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マの理論と芸術の関係
- マの理論は、マチガイの起きる理由とうまいマの取り方を考える思索であり、マを取ることで心身が健康になる。
- マをうまく取るためには、魂振りと魂鎮めの行為が必要であり、芸術がその魂鎮めのキッカケとなる。
- 芸術は美によって世界を変える力を持ち、具体的な癒しのあり方や美学について哲学的に考察することができる。
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こんにちは。春休みで実家に帰ってるから自由時間が多いのね。 理解できる範囲で a-1 までの文章を固定して進めます。 <引用> おのれとのマ――すなわち お のれという言葉をとおして意識するその《わ たしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれ とのマ》を保っているなら 互いに相手の自 由を侵さないであろう。 そして、わたしが思うに、まが取れている状態は穏やかであり、美しく完結している、自分の中で自分の均等が取れ、そして同時に外にたいして自分が開かれ外と内との区分がなくなる・そういった感覚になる(かもしれない私の個人的な想像)。〈《自分の中で》自分の均等が取れ〉というのが正しければ、それは自分の中の世界ということだけど、でもそれでは〈自分の外の・いまこのいる世界・あるいは神が造ったと される 世界〉にくらべればとてもちっちゃい。 だから、自分の均等〈貴方の言う、マと同じであれば〉を一時的に壊してでも自分を壊してでも、自分の外にある価値観を自分のものにしなければならない・したいと思う。そとからひとつの価値観を得るということは、両極端の価値観を知る前段階として(両極端を知ることで均等が得られるとするならばだけど)必要なんじゃないかなと思ったよ。物理的に暴力的に相手のマをとる方法としては、相手の陥っているモノに対して真逆のモノにわたしが為り、意図的に自分をふらせる、ね、でしょっていう。スパルタ教育してるんだから余計なことしないでよって言われる可能性もあるけど、困ってたらそうしたらいいし、みんなが暇そうしてたら敢えて振るのもよいよね、多分ね。もちろん、自分の中に、経験として蓄積させてつよくさせなきゃいけないから考えることも大切だとおもいます。自分の世界が広ければひろいほど、意図的に自分をふらせたときのタメージは少ないし、いずれはどれだけ振っても余裕になる。はず。それら全てが芸術の本当の営みかなと質問をみて、考えて、思いました。交通渋滞はほどいた方がいいかもね。
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- amenhotep2000
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bragelonneさん こんにちは。 今回は音楽ではなく美術的見地からメスを入れて回答しようと思います。 昨日から、国立新美術館において、ルーブル美術館展が始まって、フェルメールは男性を描いた作品の2点だけだそうですが、その1点である、「天文学者」が来日したようで、時間を見つけて行ってこようと思ってます。もう1点の「地理学者」は渋谷bunkamuraにおいて2011年の展覧会で観ました。 さて、私は美術館めぐりをして、日本画、洋画を問わずいろいろ観て来ましたが、今回の「間」という質問に対し、絵画の「余白」という視点から述べます。 特に日本画は余白が、命と言われるくらい、絵画を観ていると、作者の感性かあるいは技量をつけた上の計算か分かりませんが、実に、余白をうまく生かし、水墨画や色彩画を描いていると思います。 もし、幹の枝が数ミリずれたら、絵画の美が失われてしまうのではと思うことがあります。私は絵はがきコレクターとして、展覧会において、感動した絵を絵葉書にして保存しますが、日本画の掛け軸を絵葉書にすると余白を切ってしまいますから、まったく絵の良さが消えてしまいます。もっとも、掛け軸を全部、絵葉書に収めると小さすぎて、何を描いているか分かりませんから、しかたありません。 しかし、洋画はギリシャ神話やキリスト教の絵画にしろ、余白に人物を詰め、こてこてに描くように思います。ルーベンスなど観ると、たしかにダイナミックな動は分かりますが、人がうじゃうじゃという印象を私は持ちます。 