無意識は自己では認識できないから無意識である――という四角四面な定義から、最初は出発するのです。特に仏語では「サ」ca(セディーユ記号が反映されないのでcになっています)というように、自分では表現しかねる「それ」という意味です。 フロイトやユングの著作を読んで、「もしかしたら自分は~~ではないか?」と考察する人もいるでしょうが、これはまだ精神分析とは言わない段階です。自分の意識化にある範囲を精神分析的シェーマに捉えなおす、というのにすぎず、無意識の分析にならないからです。無意識を引っ張り出す経験が無いと、精神分析とは言えないのです。理論家も、自分で自己分析をしたのではなく、人に一度診てもらっているのです。 (3)最後の「私」の定義について >☆☆ (趣旨説明) (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わ たしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたし していること》である。  ☆ 強いて無味乾燥な説明を添えるならば 《わたし》を数として《一》と見 るかたちをとります。  ○ わたしがわたしである。:  1=1  ○ わたしがわたしする。そのわたしがわたしする。・・・: 1x1x1x ・・・x1=1  ☆ つまり 自己表現――あるいは わたしの文体なる動態――は わたしの 自乗をかさねてあゆむわたしの連乗積の道のりである。 率直な感想から言うと、これはマの話になっていませんね。 自分が自分であると信じる役割(ファクティスやペルソナ)を演じればそれでよいという話で、別段ここに他者とのマは関与しないわけです。 1のたとえを使ってらっしゃるが、個々に他者を表わす別の記号が関与する数式でなければ、マとは言えますまい。この数式では、自己はアプリオリに規定されるといっているのと同じことになります。アポステリオリな範囲が入っていないなら、理論としては片手落ちな印象がありますね。 ご参考までに。

bragelonne
質問者

お礼

 ところでただの労働者たちの大衆・・・は したがってまた一つの保証された前提としてのこの労働そのもののもはや一時的でない喪失は 競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》( weltgeschichtlich )存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。   (古在由重訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この文章を すべて《 A - S 連関》なるマの眼でつらぬいて見て欲しいと思います。したがってそのマの実践は たとえば  ▲ いまの状態を廃棄するところの現実的な運動  ☆ というところも 《状態を廃棄する》とは必ずしも思わない。《反措定に対する反措定》ですから その結果 ふるい制度やならわしが《廃棄》もされるでしょうけれど けっきょく――思想闘争と言いましたが それは――対話であり話し合いです。つまり民主主義であるはずです。マをかかげること自体が 対等なる関係を意味しますから とうぜんのことと思います。  《プロレタリアート》は 経済〔学〕=政治〔学〕的な規定だと思います。わたしたちは プロレタリアなる存在として 自己還帰するのではないわけです。社会的な力学関係の上で・そのマの具体的な情況の中でプロレタリアという位置づけを得ています。  マルクス自身が  ▲ 共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。  ☆ と言っていますので この点にかんするマルクス理論になぞらえたマの理論批判はにかんしては初めから当たらない。いつまで経っても実現することのない単なる理想を掲げているのではないかといった批判はあたりません。ただ 人間としての世界史的な連帯は 見ようとしていますが。経済の・つまり資本主義の世界史的な発展ということも 基礎として捉える限りで 重なるとは思います。その発展に応じて マの理論やまたその実践それぞれの具体的な内容を考え決めて行くものと考えます。  ▲ 諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。  ☆ ここはマルクスの大きさだと思います。《わたし》にとっての世界史的なマのことだと見ます。  ★ (3)最後の「私」の定義について  ☆ 《わたし》の《一》は 全体という意味で捉えてください。《わたしとおのれとのマ》を思うときのわたし(その人格の全体)であると。  ★ (2)精神分析  ☆ もし臨床の分析を欠かせないだけではなく その場のあり方(あるいは その結果の境地のあり方でしょうか)を除いては 内容として成り立たないということでありましたら わたしの見込み違いでした。つまり それは いわゆるブディズムにおける空海らの唱える密教となります。秘伝があるというわけのものです。一般に経験合理性によって理解しうるような思想として伝え得ないという条件をつけているという意味です。  (2)と(3)を端折りましたが そういうことではないかと考えます。  これにてマの理論はなお持ちこたえると思っておりますが よろしければさらにおつきあいを願っておきたいと思います。    * プロレタリアと言えば わが国では 被差別民の問題があります。深く深く地下にもぐってしまっているとも見られています。夕鶴で へたのすけさんという方が その主題を提起し解こうとしておられます。

