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神の揚棄と新しい契約の到来
- 神がみづからを揚棄し、新しい契約の到来が予言された。古い契約は古び、新しいものが必要だと宣言された。
- 新しい契約では、律法ではなく信仰が重視され、人々の心に律法が書きつけられる。
- イエスの登場によって、原罪が赦され、律法による教えが不要になる。これにより、新たな宗教の時代が到来する。
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bragelonneさん、こんばんは。先回のつづきですね。基本的に、 >>▲ (ルカによる福音書/ 20章 9~18) ~~~~ と同じ内容です。 ごめんなさい。かういふ文章が私は苦手で、初めてbragelonneさんから回答をいただいたときに不適切な表現をして、たいへんご迷惑をおかけしました。「揚棄」といふ用語も先回はじめて知りました。わかる範囲で書きます。 >>律法なるオシエ〔を守ること〕を >>第一義とするのではないことを示している。 >>石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく >>そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた >>思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示している はい、そのとほりです。万人の認める解釈です。 >>彼らの不義を赦し、 >>もはや彼らの罪を思い出しはしない。 はい、聖書にしるされてゐるとほりです。 >>『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 すみません、ここの意味はわかりません。 >>宗教としてのオシエは不要であり >>組織も教会も要らない 私はどの組織にも属してゐません。聖書が好きで、文学として、そして自分への戒めとして活用してゐるだけです。さういふ人間が主張すると、説得力がありませんが、「組織」は必要だと思ひます。(「宗教としてのオシエ」「教会」は不要です。) 「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」 ヘブル人への手紙10章25節 新共同訳 >>キリストにもヤハヱーにも >>こだわる必要はなくなっていること。 ここも意味がとれません、すみません。 >>神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置から >>さらに高いところに揚げて >>その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに >>含まれて〔みづからを〕棄てた。 ユダヤ民族の神 → 世界全体としてひとつなる普遍の神 この図式はそのとほりです。 「〔みづからを〕棄てた。」といふのが理解できません。 >>神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせる >>ということでありうると考えられる。 私自身はさういふ人間です。でも聖書から導かれる結論なのかは、少し考へさせてください。 *** *** *** *** *** [先回分] >>ぜんぶ 承知しましたという受け答えになります。 >>そのようにわたしも受け留めます。 bragelonneさんらしくありません。 >>このいまの質問について こまったことは >>クリスチャンからの回答がつかないことです。 聖書を読まない人が多いのではありませんか。残念なことですけれど。
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おはやうございます。ショッカー戦闘員番号3、plapotaです。 私の理解力不足のせいで、丁寧な「お礼」をいただくことになり、申し訳ございません。 >>このカテでは >>十人を下らない数でいらっしゃると思います。 そんなにたくさん、ですか。私は書き込みを始めて2箇月足らずですので、皆さんの個人的背景がわかりません。自分としては、お互ひに話が通じやすいやうに、履歴公開もふくめて、みづからの素性はなるべくあきらかにしてゐるつもりです。 >>このまま沈黙をつづけることは >>良心に恥ぢるはずです。 >>クリスチャンでなくても >>哲学の徒なら そうだと思います。 スルー、 読むだけで、スルー 読んで、投稿する、 どうするかは自分で選ぶ、これがQ&Aサイトのやり方ですので、よろしいのではありませんか。聖書の好きな人がたくさんゐるのでしたら、みんなが参加できる楽しい質問を投稿したい。私は聖書はさういふものだと思つてゐます。そのためには「宗教カテゴリ」が必要です。といふよりも、「聖書カテゴリ」があつてもいい。ついでに「アリスカテゴリ」もほしい。 >>《独り子》というのは やはり神の子も >>神であると言っているとは思います。 >>意味内容から言っての話です。 安心しました。 *** *** *** *** *** 簡単に回答できるものをひとつだけ。あとは帰宅してから考へます。 「組織」に関しましては、bragelonneさんに同感です。Erdbeerkegelsさんの三位一体の質問への回答でも書きましたが、聖書の内容を無視して、「教会」の「オシエ」を優先する、この姿勢は許せません。むしろ、イスラム教徒の誠実な態度に好感を覚えます。佛教の場合は、佛典そのものが確定してゐないので、かういふ問題が生じません。どうにでもなる、ある意味便利がよいのかもしれません。 カトリックは、ペテロの存在を、法王の根拠としますが、聖書を読むかぎり、ペテロがそんなことをした記述はありません。 組織が大きくなれば、腐敗もおこりやすい。どこで線をひくか、むづかしいところです。 >>パウロにとっては 《宣教という愚かな手段》を用いて 私は聖書を素直に読む立場ですので、「愚かな手段」とは思ひません。むしろ、こんなことができる人を尊敬します。 >>パウロの手になると伝えられるへブル書のこの箇所など >>ほかにも同じような意味合いで >>《世界の終わりが近づいている》と言っていると思います。 「ヘブル書」の著者には諸説ありますが、わたしもパウロ説有力派です。「世界の終わり」の表現は、何度聖書を読んでも自分なりの解釈ができないものの一つです。 >>エクレシアとしての教会は.......... これも賛成です。 >>信仰を旗印にかかげつつオシエに拠る宗教の組織は >>みとめられないのではないか? そのとほり。すべては筋肉だ!