ここで、上述したフェルメールに戻りますが、2007年に国立新美術館に来た、教科書にも良く出ている名画「牛乳を注ぐ女」を添付しますからご覧ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E4%B9%B3%E3%82%92%E6%B3%A8%E3%81%90%E5%A5%B3 この絵画は後ろの白壁を余白としてうまく残していると思います。近年X線解析により、フェルメールは壁に暖炉を描こうとしていたらしいですが、白い壁に塗りつぶしたそうです。 この作品を観にいった時、絵画の周りに丸く柵が設けられており、まじかで観て観察することは出来ませんでしたが、壁には釘が打ち付けられてそうです。 しかし、この白の背景である余白が、フェルメール絵画の真骨頂である、ラピスラズリという宝石から作るウルトラマリンという青色を引き立たせていると私は思います。 さて、日本画に目を向けると、岡倉天心の四天王の一人であった下村観山に焦点をあてます。下村観山は、幼い頃、よく能を観たそうで、自己の絵画における独創性に行き着いたところは、絵画と能の融合だったそうです。 これは、東京国立博物館所蔵の重要文化財「弱法師」や横浜美術館所蔵の「小倉山」に良く現れてます。「弱法師」は右隻は謡曲「弱法師」の盲目の主人公が桜の木の下で夕日に拝むという屏風ですが、左隻は金屏風に沈む夕日だけであり、余白だらけです。「小倉山」も右隻は紅葉の下で歌を詠む藤原定家ですが、左隻は松木に、よく観るとかわいらしいリスがいるだけで、余白だらけです。ですから下村観山を観る場合、右隻左隻の両方がそろわないと、観る価値はなく、絵葉書コレクターの私は夕日だけの左隻の絵葉書も欲しいところですが、売れないので作っておらず、横浜美術館は両方とも作っていますが、やはり左隻は売れないようで、絵葉書が旧バージョンです。 総括して何を言わんとするかというと、下村観山は能の世界の彼岸と此岸を絵に表そうとして、右隻は此岸ですが、左隻は彼岸か両者を繋ぐ場所であり、余白だらけです。もしかしたら左隻のさらに左の絵のない部分に真実を下村観山は絵にこめたのかもしれない。そして、フェルメールの場合も含めてこの余白があるからこそ、「有」と「無」という哲学的な絵画の美が産まれるのではないかと私は考察しています。
お礼
やあ こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ フェルメール:「天文学者」&「地理学者」 ☆ この二点に限らず このような窓と机と人といった構図(モチーフ?)は 似ていますね。(多いですね)。 ★ 今回の「間」という質問に対し、絵画の「余白」という視点から述べます。 ☆ はい。 ★ 特に日本画は余白が、命と言われるくらい ☆ これも はい。ですね。 ★ しかし、洋画はギリシャ神話やキリスト教の絵画にしろ、余白に人物を詰め、こてこてに描くように思います。 ☆ ええ そうですよね。 ★ 「牛乳を注ぐ女」:この絵画は後ろの白壁を余白としてうまく残していると思います。近年X線解析により、フェルメールは壁に暖炉を描こうとしていたらしいですが、白い壁に塗りつぶしたそうです。 ☆ これは 《余白》なのかどうか? どうでしょう? ★ しかし、この白の背景である余白が、フェルメール絵画の真骨頂である、ラピスラズリという宝石から作るウルトラマリンという青色を引き立たせていると私は思います。 ☆ ううーん。この青は ほかのどんな色に対しても際立つのではないでしょうか? と答え返してみる。 ★ 下村観山: 絵画と能の融合::「弱法師」&「小倉山」 ☆ 小倉山は いいですね。と思います。これらの場合は じっさいには金色ですが 余白でしょうね。描いた場面とは関係ないとみづからが主張しているスペースですから。一致しましたね。 ★ 下村観山は能の世界の彼岸と此岸を絵に表そうとして、 ☆ そうなんですか。《日想観》というのは まぎれもなくブディズムのようですね。 ★ 右隻は此岸ですが、左隻は彼岸か両者を繋ぐ場所であり、余白だらけです。 ☆ なるほど。ふたつの作品を合わせて見ると そう言えそうですね、。 ★ もしかしたら左隻のさらに左の絵のない部分に真実を下村観山は絵にこめたのかもしれない。 ☆ あっ。ちょっと違った見方をしてみます。つまり 右隻のちらちらと木々のあいだに見える《余白》 これがむしろ《真実》を指し示しているかに見えますが。 ★ そして、フェルメールの場合も含めてこの余白があるからこそ、「有」と「無」という哲学的な絵画の美が産まれるのではないかと私は考察しています。 ☆ もしそうなら 《マ》でしょうね。間合いの取り方で 見る人の心にそれぞれの印象をもたらすでしょうね。とは思います。 かんたんに受け答えをし過ぎたかも分かりません。あしからず。
