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ダンマパダのこの一節について
こんにちは。 ダンマパダのこの一節について、解説をお願いしたいのですが、以下 >修行僧が人のいない空家に入って、心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。かれは、個人存在を構成している諸要素の生起と消滅のことわりを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びとなり、また悦楽なるものを、体得するに至る。< 特に、個人存在を構成している諸要素の生起と消滅のことわり、というものが理解できていません。 一体これはどようなことを述べているのでしょうか。 よろしくお願いします。
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「個人存在を構成している諸要素」とは、五蘊(ごうん)のことです。 般若心経にある、「五蘊皆空」の五蘊です。 五蘊は、 色(肉体)、受(感覚)、想(表象作用)、行(形成力or潜在意識作用)、識(判断をする心、意識) です。 専門家によって多少の違いますけれど───特に行、これを意志とする説もあります───、 色を肉体、受~識は心と考えれば、まぁ、間違いはないかと思います。 なお、色(しき、rupa・るーぱ)を肉体よりもっと広く、名称・概念と形(象)───nama-rupa、なーま・るーぱ───とする場合もあるので、そのあたりは注意が必要です。 ダンマパダですと、この前の367に「名称とかたち」とありますが、これがnama-rupaで、広義の色です。 ただし、ダンマパダのこの部分(374)は、「個人存在を構成している」とありますから、狭義の色、すなわち、肉体や身体だと思います。 さてさて、 「個人存在を構成している諸要素の生起と消滅のことわり」 ですね。 この解釈は、かなり難しいと思います。 で・す・が、 一番ズルい回答は、「縁起の理法」、「因縁生起の法(則)」でしょうか(ニコニコ)。 なぜ、私たちに心身があるのか? 前世の行いと現世の行いが原因(縁or因縁)であり、我々の心身はその結果である。 なぜ、私たちの認識は成立するのか? 対象が原因であり、それが感覚器官や私たちの心の働きと結びつく、和合することによって、認識は成立する。 では、なぜ、消滅するのか? 直接因である因や、間接因である縁が欠如しているからである。 たとえば、 対象、感覚器官、心の働きのいずれが欠けても、認識は成立しない・・・。 なぜ、人は悟れるのか? 迷いの原因を断てばよい、なくせばよい。 前世の部分を抜きにすれば、極めて当たり前のことを述べているとなります。 369では、 船に水がたまっているから、船は軽やかに前に進まない。であるから、船を軽やかに進めなくしている原因である水を汲み出せばよい。 370では、 五つの束縛のために、私たちの心は修まらない。であるから、その原因である五つの束縛をなくせばよい。 こんな感じです。 ですから、難しく考える必要はありません。 ここにスゴいこと、とんでもない真理が書かれている、と考えるべきではありません。
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- Y Y(@yy8yy8az)
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「修行僧が人のいない空家に入って、心を静め真理を正しく観ずるなら」を次のように解釈しました。 修行が進んで自我を滅し真我なるものに触れることが出来たなら、と。 人のいない空家とは、五蘊から離れることのできた自分の心のこと、ではないでしょうか。 人間を超えた楽しみとは、一口で言えばいわゆる法悦と云ったような事でしょう。 身近なことで云えば、幼子の笑顔に触れれば自然、自身の心も“笑顔”に成ってしまうような悦び、これも心のつながりという点に於いて〈質的には?〉同じかと思います。 生起と生滅、また不死のことわり、については一口では言えず、かと言って多言をもっての説明は無理なので、“彼のお坊さん”の文を少々長いですが写してみようと思います。 