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神との出会いを求める人との関係性について
- 人とのマジワリを通じて神と出会う可能性について考えています。人は一人でありながら、他者との関係性の中で存在していることを知っています。その関係性を探究することが重要です。
- 私利私欲にとらわれずに、他者との関係性に向き合うことが進むための条件と考えています。相手との関係性の中で自分自身が開かれていくことが神との出会いにつながるのではないかと思います。
- 神との出会いはお互いの道でしか起こり得ないと考えています。私たちはそれぞれが自身の道を進む中で神と出会うことができるのです。
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人との交わりは、なんて人間は罪深いと思うことで、一人に立ち返り始めて神と出会うものだと思います。 私はクリスチャンです。先日教会で、女性会がその中でも特別4年生の大学を出た人の会があり、 その人達は、自分がエリート意識を持ち、周囲のそれ以外の人を差別し軽蔑しているということです。 神の存在はすべての人間の存在を超え勇気と謙遜と愛を学ばせて下さると思いました。
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- a_hona
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いえ、論点というほどのものはありません。仏教を批判するのが少ないと言うことで、参考までにあげただけです。不要でしたらスルーしてください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 仏教を批判するのが少ないと言うことで ☆ しかも その仏教の中身は 成っていないとすれば やはりわれわれはイカレポンチではないのでしょうか?
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▼ (実存批判) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 実存的に仏教を考えるとき、ニーチェやサルトルなど、いわゆる無神論的実存主義者たちの言う「仏教は現実からの逃避である」とか、「釈迦は人のことを心から思いやる情愛のない人であった」とかいう考え方について語らなければならないでしょう。 ・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに始められている議論ですが 何をあ_ほなさんは問題にされていますか? ニーチェは 論外だと見ていますし サルトルは 何か重要なことを言っていましたか ブディズムについて。聞いたことがありません。 論点は あ_ほなさんにあって どうなのか。いま一度明らかにしてもらえませんか?
- a_hona
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私は別にイカレポンチではないですよ。理解出来ないから批判もしないというだけです。 では、現象としての名称と形態の脱落や、不退転といわれること、二度と戻らないと言っていることについてはどうでしょう。 私もあまり興味のあるところではないですが、一応尋ねておきたい。 温かい社会形態が一つの理想であって、希望になると私は思います。久遠の輪廻を想定する仏教だからこそ、涅槃寂静といった価値観が成立するのかもしれません。
お礼
★ 私は別にイカレポンチではないですよ。理解出来ないから批判もしないというだけです。 ☆ これは 失礼! そして ご回答をありがとうございます。 でもたとえば やはり次の判断は 間違っていないと思いますよ。 ☆☆(No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~ 多少のマチガイを言っただけぢゃないかという問題ではありません。 スッタニパータにしろ何にしろ それらは この上無き知恵のさとりを得たと堂々と宣言したあとの振る舞いや発言なのです。これが ペテンでなくて 何でしょう? いつまで・どこまでわれわれはイカレポンチであるのでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一つひとつマチガイかそうではないか決めることを わたしが要請しているかたちになっています。 明らかなマチガイは それとして確認してすすむことになるのが ふつうであると考えます。 天上天下唯我独尊。――これは ふつうの人なら 顔が赤らみ もうその赤らみが引いて行かなくなるほど恥づかしい失言である。はずなのです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ では、現象としての名称と形態の脱落や、不退転といわれること、二度と戻らないと言っていることについてはどうでしょう。 私もあまり興味のあるところではないですが、一応尋ねておきたい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《現象としての名称と形態の脱落》 これは ヨーガ風の修行か何かでしょうか? すみません。よく知りません。 《不退転》については これは オシエの中で勝手にさとりの境位を自分たちで決めただけのことだと見ます。 一般に《二度と以前の心(人間性として)の状態に戻らない》というのは たしかに非思考の庭(信仰)の確立の問題です。 