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ペテロ ☆ にかんしましては いちおうの根拠がないわけではありません。 ▼ (マタイによる福音書/ 16章 17-19) ~~~~~~~~~ 17: すると、イエスはお答えになった。 シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。 あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、 わたしの天の父なのだ。 18: わたしも言っておく。 あなたはペトロ。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。 19: わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。 あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 考えるにこれは イエスの生前ではイエスが高等法院によって捕らえられたとき ペテロを代表としてのように弟子たちがみなイエスを知らないと言って裏切った。そのように 生前では いかに言葉としてはイエスがキリストとして神の子であると言っていたとしても その意味は誰にも分からなかった。 つまりは イエスが十字架上に去って行ったあとやっとその背面を見るかのごとく 神の子だと分かったというのは 非思考の庭(つまり 信仰)のもんだいであると弟子たちも知った。 イエスは 人びとにとって 精神の支柱〔だけ〕であるのではなく 人間の精神を超えた霊の領域のもんだいなのだと分かった。ましてや ローマ帝国からのユダヤ民族の政治的また軍事的な解放のためのメシアであるのではないということ。 このことが腑に落ちた人間として ペテロらに《天の国の鍵がさづけられた》。ということであるかと思われます。 ★ 「世界の終わり」の表現は、何度聖書を読んでも自分なりの解釈ができないものの一つです。 ☆ これは 時代と社会との思潮ないし風潮であったということではないのでしょうか。 イエスにちなんで むしろこのユダヤイズム・イエスキリスト派が 心理的に持つようになって流したのであるかも分かりませんが そういうウワサの問題であるように思います。 ○ 宣教 ▼ (パウロ:コリント前書 1章 21節) ~~~~~~~ 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 ▼ (同上 2章 4節) ~~~~~~~~~~~~~~~ わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ 良心に恥ぢるはず ☆ まぁ 挑発的でもありますが クリスチャンの方々に元気を出して欲しいと思ってのことでした。 ★ 聖書の好きな人がたくさんゐるのでしたら、みんなが参加できる楽しい質問を投稿したい。私は聖書はさういふものだと思つてゐます。 ★ むしろ、イスラム教徒の誠実な態度に好感を覚えます。佛教の場合は、佛典そのものが確定してゐないので、かういふ問題が生じません。どうにでもなる、ある意味便利がよいのかもしれません。 ☆ となれば 《信仰(非思考の庭)》とはどういうことか? しかもその普遍性について 確認しておくことが 次の一歩でしょうか。これも 問うて来ていますから あらためて質問に挙げてみたいと思います。 ○ 仮面ライダー ☆ は 知りませんで ウルトラマンとの違いもよく分かりません。ちらっとヰキぺを見たら ★ ショッカー ☆ って 悪の組織ぢゃないですか? どうなってるの? カトリックでは 神父による児童への性的虐待なる不法行為が跡を絶ちません。 犯罪が起こることについては 百歩ゆづって ひとりカトリックのみをとがめることをしないとすれば 問題は その事件についての処理についてです。 決して一般に納得のいくかたちでは 処罰ないし更生へむけての措置がおこなわれていないようです。 ◆ (ヰキぺ:カトリック教会の性的虐待事件) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%80%A7%E7%9A%84%E8%99%90%E5%BE%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ☆ 隠蔽が問題であるようです。 あなたのテーマのひとつにかかわりが無いとも限らない? ですか?