途中から・・・ 『大乗唯識に至りては衆生の意識の上に末那(まな)と阿頼耶識の二識を立て、一切の心意識を統べて阿頼耶とす。個性のいわゆる霊魂を阿頼耶識と云う。これは蔵(ぞう)と云う義にて蔵(くら)の中に一切の物を蔵(おさ)むる如くに一切の法の種子を包蔵して居るのである。 本来阿頼耶識は分別したり意識したりする働きはない。属性の末那が現はるると阿頼耶のことを我(が)と分別し執着す。意識と共に善悪の業を相続するものは阿頼耶である。阿頼耶は本体で業は力用(りきゆう)である。人が一代造りたる善悪の業は身と意識とが無くなっても業の勢力は阿頼耶の種子に有(も)って居る。恰も杉の種子には解(と)いて見ても枝葉根茎とては見えぬけれども、種子の成分には大杉となる能を有って居る様なもので、阿頼耶の業識に業種子としてその作用から結果を招くべき為の性分を有って居る。 これらの種子が阿頼耶の体に伏蔵して、それが因種と成って外縁を待って又更に新たなる身体を構成するので、然してその業と云うも色心已外の存在ではない阿頼耶の作用に外ならぬ。蓋し一切の業の種子はみな阿頼耶に伏蔵して六道種々の身を受く。故に一切の個性の根底は阿頼耶の種子が持続の体である。 この種子から芽発して末那分別の我執と現行(げんぎょう)し、この末那の我意の現行がまた阿頼耶の種子と為って、種子から現行を生じ現行の因が業を結果して種子と為り、斯(か)くの如く展転して生死極まりなく阿頼耶の業力(ごうりき)は常恒流転して止まず、羅漢果を得て解脱する時に初めて解脱す。 また仏となる時には識は転じて仏の四大智慧になる。』 どの箇所を取り上げたらよいのか迷いながら、これを選んでみました。
お礼
人のいない空き家を、喩えと捉えられたのですね。そういう読み方もありかと思いました。 法悦と、人の笑顔を結びつけるあたり、素朴な解釈だなと感じました。私には出来ない読み方です。 唯識を引用してくださいましたが、問題の箇所、唯識で解釈する道もあるかと納得しました。私の聴いたところでは、法蔵はアマラ識であるということでしたが、引用箇所、こだわらずに参考にさせていただきます。ありがとうございます。
- kurinal
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細かいことには、どうですかね。
お礼
結構、此の節は細かいことを述べていると思うのですが、如何せん私だけでは意味を汲み取れませんでした。
- kurinal
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こんにちは。 >「人のいない」 涅槃じゃないですか。
お礼
と私も思ったのですが。。
宮元啓一「仏教誕生」講談社学術文庫の引用文は 129ページでした。 引用をミスしました。リンク先を見れば気がつくと思いますが 念のため、訂正しておきます。 「サーリプッタはその後、仏教教団の上首として、仏教を各地に伝えるのに多大の功績を挙げた。また釈尊がごく簡潔にしか説かなかった縁起説をより精密に整備展開するのに熱心であった。ある学者たちはのちにかなり形而上学的となる縁起説の基礎を築いたのはサーリプッタであり、その意味で、仏教は、かなりの程度、サーリプッタ教といっても過言ではないという。現に、ジャイナ教の古い経典で、往年の聖者たちを列挙した『イシバーシヤーイム』によれば、ブッダと呼ばれる多くの聖者たちを率いていたのは、サーリプッタであった。」
お礼
ご丁寧にありがとうございます。了解です。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ (No.4お礼欄) ここでは、真理を正しく観ずるの中身が、個人を構成する諸要素云々のくだりかと思うのですが、。 ☆ 文章のかたちとしては そうです。 けれども あすはダルマを究めるぞと思い勇んでいたことが 萎んでしまったとか あるいは あんなに元気だった人が その身に病巣を持っていたとか こういったように《個人を構成する諸要素が生起したり消滅したりすること》は ちょっとした子どもでも知っていることです。 つまり いちいち《真理》なぞという話ではありません。 つまり このくだりを説いた人間には お・ま・え・は・あ・ほ・か? と言ってやらねば 言ってやらない者もいっしょにバカになります。 そういうダルマ論です。ちがいますか?
