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武鑑に「献上および拝領品目」を記載するのは。

コトバンクによれば 武鑑の用語解説 - 江戸時代,諸大名の氏名,本国,居城,石高 ,官位,家系,相続,内室,参勤交代の期日,献上および拝領品目,家紋,旗指物,重臣 などを掲載した小型本。 「献上および拝領品目」が記載されていますが、これはどのような目的で載せているのですか。 必要だから、あるいは要求があるから載せているはずですが、どこそこの大名が何を献上し、何を拝領したかを知ることは、大名同士の付き合いでは重要である、ということですか。 それを知って、何をしようとしたいのですか。 この情報はどこで仕入れてくるのでしょうか。 よろしくお願いします。

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  • fumkum
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回答No.10

こんにちは >「献上および拝領品目」が記載されていますが、これはどのような目的で載せているのですか。 献上・拝領品については、大名の家格・格式の一部を形成しています。ちなみに、山本博文著『参勤交代』(講談社現代新書)には、 「この献上と拝領は、それぞれの家の家格によって定められたもので、武鑑にも記され、周知のことになっている。 たとえば、御馬の拝領は、高い格式の家だけに許されたものであるが、石高によって決められているわけではなく、それまでの将軍家との関係で決められる。このように、石高や官位や拝領品などが、それぞれ微妙に基準で決められていたからこそ、諸藩は自家の由緒を主張して、他藩と差別化する家格を獲得できる余地があるという幻想を持ち得たのである。」 としています。ですから、譜代外様の別(記載順により区別)、石高、江戸城中の詰め席、などと共に、大名家の家格を示すものとして記載されていることになります。 この件に関して、同じ山本博文著『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』には、参勤で参府到着のお礼言上の献上物の品物について、萩藩の留守居役が老中土井利勝に相談していることが記され、土井の返事により献上物を変更したことが述べられています。 さらに、別の本ですが、分家大名が、本家と同じ品を献上したいと願ったことに関して、幕府(老中)は拒否しています。献上物は大名側から勝手に献上できるものではなく、「なにをどれだけ献上するかということ自体が家格に結びついた特典で」(山本博文著『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』)す。これは拝領品についても変わらず、品物・数量の変更は家格・格式の変更でもあったわけです。 >「それを知って、何をしようとしたいのですか。」 この件に関しては、武鑑がどのような人々に購入されていたのかを考えてみますと、重複しますが、大名・幕府役職者を中心とする旗本(公家の例もあり)、幕府や大名家に仕える奉公人、武家方に出入りする町人・商人、全国的に各藩を含む御用達町人を含む町人や村の名主層、江戸見物に来た人(参勤交代で参府した大名家家臣を含む)、田舎への土産を買う人などがあげられます。以上の内容は、『江戸幕府 役職武鑑編年集成一 正保元年~寛文十二年』の「解題」の「(3)武鑑の利用者」の内容をまとめたものです。ただし、「江戸見物に来た人(参勤交代で参府した大名家家臣を含む)」の部分は他の史料で補足しています。 さて、その「解題」の中で、 幕府への上納は、管見の限り、出版物では武鑑のはかには暦問屋が納入した「暦」しかない。細工所への恒常的な納入は、原則として出雲寺版の『大成武鑑』に限られ、出雲寺が出版していない時代は代わりに須原屋版が出雲寺を通じて納められた。御側(側衆のこと。将軍側近で文書・拝謁の取次)・奥(*大奥ではなく将軍御座の間のある中奥のこと)・御用部屋(*老中・若年寄の執務部屋のこと)へは無代で、その外の役所へは、町値段で納められた。武鑑が幕府の役所で使用されたことは、幕府の旧蔵書を引き継いだ国立公文書館や国立国会図書館に現在でも多く所蔵されていることから、そして、そこに所蔵されている武鑑に「御普請方沿革調」(方形朱印)、「御普請方役所買上」・「書物調」・「御用所」(墨書)などの書印や文字があることから、明らかである。 としています。つまり、幕府それも政権中枢の将軍・老中・若年寄・側衆も利用していたことになります。また、幕府自体が武鑑を活用していたことも分かります。