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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人は 人のあやまちを赦すことができるか)

人は人のあやまちを赦すことができるか

このQ&Aのポイント
  • 人は人のあやまちを赦す能力を持っていない
  • あやまちを犯した人には批判し、必要なら法律に訴えることができる
  • しかし、人は自分自身のあやまちに対しては一時的に赦すことができる

質問者が選んだベストアンサー

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noname#194996
noname#194996
回答No.6

NO.1 です。 かなり本質的なところですれちがっていた(いる)というもどかしい気分なのですが、おそらく私の理解がなお皮相的なのでしょう。 哲学は人間の心理の襞の奥まで入り、その真理を解き明かそうと試みる学問です。皮相的に現れている問題点を(根本的に)解決するためには、一旦その問題にひそむ真理というか赤裸々な事実そのものを(辛くはあっても)すっかりあらわにする作業も必要でしょう。 ブラジュロンぬさんのこのご質問は実に複雑で解明が困難な、人間社会に潜むこみいった汚い部分を引きずり出されたような気がいたします。 >おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか? おそらく、そうなのでしょう。今の日本の政局のようにぐっちゃぐっちゃになってしまった人間関係を元に戻すことは人間の能力ではおそらく不可能でしょう。あるいはフクシマの原発の惨状とのシノニムも上げてもいいかもしれません(が、これは余計なことです)。 でも、ですね、そうやって人間の能力に絶望してしまうだけでは救いはないでしょう。惨状をほおっておくことが最善だとでも仰るのでしょうか。解決の道はないのでしょうか。その道を探るのが哲学なのではないでしょうか。 かって、ヒロシマ市民は惨禍を自分の身に引き受けて前を向きました。こういった赦すという高貴で最高の道はどこかにあるはずだと思います。 人間は幸か不幸か進化の過程で膨大な記憶力を獲得しました。しかもそれだけに満足せず、文字を発明して無限に近い記憶とそれらへののアクセスをも可能にしました。過去に得た莫大な知の富をわがものにする事が出来た一方で、過去に犯した罪もまた圧倒的なプレッシャーでわれわれの心身にのしかかってくるという辛さも経験しています。 こういったものをコントロールする知恵をわたしたちは考えねば成らないと思います。 私はさほど深刻なものではないのではないか、と思っているのですが、どうでしょうか。 前回の訂正 保障→補償

bragelonne
質問者

お礼

 ★★(回答No.1) 人(B)は 人(A)のあやまちを赦すことはできない  ☆ この命題を 次のように変換することを この質問は問おうとしています。   ○ 人は その生まれつきの自然本性としての能力によって 人の    あやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。        ○ 人と人との関係は その行為やまして存在にかんして 赦す・    赦さないといった判断をするようには出来ていない。(マチガ    イを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である)。    自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さない    かの判定をするようには出来ていない。   ○ わづかにおそらく 嫌悪や憎悪をその――心に反してでも――    想像力によってかき立てた人間から始まって それがついには    人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化(ま    づ初めは 考え方)を生んだ。  ☆ よってこの現行の文化を見直そうと言っています。  こまあすさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 私はさほど深刻なものではないのではないか、と思っているのですが、どうでしょうか。  ☆ おそらく 実際の事例として  ★ かって、ヒロシマ市民は惨禍を自分の身に引き受けて前を向きました。こういった赦すという高貴で最高の道はどこかにあるはずだと思います。  ☆ これを挙げて 大きく見て言えば 心配ないのだということだと思われます。  ですから あらためて復唱しますが  ★ ~~~~~  過去に得た莫大な知の富をわがものにする事が出来た一方で、過去に犯した罪もまた圧倒的なプレッシャーでわれわれの心身にのしかかってくるという辛さも経験しています。  こういったものをコントロールする知恵をわたしたちは考えねば成らないと思います。  ~~~~~~~   ☆ というとき ヒロシマ・ナガサキの《愛》からの出発をお手本に挙げておられるというかたちです。  愛からの出発と勝手に言いかえましたが それは  ★ 惨禍を自分の身に引き受けて前を向きました。こういった赦すという高貴で最高の道  ☆ のことに当ててよいと踏んだ結果です。そして 一点のみ別の考え方をこの質問はしており その点を問うています。  ★ こういった赦すという高貴で最高の道  ☆ この《赦すという道》の まづ表現について そしてその中身について こだわろうとしていることになります。  惨禍をもたらしたものについて きちんと管理し果てはそれを無しで済ますことができるようにしようという哲学による批判をすること これをまづおこなう。  そしてじつは それだけである。というのが 人間の自然本性の能力にふさわしいのではないか。  ヒロシマ市民は あるいは日本人は その暴挙のあやまちを赦したのでしょうか? その暴挙をおこなった人たちを赦してやると思ったり言ったりしたのでしょうか? あるいは赦さないぞと言い続けていましょうか?  あやまちとそのマチガイの内実をしっかりと考えその成果を世界の人びとが互いに共有しあたらしい交通のあり方を模索していこうと哲学するほかに 赦さん! 赦すもんか! 土下座されても赦せん! という思いや考えを表明していましょうか? また表明すべきでしょうか?  ★ ~~~~~   >おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?   >赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  おそらく、そうなのでしょう。今の日本の政局のようにぐっちゃぐっちゃになってしまった人間関係を元に戻すことは人間の能力ではおそらく不可能でしょう。あるいはフクシマの原発の惨状とのシノニムも上げてもいいかもしれません(が、これは余計なことです)。  ~~~~~~~  ☆ 《不可能ではない》と ご自身がヒロシマ市民の事例を挙げておっしゃったのぢゃないでしょうか。  ★ ~~~~~  でも、ですね、そうやって人間の能力に絶望してしまうだけでは救いはないでしょう。惨状をほおっておくことが最善だとでも仰るのでしょうか。解決の道はないのでしょうか。その道を探るのが哲学なのではないでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ 《赦す・赦さない》から自由になること あるいはむしろ自然本性において人はそれらから自由であるということ これは人間の能力であること これが解決の道につながるのではないでしょうか?  《能力によって 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ないし しない》 ここから前向きの姿勢とその身と心に湧き上がる力が得られるのではないでしょうか?  いまの常識あるいは文化が ことをややこしくしている。こういう問題ではないでしょうか?  ★ 過去に得た莫大な知の富  ☆ が手枷足枷になっていませんか?  ★ 過去に犯した罪  ☆ についても 人はまづおのれに関する部分はいともたやすく赦している。人は自分はかわいい。人はおのれを赦す天才である。  だったら その天才ぶりを 出発点としての自然本性にまでさかのぼって 赦さない・赦す以前の人間の能力において見直してはどうか?  フクシマになると ヒロシマのときより人びとは 賢くなりすぎたのでしょうか?  