bragelonne
質問者

補足

 ヤクタアレアエストさん わたしののぞみに答えていただいてありがとうございます。  お早うございます。ご回答をありがとうございます。  正直に申せばもっとこっぴどく もっともっとこっぴどくとお願いしつつ 今回は弁明にすすみます。  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~  いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいて逆立ちしてしまっていると見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。  つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが――もしそれをも《階級闘争》と言うとしても―― マの理論の実践になります。中核は 《わたし》の自己到来および自己表現にあり それは おもには意志行為の問題だと見ます。具体的には 上のように もし言うとすれば思想闘争といったかたちになるでしょうか。思想とは 生活態度だと思っています。  生活が基礎であり そのさらに基礎は経済ですから――そして中核は 共同自治(つまり 意志)ですが――社会階級の理論と重なるとは考えます。  社会主義革命は 権力の奪取を――しかも マの理論の第一命題(α)(生命の尊厳)を暴力革命において無視してよいとしています それを――つうじて 生活をあらためるのだと思います。  それに――と言いますか そのひとつの基盤として――その昔の発端にスサノヲ市民らによるアマテラス種族への《くにゆづり》があったという出発点は重要であると見ます。世の中の音頭取りをおれにやらせろ おれたちは優秀だと年柄年中言いからかしていたものですから スサノヲらも根負けして社会というやしろに神棚をこしらえ そこにかれらを住まわせようとしたわけです。  いちどゆづったからには おいそれと引きずり降ろすわけにも行かない。ということにもなりました。足利義満や信長らがたとえ日本国の王にまではなっても ゆづったものを ゆづらせ返すというのも おとなげないものですから アマテラス圏の核(これを アマテラシテ象徴と呼びます)は残しました。一揆はやっても 権力を取り返すという革命はやらないのでしょう。  マの理論は こういった――そのまま史実ではなくても――思想つまり生活態度に沿って成り立ちます。  あるいはこの A - S 連関は お上には逆らえないといった日常の生活感覚を言っているものです。それだけでも しかしながら 任意の二人のあいだの視線の交錯に含まれるガミガミ役 vs. アース役といった A - S 連関制(その擬似形・相似形)は指摘することができると自負します。  西欧では たぶん一人ひとりが《 A - S 連関主体》どうしであり 社会(国家)として   《A ( A-S連関) - S( A-S連関)》連関制  として成っているのではないでしょうか? もっと対照を際立たせれば おそらく西欧人は 一人ひとりが《 A = S の一体構造》から成っているのかも分かりません。政治革命は 一階と二階とのあいだで互いの近親憎悪より起こしているのかも分かりません。スポーツ( disport )なのかも分かりません。   せっかくですから ひと言も触れないというのもだめでしょうから マルクスについては わざと次の文章を引っ張り出して来て それとの対照を見てみます。  ▲ (ドイツ・イデオロギー)~~~~~~~~~~  共産主義は経験的にはただ《一挙に》( auf “einmal” )または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。・・・  共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。  この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる。

その他の回答 (3)

noname#130919
noname#130919
回答No.4

久しぶりに夕鶴の方を開けました。基本的に批判をするのは議論を磨くためであって、元のものを破壊してしまっては意味が無いでしょう。批判者がサディストなら愉快かもしれませんが、私はそうではないようです。こういう最低限のところはわかった上で話をしているつもりですから、御懸念なく。 A-S理論がどうマルクスに理論するかですが、残念ながら、全体像が私には見えていません。マルクスの理論では連帯の前にある変革をどう起こすかということが一つの問題で、変革のためには暴力致し方なしと強調すると60年代の学生運動になりますが、話し合いもまた一つの手でしょう。認めるところです。 ただ鎮魂に対してどのようなイメージがあるのかが、私には見えないので、的外れなことをいっているのかもしれません。一の話もまた同じことです。そもそもマとは個人がペルソナを構築するまでの話ではないかと思えたわけです。 精神分析は秘教的な側面があるでしょうね(空海のことはあまり知らないので同じかと問われても同意するほどの材料が無いです)。 別の質問欄のやり取りでラカンがお嫌いのようだとわかりましたが、あれも仏語で読むと、言葉遊びで議論が展開しています。ちゃんと椅子に座って真面目に読むとがっかりします。ただ聴衆はソファーに座ってぼんやりしているわけで、音の類似で暗示をかけるなど、まぁマインド・コントロールに近い手口ではあったのかなと想像します。論理では無いのです。 精神分析は専門家にやってもらわないと、いいも悪いもわからない類のものです。ただお金がかかるので、スノビズムな話ではあります。だからやたらとアメリカのドラマだとヒロインが精神科医にかかったりする場面が出てくるわけです。やってもらった結果、無意識が見つからなかったというなら、これは合わなかったか、説が間違っているということなのでしょう。 被差別と夕鶴の話ですが、どうでしょうね。A-S理論に被差別の話をとりこむのは賛成ですし、ことによったらもともとその理論なのかもしれませんが、夕鶴自体が文献学的に被差別部落の話であるとするのは、資料的な考証が少し飛んでいるような気が私はします。狐の話はそうだが、鶴になった経路が類推(アナロジー)が成立するだけで、今一つ資料が足りない気がします。私は基本出来に文献主義者なので、論証されれば認めるが、そうでない限りは懐疑的な立場でいるのです。 歴史の闇をのさらに奥に潜むものを浮かび上がらせる物語が「夕鶴」である――ということにはなるのでしょうが、こういう意図が木下順二にあったと示せない限りは、この議論はそうも解釈できるという域は抜けないわけです。前にも書いたとおり、私は基本的にあの設問の言説では楽しんで回答する範囲だと思っています。今のところ、それもありなのじゃないかなという範囲です(これは議論のエチケットの問題で、狐に関して被差別部落と関連させた設問があるなら、話は別なわけですが)。 ところでご参考までに、広義の被差別とマルクス的な闘争の理論として、近年注目されているのはガヤトリ・スピヴァクですが、ご存知ですか。これはインドのカースト制度における差別部落がどのように抗議の声を上げられるか(上げるのが不可能か)という議論です。ここから議論を拡大して、「サバルタン(他者の下位に属するもの)」という概念を構築し、カースト制度だけではなく、広く活躍しています。もしかしたら設問者の方の関心に近い話かもしれませんね。 スピヴァクの議論は被差別が歴史において語られないのはなぜか、という問題にも応答しているような気がします。好き嫌いは別れますが、A-S理論を洗練化させる材料にはなるでしょう。スピヴァク自体はバラモンの出身で、彼女の視線は罪悪感・贖罪という点があるような気はします。しかし、それだけにカーストに対して見えていることもあるのでしょう。もしご関心があったら。