お礼
うーん、そんな簡単な事を説いたりしてるようには思えないですが、。 ともあれご回答有難うございました。
縁起なんだろうけど。 それより 縁起はサーリプッタが説いた? http://okwave.jp/qa/q7768854.html 「サーリプッタはその後、仏教教団の上首として、仏教を各地に伝えるのに多大の功績を挙げた。また釈尊がごく簡潔にしか説かなかった縁起説をより精密に整備展開するのに熱心であった。ある学者たちはのちにかなり形而上学的となる縁起説の基礎を築いたのはサーリプッタであり、その意味で、仏教は、かなりの程度、サーリプッタ教といっても過言ではないという。現に、ジャイナ教の古い経典で、往年の聖者たちを列挙した『イシバーシヤーイム』によれば、ブッダと呼ばれる多くの聖者たちを率いていたのは、サーリプッタであった。」 宮元啓一『仏教誕生』講談社学術文庫 185ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図 http://okwave.jp/qa/q8573374.html 韻文経典は、最初の段階では三蔵に収録されていなかったのだから、四阿含のように律蔵をまとめた僧団によって 編纂されたものではない。四阿含には韻文経典を批判する経典が収録されている。その経典は、将来、 「如来によって説かれた、甚深であり、甚深な意味の、出世間的な、空に関する経典」が聞き学ばれず、 ただ「詩人たちによって作られた、詩人の、さまざまな言葉、さまざま表現から成り、異端的な、弟子たちによって説かれた経典」が人気を博すことを予言し、そうならないように戒めている (『相応部』因縁品譬喩相応第七経「鼓輻経」)。この記述から、四阿含の系統から韻文経典が快く思われていなかったこと、 それゆえに、韻文経典が四阿含に収録されずに斥けられたことを推測できる(ヴィンテルニッツ 一九七八、六一頁)。 新アジア仏教史03 インドIII 仏典からみた仏教世界 084~085ページ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ゴータマの死〔の不延期〕に アーナンダは罪があるか http://okwave.jp/qa/q8593177.html また、『サンギーティ・スッタンタ』(Saṅgīti-suttanta、「長部」III、pp.207-211)には、 サーリプッタがブッダに代わって説法をするエピソードがみられる。その内容は、サーリプッタが主催する経典編纂の様相を 呈しており、経典の名称にもそれを示すサンギーティ(Saṅgīti、結集)という言葉が使われている。 133-134ページ 新アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開 佼成出版社 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 根拠も証拠も出典もなにもありませんが、 ついでに誰かのせいで、忌々しくて頭にきていますが 本当に、縁起と空が対立しているとすると サーリプッタとその派閥が縁起説を作成して それに否定的だった人たちが空に関する経典を作成したのでは? などと思ったりしましたが、まったく根拠はありません。 実際のところどうなのでしょうか。 経典が出来るのは口伝より後でしょうから、空の思想とでもしておきますが。 スッタニパータから縁起説の成立を読み解くようなケース たとえば第三章の二種の観察など 並川孝儀とかいう人らしいけれど ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1 『スッタニパータ』「争闘」──縁起説の萌芽 2 『スッタニパータ』「二種の観察」──縁起説の源流 https://svrec01.kosei-shuppan.co.jp/product.jsp?id=2638 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ それにしても 「如来によって説かれた、甚深であり、甚深な意味の、出世間的な、空に関する経典」 「詩人たちによって作られた、詩人の、さまざまな言葉、さまざま表現から成り、異端的な、弟子たちによって説かれた経典」 それが気になるんですよ。詩人の経典が縁起説だとはいえないだろうけれど。 なにしろサンユッタ・ニカーヤにも縁起説はあるそうだから。 釈尊のさとりについて http://okwave.jp/qa/q6862209.html なにはともあれ投稿。 まったくまとまりがない。
お礼