その他の回答 (10)

noname#180065
noname#180065
回答No.11

何度も逆にお答えいただき、ありがとうございます。 神については、高校時代に洗礼は受けた事はあります。 ですが、正直にシスターとの対話でいつも疑問を感じており、 詳しくは知ろうとしませんでした。 責任に関しては、皆でと言う考えはなかったです。 そうですね、ですが、区分けがないので、責任の分担は難しいと感じました。 同時に、愚者は経験に学ぶと言う言葉を自分に突き付けた気分です。 最初の質問に戻り、自分の事のようで 今は色々考えさせられ反省します。 すぐに反応しがちなので。 また過去を蒸し返すと危惧されたり。 別質問も色々参考になりました。責任については、私ももう少し知りたいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神については、高校時代に洗礼は受けた事はあります。  ☆ そうでしたか。わたしなどは 三十歳ごろ 自分ひとりで聖霊による洗礼が与えられたと思ったところからの出発です。その後も水による洗礼を受けていません。どの教会にも属していません。  【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html  【Q:水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5406034.html  初めの質問は――名前が変わっていますが―― まだ水による洗礼について心が揺れていたときのものです。(この OKWave での最初の質問でした)。あとのは すでに水による洗礼は要らないと考えを決めてから あらためて問いました。  ★ 責任については、私ももう少し知りたいと思います。  ☆ そうですね。わたしの考えでは 表現の自由のもとの自己表現 これが自由であると同時に 答責性を帯びるというかたちで捉えています。基本はそれだと考えています。  そう言えば 正面からの《責任論》は 問うて来なかったようです。自由意志についてなどはありましたが。  これは ぼちぼちとまいりましょうか。  洗礼論の質問は長いですので テキトーにどうぞ。

noname#180065
noname#180065
回答No.10

へそ曲がりの心が柔らかくなるように、静かな状態になるように 心を磨かなければならない。 確かに。それは思いますね。 ですが、そこまでの状態で思えるか。訓練が必要でしょうね。 なるほど、おっしゃるそれはわかります。 神に関しては、勉強不足もあるでしょうが、そこまでは思えないです。 一歩間違えると、試練として、叩かれる、苦痛を与えられる。神に近づくためだと。 神が気持ちよくではなく、人間が気持ちよくあるために生きたい。 新しい質問に関しては、 責任を取るのを嫌い、ほかの者に責任を負わせようとするに関しては、 実体験において、責任を取ると言う意思を示すと とめどなく流れてくる。次から次へと乗せて、解決に至らないと言う経験をしたので、 互いのためにならないと感じました。 各自が責任を持つべき。自分が汚した場所は自分でふく事が責任ではないかと考えます。 考える機会をいただいて、ありがとうございます。 理論的に感情を含まず同じレベルにおりて話して下さるので、おかげで話す訓練になります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  ・・・心を磨かなければならない。  ・・・訓練が必要でしょうね。・・・  神に関しては、勉強不足もあるでしょうが、そこまでは思えないです。  一歩間違えると、試練として、叩かれる、苦痛を与えられる。神に近づくためだと。  神が気持ちよくではなく、人間が気持ちよくあるために生きたい。  ~~~~~~~  ☆ そうですね。二点で反応します。  ★ 神が気持ちよくではなく、人間が気持ちよくあるために生きたい。  ☆ 神もそのように望んでいるとわたしは 思います。  ★ 神に近づくためだと。  ☆ これは――信仰を問題にするならばですが―― 根本的に誤解だと見ます。  1. 人間は神の力によって あたかも魚が網で掬われるように つつまれる。それで すべてです。  2. わが身が魚のごとく掬われたなら それですべてだという意味は いちいち神に近づくであるとか神の心にふさわしいわが存在のあり方を願い目指すであるとかといった人間の側の努力は 基本的には――してもよいのですが――心のやわらぎと静かさが与えられることとは 関係ない。  3. たしかにこの網の中への掬われのためには わが心がきよめられなければならなかったのですが それもこれもすべて神のしわざによる。人間がいかに努力しようが努力しまいが 関係なく風が気ままに吹くように神のおとづれがわが心に起きるというのみ。  4. 乗りこえられない試練は与えられないとは言われています。果たしてどうかは どうなんでしょう。人それぞれであるとも あるいは確かにそうだとも 考えられますが。  ★ ~~~~  実体験において、責任を取ると言う意思を示すと  とめどなく流れてくる。次から次へと乗せて、解決に至らないと言う経験をしたので、  互いのためにならないと感じました。  各自が責任を持つべき。自分が汚した場所は自分でふく事が責任ではないかと考えます。  ~~~~~~  ☆ これは一概には言えないかも知れませんが 基本的に見ておっしゃるように 責任を負うのは 人それぞれ互いに対等だと思います。  ★ 責任を取るのを嫌い、ほかの者に責任を負わせようとする  ☆ の対案は 《おのれ一人が責任を負う》ではなく 《一人ひとりがいわば連帯して――基本的には それぞれの自由意志にもとづき個人が個別に責任は負うのですが その上であたかも連帯して――対等な関係として力を合わせる》だと考えます。  信仰論はまだまだくわしく述べなければいけないかも知れません。  また 実践におけるご見解ですので・またですのに それをいとも簡単に批評してしまいましたが その点ご海容のほどをお願いいたします。