けっきょく確立と言っても それは 《わたしがわたしであるわたしがわたしする》という道からはづれたとき わたしに立ち帰ることの問題です。つねに 何度でも つねに怠ることなく 自己還帰を図るという生活態度のことです。 この自己到来のくせが 重ねられて来ると 多少は 習い 性となり そういうかたちとしてでも確立されて行きます。これが もうマチガイなくつねに立ち帰るというまでになって ワタシが確立する(サンキーレ)ならば サンクトゥス(確立された)とも言われるようになります。これが 聖なる( sanctus > saint )という意味です。まぁ 不退転ということです。聖アウグスティヌスとは そういう意味です。 ★ 温かい社会形態が一つの理想であって、希望になると私は思います。久遠の輪廻を想定する仏教だからこそ、涅槃寂静といった価値観が成立するのかもしれません。 ☆ 前文に同感し 後文に反対します。 輪廻は 文学的表現です。言葉のアヤです。哲学における意味はありません。想像の世界においてあそぶといったことでしょうか。
- a_hona
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仏教批判で検索すると、結構ヒットしますよ。サルトルやニーチェが挙げられていました。 まぁ私の場合は、批判できるほど理解してないというのはあります。 独居(ひとりい)の楽しみの方が他者と共にいる楽しみよりも優れている、などと言われると、はぁ、そういうこともあるのかなぁ、と、私などはなります。出世間という言葉もありますし、浮世ではなく、憂き世の宗教かなと、そういうところに理由を見出そうとしたりもしますが、如何せん、どこか遠いところへ行ってしまった人のようにも感じるのです。
お礼
あかん。だめ。――おっと まづは ご回答をありがとうございます。ですが これではダメ。 ★ 出世間 lokottara ☆ 世間の上にある・を超えるということかと思いますが ひとつには 俗語として 世間の身分や組織の地位たる階段を一つづつ上ったり一気にのぼったりするアマアガリという意味に使います。 ですが 基本の意味は 《出家》とは関係ないのでは? 仮りに一たん――往相・還相という考え方がありますから――向こう岸(彼岸)にわたったとしても 無住処涅槃という行き方があるように けっきょく帰ってくるのが 正解なのではないですか? 浄土に往生したとしても この娑婆世界に戻って来て ボディサトワの生き方を生きる。のではないのですか? それに 《ほかの人》という問題は けっきょく存在の初めからその基本として――自然本性にあって――そなわっています。人と人とのかかわり(関係性)という要素がです。だから 社会的動物だと言います。 浮き世か憂き世かどうか知りませんが 浮かれてちゃダメです。 ★ 独居(ひとりい)の楽しみの方が他者と共にいる楽しみよりも優れている、などと言われると、はぁ、そういうこともあるのかなぁ、と・・・ ☆ そういう問題ぢゃありません。ひとは 孤独の真っただ中にも あの人この人を思い浮かべます。群衆の中にあっても 一人ぽっちを知ります。そういう問題は すでに卒業したあとの問題です。人と人との関係は絶対であるようだなとさとったあとの問題です。 多少のマチガイを言っただけぢゃないかという問題ではありません。 スッタニパータにしろ何にしろ それらは この上無き知恵のさとりを得たと堂々と宣言したあとの振る舞いや発言なのです。これが ペテンでなくて 何でしょう? いつまで・どこまでわれわれはイカレポンチであるのでしょう。
- a_hona
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だけれども、、の続きはなんです? 切り拓いていくことの、何かまだ解決されるべきことがあるのでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ だけれども、、の続きはなんです? ☆ ゴータマへの敵対心です。 だから そのあと 殴り込みをかけようと言っています。 みなさんの ゴータマを批判しないというその気が知れません。
- a_hona
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相変わらずこだわるところはこだわりますねえ。お堅い。こちらはなるほどなあという思いで読んでいます。 一人で歩けと言ったり、善き人と共におれと言ったり、とかくどっちとも取れる発言が多いのでね、どっちやねんって突っ込みたくなる時もありますが。 それよりも、質問の表題、神には人との交わりを通じて出逢うのではないか、という問いは解決されましたか?また、この時言う神とはどんな意味でしょうか。 質問をよく読むと、しがらみなどもまとめて切り拓いて行くんだという積極的な態度が謳われていて、印象はよいのです。はあ、その通りかもしれないなと。人間に真正面に取り組んでこそ、問題は解決されそうですから。
お礼