さらに、「解題」には大名家が購入していた例なども挙げられており、まずは、幕府・大名が、各大名の家格などを簡便に見る資料と活用していたと考えられます。 これは、幕府には武鑑のもとになる家督相続の申請書などの写しは奥右筆部屋などにあったはずですが、それは、各大名別のものであり、個々の案件ごとのものであり、つまりは申請書の積み重ねで、年度別の一覧は作られていなかっただろうと考えられます。もし、あるとするならば、奏者番が、大名の将軍拝謁にあたり、大名氏名・献上品等を御前で披露し、下賜にあたっても関与しますので、武鑑の中の主要な項目については、覚えておく必要があり、備忘録的な文書が各奏者番(主に譜代大名の任命)は持っていたと考えられますが、幕府の各機関で恒常的に、武鑑のような網羅的な資料は作られていた様子は見えませんので、武鑑は必要だったと思います。当時の隙間産業のようなものだったと思います。「それを知って、何をしようとしたいのですか。」については、各大名の置かれている立場、家格・格式を知ることとまず考えられます。 奏者番 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%8F%E8%80%85%E7%95%AA また、献上品について誤解があるようですが、地元の特産品とは限りません。馬代・太刀代などのように金品で代用した(初期は実際に馬・太刀を献上)例など、金品で代入したことも多く見られます。また、上州沼田藩土岐家のように海に面していない沼田なのに、正月の献上品が「寒塩鯛」という例もあります。献上品も地元の品だけでなく、江戸等で調達もされてもいます。逆に大和の大名の献上物に「三輪索麺(素麺)」とあるなど、地元の名産を献上する(許される)大名もいます。それらの面では、商人の関心があったのかもしれません。 この、質問についてはズバッとした話は出来かねます。江戸時代人と、現代人との関心の持ち方が違っているからです。さらに、「献上および拝領品目」が家格・格式の一部という理解が難しいことだと思います。 一つ付言すれば、准譜代(お願い譜代)の脇坂安董が寺社奉行に再任した時、前回の寺社奉行時代に醜聞をビシビシ摘発された僧侶をからかって、「また出たと 坊主びっくり 貂の皮」という落首がでました。この貂の皮とは脇坂家の槍印で、人口に膾炙したもので、脇坂安董のことを暗喩します。つまり、脇坂安董=貂の皮とわかるからこそこの落首は作られたのであり、当時の人が、この槍印を知っていた、関心を持っていたことになります。なお、槍印についても家格・格式があり、槍印を一本の家、二本の家では家格・格式が違いますし、原則四位以上、20万石以上で爪折傘の使用が認められるなどの家格・格式による差別があります。また、槍印は貂の皮のように大名により形状が違うことも多く、大名見物の場合の目印として利用されていたことが知られていますし、江戸城に登城する場合、大名行列同士がぶつかりあわないように各藩で物見を出しますが、このような時にも利用されます。 横道にそれましたが、「貂の皮」の例のように、「献上および拝領品目」を知ることも広い意味での当時の教養の一部であったとも考えられます。 脇坂安董 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%9D%82%E5%AE%89%E8%91%A3 >「この情報はどこで仕入れてくるのでしょうか。」 また、『江戸幕府 役職武鑑編年集成一 正保元年~寛文十二年』の「解題」で申し訳ないのですが、その中に対馬宗藩のことが載っています。延宝八年に宗家が二万石格から十万石格に改められた時に、何年たっても訂正されないため、江戸家老が板元と交渉したことが載っていますし、改訂を求めた大名として、白河阿部家、因幡若狭池田家の例もあります。武鑑への記載を要望した御三家付家老五家や、幕府下級役人の例もあるようです。「解題」には、「武鑑という出版物のもつ情報伝達力と社会的影響力を多大であると認知した大名、大名家臣、幕府の役人、また御用達町人はさまざまに行動し、それを見越して幕府は対応した。」としています。さらに、「幕府は武鑑を「不軽品」として猥りな板行を禁じた-中略-(*安政六年に)幕府が輸出を禁止した書籍は、「一、法度之儀認候書籍幷雲上明鑑、武鑑、-以下略-」」とされます。武鑑に誤記・欠落が多いと指摘され、「幕府は民間が出したもので、信用に足るものでないとしている。」(「解題」)という反面、「寛政年間に武鑑が幕府の編纂物と見まごうまでになっていたことを示して興味深い。」(「解題」)としています。以上のことから考えて、情報源は大名家臣であり、幕臣であったことが考えられると思います。 以上、参考まで。そう言えば、「大名家の婚姻」はもう少し締切を遅くしていただきたかったと思いました。確認と調べの間に締切になったので。