noname#180065
noname#180065
回答No.9

批判だけをしたいのではないのですが、感情を含まず、問題のみを 適切な理論的な書き方をしたいのですが、書く知識、伝える技術が未熟な事を先にお詫びいたします。 考えの及んでいないところを知る事がご馳走とは、自分は奢っているなと考えさせられます。 ザビーヌさんの意見を読みました。確かにそのとおりだと思うし、同情ほど頭にくるものはないだろうと思います。 過去を蒸し返して、失敗の人生だと繰り返し言われているような気になるでしょう。 ですが、平気だそうです。がまかり通ると、考えの及ばない人間が増え、行動にうつす人間が増えると思います。 強姦者の目的達成に関する意見はそのとおりかもしれません。 出発点に関しても、なるほど位置が人によって違うのかと、驚き 今はその意見を言うに到達しません。 心が晴れていたら、傷つく事はない。 それも確かに実生活において、感じますね。 答えているうちに、確かにスタートラインが違う?と考えています。 奥深いですね。 こういう風に考えた事はなかったので。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  ★ ですが、平気だそうです。 がまかり通ると、考えの及ばない人間が増え、行動にうつす人間が増えると思います。  ☆ ここだけは 問題が残りますね。  なるほど そのように考えてみたことは なかったか もしくは忘れてしまっていました。  平気なら 襲ってやろうという思いに行き着かないとは限らない。  どう考えればよいでしょう。  ひとつには それほど他人の助けを借りて 自分の心のひねり具合いがわるい状態に落ち入っているのでその状態から脱したいとでも思っているのでしょうか? 潜在意識においては思っているのでしょうか。  もしそうなら 心の晴れた人は すでにその姿をその襲う人間に見せたその段階で へそ曲がりの心がやわらぎ静かな状態になるようにこちらのつまりおのれの心をさらに磨き練り上げて行かねばならないというところでしょうね。  参考までに:  【Q:きみはヨブを見たか。】 ~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5684019.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神はヨブが試されることを悪魔に許した。  ヨブは試された。  悪魔は困惑させられた。  ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。  神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。  ヨブは言っております。    主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。    主の御名はほむべきかな。(1:21)  と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。  (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~    ☆ この際 またたびさんには 押し売りのおまけを掲げます。  ☆☆【Q:人間(現実)が変わる。】 ~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6813865.html  まったくの空想ですとおことわりした上での問いです。  空想でも何がしかの哲学的意義があると判断されたなら ご見解をお聞かせ下さい。  たとえば 自由から逃避するホモ・サピエンスから 自由を享受するホモ・何と言えばよいでしょうか あたらしいヒト・ヒトになるという見通しです。    現代においてヒトビトは すでに自由を社会生活上かなりの度合いにおいて勝ち得ていると思われるのにこの自由を持て余しこれをむしろ嫌い要らないと言い出しこの自由から逃避する。  責任を取るのを嫌い わるいのは我れに非ずと 相手やほかの者に責任を負わせようとする。  ところが あたらしい人間は それはわたしが間違いました わたしに責任がありますと言う。そうするとほかの者たちが いえ わたくしにも責任の一端がありますとか これこれの点ではわたしにも落ち度がありました 責任の一端を負いますとか 言い出す。――自由を享受しているからである。  突然変異によってかどのようにしてか分かりませんが 人間(現実)が――前史から後史へ――変わる のではないか?  どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたくしはすでに老頭児ですので 若い人たちが自由に考えて行って欲しいと思うのですが その考えの一端をこうやって差し挟もうという魂胆です。

noname#180065
noname#180065
回答No.8

ごめんなさい。私の回答の仕方が稚拙です。 確かに批判ですね。 何故そうなるのだろうと 自分の欲求だけ貫いた回答になっています。 携帯から回答をしているので、一つ一つに丁寧な回答が難しく、 気になった点だけあげさせていただきます。すみません。 前提となる考えで 何故心が晴れていたら、傷つけられても平気なんでしょう? 始まりは傷つけられてからがスタートラインでは? 強姦者は欲求の目的を達成しています。心が晴れるのでは? レイプを被った人は、場合によっては子供をおろし、そのため、 流産を繰り返し、二度と子供が産めないようになります。 健やかな心で、女性が仮にいたとしましょう。 旦那も健やかで、女性の両親も健やかで、幸せだと言うとしましょう。 産まれてくる筈の子供も、僕はこうなって幸せだ。 と、子供に言わせる世の中にしたいですか? そう考えると、秩序を守るためにも、その心は戻らないようになっているのかな とも思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 またたびさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  批判は 歓迎ですよ。  とことん批判を受けてマチガイや考え及んでいないところをおそわるのは いちばんのご馳走です。  【Q:おなじみ:悪は存在しない。・・・】へのご回答にまだお応え出来ていないのは 昨夜は早く就寝したためです。こちらに先にお応えします。  ★ レイプを被った人  ☆ について次の質問をしています。心が晴れ続けているなら その被害はただ《蚊が刺しただけ》という結論を提出して問うています。  【Q:ザビーヌ事件について】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html  【Q:ザビーヌ事件について なぜそれを無効の行為だと判断してはならないか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5724038.html   ▲ (ヰキぺ:ザビーヌ・ダルデンヌ) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C  ザビーヌは1996年5月28日、12歳のときに通学中に誘拐され、犯人の家の特製地下室(幅99cm・奥行き2m34cm)に80日間閉じ込められる。その間、小児性愛者である犯人から性的虐待を受け続けた。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ このあと 何ともなかったかたちで元気にやっているそうです。    ★ 強姦者は欲求の目的を達成しています。心が晴れるのでは?  ☆ その目的に関するかぎり 達成感はあるでしょうね。ただしその行為はすでに自分のであれ相手のであれ心と意志とを偽っていると考えられます。銀行強盗も一たん盗みおおせたなら その意味と範囲では心が晴れるかも知れません。  要するに ウソをついたことが通ったとしたら それとして達成感は・・・あるのかなぁ? あるかも知れないけれど へその曲げから始まっているので さらに心がねじれるのではないでしょうか?  たしかにこれをもへいちゃらで乗り切ってしまおうとする場合には その心のやわからさは麻痺して頑なに成って行くと思われます。  したがって 《心が晴れている》という言葉には やはり二種類の内容があるように思います。  言いかえると 第二次の《イツワリの意志行為についてでもよいから達成感を得て心が晴れる》という場合には けっきょくその行為が失敗したときなどには 《赦す・赦さない》といった感覚が強く根づいて来るのではないでしょうか。  なぜなら 第一次の・ふつうの自然本性にあっては 何かを目指してその目的を達したから《心が晴れる》というものではないからです。基本的に言って そこでは《赦す・赦さない》という観念は出て来ないはずですから。  ★ ~~~~~  ・・・  旦那も健やかで、女性の両親も健やかで、幸せだと言うとしましょう。  産まれてくる筈の子供も、僕はこうなって幸せだ。  ~~~~~~~  ☆ ですから 《こうなって幸せだ》つまり心が晴れるというその順序ではないからです。出発点が 違っているという見方を提出します。  つまり その災難に遭ったとき一たん《心が晴れなくなった・曇った・雨が降った》ということではなく――つまりその時には実際には天候のわるい状態に入り悩んだり苦しんだりさまざまに考えるでしょうが それは元からの《にっぽん晴れ》を確認しさらに晴れさせるための試練であるのでしょうから―― 《ゆるす能力もゆるさない能力も人にはもともとないのだ》という能力を発揮するようになるための事件だったとなると思います。  そうしてそのような場合 基本的な対処の仕方として哲学による批判は すでに加害者に対して述べているはずです。  ★ ~~~~~  健やかな心で、女性が仮にいたとしましょう。  旦那も健やかで、女性の両親も健やかで、幸せだと言うとしましょう。  ~~~~~~~  ☆ 加害者がどういう反応を示すかを別として 哲学としての批判をきちんとしっかりと述べ伝えたのであれば 心はすこやかで元のまま晴れているということだと思います。それ無しにすこやかな心でいなさいというのであれば それは泣き寝入りせよとかアホバカ状態になれとかいうことに過ぎなくなります。  もし生まれることが出来たならその子どももそのように考え方においても 心の晴れを確認するとよいと思います。  ★ そう考えると、秩序を守るためにも、その心は戻らないようになっているのかな / とも思いました。  ☆ これは 哲学による批判のほかに 確かに人びとの間での取り決めとして・つまり法律として互いの交通の規則を決めてそれによって捌く(あえてこの意味合いで)ことも 秩序を守ることになると考えます。  ★ ~~~~  前提となる考えで  何故心が晴れていたら、傷つけられても平気なんでしょう?  始まりは傷つけられてからがスタートラインでは?  ~~~~~~~  ☆ 根本的な主題であると考えます。《自然本性》とは何か? といった問いが含まれるであろうからです。  でも簡単に見てみます。  ○ 言葉遊びだと言われかねませんが 《心が晴れていたら その心は傷つけられることはない》のです。  ☆ 怒りは起きますし ちょっと注意しても聞き流しているのを見たら憎しみも起きあがります。でも心が損ねられることはないはずです。傷がつくのは とうぜんのごとく加害者のほうです。  ということは 二次的なねじれた心から目論見や計らいを持ってその実現を目指して行動するわけですから その時点からずっと心は傷つけられていると思われます。  言いかえると ここで哲学による批判と言っているそのコトは けっきょくへそ曲がり人間がすでに心を傷つけつつ行動しているのであるから 誰かにそのことを指摘して欲しいと――心の奥底では――言っているようなものである。こう考えられませんか?  わたしたちは加害行為をこうむったら むっとしますしその怒りを隠すこともありません。とうぜんその加害行為のマチガイであることをその理由をしっかりと哲学的に考えたところとして述べ伝える。ということは 心の晴れている人間の場合は 相手からそのような要請があったという実質的なかたちにおいて ちょっと世話を焼く(もしくは 自己の心の回復を手助けする)ということになると見ます。  晴れた空に雲が出たり雨さえ降ったりするでしょうが それも元からのにっぽん晴れの確認と再生への試練であって その間こころが傷ついたり落ち込んだりするということではないと考えます。(心理的に・つまり大海の表面に波風が立つようなかたちで 気が沈むことはあります)。(そして 自分にも出発点に 心のねじれがあった場合には ちょっとした傷もつき落ち込むこともあります)。    このようにして 次に言う《スタートライン》については事情が違って来ていますというお話なのです。  ★ 始まりは傷つけられてからがスタートラインでは?  さあ どこまで有効でしょうか?