bragelonne
質問者

お礼

 神功オキナガタラシヒメと応神ホムダワケは 新羅征討からヤマトに引き返して来るわけですが この行程が 神武カムヤマトイハレヒコの東征として伝えられているのではないか。応神‐雄略‐継体‐欽明(ここでともかく安定)というカワチ・ワケ政権の系譜またの名をスーパー歴史知性による《世界をヨセ たばねる》大作戦部隊が 主流派を形成しましたので 卑弥呼の《呪術の園》からの解放( Entzauberung )を成した《イリヒコ(公民)‐ネコ(市民)》連関なる民主制の時代より前に 神武イハレヒコを 崇神と同じように《ハツクニシラススメラミコト》として 持って来た。つまりいわゆる初代天皇が ふたりいる。  あるいは細かいところでは:応神ホムダワケと崇神ミマキイリヒコとの対比が アマクダリして来た系譜にある新参者の神武イハレヒコとそれ以前にアマクダリして来ていたニギハヤヒとの対立関係に反映されている。  ニギハヤヒも その昔には渡来した人びとであったかと思います。先住民は ナガスネビコらであるでしょう。ニギハヤヒが物部氏になったかどうでしょう。  物部氏は ひとつに布留の石上の地です。卑弥呼は 箸墓であるのかどうか。崇神イリヒコは 三輪や纒向です。ちなみに神武の《イハレ(磐礼)》は それらの南の地でしょうか。雄略でさえ《シキ》つまりこの三輪山周辺の地です。  要するに 戦闘もあったでしょうが基本的に 非戦論――《くにゆづり》の思想――であって いわゆる政略結婚での融和策が採られたと思われます。(殺されたイチノヘオシハの双子オホケ・ヲケは 雄略に対して仇討をせねばならぬと言いつつ 雄略の陵墓を片隅の土だけ削り取ってそれに代えたと言います。仕返しをそこまでにとどめた。専守防衛なのかどうか。悪貨は良貨を駆逐するに甘んじているとの批判も出ます)。  アマテラスは日の神の信仰として元からあったのですが それを第一位の神としたのは ヨセ超歴史知性であるでしょう。ヨセによって――つまり神を寄せるという理性的なシャーマニズムによって――みづからがそのアマテラスなるカミにもなるというスーパー歴史知性の人たちです。  継体か欽明のあたりか あるいはもっとあとか そのいにしえのワケ政権は 三輪の大神(おほみわ)神社にそのアマテラスを祀れと言ったのでしょう。オホモノヌシの神をまつる神社側は これをつっぱねた。わづかに 摂社として檜原神社にそれを祀った。(妥協です)。ヨセ政権は やがてその祀る地を伊勢に求めてやっと落ち着いた。  かくして S - A 連関:  ・〔素朴には ネコ(根子:大地の子)-ヒコ(日子;ヒメ日女)の言い分け〕  ・イリ歴史知性‐ヨセ超歴史知性  ・≒ミワ・イリ政権‐カワチ・タラシ(ワケ)政権  ・ミワ・大神神社‐伊勢神宮  (ただし伊勢神宮の外宮は もとからの土地のスサノヲ市民らのやしろである)     *  ★ ガヤトリ・スピヴァク  ☆ いまから着手します。  ★ 狐に関して被差別部落と関連させた設問があるなら、話は別なわけですが。  ☆ 同感です。そういう結論になると思います。  ★ ラカン・・・論理では無いのです。  ☆ 踊らされましたか あぁ。  ○ 空海  ☆ は じつは へたのすけさん〔が専門〕です。  ○ マルクス  ☆ は忘れてもよいかも知れません。いいとこ取りのかたちで。  ★ ただ鎮魂に対してどのようなイメージがあるのかが、私には見えないので、  ☆ これは 突出させ過ぎたかも知れません。タマフリもあるというところが みそでしょうか。〔ヤマト・石上の布留(つまり フルです)神社の系譜のようです〕。《わたしがわたしである》に同じと見るのもよいと思います。  【Q:遊戯とは】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5696009.html  ☆ に寄せた回答のNo.55&57&58を参照いただければさいわいです。  あぁ いそがしくなりそうです。現代フランス哲学を嫌い出してからのつけのようです。  今回へのお応えとしては はちゃめちゃで済みません。