補足
一般にみなさんにも参考になるかと思い 次の記事をここに引きます。 ◆ 神父たちの愛人が「独身制廃止」要求 ‐ 長谷川 良 ~~~~~~ http://blogos.com/article/86820/ アゴラ 2014年05月21日 10:50 24人のイタリア女性たちがフランシスコ法王宛てに公開書簡を送り、その中で聖職者の独身制の廃止を請願している。24人の女性は神父や修道僧の愛人であり、密かに同棲生活をしてきた女性たちだ。 興味深い点は、同記事を最初に報じたのはインターネット・メディアのバチカン・インサイダーだが、バチカン放送が5月18日、一日遅れでそのニュースを掲載したことだ。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 畑 茂夫(@Flareon)
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いやー、あんたの解釈は十分面白いよ。 それでも、東洋の曙にこだわる私からすれば十分西洋タコ何だがね、あんたが挑戦するのは西洋に対してだから外国のSNSなんかで勝負しない限りむなしいんでないかい。 私には、あんた論理は理想に燃えた、美しくもある論理だと解釈できるが、面白がられるだけだとつまんないんでないかい。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 《土俵》と《リング》との違いがあって それがいくらかは影を落としているかも知れません。 わたしの方針は 理論として基礎が固まっているなら あとは 対話において実効性のあるほうの道をゆきます。 その結果 いまのような恰好を採るに到っています。 わりと必然性はあるわけです。 それでも ただし 欧米に向けての対話であるとしても ここでは日本人が いわゆるクリスチア二ズムにかんして 基本的な態度を決めて持つということを目指しています。 また いくつか基本となる主題について 言うべき視点や内容を論じ合っておくということ。こういうことを固めて行こうとしています。 ところが まだ特典や効用があります。 このように聖書なら聖書をまなび 日本人としてまた人間としての見方を問い求めて行く過程で じつは 日本の思想や内外の伝統的となった思想についてのおのが態度を決めるという作業をしている。おそらく こういうことだと言ってよいと考えています。 なかなか SNS――じっさいには知りませんが――どころの話ではない。のです。
修道院からさっさと出て来い ということではないでしょうか。 それにしても、修道院に行った人と面会というのは できないものなのでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 修道院 ☆ は そもそも制度が 特殊であって 檀家制度の寺や僧侶とは違うと考えられます。 ★ 修道院からさっさと出て来い / ということではないでしょうか。 ☆ これを ○ 聖職者なる特別の生活形式を採る教会に立て籠もることなく その制度そのものをみづから解体せよ。 という意味に採れば 賛成です。 修道院生活は そもそも外界とは関係を持たないようにして自給自足するかたちにおいて おのれの生涯のすべてを すでに生まれて来たことを初めとするめぐみを人間として受けたことを感謝しつつ ささげるというものです。すでにそれほど幸福なひとが入るところです。 けっして修行のためではないとわたしは 考えます。神に近づくためではなく そうではなく すでに神のふところにいだかれている人間が そういう人生をおくるところです。 そのような感謝のいのりを日々ささげている人がいるということに 外部にあるわたしたちが思いをいたすなら 少しは 勇気がもらえるのではないかと考えます。 ★ それにしても、修道院に行った人と面会というのは / できないものなのでしょうか? ☆ これは 実際を知らないのですが できるのではないでしょうか? つまり もっともきびしい修道院でも 身内つまり家族なら 年に一回面会できるとか 月に一通の手紙をとどけることが出来るとか 聞いています。 その外部との交流は その修道院を運営する会によって 開かれているかどうかの程度に差があるとか聞いています。 でも詳しくは知りませんので その点 ご承知おきください。
- NemurinekoNya
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おはようございます。 エレミア書では、 ~~~~~~~~~ 31:36主は言われる、 「もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、 イスラエルの子孫もすたって、 永久にわたしの前で民であることはできない」。 31:37主はこう言われる、 「もし上の天を量ることができ、 下の地の基を探ることができるなら、 そのとき、わたしはイスラエルのすべての子孫を そのもろもろの行いのために捨て去ると 主は言われる」。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/jeremiah.htm ~~~~~~~~~ と続きますよね。 この神さまのお言葉を額面どおりに受けとれば、 《新たな律法》も廃れることがある。 これは永遠の律法ではない、 となる。 そして、 この新たな律法に背けば、 神から見捨てられる。 人は再び(?)神と別居状態に至るのだ。 