noname#180065
noname#180065
回答No.7

過ちや、許す、許さないは、結局は心が壊されたに尽きるのではないかと。 例えば、殺人や強姦などは、 その心が元に戻れるように努力していく必要があるでしょうが、 通常は並大抵の事ではなく、人間の一生では足りない場合も多々あるのかと。 忘れる事で、相手を許すようで、自分の時間を取り戻せるかもしれませんが、 心が生きたまま治らない。だから許さないになるのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 またたびさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  貴重なご批判ですので さらに質問趣旨を明らかにしつつ反応します。  ★ 過ちや、許す、許さないは、結局は心が壊されたに尽きるのではないかと。  ☆ こうでしょうか? すなわち 加害者は被害者に対してその心を壊すことをやったのだ。たとえ被害者が赦したとしても この壊された心が癒えること・元通りに直ること これが出来なければ その壊れた状態が現実であるかぎりで――たとえ赦したことになっていても―― 被害者本人にしてもその周りの人びとにしてもあるいは第三者にしても 基本的な考え方として《赦さない》になるのではないか。  えぇっとですね。  まづ重ねて述べますが この質問が立脚する考え方は いまの常識からは かけ離れています。  その上で 次のように考えています。  ★ 例えば、殺人や強姦などは、 / その心が元に戻れるように努力していく必要があるでしょうが、  ☆ 人を殺すというあやまちの場合は 残念ながら死んでしまった被害者本人からは その殺人者との関係などについて聞き出すことがかないません。その意味では 特殊な事例になるかと思います。  でもそう言った上で 一般にあやまちについて赦すか赦さないかを問題とします。  いきなりですが 質問の趣旨にかんするかぎり つぎのような・或る意味で前提となるような考え方を持っています。  ( a ) ひとは 世界と和解しているかぎり・またその心がさまざまなわだかまりをつねに晴れさせているかぎり あやまちを犯しても・あるいは人からあやまちをこうむっても その《心が傷つく》ということは 金輪際ありません。  ( b ) 《あやまちは人のつね ゆるすは神》だからです。あるいは 《罪を憎んで人を憎まず》だからです。憎むのはあるいは怒るのも 大いにしてもだいじょうぶだと思います。赦さないというためにではなく 哲学による批判の一環としてです。  ( c ) もし仮りにいやしくも人の心が傷つくあるいは壊れるということがあるとしたら それは へそを曲げ自分で自分の心に逆らい心を偽って行動するという自虐的な(もしくは自殺的な)意志行為をおこなったときだと見ます。つまり心は傷つき壊れますが それは 自分が傷つけ壊したのだと見ます。それよりほかに心が傷つくことはありません。他人がわたしの心を傷つけることなどはいっさいあり得ません。自殺行為か自殺を伴なう共犯行為のばあいにのみ 心が朽ちて行きます。  ( d ) 強姦という事例の場合 自分のであれ相手のであれその心に逆らって行動するわけですから 明らかにその自殺行為によって強姦者はみづからの心の自殺をおこなっています。つまり その心は壊れます。みづからが壊しています。  ( e ) レイプの被害者については どうか? これは単純に考えることが出来ます。そのレイプをみづからが望んだものであれば その意志行為を自分の心に忠実なことだと思い込んでいるかぎりまだ傷つきませんが やがて心にさからってへそを曲げたと分かったときには 傷つき心の血を垂れ流すようにさえなると考えられます。    ( f ) つまり レイプをこうむった人が 力学上の優位さによって行動する加害者に屈したとしても なんら心に傷はつきません。蚊が刺したのみです。すこやかな心でいられます。  ( g ) 仮りに殺人に遭ったとしても 同じです。それは人生の途中で取り返しのつかない災難に遭ったということが残念ですが 心が傷つくかどうか・壊れるかどうかについては 同じです。  ☆ そのような被害に遭って おのれの心におけるイツワリを伴なってもいたがゆえに心も傷つきさらには壊れたという場合 その壊れた心を回復することは  ★ 通常は並大抵の事ではなく、人間の一生では足りない場合も多々あるのかと。  ☆ これは なんとも一概には決められないかも分かりません。むしろおのれの努力やあるいは助けの手を差し伸べる人たちの尽力によっては なかなかむつかしいと思われます。  つまり 人間の力によっては心の傷が癒えるのは無理かも知れません。なぜなら もしそれがたやすくできるのであれば 人は好き勝手に或る日或る時にはへそを曲げたり心にイツワリのはからいを企んだりして そのあと時を見計らって好きなように元の心を回復させるという仕業をたのしむようになるでしょう。  ★ 忘れる事で、相手を許すようで、自分の時間を取り戻せるかもしれませんが、 / 心が生きたまま治らない。  ☆ 《忘れる》ということは――趣旨説明にその言葉を出していますが それは忘れてしまうくらいに人は自分については赦すものだと言おうとしています―― 基本的に別としています。むしろ忘れず 覚えています。それでも赦す・赦さないとは 関係させないだと。  つまり  ★ 忘れる事で、相手を許すようで  ☆ という場合は 人によってあるかも知れませんが そのことをさらに超えて 赦す・赦さないからも別の考え方の世界に移って行こうと言っています。というよりは この赦すことも赦さないことも能力によって出来ないというその能力をもった人間のあり方のほうが 生まれつきのもともとの姿であるのではないか? と問うています。  その回復の度合いによっては  ★ 心が生きたまま治らない  ☆ ものも――それは ナゾですが つまりナゾの力によるのでしょうが―― ときには直ることがあるかも知れません。  さて いかがでしょう?  

