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精神要素の論理性について
例えばですが、 愛情、信頼、絆、信念、謙虚さ、喜怒哀楽、などの主観的に属すると思われる言葉を、 精神を構成する要素として客観性を持って把握し、 それぞれの関連性を見つけることで、主観の構造を作ることができたとして、それは論理的ということができるでしょうか? 理にかなってる、という表現がありますが、この「ことわり」という文字に現れるように、主観でも、理にかなってる、筋が通ってるという場合、論理性、論理的性質が備わってるといえるでしょうか?~つまり理にかなってるの理は、論理の「理」でしょうか? 言い換えると、主観と客観の接点があるのかないのか、という話しになるのですが。 筋が通ってることは、そこに何らかの整合性を認められることにならないでしょうか? 主観には、論理性は存在しないでしょうか? 脳の働きとして作り出される感情、主観であれば、脳の働きは論理的に記述できるので(脳科学での解明が進めば) その産物という事もできる感情も、論理に従ってるといえないでしょうか?
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sheep67さん、こんにちは。 たいへん、興味深いご質問だと思います。 僕は「宇宙の理」を学び初めて10年近くの者です。 そこから知り得た情報を中心にして、 ない知恵を絞って回答にチャレンジします。 ◆ 主観と客観 結論から先に申しますと、 一人の人間が、より広い視座を得ると、 今まで、客観的事実と思っていたことが 主観的なものであった、 ということに気付くということです。 言葉を変えますと、 僕達地球人が客観的事実として認識していることが、 もう少し精神性が進化する(愛と調和に目覚める)と、 主観にすぎなかったことに気付くということです。 宇宙間の万人に共通の客観的事実というのはありえず、 あくまでも、その人(達)の主観であるわけです。 例えば、太陽は原子核融合反応をしている火の玉である、 という現代地球人の観測的認識です。 これが、 いづれ間違いであったと気付く日も遠くないと思います。 昔、野良仕事の帰りに 沈む夕日に手を合わせたおばあさんの方が、 現代人よりも直観で正しく物事を感じていたということです。 僕達地球人のほとんどは、 生活上は五感だけで宇宙を認識しています。 その五感のうち最も多くの情報を取り入れている視覚でさえ、 科学の力を借りても、 キャッチできる電磁波の周波数の範囲の極めて狭いものです。 まして、地球では波動の種類として、一般的には、 電磁波、磁気波、物質波の三種類しか知られていませんが、 この広大無辺な大宇宙にはそれらより、 より精妙な役割の違う無限段階の光波があるということです。 僕達が真空と呼ぶ空間にも 無限の波動が充満しているということです。 そして、ある生命体の精神性の進化に応じて それらの波動の受信能力が徐々に高まってくるということです。 いってみれば、僕達地球人は、 宇宙間の人類から観れば発展途上の人類ということです。 これを知るとき、 僕達は大宇宙に対して謙虚な心にならざるを得ないと思います。 現代科学の間違いは、 主観とか精神性というものを悉く排除してしまい、 数値で表現したものに最大の尊敬を与えたことです。 現代文明の首座を占める現代科学は、主として物質科学であり、 生命現象は解明不能で、そこからは、 人間にとって最も大切な愛も、誠も、感謝も生まれず、 根源の大叡智者から無際限に降り注がれる 大愛の波動をキャッチ出来ず、 僕達地球人は宇宙から隔絶されている状態です。 ◆ 理について この大宇宙は無限数の生命が無限の彼方に向けて 進化するために存在します。 それ以外に存在理由はありません。 その生命進化のために それぞれの位置にある生命達にふさわしい 数多くの自然法則が設定されているようです。 この自然法則に順応する言論を 「理」があると感じるのだと思います。 ◆ 感情について 地球人は腹を立てるのが上手だそうです。 まずこの腹を立てない「行」をしなさい、とのことです。 といっても、始めはなかなか至難です。 しかし、腹を立てたら反省をする、ということを繰返すうちに、 少しずつ腹立ちは少なくなるということです。 僕自身も、これをやり始めて10年近くなります。 始めは、ホントに至難でした。 しかし、めげずにやり続けますと、 僕もまだ完全とはいきませんが、 腹を立てさせていた人がやさしくなったり、 または、目の前に現われなくなってきたりします。 これが、徐々に腹立ちは少なくなるということと同じことでした。 喜怒哀楽は進化すると喜々楽々となるそうです。 以上、思いつくまま書き連ねました。 論理性に疑問符がつきますが、ご容赦下さい。 お考えの参考になれば幸いです。