bragelonne
質問者

補足

 アレアさん ご回答をありがとうございます。  今回は 前回にお応え損ねたところをおぎないます。二点です。  《一》が全体を意味するというとき それが他者を包み込むというよりは 存在としての他者との通底性として捉えるとよいと思います。わたしがおのれとのマを思うとき 他者とのマを潜在的なかたちにおいて取っているであろうと。  マのモデルケース:  思想(生活態度)の変遷から 理解するものです。   -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:《わたし》が世界に《入り》する   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも        社会力学上(=政治的に) 寄せる。  ヨリ原始心性→ イリ歴史知性→ ヨセ超歴史知性 こういう順序で 《精神=身体》の生活態度が変遷したと見るものです。  ヨリは たとえば せやたたらいすずヨリひめの名に現われるヨリです。あるいは 他国の史書によれば 卑弥呼の場合(《鬼道をよくし 衆を惑わす》)を言うといってもよいと思います。  イリは 言わずと知れたヤマト・ミワ政権の崇神ミマキイリヒコイニヱのミコト以下の人びとの名にあるイリです。  ヨセは 名前に出て来るのではなく次の古事記の記事の中から取ったものです。    その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。  つまり 神功オキナガタラシヒメのときにイリなるふつうの歴史知性が――世界にイリするというよりは あるいは言いかえれば 世界にイリしたそのあとさらに――《神を寄せ 世界をたばねる》という魂胆を持った。こう言おうとしています。つまりは オキナガタラシヒメの息子の応神ホムダワケの思想でもあると捉えます。《タラシ》もしくは《ワケ》なる超歴史知性と言ってもよいかと思います。  崇神イリヒコは いわばミワ政権にあって市長(オホキミ)であり 市民オホタタネコらと 人間として(つまりイリ歴史知性として) 互いに自由であり対等だと捉えます。  卑弥呼(ヒめのミコと:普通名詞)――とその弟がいたようですが――のときの生活態度もしくは共同自治のあり方において アニミズムよろしく《憑依》の状態にあったが それが溶けたのだと捉えます。ゆえに 世界にわたしがイリすることができるようになった。――何ごとにおいても 自然や相手の人や世界におけるあらゆる対象とそしてわれとが未分化な状態にある このヨリなる原始心性が溶けたと見ます。  (むろん オホタタネコがオホモノヌシのカミを祀るというのですから――それに オホモノヌシは 長ものつまり蛇でもあったでしょうから―― 近代人の知性とは違うと言わねばならないでしょうが。そして逆に見れば 近代人の知性のように 理性一辺倒ではなかった)。  ワケ政権はカワチに縁があるように思います。神功オキナガタラシヒメおよび応神ホムダワケは ミワのイリ政権に和平を申し入れ 婚姻政策で融和を図るという――じつは 大いなる野望(のちに《雄略》)としての全国制覇大作戦を秘めての――攻勢に出ました。その結果 イリ政権の――イリ政権のです――仁徳オホサザキが 相手のカワチの土地にまで入って そこで統治をになった。  そうして ここからは ヨセなる心性が胎動を始め その力を発揮するようになります。  ミワ政権が 各地にイリなる歴史知性を宣教することはあっても 社会は言わば平屋建てつまり一階しかなかった。いわゆる市民社会しかなかった。そういう連帯を成していたのではないか。それを やがて二階建てとする国の家を築こうというのが ヨセなる超歴史知性だと見ることになります。  雄略ワカタケルのとき 大芝居を打ちます。その前には ミワの側のイチノヘノオシハのミコトを暗殺して自分が政権の座に就くといったことを重ねていますが 大芝居というのは――おとぎ話のごとく 突拍子もないことをむろん承知で言うのですが―― それまでの市長の系譜つまりミワのもカワチのも子孫という子孫をみな消してしまって わづかにコシの国にひそかに育てさせておいた継体ヲホドを市長もしくは雲の上のスメラキとする。こういう百年の計です。  百年の計というのは 応神ホムダワケのとき(≒西暦400年)から数えてです。  継体ヲホドは 雄略ワカタケルとワカクサカベとの間の――《子無し》と書かれていますが――秘蔵っ子だったのではないか。(これは 百分の百 愛嬌ですが そう捉えるとおもしろいです)。