  • UtaShiori
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回答No.5

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という表現が御座いますが、 たとえ本音では加害者達を許したく御座いませんでしても、 社会生活上の建て前の都合で相手達を許さざるを得ない、 という状況は今後の日本にも残り続けるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 うたしおりさん ご回答をありがとうとございます。  そうですね。特にはNo.2(もしくは3)のひがしの端さんのご回答内容と同じおもむきだと理解してよろしいでしょうか。  ただし そのいまの  ★ 状況は今後の日本にも残り続けるでしょう。  ☆ というように つよくいまの常識を支持なさっている。  そうですね。  ★ ~~~~~  たとえ本音では加害者達を許したく御座いませんでしても、  社会生活上の建て前の都合で相手達を許さざるを得ない  ~~~~~~~  ☆ というように    ○ ホンネとタテマエの使い分けは いわゆる伝統と呼ぶに近い     文化のかたちを成しているので 一朝一夕にはくづれがたい。  といった事由を挙げておられる。  ひがしの端さんへのお応えに述べたと思いますが いまここでの問題は 出発点にあります。  もし――それはここでの仮説ですが――初めにひとは能力によってひとのあやまちを赦すことも赦さないことも出来ないというその能力を 自然本性としてのごとく保つならば そのアヤマチそしてそのマチガイであることの中身についてきちんとしっかりと分析し問題点を抜き出しこれをどうあらためるかを哲学として考えるほかには 相手とのかかわりをもうそこで終えるという。これが 出発点であると見ています。  ここから 考え方や常識(共同主観)が分かれて来ている。とは見るものです。  おそらく ホンネとタテマエの使い分けは――その文化は―― これらを使い分けるというときの《わたし》の総合的な視点 これが《真実》であり〔――「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というようなホンネを抑えてあるいは避けて 或る種の偽善をも帯びつつ空想や虚構をも伴ないつつそれでも《真実》として持つものであり――〕 そこに迷惑行為や加害行為という《事実》を合わせて 全体として《現実》を表わしている。ならば ひとつの交通論としての文化形式を確かなものとしてかたちづくっている。  と確かに考えられます。このような常識――共同主観――は それとして認めなければならないし いま現在において従わねばならないところだと考えます。  哲学は 反逆児であり たとえ異端児の烙印を押されてもその反逆をつらぬく場合もあります。  そのような問い求めをしっかりとしておきたいというこの質問になります。  ここでひとつの主題――あるいは論点――を取り出すなら 次の問題にならないでしょうか。   ○ もし《社会生活上の建て前の都合で相手達を許さざるを得ない》と    すれば これをむしろホンネとして捉えるほうが わが主観の真実    に合っているのではないか?   ○ なぜなら――趣旨説明にもあるいは最初の回答からのやり取りにも述    べましたように―― やはり《ひとは自分のあやまちについては 遅か    れ早かれ赦してしまうものだ》ということが 真実であり事実である    ならばというかたちです。  ひがしの端さんもおっしゃっていましたが お互いさまでありあるいは 思いやりというのも 日本人の文化です。おのれの――ここで敢えて出せば――罪については早々と赦してしまうのに 他人のそれについては いつまでもどこまでもその《赦す・赦さない》にこだわる。  つまり 相手を赦さない。ホンネでは 赦さない。タテマエで赦す。というかたち。  もしタテマエとしての常識(共同主観)が 歴史的伝統として確かな文化を成しているとしたなら それが端的に人間の真実であり 全体として現実であるのではないか。  そしてそこから 例の出発点に戻ってみて やはり赦さざるを得ない・つまり赦すというかたちを採るよりは 初めから赦す・赦さないといった判断を迫られてはいないし もともとその資格も能力もないのだという見方にまで戻れないか。戻るといった考え方は まちがっているか。  そのあたりのことを ここでは問うています。あらためて いかがでしょう。