その結果、 夫に捨てられた妻は嘆き悲しむ・・・。 神さまは引っ込んでいない、 神は要らなくなっていない、 依然として人間に干渉し続ける、 となりませんか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 まづユダヤ民族にかんする言葉について見てみます。 ▼ (エレミヤ書 31:37) ~~~~~~~~~ 主はこう言われる、 「もし上の天を量ることができ、 下の地の基を探ることができるなら、 そのとき、わたしはイスラエルのすべての子孫を そのもろもろの行いのために捨て去ると 主は言われる」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なぜかこちらのくだりのみを取り上げますが ここは 《アブラハムの子孫》という言葉が ユダヤ民族以外の人びと〔のあいだの信仰の人たち〕にも及ぶと見られるのと違って どちらかと言うと 血によるユダヤ人について言っていると捉えます。 〔いえ。もっと複雑で 《イスラエルのすべての子孫》と言うことによって ユダヤ以外のじんるいに及んでいるとさえ受け取りますが 《神がその民を捨て去るかどうか》にかんしては むしろユダヤのことを言っているように感じます〕。 すなわち このエレミヤ預言ののち 例によってイエス・キリストが現われたところ ユダヤ人はイエスを無き者とすることによって神から《捨てられる》。けれども・それでも ユダヤ人は――そのほかの諸民族の人たちが いわば信仰ということにかんしては《接ぎ木》によってつながったものであるのとは違って―― 初めから《神の民》であるということ。このことを保証している文章だと捉えます。 たとえばパウロが言うには: ▼ (パウロ:ローマ書 11章 25-29) ~~~~~~~ 25: 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。 すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、 26: こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。 「救う方がシオンから来て、 ヤコブから不信心を遠ざける。 27: これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、 彼らと結ぶわたしの契約である。」 (イザヤ書 59:20-21) 28: 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 29: 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つづいて少し偏向して 前半のくだりを 全人類に向けての言葉と受け取ってみます。 ▼ (エレミヤ書 31:36) ~~~~~~~~ 主は言われる、 「もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、 イスラエルの子孫もすたって、 永久にわたしの前で民であることはできない」。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この神さまのお言葉を額面どおりに受けとれば、 《新たな律法》も廃れることがある。 これは永遠の律法ではない、 となる。 そして、 この新たな律法に背けば、 神から見捨てられる。 ・・・ 神さまは引っ込んでいない、 神は要らなくなっていない、 依然として人間に干渉し続ける、 となりませんか? ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ならないと考えます。 (あ) 《胸板に書き記される律法》は すでに《霊》であって《文字〔によるオシエや戒め〕》ではありません。《ルーアハ(息・風・霊・たましい) / アートマン(息・霊我) / ブッダター(仏性) / プネウマ(息・風・霊) / ・・・》と同じだと見ます。 (い) つまり 《非知》であり《非経験の場》であり 神の霊です。これは 石に文字を刻んだ律法がすたれても その想定なる定義から行って 《永遠不滅》です。 (う) 《永遠不滅》だと人びとが分かったなら わたしは引っ込みましょうと神は言っている。 (え) つまり このエレミヤ預言を成就するイエス・キリストのあとでは 《理論上》 そのような神のことが――世界のすべての神という神をすべて 同一視することになって――分かったことになる。 (お) この理論が じっさいに実現するのは いつか? これは 分からない。すべて人間に任された。 (か) ◇ この新たな律法に背けば、神から見捨てられる。// 依然として人間に干渉し続ける、 ☆ というのは いかにすべてが人間にまかされたと言っても 人間の存在としての条件において 《かみ(非知・非経験の場)‐ひと(経験存在)》という関係は 変わらない。へだたりはある。と言っている。しかも 任せたからには 《干渉》しない。 (き) ▼ (ヨハネによる福音書/ 14章 11-12;15) ~~~~~ 11: わたし(=イエス)が父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業(わざ)そのものによって信じなさい。 