- ベストアンサー
楽市楽座とは?織田信長の商業振興政策についての疑問
- 織田信長の楽市楽座政策は、中世以来の座の特権を排し、商業の自由を認め、関所を廃止し免税を行うことで商業を振興するものでした。
- しかし、この説明における「免税」とは具体的に何を指しているのか疑問があります。
- また、座役や関所における通関税を廃止しただけでは、税金が入らず商業振興には繋がらないのではないかと思われます。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
当時の戦国大名や江戸幕府の商業税の形態は、座などと呼ばれる組合に独占商売を認め、変わりに座から上納金を納めさせるものです。この上納金を税と呼んでいるのではないでしょうか? 一方信長の税の取り立て形態は座を廃止し、そのかわり売上税(今でいう消費税)をとることです。 誰でも自由に商売をし、その売り上げから一定の額を納めるわけです。 これにより資本(金)はあるものの特権を持たないものが信長領内で商売をはじめるようになり、信長領に金が集まり儲かるわけです。税が高い安いではなくこれまで商売できなかったものが商売に参加できるようになります。 独占商売を認めそこから金を取るやり方は税の取り立てという意味では極めて楽ちんですが、その一方価格は高止まりするし新規参入も起きないしで商業の発展と言う意味では極めてマイナスです。 一方信長のように自由な商業を認めるやり方は商業の振興という意味ではプラスですが、その一方税の捕捉と言う意味では極めて難しく、物流拠点を支配下におさめないとほとんど不可能です。信長の畿内での絶大な支配力を背景にしてこそでしょう。 徳川家康は経済面では低く評価されがちですが、大坂を豊臣に抑えられている以上根本的に楽市楽座方式は不可能だったと思います。
その他の回答 (7)
座、市にたいして、漠然とした知識をお持ちなようなので、座から説明しましょう。 中世商工業の「座」は、狭い地域(荘園)でもモノの売り買いや、芝居の興行権を独 占する権利を荘園主(貴族、大名主、領主)から許可してもらい、そのかわり、一定 の賦課金(「座役」)を支払うという、一種の組合組織でした。 したがって、モノの売り買いをする「市」では、上がり(儲け・利益)の税金は無料、 さらに、関所を通る通行税(関銭)などもフリーでした。 しかし、これでは新しく商売を始めたいとおもう商人が参加できず、モノの値段も 座の構成商人などに操られるため、かえって自由な経済活動が阻害されました。 楽市楽座は、もとは織田信長の舅となった美濃の斉藤道三がはじめて導入した といいますが、似たような新政策はほかにも採用、運営されたようです。 もちろん、楽市楽座を政策的にはじめた大名の懐には、恩恵を与えた「見返り」は、 がっちり転がりこんでいました。 でなければ、信長だって、そんなことはしなかったでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 ご指摘の通り、座に対しては漠とした知識しか持たず、なんとなくこういったものなんだろうな、と考えておりました。座における税とは売り上げに対する消費税や法人税のような性質のものでなく領内での販売許可権にたいする対価だったのですね。 お時間をいただきありがとうございました。
>「中世以来の座(私はカルテルの一種と理解しております)の特権を排し・・・ 「座」というのは、複数の商人の集合体ではなく、個人が主体です。 独占権、専売権、市場支配権です >この説明における「免税」とは何を指すのでしょうか。 現代の常識からすれば「税」は「公」が徴収しますが、当時は「私」である市場を支配した豪商や寺院などの領主が「公」である幕府とは無関係に徴収していました。 このような行為を現代の税の常識で考えますと誤解を生じますので注意して下さい。 通行料を徴収した「関」も領主が自領の出入り口に勝手設けて勝手に徴収しました。 例えば、奈良から美濃(現岐阜県)までの間に29ヶ所あったとされています。 室町幕府というのは、足利氏一族の私有財産と「公」である幕府の財産との線引きがありませんでした。 足利一族も幕府の名で京都の出入り口7ヶ所に関を設けて徴収しました。 足利一族の収入です。 市では物品の売買に当たり、一般の商人は、市場を独占していた豪商に何がしかの対価を支払いました。 現在のように物流制度が発達していたわけではありません。 市と市との間は豪商がキャラバン隊を組んで輸送していました。 室町幕府というのは正規の年貢を徴収でき領地は少なく経済基盤が極めてぜい弱でした。 平安時代から続く、税を徴収できない私領である荘園は実質的に残ったままでした。 これを補うために交易などの商行為を盛んに行っていました。 この為に豪商と完全に癒着していました。 これ等の経済制度や習慣を信長が武力で破壊しました。 これを楽市楽座を作ったと表現して説明しています。 既得権益を享受していた社会層を破壊し、自由市場化で新興商人を誕生させ育成しました。 最大の寺院勢力であった叡山は焼き払いました。 税の多寡がどうのという問題ではなく、市場参加者の総入れ替えです。 信長軍の軍費は占領地からの年貢で賄われていました。 既得権益を享受していた豪商には矢銭と称して莫大な拠出金を要求しました。 目的は財産の没収と経済力の剥奪です。 信長軍は商人などを当にしなくても充分に軍費は調達できました。 現在の経済制度や徴税制度とは全く異なる制度下での事象ですので注意して下さい。 現在の経済理論は当てはまりません。
お礼