回答No.4

許すという事が、本当に相手のためになるのか? その結果、また同じ過ちを繰り返す事になりはしないか? きちんと罰し、辱め、苦しめ、思い知らせる事こそが、真に 相手のため、ひいては社会のためになるのではないか? 事なかれ主義は、決して真の優しさではない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ひととおり質問者のお応えをしるします。  ★ 許すという事が、本当に相手のためになるのか?  ☆ もしこのような切り口でしたら 《赦さないということが 本当に自分のためにも相手のためにもなるのか?》といった捉え方もできましょう。  ★ その結果、また同じ過ちを繰り返す事になりはしないか?  ☆ というようにです。  ★ ~~~~  きちんと罰し、辱め、苦しめ、思い知らせる事こそが、真に  相手のため、ひいては社会のためになるのではないか?  ~~~~~~  ☆ ええっとですね。《批判》という言葉を用いてこれに応えるならば いまは法律としての批判(法的処理)は 脇に置いていますので さしづめ哲学としての批判ということになります。  つまり     哲学による事態の分析・診断そして処方箋をつうじての批判こそが 自   分のためにも相手のためにも ひいては社会のためになるのではないか?  ということですが この質問はじつは そのあとのことが問題になっています。すなわち  ☆☆(趣旨説明) ~~~~  批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 哲学による批判は 《赦すことや赦さないこと》とは別だという見方です。  ★ 事なかれ主義は、決して真の優しさではない。  ☆ というときの《優しさ》は 《人間が能力によって あやまちを赦すことも赦さないことも出来ない》というその言わば自然本性のあり方にある。のではないか? と問うています。どうでしょう?  No.1およびNo.2でのお礼欄に書き込んだ説明をも参照していただければさいわいです。

回答No.3

「赦す。しかし、忘れない」 という言葉があります。これは被害を受けた側の発言です。 ならば、加害者は、 「赦して貰えた事を忘れない」 という意識を持ち続けるべきではないでしょうか。 「過ぎた事は、水に流そう」 この言葉は、「被害者のみ」が口にする資格があるのです。加害者は口にするのはおろか、心の中で願う事すら許されるべきではありません。そんな事を思っている時点で、「自身の加害に対して反省していない」という事であり、謝罪をしたとしても、それは「被害者に心底申し訳無いと思っているから」ではなく「自分が赦されて、楽になりたいから」という、きわめて自己本意な動機からだと言えます。 当然、第三者(仲裁者。傍観者)も、被害者に対して「水に流したらどうか」等と言うべきではないでしょう。何故なら、その発言は「自分が加害者だったら、水に流して貰いたい」という気持ちからのものだからです。 第三者が言うべきは、加害者に向かって、「赦しを得たかったら、犯した罪を決して忘れるな」「万が一赦して貰えたら、相手の恩情と忍耐に生涯感謝を忘れるな」といった事でしょう。 >人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。 そうとは限らないと思います。そういう考えの人は「世間におんぶに抱っこしてもらっている(甘えている)、若しくは世間を舐めている人」だと思います。 日本には「お互い様」「相身互い」という言葉があります。 「自分が相手にかけるかも知れない迷惑」が「相手から自分にかけられるかも知れない迷惑」であり、「自分が受け止められる・引き受けられる迷惑」が「相手に受け止めて貰える・引き受けて貰える(かも知れない)迷惑」である。 そういう感覚を常とし、「分を弁えた生き方」を信条とすれば、「自分の許容範囲を超えた、度の過ぎた迷惑(加害)」が易々と赦されるとは到底思われず、他者に対して滅多な事はしない・出来ないものです。 だが、それをする・出来る人達がいる。彼らは「コミュニケーション不全」であると言え、「赦される」事の価値の大きさ高さを理解していない・出来ないとも言えます。価値が分からないからこそ、「自分の犯した罪は、簡単に赦されて然るべき」と考えるのです。正常なコミュニケーション能力があるなら、「自分が被害者ならば赦さない事を、他者に対して行えば赦される筈がない」「例え自分が赦せる事でも、他者がそうとは限らない」と、「相手の立場に立って、考える」事が出来ますから。 ならば、そんな人達に「赦しを与える」必要は無いのです。価値の分からない者に高価なものを与えるのは「豚に真珠」「猫に小判」「金をどぶに捨てる様なもの」ですから。 赦しを得るに値する人は、何時かは赦される・赦そうと思われます。 値しない人は、そもそも「何故自分を赦さないのか。自分が赦されないのか」が分からず、当然の結果として「罪の重さ」にも気付きません。「罪の重さ」に気付いていないなら、真から反省も謝罪もしていないという事です。だから「赦しを得られない」のです。 人と人との関係とは、世間とは、こんなものではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。(ご回答は重複していますので どちらかが削除されると思いますから こちらにも同じものをしるします)。  そうですね。  質問は いまの常識とはまったくと言ってよいほど別の考え方を提出し問うています。  ○ 人はその能力によって 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  ○ もし人がこの能力を傷つけてしまって――つまり自然本性に対して我を張りその結果 この能力の多くの部分を欠けさせてしまって―― 人に対してそのあやまちを赦してやると言ったり いやおれはゼッタイ赦さんと言ったりしているのが いまの常識世界である。  ☆ こういう見方を提出しています。どうでしょう?  ★ ~~~~  「赦す。しかし、忘れない」  という言葉があります。  ~~~~~  ☆ つまり質問としましては 迷惑や危害について加害者も被害者も 一般に忘れることはないだろうと見ていますし これをなかったことにする・しないというのは 二次的な処理の仕方ではないか。こうも見ています。  ★ ~~~  「過ぎた事は、水に流そう」  この言葉は、「被害者のみ」が口にする資格があるのです。  ~~~~~  ☆ この処理の仕方が二次的なことではないかと考えます。なぜなら 《人に対してそのあやまちを赦すことも赦さないことも 能力によって出来ない》というその能力を傷つけてしまったあとの応急手当のひとつではないかと考えるからです。  ★ 加害者は口にするのはおろか、心の中で願う事すら許されるべきではありません。  ☆ という議論があることは承知しています。けれども いかにそういった常識が人をそれに従わせることがあったとしても すでに加害者は 心に中で自分を赦していましょうし その意味で水に流してしまっており あとは被害者が同じくそう思いそうすることを願っている。ということは 世間の相場ではないでしょうか?  それとも 道徳規範によってそのような不謹慎な考えを糾弾しますか?  ★ そんな事を思っている時点で、「自身の加害に対して反省していない」という事であり、  ☆ おそらく加害者は みづからの心の中で《反省》をしたゆえにこそ これはどうしようもないし おわびのしょうもないと思った結果 これもどうしようもなく自分自身を赦してしまった。ということのように捉えます。つまり 人間なら誰もがそうであろうと この質問では踏んでいます。  ★ 謝罪をしたとしても、それは「被害者に心底申し訳無いと思っているから」ではなく「自分が赦されて、楽になりたいから」という、きわめて自己本意な動機からだと言えます。  ☆ つまり初めから言って来ているところの《赦す・赦さないが出来ない》という人間の能力を失ったなら 上で見た道徳規範が現われこれが猛威を振るいます。世間の《常識》の座におさまるという寸法です。  「被害者に心底申し訳無いと思って」も――出来るだけのつぐないはおこなうとしても―― お詫びのしようはないのです。そうして 《赦すことが出来ず赦さないことも出来ない》という能力が発揮できなくなっていると 道徳規範が顔を出して来ます。  ★ 「自分が赦されて、楽になりたいから」という、きわめて自己本意な動機からだと言えます。  ☆ 実際にこの考え方が いまの常識の一端になっているでしょう。  この質問のあたらしい考え方に従うなら 《人に対してそのあやまちを赦してやるとか 赦さないぞとか言うこと》は《きわめて自己本位な動機から》起こるようになったものだと見ます。《赦されよう》とは思わないから 《自分が赦されて 楽になりたい》とも思わない。筋が違います。  ★ そういう考えの人は「世間におんぶに抱っこしてもらっている(甘えている)、若しくは世間を舐めている人」だと思います。  ☆ この質問の趣旨から行きますと 真っ向から反論しなければなりません。  《被害者に心底申し訳無いと思》えというのは 自分が自身のあやまちについて じつは早々と赦しているという事実を棚に上げて 偽善者として規範倫理をとなえているだけだという見方をすることになります。《自分に甘えている》結果だと。あの能力をどこかへ捨てて来た結果 そうなったのだと。でも世間は そういう人がいっぱいであるので その常識はただしい・もしくは妥当だと思っているでしょうね。  つまりは 何としてでも《心からわびている》という姿勢でその姿を世間には見せなければならない。という《常識》の筋道が出来ている。あたかも これは二次的につくった《観念の運河》なのではないか? その運河をとおれば・その運河の通行手形を持っているなら なんとか世間は その咎めの声を緩めてくれる。そういう《赦し・赦され》の二次的な文化であると。   そういう意味で  ★ 人と人との関係とは、世間とは、こんなものではないでしょうか。  ☆ という見方は いま成り立っているのだと見ます。この質問は そういう問いです。  ★ 日本には「お互い様」「相身互い」という言葉があります。  ☆ 加害者となってしまったわたしは 誰もが そのあやまちについて自分を赦すものだと見るとすれば この事実にもとづき《お互いさま・相身互い》の精神を広く発揮して欲しいように思うのですが 果てさて  ★ 「コミュニケーション不全」  ☆ に落ち入ってしまいましょうか? どうでしょうか。