いやいやいや。もっときちんと批判は批判としてしなければならない。 まづは ご回答をありがとうございます。 つまり たとえば ▼ (スッタニパータ 3.犀の角) 35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。 ☆ 《子を欲するなかれ。況や朋友をや》。――これは ただのネクラなのだと見られます。 ▼ 36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 ☆ クラーァ! この世の闇を全部あつめて来ておのれの心とした心。 ▼ 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 ☆ ということは 《朋友・親友》がすでにいるということになる。やはり つくったということになる。 そこでなんで《おのが利》が出てくんねん! あほっちゃうか! なんで《恐れ》やねん! どこまでクラひねくれやねん! ▼ 38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。 ☆ 《出家》したけりゃ 自分たちでやればいいぢゃん。それを どうしてさとりのための一般のオシエとするのか。 ▼ 40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。 ☆ どこが《独立自由》ぢゃい? 托鉢もするぢゃん。どこまで独り善がりなのか。 ▼ 41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。 ☆ 《愛しき者と別れることを 厭う》のかい。《厭いながらも》 独りでいろってか。けれども それぢゃあ 《愛しい》という感情は持っていることになる。何にも解脱してねえぢゃん? ▼ 43 出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。 ☆ 意味が分からん! ▼ 44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。 ☆ 《断ち切る》というのでは 何の意味もない。《在家の束縛》については あくまで解脱するのではないのか? ▼ 45 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。 ☆ 《朋友・親友》と どうちがうのか? このーぉ ざけやがって! ・・・・・ ★ 質問をよく読むと、しがらみなどもまとめて切り拓いて行くんだという積極的な態度が謳われていて、印象はよいのです。はあ、その通りかもしれないなと。人間に真正面に取り組んでこそ、問題は解決されそうですから。 ☆ こちらは これがよいと思います。だけれども・・・。 ♪ ~~~~~~~~~~~~ ・・・ 掴んだ拳を使えずに 言葉を失くしてないかい ・・・ いまから一緒に これから一緒に 殴りに行こうか YAH YAH YAH YAH YAH YAH YAH ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このゴータマ野郎め!
- a_hona
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仏は人間じゃないらしいですからねえ。我々の想像を超えているんじゃないでしょうか。まあ、別にどちらでもいいですが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 仏は人間じゃないらしいですからねえ。 ☆ たしかに ブッダという言葉には ふたつないし三つの大きく異なる意味があります。 a. 非経験の場(=神)としての ブッダ(法身) b. 非思考の庭(信仰)としての ブッダター(ヒラメキのチカラ) c. 思考と感性(心と身)の総体としての存在を言う ブッダ (それは 特に境地に着目して言っている)。 (あ) イエスは キリストであると言うから 話はややこしくなる。 キリストというのは ( a )《非経験の場 ないし 法身仏》と同じことです。 (い) ゴータマ・ブッダという場合は ( c )と言うものと思われる。つまり ふつうの人間である。 (う) ( b )は 誰もが 自然本性としてそなえている。つまりは 一切衆生 悉有仏性。あるいは 自性清浄心。 どうでもよいことはありませんよ。ちゃんと 区別されています。よ。
- a_hona
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出世間の境地がどのようなものかは知りませんが、37のような発言もあり得るのかなと思います。一方で、友は最上の宝であるという話も聞きます。こういう矛盾のように思える記述群は、よく見かけられます。また、善友は、褒めてくれることも慰めてくれることもないが、智慧を与えてくれる、贈与を超えた贈与をなしてくれるとも聴きます。一つのパートを取ってあげて、見つめると、わからなくなることもありそうです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 一つのパートを取ってあげて、見つめると、わからなくなることもありそうです。 ☆ 一般に そう言えるでしょうね。 けれども ★ 37のような発言もあり得るのかなと思います。 ☆ は ありません。お日さんが西から昇っても あり得ません。 この犀の角関係のスッタニパータ37は ほかとの位置関係にかかわらず おかしい。この話をした人間は あたまがおかしい。と言わなければ イカレポンチになりますよ。 弁護の余地はありません。 いいですか。すでに この上なき智慧のさとりを得た――成道した――と宣言したあと こんなことを言っているのですよ。阿呆でなければ 気がおかしい。 ゴータマ・マジックの催眠術から 一刻も早くめざめてください。
- kurinal