12: はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 ・・・ 15: あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟(霊としての律法)を守る。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というように すでに一面としてはすべてを人間にまかせるかたちを取っており もう一面としては やはり《わたし(=イエス・キリスト)を信じる者は / わたしを愛しているならば》や《わたしが父のもとへ行くから(つまり 十字架上に去って行くゆえ)》という条件をつけてもいます。 (く) すなわち 《イエスよりも もっと大きな業を行うようになる》というのは ひとえに《神のチカラによる》ということ。神から送られる聖霊のハタラキとして成るということ。そのもとで 人間の能力が発揮されていくのだと。 (け) すなわちこれをまとめるに: ・ すでにいちいち神を恃むかたちを採ることはなくなる。=〔オシエや教会としての〕神は要らない。 ・ と同時に 《聖霊の時代》であると言うごとく 見えない霊のチカラは 依然としてはたらいている。=でも 干渉はしない。任せられている。(《主を知れ》と言っておしえることはない)。 (こ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 人は再び(?)神と別居状態に至るのだ。 その結果、 夫に捨てられた妻は嘆き悲しむ・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 《神(非知・非経験の場)‐ひと(経験的・時間的存在)》という関係は 経験事象としての《同居か別居か》という判断基準によって規定されるものではない。ひとが同居しているのだと思っていたとしても・あるいは逆に別居を余儀なくされたと思っていたとしても 神は変わらざる神であるしかないと。 (さ) 《捨てる・捨てない》といった言葉で表現されているわけですが あくまでこれは仮りの表現であり つねに代理表現なる役目を持つ補助線です。 (し) もともと 神が人間によって規定されることはない。神との関係は あくまでひとのわが心なる《非思考の庭》における動態に限る。外へ出かけないということ。 (す) かたちとして外に出かけていた代理表現が――つまり 聖書やそのオシエが代理表現であったわけであり―― もう基本において要らなくなるということ。 (せ) 一人ひとりの主観内面に・その自由に すべてがまかされる。ことになる。これは 或る意味で《無神論》ののぞんだところであるかに思われる。 (そ) つまり 無神論は それもひとつの信仰であるという捉え方をすれば 有神論と互いに手を結ぶことができるようになる。《無い神》を非思考の庭にいだく信仰形態こそが イエス・キリスト以降の世界におけるふつうの心的構造となると考えられる。 どうでしょう。
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お礼
こんばんは ぷらぽたさん。ご回答をありがとうございます。 ★ 聖書を読まない人が多いのではありませんか。残念なことですけれど。 ☆ 一般には そうですけれど このカテでは 十人を下らない数でいらっしゃると思います。それが ピタッと声が消えてしまいました。 えらそうに言いますが 《降参》ということかも知れないのですが おそらくそれを言わないということは ほかの誰かに反論を期待しているのだと思われます。そして その勉強期間が長すぎます。身近にいる神父や牧師は ひととおり聖書をまなんでいますから。 このまま沈黙をつづけることは 良心に恥ぢるはずです。クリスチャンでなくても 哲学の徒なら そうだと思います。 わたしが すってんころりんと転ぶかも知れませんが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >>ぜんぶ 承知しましたという受け答えになります。 >>そのようにわたしも受け留めます。 bragelonneさんらしくありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いまは クリスチャンの出方をめぐって わたしとしては 政治的な駆け引きをさえしようとしているかも知れません。 《独り子》というのは やはり神の子も 神であると言っているとは思います。意味内容から言っての話です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >>神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせる >>ということでありうると考えられる。 私自身はさういふ人間です。でも聖書から導かれる結論なのかは、少し考へさせてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 《神は何もしない》という表現が舌足らずだったかも知れません。 すなわちおのおの個人に対しては その心なる《非思考の庭》において ヒラメキをあたえたり 元気づけていたりするかと思われますから。 言いかえると ○ 神は ひとそれぞれの主観の外には出かけない。外に出かけたかたちでは 何もしない。すべて人間にまかせている。 