回答No.2

「赦す。しかし、忘れない」 という言葉があります。これは被害を受けた側の発言です。 ならば、加害者は、 「赦して貰えた事を忘れない」 という意識を持ち続けるべきではないでしょうか。 「過ぎた事は、水に流そう」 この言葉は、「被害者のみ」が口にする資格があるのです。加害者は口にするのはおろか、心の中で願う事すら許されるべきではありません。そんな事を思っている時点で、「自身の加害に対して反省していない」という事であり、謝罪をしたとしても、それは「被害者に心底申し訳無いと思っているから」ではなく「自分が赦されて、楽になりたいから」という、きわめて自己本意な動機からだと言えます。 当然、第三者(仲裁者。傍観者)も、被害者に対して「水に流したらどうか」等と言うべきではないでしょう。何故なら、その発言は「自分が加害者だったら、水に流して貰いたい」という気持ちからのものだからです。 第三者が言うべきは、加害者に向かって、「赦しを得たかったら、犯した罪を決して忘れるな」「万が一赦して貰えたら、相手の恩情と忍耐に生涯感謝を忘れるな」といった事でしょう。 >人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。 そうとは限らないと思います。そういう考えの人は「世間におんぶに抱っこしてもらっている(甘えている)、若しくは世間を舐めている人」だと思います。 日本には「お互い様」「相身互い」という言葉があります。 「自分が相手にかけるかも知れない迷惑」が「相手から自分にかけられるかも知れない迷惑」であり、「自分が受け止められる・引き受けられる迷惑」が「相手に受け止めて貰える・引き受けて貰える(かも知れない)迷惑」である。 そういう感覚を常とし、「分を弁えた生き方」を信条とすれば、「自分の許容範囲を超えた、度の過ぎた迷惑(加害)」が易々と赦されるとは到底思われず、他者に対して滅多な事はしない・出来ないものです。 だが、それをする・出来る人達がいる。彼らは「コミュニケーション不全」であると言え、「赦される」事の価値の大きさ高さを理解していない・出来ないとも言えます。価値が分からないからこそ、「自分の犯した罪は、簡単に赦されて然るべき」と考えるのです。 ならば、そんな人達に「赦しを与える」必要は無いのです。価値の分からない者に高価なものを与えるのは「豚に真珠」「猫に小判」「金をどぶに捨てる様なもの」ですから。 赦しを得るに値する人は、何時かは赦される・赦そうと思われます。 値しない人は、そもそも「何故自分を赦さないのか。自分が赦されないのか」が分からず、当然の結果として「罪の重さ」にも気付きません。「罪の重さ」に気付いていないなら、真から反省も謝罪もしていないという事です。だから「赦しを得られない」のです。 人と人との関係とは、世間とは、こんなものではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  質問は いまの常識とはまったくと言ってよいほど別の考え方を提出し問うています。  ○ 人はその能力によって 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  ○ もし人がこの能力を傷つけてしまって――つまり自然本性に対して我を張りその結果 この能力の多くの部分を欠けさせてしまって―― 人に対してそのあやまちを赦してやると言ったり いやおれはゼッタイ赦さんと言ったりしているのが いまの常識世界である。  ☆ こういう見方を提出しています。どうでしょう?  ★ ~~~~  「赦す。しかし、忘れない」  という言葉があります。  ~~~~~  ☆ つまり質問としましては 迷惑や危害について加害者も被害者も 一般に忘れることはないだろうと見ていますし これをなかったことにする・しないというのは 二次的な処理の仕方ではないか。こうも見ています。  ★ ~~~  「過ぎた事は、水に流そう」  この言葉は、「被害者のみ」が口にする資格があるのです。  ~~~~~  ☆ この処理の仕方が二次的なことではないかと考えます。なぜなら 《人に対してそのあやまちを赦すことも赦さないことも 能力によって出来ない》というその能力を傷つけてしまったあとの応急手当のひとつではないかと考えるからです。  ★ 加害者は口にするのはおろか、心の中で願う事すら許されるべきではありません。  ☆ という議論があることは承知しています。けれども いかにそういった常識が人をそれに従わせることがあったとしても すでに加害者は 心に中で自分を赦していましょうし その意味で水に流してしまっており あとは被害者が同じくそう思いそうすることを願っている。ということは 世間の相場ではないでしょうか?  それとも 道徳規範によってそのような不謹慎な考えを糾弾しますか?  ★ そんな事を思っている時点で、「自身の加害に対して反省していない」という事であり、  ☆ おそらく加害者は みづからの心の中で《反省》をしたゆえにこそ これはどうしようもないし おわびのしょうもないと思った結果 これもどうしようもなく自分自身を赦してしまった。ということのように捉えます。つまり 人間なら誰もがそうであろうと この質問では踏んでいます。  ★ 謝罪をしたとしても、それは「被害者に心底申し訳無いと思っているから」ではなく「自分が赦されて、楽になりたいから」という、きわめて自己本意な動機からだと言えます。  ☆ つまり初めから言って来ているところの《赦す・赦さないが出来ない》という人間の能力を失ったなら 上で見た道徳規範が現われこれが猛威を振るいます。世間の《常識》の座におさまるという寸法です。  「被害者に心底申し訳無いと思って」も――出来るだけのつぐないはおこなうとしても―― お詫びのしようはないのです。そうして 《赦すことが出来ず赦さないことも出来ない》という能力が発揮できなくなっていると 道徳規範が顔を出して来ます。  ★ 「自分が赦されて、楽になりたいから」という、きわめて自己本意な動機からだと言えます。  ☆ 実際にこの考え方が いまの常識の一端になっているでしょう。  この質問のあたらしい考え方に従うなら 《人に対してそのあやまちを赦してやるとか 赦さないぞとか言うこと》は《きわめて自己本位な動機から》起こるようになったものだと見ます。《赦されよう》とは思わないから 《自分が赦されて 楽になりたい》とも思わない。筋が違います。  ★ そういう考えの人は「世間におんぶに抱っこしてもらっている(甘えている)、若しくは世間を舐めている人」だと思います。  ☆ この質問の趣旨から行きますと 真っ向から反論しなければなりません。  《被害者に心底申し訳無いと思》えというのは 自分が自身のあやまちについて じつは早々と赦しているという事実を棚に上げて 偽善者として規範倫理をとなえているだけだという見方をすることになります。《自分に甘えている》結果だと。あの能力をどこかへ捨てて来た結果 そうなったのだと。でも世間は そういう人がいっぱいであるので その常識はただしい・もしくは妥当だと思っているでしょうね。  つまりは 何としてでも《心からわびている》という姿勢でその姿を世間には見せなければならない。という《常識》の筋道が出来ている。あたかも これは二次的につくった《観念の運河》なのではないか? その運河をとおれば・その運河の通行手形を持っているなら なんとか世間は その咎めの声を緩めてくれる。そういう《赦し・赦され》の二次的な文化であると。   そういう意味で  ★ 人と人との関係とは、世間とは、こんなものではないでしょうか。  ☆ という見方は いま成り立っているのだと見ます。この質問は そういう問いです。  ★ 日本には「お互い様」「相身互い」という言葉があります。  ☆ 加害者となってしまったわたしは 誰もが そのあやまちについて自分を赦すものだと見るとすれば この事実にもとづき《お互いさま・相身互い》の精神を広く発揮して欲しいように思うのですが 果てさて  ★ 「コミュニケーション不全」  ☆ に落ち入ってしまいましょうか? どうでしょうか。