舎利弗は、訳の名前の通り、仏であると聴いたことが有ります。 確かに釈尊の言葉と、そうでないものとあると思いますが、ダレが入ったのかも重要かもしれませんが、それよりも何が言われたかの方が大切かなとも思います。 経典に対するいろんな見方があるのですね。 ありがとうございます。
補足
訂正です。 ダレが入った→誰が言った でお願いします。
- NemurinekoNya
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「真理をただしく見る」のパーリ語は samma dhammam vipassato みたいですね。 ここにも出てきました《vipassa》が(笑)。 dhammaは超多義語ですから、この文はどうとでも訳せるな(大笑い)。 vipasattoは「瞑想する」でも「毘鉢舎那(びばしゃな)する」とも訳せる。「見る」、「観る」、「観察する」とも訳せる。 しかも、dhamma(だんま・サンスクリットだと「だるま」)は、「存在」を含む「法」。教えやオキテの意味もある。「真理」や「正義」の意味もある。 誰からも苦情のつかない訳は、 「ただしく法を観る」 ですかね。 この訳が一番無難だと思います。 samma:(副詞) ただしく
お礼
原語?から見るのも楽しいですね。また教えてください^^ ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 △ ・・・真理を正しく観ずるならば ☆ とあります。つまり ○ 真理を見ること は じつは 目的であるはずなのです。それは 何であるか? どういうことなのか? を明らかにするのが ダルマについて説くというおこないです。 ところが その《説いて明らかにすべきことがもし実現したならば》という条件を出してしまっている。 これは どういうことか? ○ おまえさんたちは 空き家に入って 《さとりを得るならば さとりを得る》。 と言っています。 《五蘊》のことは すでに回答が寄せられています。
お礼
ここでは、真理を正しく観ずるの中身が、個人を構成する諸要素云々のくだりかと思うのですが、。 ご回答ありがとうございます。
- Y Y(@yy8yy8az)
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人のいない空き家、人間を超えた楽しみ。 この言葉に注目します。 生起と消滅、については諸行無常の世界とか五蘊の事である、と言う解釈になるかと思いますが、それでは不死のことわりを知るとなぜそれが喜びとなり、また悦楽を感じるようになるんでしょう? 大木は我々の目には見えないけれど、大地に根を張っています。 質問文に、見えぬ「根っこ」を感じます。 アメンボ脳故にヒントの様な事しか言えませんが、例えれば地上の芝は毎年枯れて消滅しますが、地下の根は生き続けまた地上に芽を出す様なもの。 永遠の喜び、悦楽は根に潜んでいるように思います。 ☆ “正しく理解する”という言葉も意味深ですね。
お礼
そうですね、独居、ひとりいであるということも注目されるべき点ですね。根っこの話、示唆にとんだものと思います。根っこを理解する故に、解脱が起こりえると思います。 ありがとうございます。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>特に、個人存在を構成している諸要素の生起と消滅のことわり、というものが理解できていません。 一体これはどようなことを述べているのでしょうか。 ○「諸行無常」ということですね。「諸行無常」の理は誰も逃れられないということですね。 自身の肉体もその肉体を提供してくれた両親も、兄弟や友人、学び舎も職業に従事する組織、自身と自身に関係するすべての存在(個人存在を構成している諸要素)が生起と消滅の理からは逃れられない。そういう「諸行無常」の中に不死の存在を見出すこと、それが悟りの一歩と言っているのですね。法句経の冒頭にある「心」の存在とその不死性に気づくことがまず修行僧の一歩で、「その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びとなり、また悦楽なるものを、体得するに至る。」となっているのです。まさに、釈尊の教えですね。
お礼
諸行無常ですか。なるほどです。しかし、諸行無常の中に不死を見つけるというのは、難しいなと思いました。ただ、生死の流転の中に、不死のもの=こころ はあるかもしれないと思いました。 ありがとうございます。
お礼
縁起の理法ですか。なにか、ここに解脱の真相が表されている様な気がしたのですが。 詳しい回答感謝します。 勉強になります。