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B様、こんばんは。 そうなんですよね。 後出しのようですが、一人での追究と、他者を含めて考えるのとでは、全然違う、 と思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ひとは 独りだと思います。寂しい。 どうしようもない孤独に落ち入ります。孤独地獄とさえ言います。 ところが この・もう抜け出せないなぁと思ったほどのひとりぼっち――これを にゅうとらるさんという方は 《宇宙のみなしご》と形容されていますが――も いつか 次のような思いが浮かんで来るようになります。 さびしくわびしい極みにおいて――すでにわが心は ひさしく錆びついてしまったとき ふとそのどん底の底から―― こう思う: 誰もが 人間として ひとしくこの同じ孤独の中にいるんだなと。 つまりは わが孤独は 孤独関係なのであると。 これは 社会性ですね。社会的動物 ゾーオン・ポリティコンであること。関係の絶対性です。つまりは 共生性です。 すなわち 孤独ゆえにワタシは じつに社会的な独立存在です。ほかの何によってでもなく おのが意志を中軸にして生きます。 しかも同時に――同時に――社会的な関係存在でもあります。意志と意志との関係。とその意志行為の錯綜する集まりの中に生きている。 このカカワリ(関係)を生まれつきにおいて持ち じっさいにマジワリ(交通)においてそれを発揮する。 ここに立脚しない法はない。 よって ★ 一人での追究と、他者を含めて考えるのとでは、全然違う、 / と思います。
- a_hona
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どちらかと言えば私もブラジェロンヌさんと一緒で、理想を追いかけたくなる人間ですが、現実的なものの見方をすれば、人々に優劣は存在するものかもしれません。低俗な人間と、高尚な人間がいる、優秀な人間と劣等な人間がいる、そういうものなのかもしれません。しかしだからと言って自分を卑下したり、他人を見下したりする必要はないでしょう。そういう障壁を乗り越えてこそ道があるものだと思います。
お礼
《犀の角》をめぐって 別の質問のほうに書き込みをしてしまいました。あぁ そそっかしい。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 現実的なものの見方をすれば、人々に優劣は存在するものかもしれません。 ☆ いえ。それは 存在してもかまいません。それに 判定基準を特定すればたとえば学力という物差しで測れば 優劣は歴然として現われます。そして その物差しをめぐるそのときの事態であり それだけのことだと言えると思います。 ★ 低俗な人間と、高尚な人間がいる、優秀な人間と劣等な人間がいる、そういうものなのかもしれません。しかしだからと言って自分を卑下したり、他人を見下したりする必要はないでしょう。そういう障壁を乗り越えてこそ道があるものだと思います。 ☆ これは つまり人間の存在にかんしては けっきょく《意志》が中軸であるという問題ではないか。 すなわち 知解能力もしくはその知識の多寡と そして意志の行為能力とは 別だという問題になります。 意志行為をよりよくおこなうには 知識は必要ですが 知識が豊富であれば よりよき意志行為をおこなえるとは限りません。そういう問題ではないか。 しかも・しかも おそらくは おのが心が世界に開かれているという境地は 知識ともさらには必ずしも意志ともなおまだ連動はしない。のではないか? こういう問いがわれらが前に横たわり その密林を切り拓く作業がなお俟っているようにも感じられます。 (ヒラメキやアマエの問題になるかと。それは 必ずしも意志による努力のみで成就し得るとは限らないと思われますから。 ヒラメキは 意志だけでは 無理でしょう。アマエは おのが意志でかなり現実とすることが出来るでしょうが 何しろ相手があることでもあります。そのアマエを受け留めるのは 相手ですから どういうふうに受け留めあっているかについて なかなかむつかしいところがあります)。 * 再掲です。 なお《犀の角》については 次のようでしたよ。 ▲ (スッタニパータ <3、犀(さい)の角>) ~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 笑っちゃいます。《おのが利を失う》だって。《親友を持つと 何か落とし穴がある》などというようなこと言っているみたいですよ。こんな低劣なことは ごく一部分だと言うでしょうね。それは 例外であると。まぁ いいですけれど。例外として くだらないことを言っている場合もあるのですね。で終えておきます。
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お礼
すぃーえくすいー28284さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 次のように捉えました。 ★ その人達(学士女性たちでしょうか)は、自分がエリート意識を持ち、周囲のそれ以外の人を差別し軽蔑しているという ☆ そういう人たちとのマジワリをつうじて ★ 一人に立ち返り始めて 神と出会うものだ ☆ やがて ★ 神の存在はすべての人間の存在を超え勇気と謙遜と愛を学ばせて下さると思いました。 ☆ といったむしろ《人ごみ》の中での邂逅に焦点を当てることが出来たらなぁという見方 これを問おうと思ったのでした。 その《エリート意識》たちとのマジワリは 利害関係を共有することをも厭わず さらにはその人たちとのシガラミ関係をも敢えて避けない。こういう姿勢もありかなと思ったわけです。 さらにみなさんのご意見をお聞きしたいと思っています。 すぃーえくすいーさんも さらに見守っていて何かありましたら ご投稿くださいませ。