回答No.2

ぶらじゅろーぬさん。こんばんわ。 1週間ぶり(?)の宙ぶらりんです。 立てていただきありがとうございます。 続けてくださいと要求しておきながら、 なかなか声が出ませぬ。 とりあえずよそから拾ってきました。 『エワのいう女の人は 知恵に長けていました。  光がモノに当たって遮られても その後ろ側の陰となった地帯にも あたかも曲がって進むかのように入っていくと知り ここから自分の魂の 方向の偏りを想い描きました。  このふとした体験を 夫のアダムにも話しました。かれのほうは そのような心のズレについては 気が向きませんでした。  ここから 心のズレ 魂のユレとマガリ そして 人と自分とのチガイを知ることになったというおとぎ話の始まりです。』 わたしはこの話を聞いて 「わたしとおのれのマ」があること(1)、 「他者とのまじわりにおいてのマ」があること(2)、 について、スルっと腑に落ちました。 ケチをつけるところはまるでありません。 (わたしの)動機と行為の関係にはたしかに「マ」があり、 他者も同様なのだろうけれど、人によって、その「マ」は 長かったり短かったりするのだろうなあと。 「マ」は偶然の産物でも怠惰でもなく、 必要なものなのだろうなあと。 (1)と(2)と、両方の「マ」によって 「マチガイ」は必ずいつもあるのだろうなあと。 (わたしは(1)だけとも(2)だけとも言えませぬ。) 神でもなく、しかし自律的である「わたし」は、 いつでも誤りうるのだろうなあと。 「わたし」が誤らない保証は「無い」なあと。 今日は「自律的」と「他律的」のこととか 「文字」と「精神」のこととか、 ぼや~っと考えていました。 ズレているかもしれませんが、 ふむふむ、と思ったものを拾ってきました。 もちろん「自律」は「ひとりだけで決める」、 ということぢゃないんです決して。 ◇ 1.自分自身で考えること 2.自分自身をあらゆる他者の立場において考えること 3.常に自分自身と一致して考えること (「判断力批判」) ◇ もしわれわれの意志の自由が、 精神的自動機械の自由(?)だとすれば、 こうした自由は根本において、 一度ゼンマイを巻いておきさえすれば、 おのずから運動を続けるような 回転肉炙りきの自由以上のものではないであろう。 (「実践理性批判」) ↑これは社会的通念にスルっと従っているだけで、 たいそうなことをしている気になっている人への 皮肉のようなものでしょうか。 「マ」の埋め方はそれでええのんか、というような。 「マ」を放棄しているのとちがいます?みたいな。 ◇ わたしはただ上官の命令に服しただけだ。 上官の命令は絶対なんだ。 命令に服さないことは、 銃殺されることを意味するんだ! (「私は貝になりたい」) ↑これは、ん~、弱者はいつも 「何も知らなかったのだ!命令に従っただけなのだ! 騙されていたのだ!」と叫ぶことによって、 自分にはちっとも責任がないことを訴えようとする、と。 たしかに実際のところ赤紙(?)を破り捨てることも、 上官の命令を拒否することもほとんど不可能だけど だけどこの人が完全に「マ違っていない」ではない、 ことも確かで。何もしなかった、というだけで。 何もしないことによって戦争に突き進む社会を支えた、 ということになるのですが、 「マ」は、なかったのでしょうか。 あったけれど都合よくズラしたのでしょうか。 これが(β)でしょうか、己の自由をさえ・・・という。 ◇ 「二二が四」は・・・やはりどうしても我慢のならぬ代物だ。 二二が四先生が伊達者気取りで両手を腰に当てて 諸君の行く手に立ちはだかり、 ペッと唾を吐いている、というふうさ。 二二が四が結構なものだということは私も異存はない。 が、どうせ何もかも賞め上げろというなら、 いっそ二二が五も時にご愛嬌たっぷりな代物だ、 とでも言ってやるか。 それから諸君はとりわけ安泰ということばかりが 人間のためになるものと、それほど揺るぎなく、 得意になって確信しているのか? 理性というものははたして利害を誤らないものだろうか? 人間が愛しているのは安泰ばかりではない かもしれないではないか。 苦難だとて同じ程度に愛しているかもしれぬではないか。 またその苦難だとて同じくらい、 人間のためになるかもしれぬではないか。 (「地下生活者の手記」) もうひとつだけ。 これは「弱腰外交」のやりとりを見ていて ふと思いついた、ごく身近な話なのですが、 苦しそうな「マ」さんについて。 姑と嫁の「マ」になっている人物について。 「沈黙の日本」そのものだなあ・・・と思いました。 すみません。今日は拾ってきて置きっぱなしです。 しかも設問からズレっぱなしかもしれませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。だいぶ削られているようですが お応えしてまいります。  ★ ~~~~~~~~~~~~  「わたしとおのれのマ」があること(1)、  ・・・  (わたしの)動機と行為の関係にはたしかに「マ」があり、  他者も同様なのだろうけれど、人によって、その「マ」は  長かったり短かったりするのだろうなあと。  「マ」は偶然の産物でも怠惰でもなく、  必要なものなのだろうなあと。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これには おぎないが必要だと感じました。  (あ) 《おのれ(自分あるいは わたし)》という言葉をとおして わたしは《わたし》自身をおぼえる。  (い) その言葉としてのおのれと わたしとのあいだにマがある。とわたしは感じる。  (う) そうしてわたしが《わたしであること》を取り戻したと感じたなら もうそこからは特別にはさっきのマを感じることはない。あたかも一体となっていると思っている。  (え) そうしてわたしは 思惟や行動を起こす。  ★ ~~~~~~~~~~~~  (1)と(2)と、両方の「マ」によって  「マチガイ」は必ずいつもあるのだろうなあと。  (わたしは(1)だけとも(2)だけとも言えませぬ。)  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。このご見解は 内面のマ(1)と外面での相手とのマ(2)とが いちおう二つともいつもあって マチガイが起こるときというのは どちらともかかわっているであろうと。  わたしは 理論的にというのも変なのですが可能性として どちらか一つの領域でマチガイが起こるというのも有りかなとも思ったりします。つまり わたしがわるいか それとも相手がわるいか どちらか一つである場合もなきにしもあらずではないかと。  でもこれは 感じ方なんでしょうか? どれだけ図々しいかでその一極論を唱えるかどうかが決まるのかどうなのか。保留します。  ただし次の命題を否定したのではさらさらありません。  ★ ~~~~~~~~~~~  神でもなく、しかし自律的である「わたし」は、  いつでも誤りうるのだろうなあと。  「わたし」が誤らない保証は「無い」なあと。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《あやまつはひとのつね。ゆるすはかみ》と思っておりますし 《あやまつなら わたしはある》と言って来ています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~   ・・・(略)・・・↑これは社会的通念にスルっと従っているだけで、  たいそうなことをしている気になっている人への  皮肉のようなものでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 観念の運河を 律儀にも 感じ取ってそれに従っているという《おとなしい》人たちだと思います。《和を以って貴しと為せ》という規範に従っているということだと思います。その観念に――経済的な効果をも含めるのでしょうか―― うるおいがあると思っているなら そのままで天下泰平だと思われます。つまりそういう情況(時代)もあったのだなと思います。  ★ (「私は貝になりたい」)  ☆ これは 情況という要因もおおきいと思います。つまり満員電車での身動き理論が当てはまるかとも思います。  むろん その当時すでに戦争反対という思想を実践する人もいたかと思います。たぶん原爆の以前では 戦争におもむくという選択がふつうに〔やむなく〕考えられて その選択をしたあとでは 満員電車のなかでの身動きしか出来なかったという情状酌量の余地はあるように思うのですが 甘いですか?  ★ 何もしないことによって戦争に突き進む社会を支えた、ということになるのですが  ☆ という判断を今では 同じくします。今からそのように当てはめる場合もあるかとも思います。ただ もしその判断を戦国時代にあてはめるとしたら たぶん男は 山の中に住むか女に変装するかしなければ 実行し難かったかとも思います。つまりそういう満員電車の論理(ないし力学)がはたらいたのではないかと。  ★ ~~~~~~~~~  これは「弱腰外交」のやりとりを見ていて  ふと思いついた、ごく身近な話なのですが、  苦しそうな「マ」さんについて。  姑と嫁の「マ」になっている人物について。  「沈黙の日本」そのものだなあ・・・と思いました。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 最後の《沈黙の日本》という表現でだいたい分かる感じがしますが でもしっくりとは理解が届きません。もう少し説明していただけますか?  評言をことさらには持たなかったところがあります。  ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄でのつぎの判断について おぎなわなければならないと気づきました。マチガエました。  ☆☆(お礼欄) ~~~~~~~  わたしは 理論的にというのも変なのですが可能性として どちらか一つの領域でマチガイが起こるというのも有りかなとも思ったりします。つまり わたしがわるいか それとも相手がわるいか どちらか一つである場合もなきにしもあらずではないかと。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《初源のマチガイ》のことではありません。初源のマチガイについては そもそもの自然本性としての存在のことですから 潜在的なかたちにおいてにしろ 内面におけるみづからのマと 外における相手とのマとは 同時一体であるのではないかと見ています。あるいはそれは 世代を通じての類としての人間が相続して来ている《初源のマ ないし マチガイ》であろうと見ます。  そのあと物ごころがついてから具体的にマチガイを起こすというときには わたし一人だけのその内面におけるズレないしマチガイが起こることに発する そう言える場合があるだろうと。  ただし その《わたしがわるい》あるいは《あなたがわるい / 相手がわるい》というその個人責任論にしても その《マがわるかった》のは 社会全般の情況が影響しているであろうし さらには歴史としての積み重ねもしくはそのしわ寄せによって影響されるであろうとは考えます。  言いかえると 一般にマが違って来るというマのわるさは 人と人とのマ(ないし社会情況)から来ると言えるであろう。ただし その影響があるゆえに ただちに・つねに連帯責任だという見方を取るのではなく そうではなく 自由意志にもとづこうという考えに立って――自由意志は それぞれ《わたし》ひとりの行為能力ですから―― 一人ひとりの意志行為の結果だと見る限りで 個人責任論を取る。いわゆる共犯というのも 上の見方によるかぎりで 一人ひとりのマチガイが相対的には独立して成っていると見るのではないでしょうか?  それとも この考えは ふるいでしょうか? ふるいのかも知れません。ただ すべてを連帯責任にすると もう責任を取るという考えじたいが成り立たなくなるとも思われます。  あぁ!――保留し課題とします。