- ways
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そうかもしれないですね。間を取れないと、相手との距離感もつかめないと思うし、相手のものや仕事を盗ってしまうことにもなりかねない。 間合いの取れる人は、立ち振る舞いも身のこなしもスマートで、だから、芸術をしても、いい作品が作れる気がする。芸術は心の表現なので、作者がいつも心を磨いていないと、新鮮な作品は生まれない。手慣れた作品をいくつも作っても仕方ないし。
お礼
ways さん ときどき現われてくださいますが いつもおおむね見方考え方を同じくする回答を寄せてもらっているかと思います。ありがとうございます。そして こんにちは。 マの問題ですね。じつはこのことを分析し理論づけるのは たいへんな作業になるでしょうね。 理屈を言うより じっさいにマの取り方の上手な人を手本としたほうが よっぽど手っ取り早いということになります。 でも哲学は どんなフロンティアにもいどむものなのでしょう。言葉によっても表現しその間合いだとか間取りだとかをさらに明らかにして行ければよいと考えます。 今回はまだまだその基礎・その初歩からです。しかも 基礎理論を飛び越えてすでに マの奪回としての大作戦となるであろう芸術のあり方にまで向かって行っています。 まぁ いろいろな場面や局面や分野でのことがらを情報としてあつめておきたい。とも考えています。 そうして 次の命題は 全般的に誰もが心しなければならないところなのでしょうね。 ★ 芸術は心の表現なので、作者がいつも心を磨いていないと、新鮮な作品は生まれない。 ☆ ただちに魂振りや魂鎮めもが役立つ場面が来るようにも思いました。自分のこととしてでした。 このスレの行方を見守って行ってください。
お礼
2580あああさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ そして、わたしが思うに、まが取れている状態は穏やかであり、美しく完結している、自分の中で自分の均等が取れ、そして同時に外にたいして自分が開かれ外と内との区分がなくなる・そういった感覚になる(かもしれない私の個人的な想像)。 ☆ これは 理想の状態でしょうか。あり得ますよね。と同時に 世の中のことで 友だちとの時間を思えばその穏やかな心の状態が深められもすれば 何かといわゆるシガラミのようなものごとを思えば ちょっと憂鬱になるかも知れない。と言ってよいでしょうか。 ★ 〈《自分の中で》自分の均等が取れ〉というのが正しければ、それは自分の中の世界ということだけど、でもそれでは〈自分の外の・いまこのいる世界・あるいは神が造ったと される 世界〉にくらべればとてもちっちゃい。 ☆ なるほど。ミクロコスモスということでしょうか。 でもこのちっちゃい小宇宙における均衡が安定するなら となりの小宇宙なる人とその平穏な時間を分かち合えるかも知れない。 ★ [・・・]自分の外にある価値観を自分のものにしなければならない・したいと思う。そとからひとつの価値観を得るということは、両極端の価値観を知る前段階として(両極端を知ることで均等が得られるとするならばだけど)必要なんじゃないかなと思ったよ。 ☆ となるのでしょうね。いろんなあたらしい思想や価値観が現われて来ますからね。 ★ 物理的に暴力的に相手のマをとる方法としては、相手の陥っているモノに対して真逆のモノにわたしが為り、意図的に自分をふらせる、ね、でしょっていう。 ☆ 実際の具体的な振る舞いとしてむつかしいものがあるかと思いますが 反対の極を持ち出して 相手との均等・均衡を取れればそれに越したことはないでしょうね。 ★ もちろん、自分の中に、経験として蓄積させてつよくさせなきゃいけないから考えることも大切だとおもいます。 ☆ 同時並行的でしょうか。 ★ 自分の世界が広ければひろいほど、意図的に自分をふらせたときのタメージは少ないし、いずれはどれだけ振っても余裕になる。はず。それら全てが芸術の本当の営みかなと質問をみて、考えて、思いました。 ☆ これは たのもしいですね。そしてつまり 生活の中の振る舞いの一つひとつが あたかも《芸術行為》となるといったかたち。・・・ ★ 交通渋滞はほどいた方がいいかもね。 ☆ ほんとですね。話しかけても答えない場合が 多いんですよ。このところ。
補足
質問者にとって初めての方の投稿に敬意を表して BAを決めました。