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- jupiter5
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質問者さんのご質問を理解しきれているかわかりませんが、 私なりのご意見を。 質問者さんは第2段落で “主観に論理性を持たせることは可能か”という疑問を提示していますが、 次の段落では “主観と客観の接点はあるのかないのか”と要約しています。 ここで、私の理解は完全に破綻したのですが・・・ 質問者さんは、 「客観的」という言葉と「論理的」という言葉を、 混同なさっていらっしゃいませんか? これらは似たような言葉に感じるかもしれませんが、 まったく別のものです。 「客観的」とは主観から独立した普遍性を持った状態のことです。 一方「論理的」とは質問さんのおっしゃるとおり 「理にかなった」状態のことです。 例えば「太陽がある」ことは客観的事実といえるかもしれませんが、 そのことを「論理的だ」とは言いません。 逆に「我思うゆえに我あり」のような哲学的な言葉は 論理的といえるかもしれませんが、 この言葉は「客観的だ」とは言いませんね。 つまり、 「主観=非論理的」という等式は成り立ちませんし、 「客観=論理的」という等式も成り立ちません。 「主観・客観」と「論理・非論理」は、 まったく別次元の問題として考えるべきです。 質問者さんのご関心が「客観か主観か」のような言葉遊びにあるのではなく、 心理的事象(感情・意識など)の論理的記述が可能なのかどうか、 ということにあるのであれば、 質問を立て直されたほうが良いのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 いわれる点は、全くこちらの文章がつたないせいかと思われます。 主観と客観の接点というのは、最初の方で「主観的な要素を、客観視して、精神主観の構成要素として認知する」、と書いたことが自分的には重要な点だと思ってたので、特にこの行のことを言い換えて「主観と客観の接点」と書いたのですが、ずさんな言い方だったと思います。 言われるとおり、主客と 論理非論理とは別物で、紛らわしい文を書いたかもしれません。 上で書いた場合の客観視とは、普通に言う主観客観の客観とは少し違うかもしれません。科学の定義で言う主観の排除したもの、というより、理性(悟性)の認識の対象になりえる、という意味で使っているので、更に紛らわしいのかもしれません。 御指摘ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。 yoh001さんの御回答を読ませていただくと、とてもスピリチュアル関係にお詳しいとおみうけします。 全くもっともなことを言われてるなと、自分のつたない知識からでもわかりやすく書いていただき、またなるほどと思いました。 全文を通じて、とても馴染み深い内容で、言われる内容はとてもよく分かります。 「おばあさんのほうが直感的に~」全くその通りだと思います。 「いづれ間違いであったと気付く日も遠くないと思います」~その通りかと思います。以前ここで、東洋医学的心理学はあるでしょうか? という質問をしたのですが、少しだけ通じる部分もあるかもしれません。 また理屈だけでなく、行動を10年続けられてるのもすごいです。見習います。腹を立てない、というのは、感謝をするということに通じるのじゃないかと勝手に思いますが。 喜々楽々とは素晴らしいですね。 個人的に、信仰はないんですが、精神世界関係、ないし、科学、科学的ものの見方、両者に非常に興味があって、両方がマッチングしないのをとても不自然に思ってこういう質問になりました。 いろいろと解答を考えて書いてくださり、ありがとうございます。