noname#194996
noname#194996
回答No.1

>あやまち ってなんでしょうね。 単なるうっかりミス:AがBに対する過失 である場合 他人Aの過失でBがフグになった場合、法律に訴えてBはAから保障金をぶったくる。世間的にはそれで一件落着? もちろんAはBに誠意を尽くして謝り、Bはそれを評価するかどうかは自由であり、分からないにしても、 その前にBはAを批判し、その不注意ぶりを非難し、怒る、そういう経緯は前後するかもしれませんが、 現代の法律的倫理ではそれ以上のことは出来ない。 目には目を、とかいうことは、敵討ちのようなことは法律が許さない(Bの辛さです)。 これは確かですが、 ブラジュロン様はその先を問うておられるのでしょうね。 AがBに対して”赦して欲しい”なにもなかったことにして欲しい、と思っていることは間違いないでしょう。”保障金を払ったんだから、それは当然ではないか”と思っているかもしれません。 しかし、B がフグになったことは確かであり、それはどんな金を積んでも元に戻すことは出来ない。 そういう意味で”AとB が和解することはありえない” ともいえます。 >まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》 こういうことでしょうか。 もちろん、Aが不倶になったかどうかは本質的な問題ではありませんね。AとBとの不幸なかかわりがあって、Bが傷ついた、心身がAによって陵辱されたという事実がある以上、AとB との関係はそれ以前とはまったく異なった次元に入ったといっていいでしょう。 >人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。 私見として私はこういうふうに解釈してみました。 現実として、AとB が以前に増して親しくなったということはありうるのかもしれません。しかし、過去の事実というものをなかったことにすることは論理的には不可能です。 人(B)は 人(A)のあやまちを赦すことはできない Aが自分の過失を忘れたいと切に念じていることは確かですし、実際にも忘れてしまうことはあるでしょう。でもBにとっては、どんなに軽い傷であってもそれはAに比べれば何十倍も忘れ難いことであるのは確かです。Aはそういう意味でB同様に忘れるべきではなく、辛くはあってもAが忘れるまでは(自身の罪として)保持しておく、それが倫理的にも正しいことであると考えるべきでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  常識破りというふうに卑下しないとすれば それでも常識からうんと飛躍しております。そういう考え方について問うています。  そこで そのために重要と思われるところは  ☆☆(趣旨説明) ~~~~  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  ~~~~~~~~~  ☆ というふうに 早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われるからです。  もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。  つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。  そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?  そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?  でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。  そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。  つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。  だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?  さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが ひとつには  ★ A が自分の過失を忘れたいと切に念じていることは確かですし、実際にも忘れてしまうことはあるでしょう。・・・  ☆ すでにいきなり 質問者の考え方をお答えに対してぶつけてしまう恰好で お応えしますが 基本的に《忘れる》こととは別なのです。  ★ しかし、過去の事実というものをなかったことにすることは論理的には不可能です。  ☆ つまり《あったことであり 忘れずにいる》ゆえに 赦すことも赦さないことも 人の能力にはない。という見方を提出しています。  ぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか?   《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?  わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。  ★ もちろん、A (* たぶん B のこと?)が不具になったかどうかは本質的な問題ではありませんね。  ☆ これを別の意味で展開します。つまり A が B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。  自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?  もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか?   おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  ★ もちろん A は B に誠意を尽くして謝り、B はそれを評価するかどうかは自由であり、分からないにしても、  ☆ この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。  きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか?   あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。  いかがでしょう? 受け容れられませんか?

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