とおぎないます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >>神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置から >>さらに高いところに揚げて >>その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに >>含まれて〔みづからを〕棄てた。 「〔みづからを〕棄てた。」といふのが理解できません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも舌足らずだったようです。《ユダヤ民族にかぎった神としては そのみづからを棄てた》。でしょうか。だって 異民族に対して 民族浄化といった大虐殺をさえ命じる神であったわけですから。そういう世界の情況だったと見るかたちだと思います。(民度・人心が 一般にそうであったという見方も出来るかと思いますが)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ >>キリストにもヤハヱーにも >>こだわる必要はなくなっていること。 ここも意味がとれません、すみません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから 人類にとって全体としてひとつの神の中に含まれるかたちになれば 個別の神とその名前は こだわる必要がなくなると思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >>『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 すみません、ここの意味はわかりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここも《信仰は 主観の内にあるのであって もはやその外には出かけない》という意味で いちいち神を知りなさいと言っておしえることはなくなる。ということだと考えます。 あとは 集団ないし組織のもんだいですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >>宗教としてのオシエは不要であり >>組織も教会も要らない 私はどの組織にも属してゐません。聖書が好きで、文学として、そして自分への戒めとして活用してゐるだけです。さういふ人間が主張すると、説得力がありませんが、「組織」は必要だと思ひます。(「宗教としてのオシエ」「教会」は不要です。) 「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」 ヘブル人への手紙10章25節 新共同訳 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (あ) 《主観の外へ出かけない》と言いましたが たとえば勉強会といったかたちで集まりを持つことは 微妙ですが かまわないと考えます。 (い) ということは オシエをオシエ(教義)としてそれをめぐる知識や〔どういうわけか測ることが出来るのでしょうか の〕信じる度合いによって 聖職者としての地位が決められるなどといった組織形成 これについては すでに要らなくなっている。 (う) というだけではなく そもそも 信仰が その度合いを外から測ることが出来るといったあやまちを犯していると考えられます。ヒエラルキアは 無理です。そのような権限関係は あり得ないと考えます。 (え) それが 聖書の研究会や研究組織といった集まりとしてなら ある程度は その習熟度や読解力などの点で 人それぞれに役割をになわせてもよい。と考えます。 (お) ですから (う)で信仰の度合いによって聖職者の地位の上下が決められるというのは――そうして 信徒一般に対してその聖職者が 上なる地位から神についておしえるということは―― 《非思考の庭》なるおのおのの心をないがしろにする行為である。と考えます。 (か) パウロにとっては 《宣教という愚かな手段》を用いて キリスト・イエスの名を世界の人びとに伝えることを使命とした。と思われます。 (き) 禁教として弾圧を受ける場合には 信徒らが寄り集まって防衛することは考えられたようです。 (く) ▼ かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 ☆ パウロの手になると伝えられるへブル書のこの箇所など ほかにも同じような意味合いで《世界の終わりが近づいている》と言っていると思います。これは どういうわけか そのように終末が来ていると思われていたようです。――そういうことがあったのだと思います。 (け) エクレシアとしての教会は ムラ(市町村)議会において〔信仰は主観の外へは出かけないところの〕人びとが議員となって 生活共同のために共同自治をいとなむ。キュリアコン(チャーチ)としての教会は 霊における目に見えない教会つまり 互いに仲間たる人びとの共存が 建物を建てた組織的教会に取って代わるものと思います。 (こ) 結社の自由という表現行為の自由がありますが 信仰を旗印にかかげつつオシエに拠る宗教の組織は みとめられないのではないか? 信仰という心のもんだいに 他人が外から手を突っ込むような《ひとの意志の無視》が侵されているのではないかとうたがわれます。 (さ) 話をするだけなら 意志の無視にはならないでしょうが 組織にあっては その地位や権限が ものを言うという要因を持ちうるからです。 こんなふうに考えているのですが。・・・