noname#130919
noname#130919
回答No.1

こんにちは。別の設問でお会いしましたね。持論を展開するのは控えて、感想・質問を述べさせていただきましょう。というのも、もう命題を設定しておられるようだから、私が何か対案をぶつけるより、批判検討した方が、建設的であるような気がしたのです。 まず広義の「マの理論」は、近年はやりのようですね。人文学の流れを見ても、αについては、それはその通りだと感じます。 そこからβでマがずれた時が問題であるというのも、頷くことのできるものです。自分が期待したほどに相手が認めてくれないとか、自分の領域だと考えていたところを侵犯されたといって、問題は起きるものです。 これが質問者の方のオリジナルな視点で展開するのは、β1です。すなわち「私」の自己認識が間違いであったのか?と自己認識の問題としてマのズレを引き受けるという話です。ここから議論はγで自省である鎮魂と発展します。 議論全体とすれば、精神分析的な手段を含めて自己認識を改め、心穏やかになれば、マの争いは起きないということになると考えられますね。 ただ説得力の問題として、いくつか批判点を感想として述べておきたいと思います。まずこのマの理論はどこまで適応されるかという話です。一般的に闘争や承認に関する理論は、二つのレヴェルを定めています。それは (1)個人間の軋轢 (2)グループ間の軋轢 です。γの帰結は(2)には適応し難い点があると見えます。というのも鎮魂は要するに、集団間でコンセンサスととるということなのでしょう。これが場合によっては極端な行動に走ることにもなります。たとえば反論が無いと健全な民主主義も成立しないでしょう。タマシヅメは民主主義的な国家では、言論封殺と紙一重にもなりうるでしょう(タマフリも扇動するという意味ではないでしょうか)。 そして個人の問題としても、鎮魂の帰着点がどこにあるのか、が問題です。本来あるべき自己に戻るのだとすれば、そもそも自己とは何か、誰が規定するのか(祭司?)を問わねばならないことになるでしょう。あるいは、まったく違っていて、諦念のようなものなのか。 祭司に自己規定されるのだとすれば、精神科医に自己規定されるのに似て、規定される安楽もある半面、承服しがたい点も多いでしょう。 そして自省による諦念だとすれば、活動の根源にある欲望を放棄するという意味合いも生じてきます。総体として、事なかれ主義に近づきもするでしょう。 私個人は、自己の存在論を自ら考察する哲学と、他者に自己規定を委ねる精神分析は別物だと考えています。一般的な意味で、精神分析の考察対象は無意識なので、他者の力を借りる必要がありますから。鎮魂という観点では、目指す地点がどちらも同じだとみなすことは仮に可能であったとしても、です。 最後に、心地よい間合いは個人の感性というだけではなく、世代性によっても異なるようですね。たとえば団塊の世代の方は対立する二者間の止揚になる地点までアグレッシヴに議論し、非常に近い間合いがお好きなようだと感じています。 しかし私の世代は、上の世代に頭を押さえられている分、飼いならされて自己を見失わないように距離を置きながら、強かに出るということが一つ重要なテーマではあるのです。この意味で鎮魂はあまり説得性が無いわけです。むしろ渇望を他者に安易に鎮魂されないで、かつ闘争的無関係で消耗しない、あっさりした距離が、間合いを議論するに当たって重要というべきでしょうか。 一言でマといっても、どの地点が納得しうるかは、背負っているものや、時代性によって違うのでしょう。だから鎮魂が最良の手であると、設問者の方がお考えなら、それは一つの回答だと思います。ただその場合は普遍的なテーゼを提出するというよりも、世代性やその他に関する社会学的な位置付けが欲しいと感じるところです。 以上は、厳密には回答ではなく、感想の類です。ご参考までに。