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳細で的確なご回答をありがとうございます。 >武鑑が幕府の役所で使用されたことは、幕府の旧蔵書を引き継いだ国立公文書館や国立国会図書館に現在でも多く所蔵されていることから、そして、そこに所蔵されている武鑑に「御普請方沿革調」(方形朱印)、「御普請方役所買上」・「書物調」・「御用所」(墨書)などの書印や文字があることから、明らかである。 合点!合点! なるほど! すっきりしました。 私は、大名家だけを視野にしていました。 そうか! 江戸城の殿中でも重宝されていたのですね。 例えば表坊主の場合、職務上、献上品・拝領品について自分が受け持つ複数の大名だけではなく、他家についても「何を何月にいくら」と知っておかねばなりませんから、取り敢えずは武鑑で予め概要を把握できます。 それなら、献上品について事細かに記載されている理由も少し分かった気がします。 小川恭一著『柳営談』によれば献上の儀式は、それはもう大変なんだそうです。 「それを知って、何をしようとしたいのですか」と質問しましたが、これは武鑑を大名家が利用することを前提としていました。 幕府役人が利用しているとなれば、この質問の意味はありませんね。 年度末の整理のため市立図書館が休館中なので、 藤實久美子著『江戸の武家名鑑:武鑑と出版闘争』(歴史文化ライブラリー)を読んでいませんが、下記のような記述があるそうです。 以下、あるブログからコピペ。 書物師・出雲寺の場合、毎月、改訂版を幕府に上納することを求められている。実際には、多い年で年2回に留まるそうだが、急な人事異動があると、該当箇所だけ彫り直して(版木に埋め木をする)改訂版が刊行された。 幕府役人も使用していた、と教えていただいたお陰でここまで辿りつくことができました。 感謝の気持ちでいっぱいです。 情報の入手源についても納得しました。 それから「大名家の婚姻」の質問では、早く締め切ってしまい大変失礼いたしました。 今後、十分気をつけます。