回答ありがとうございます。以前読んだ歴史小説、当然フィクションですが、座や織田信長の経済観について触れられたものがあり質問子は捉われていたようです。 楽市令・楽座令を徴税の点からではなく旧態依然たる商業システムの破壊・既得権益の追放という観点からみるとこの政策を行った織田信長の意図が血が通ったように理解できます。痛快さすら感じます。 たびたびお時間を割いていただき深く感謝いたします。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/bunka-geijutsu/bunkazai-zuroku/bunkazai-zuroku/kobunsyo/gifushi/rakuitirakkuza.html 岐阜県資料 (1)は永禄10年(1567)、信長が円徳寺に旧来からの楽市場に特権を保証したものである。 (2)は信長が保証した特権を認証したうえで「さかり銭」(営業税)の免除を付加した制札である。 楽市の史料はあっても、楽座の史料ではないのね。 http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/soturon/2001soturon/individual/pdf/%8E%85%8C%B41.pdf 楽座令は安土や特定の自治都市に対して認めたにすぎないもので、逆に京都や奈良など座が活躍していた地域においては、安堵が行われていた。 座を安堵する史料として、近江・堅田浦の琵琶湖上支配権、建部・油座、越前・軽物座、堺・馬座がある。また、天正一一年(一五八三)と天正一二年(一五八四)の京都所司代前田玄以下知状に、一九種の座を安堵している文書がある。この文書は豊臣政権初期のものだが、この頃は信長の政策を受け継いでいると考えられ、信長がこれらの座を安堵していたと考えられるのである。逆に座を否定する史料は、山埼大山埼の離宮八幡宮文書に、油座が破棄されたとある一例のみである。 岐阜や安土の復興・開発のための地域ローカル対象とした楽座はあるが、領域全体に対する楽座はなく、座を安堵している史料は多くある。
お礼
回答ありがとうございます。 いただいたご説明を拝読し一般的な楽市令の説明が織田信長の政策の一部分(のみ)を切り取って焦点をあてたものだということを再認識いたしました。ただそれが楽市令が強調されるということはそれだけ画期的なものだったという事と推測いたします。 ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
ふふん 信長は税を廃止しても問題なかったのさ 堺を直轄地にしたことで莫大な利益を得ていた 通関税など 堺からの利益にくらべりゃスズメの涙程度 だから必要なかったのよ
お礼
回答ありがとうございます。 寡聞ながら織田信長が堺・大津・草津などの商業中心地・物流の要衝に代官を置いたと聞き及んでおります。仰る通り点在する関所より物流の拠点をピンポイントで狙って矢銭を差し出さた方が効率的ですね。 ご教授ありがとうございました。
- ssssan
- ベストアンサー率18% (132/730)
楽市楽座で商売自由にすればその恩恵で城下が栄える+町民も農民も豊かに成る、間接的に信長の名声轟く.農民.町民豊かに成れば国力アップ.信長軍強く成るじゃないのー、富国強兵で。 現代でも同じじゃないかなー国民が疲弊してて国防もヘッタクレも有ったもんじゃ無いですから明日食う飯に汲々してたら天下国家何て語れる余裕有る分け無いですから。
お礼
仰る通り国家または地域の富が特定の層あるいは集団に偏在する社会や国は脆弱だと私も思います。多少の誤差はあれ構成員が万遍なく一定以上の豊かさを持つ国家や地域は強靭です。 私は織田信長は室町期以前の農本主義よりも貨幣経済に軸足を置いた人物だと思っておりました。その人物が商人に対し税金を課することで自国の富国強兵を推進したと考えておりました。 商人に税を課さなかったのであれば信長は酷税は結局は国力の衰退につながるという機微を知っていたという事でしょう。 回答ありがとうございました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
完全な免税地であるのは 「楽市場の住人」に対 してのみで、楽市場への一時的滞在者には関係 しないのである http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2167/1/AN00211590_94_1.pdf P15 喩え話で言えば 「東京ディズニーリゾート」への税金は免税とするから、ドンドン楽しい施設を作れ。 やってきた客からは、しっかり税金とるからな P14 これまでの楽市楽座についてのイメージは、楽市場 とは特権を持つ本座商人から (新儀商人たちを保護 した場所) とされ、楽市場 とは新企画の企業が保護されるベ ンチャービジネスの場 とか、貧しい商人たちへの活動の場 として一般には理解されていると思われるが、分国往還の自由の特権を手に入れようとした人たちは、貧 しいタイプ三や四の商人たちではなく、むしろタイプーや二の大商人たちで、彼 ら競ってこの 「楽市場」に官業の拠点 としての支店を開いたのではあるまいか ↓ アメリカのディズニーという巨大企業や、日本の京成電鉄、三井不動産というのが、上記で言われている 1,2の巨大商人に思えるのです。
お礼
詳細かつ専門的なURLありがとうございます。 目を通すうちに興味が湧いて参り、遅々として読み進められません。一通り読み終わってから感想を申し述べたく存じます。さしあたってのもので礼を失したものとは存じますが感謝申し上げます。 回答下された他の皆様にも目を通し次第御礼申し上げるつもりでございます。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
「楽市楽座」とは直接関係ない関所についてだけ: そもそも, 誰が関所を作って関税をとっていたと思いますか?
お礼
回答ありがとうございます。 古くは朝廷、室町期の幕府・大寺社・地方豪族が関所を設けて関銭や津料を取っていたと理解しております。戦国期になると戦国大名が支配下領地の殖産興業策の一環として自由商業を阻害する関を廃止したと寡しく聞いております。 殖産興業が結果的に税収増につながるというのは現代日本の考えであることをすこし改める必要があるのかなと感じました。 ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。 座における税という概念がよくわかりました。質問子は「上部機関または権力に差し出すお金」=「税」という先入主にとらわれておりました。仰る図式で税をとらえると信長がやりたかったことが見えたように思います。また権力基盤をもとにした徴税のお話も大変勉強になりました。 お時間を割いていただきありがとうございました。