bragelonne
質問者

お礼

 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも グループ間のマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。そもそも逆立ちしているのですから。  いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいて逆立ちしてしまっていると見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけで目に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  そういったマの問題をいまかかえている。  この A - S 連関というマをもまとめ合わせてマの理論を展開して行けば おそらく大体においてすすむべき道はおのづから明らかになるであろうし 開けるのではないだろうか?  もしこの A - S 社会関係としてのマの理論が すでに個人の内面におけるマの秩序〔の乱れ〕を指し示していると言いますか 互いに直結していると言いますかのごとく つながっているとしたら  ★ そして個人の問題としても、鎮魂の帰着点がどこにあるのか、が問題です。本来あるべき自己に戻るのだとすれば、そもそも自己とは何か、誰が規定するのか(祭司?)を問わねばならないことになるでしょう。あるいは、まったく違っていて、諦念のようなものなのか。  ☆ という――もしそれが 内向的かつ内攻的なだけの問い求めであるとすればの――問題は 吹っ飛ぶかに思われます。仮りにたとえとして出すなら うつという内面の心理(その動き)と社会の A - S 連関(その動き)とが回りまわって つながっているということになるでしょう。  これからの課題でしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~  祭司に自己規定されるのだとすれば、精神科医に自己規定されるのに似て、規定される安楽もある半面、承服しがたい点も多いでしょう。  そして自省による諦念だとすれば、活動の根源にある欲望を放棄するという意味合いも生じてきます。総体として、事なかれ主義に近づきもするでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 仮りの考えですが 《わたし》については特に規定することなく その言葉のみで共通の了解が出来ているというふうに想定しておく行き方でよいような気がします。  ☆☆ (趣旨説明) (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  ☆ 強いて無味乾燥な説明を添えるならば 《わたし》を数として《一》と見るかたちをとります。  ○ わたしがわたしである。:  1=1  ○ わたしがわたしする。そのわたしがわたしする。・・・: 1x1x1x・・・x1=1  ☆ つまり 自己表現――あるいは わたしの文体なる動態――は わたしの自乗をかさねてあゆむわたしの連乗積の道のりである。  これが マの理論です。  さらにこっぴどくツッコミを入れていただくとさいわいです。どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 ★ (2)グループ間の軋轢  ☆ ううーん。やっぱり その視点は必要でしたか。わたしにとっては  ○ 《アマテラス( A )公民(現在では逆立ち主導)-スサノヲ市民( S )(つまり主権者)》の連関制という二階建て構造とあらゆる二角関係において発生しうるその擬似的な《ガミガミ役‐アース役》連関動態  ☆ のことです。  ヤクタアレアエストさん こんばんは。こちらにもご投稿いただきありがとうございます。  まづ   ★ 心地よい間合いは個人の感性というだけではなく、世代性によっても異なるようですね。・・・(略)・・・世代性やその他に関する社会学的な位置付けが欲しいと感じるところです。  ☆ の主題ですが たしかに細かくなる要素があるようです。  (1) 個人のくせの問題。たとえば 国会の審議などのやり取りにおいては 相手を窮地に落とし入れることのないように 最後には逃げ道を開けておくらしいのですが 哲学の論議としては最後の最後まで諾否を明らかにすることを望む場合があるでしょう。  (2) おっしゃるように世代差などの要素がはたらく場合。ただしこれらも タマフリとタマシヅメとの按配をうまく加減すればよいのかも知れないとは思います。  (3) 性差は原則として無しで わたくしは 臨みます。  (4) あとは 社会の二階建て構造から来るその社会的な位置関係によって 間合いの度合いが違って来るかも知れません。要するに 間合いを測るのではなく ごり押しが通用する場合があるかも知れません。  ★ 私個人は、自己の存在論を自ら考察する哲学と、他者に自己規定を委ねる精神分析は別物だと考えています。一般的な意味で、精神分析の考察対象は無意識なので、他者の力を借りる必要がありますから。鎮魂という観点では、目指す地点がどちらも同じだとみなすことは仮に可能であったとしても、です。  ☆ この主題については どうでしょう? たしかに《無意識》ですね。  【Q:やっぱし無意識の概念は要らないのではないか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5642976.html  ☆ などを提起していますが ややこしいので保留とします。ただ 《別物》問題は むしろおしえて欲しいです。つまり臨床ではおっしゃるとおりなのでしょうが 精神分析は自己内省としても存在論であることを目指しているのではないかと思っているのですが?    さて 《 A - S 》連関構造としてのマについてです。  ★ タマシヅメは民主主義的な国家では、言論封殺と紙一重にもなりうるでしょう(タマフリも扇動するという意味ではないでしょうか)。  ☆ というまでの問題を起こし得ますよね たしかに。  平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? 仮説によってすっ飛びをしてみます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入り)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――根競べに負けてとうとう―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民社会におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。広くマはそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。  ★ (2)グループ間の軋轢  ☆ というのは 一般には第一階とお二階さんとの軋轢を言います。マツリとマツリゴトとが逆立ちしているということですから マチガイはつねに起こり得ます。