その他の回答 (13)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

江戸時代がまだ近代ではなく、私有財産制度が確立していない事がキモです。 私有財産制が確立すると、貰ったものは貰った人がどう処分しようと勝手です。 私有財産制が確立していない場合、貰ったものにはあげた人の権利が残ります。 中世においては、これが当たり前で「悔返」が基本です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%94%E8%BF%94 では江戸時代の拝領品はどうかというと、将軍から貰っても将軍が「ああ、そういえばあれ、どうなっている?見せてくれるかな」とか「返してくれない?」と言われたら拒否できません。 拒否することは、一戦構える覚悟が必要です。 大名側の安全保障とすると「武鑑に書いてあるものは、拝領しましたが、他は拝領していません」という保証書となります。 仮に武鑑に書いてない拝領品を見せろと言われても、幕府の公式文章に「拝領していません」とあれば、問題が生じない。 献上品で知っている例では、津軽藩の鷹の献上品で説明すると 基本:将軍への献上品 老中など有力者が「ついでに、僕にもくれ」とおねだりしたそうです。 大名スタンスで言うと「うちんとこで、贈答品に使えるのはこういった品目でございます」というメニュー出しとなっております。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >大名側の安全保障とすると「武鑑に書いてあるものは、拝領しましたが、他は拝領していません」という保証書となります。 >仮に武鑑に書いてない拝領品を見せろと言われても、幕府の公式文章に「拝領していません」とあれば、問題が生じない。 なるほど、こんな見方もあるのですね。参考になりました。 武鑑の出版者の出雲寺は、幕府の書物方に属し、紅葉山文庫(将軍の文庫)の運営や昌平坂学問所の編纂物の出版にもたずさわったそうですから、公式でなくとも幕府公認と言えるかもしれません。 献上品、拝領品まで暴露しているのに、発禁処分になっていませんから。 他家が何を献上して、何を拝領したのかを知って、では自家ではもっと良いものを贈ろうとしたのか、それが疑問です。 家格でほぼ決まっているとすれば、他家が抜け駆けしていないことをチェックできますね。 しかし、暴露されることが分かっていますから、真の献上品は裏口でこっそりが常識だったのかも。 多くの回答を頂きましたが、どれも皆正解のような気がしています。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

武鑑は民間で発行された本で、要はマニア本です。 発行・改訂は年一回で、最新の情報を常に追えていた訳ではありませんでした。 ぶっちゃけ吉原細見と同等レベルの案内本です。 項目は時代が下る毎に細かくなり、知識欲と購買欲を満たす為に努力したのが伺えます。 どの様に情報を入手したかは判りませんが、毎年の発行ですから、出入りの商人等と繋がりを持ち、そこから聞き出したのでしょう。 江戸時代は大名同士の付き合いは公儀から厳しく制限されており、謀反の疑いを避ける為に、個人的に他の大名家を訪問する等の付き合いと言う物は、ありませんでした。 その代わりの情報収集の場として、「江戸留守居役」同士の「寄り合い」が定期的に行われており、ここで互いに自分の知り得た情報と必要な情報交換や交流を行い、公儀への対応を取っていました。 仮にこの寄り合いで八分にされたら、普請役等が回ってくる確立が跳ね上がるので、どの国も必死でした。 こういった現場組にとっては、年一の武鑑の情報スピードでは、公儀への対応には役に立ちません。 あくまでコミケ本です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >ぶっちゃけ吉原細見と同等レベルの案内本です。 >項目は時代が下る毎に細かくなり、知識欲と購買欲を満たす為に努力したのが伺えます。 >あくまでコミケ本です。 なるほど、知識欲と購買力を満たすため、つまり“売らんかな”のコミケ本と思えばよいのですね。 献上品、拝領品は、「江戸留守居役」同士の「寄り合い」であれこれと話題にできる格好のネタと言えますね。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.1

kouki-koureisyaさん、こんばんわ。 天下泰平になって、大名の将軍への拝謁はその大名にとって重要な儀礼です。その時に大名が何を献上し、何を拝領したかを知ることは将軍家とその大名家との親近感を感じるうえで重要です。また、そのことを宣伝することで大名家の家格を誇示したのです。だから、どの大名が何を贈ったか知ることは重要でした。また、家格によって献上品や拝領品が決められている場合がありますが、献上品の場合、所領の特産物の場合もありました。 この情報はどこで仕入れてくるのでしょうか。 そのことについては下記のURLを参照してください。 武鑑 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%91%91

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >天下泰平になって、大名の将軍への拝謁はその大名にとって重要な儀礼です。 >その時に大名が何を献上し、何を拝領したかを知ることは将軍家とその大名家との親近感を感じるうえで重要です。 ウーン、なんとなく分かりますが、どうもすっきりしませんでした。 申し訳ありません。