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源氏と平家の違い
平氏は平清盛を中心に一族が強い結束で結ばれてた感があります 目立った身内同士の争いもありません(もちろん出世競争とかはあったでしょうが) それに比べて源氏は身内同士で骨肉の争いをしています (義経が義仲を討ったり 頼朝が義経・範頼を討ったりと) この違いは何でしょうか?
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清盛以前は別にして思うのは、まず平家一門はなんだかんだ言いながら幸せな家庭でともに育っていたため、都を追われるまでは、それほど大きな確執は生まれなかったからだと思います。 とは言え、清盛と重盛が亡くなったことで、嫡流と言っても維盛以下の小松の公達は、官位が高い割に実力が無く、一族から疎まれるようになり、都落ちに際しても、自分たちは同行したものの、妻子は都に残すなど、優柔不断な対応に批判が出て、主流から大きく外れてしまいました。 また、清盛の弟の中で、頼盛は母親が現役!?だったために他の弟たちより高位に置かれたことで、池殿の公達は、それ以前から一族の中で浮いていたのが、清盛の死によってそれが顕在化し、結局、都落ちにも加わらず、源氏に投降しました。 都落ち以降は、それら以外の平家は、危機的状況の中で、一族の結束は高まったものと思われます。 一方、源氏の場合は、頼朝の兄弟にしても、全く別々に、それぞれ苦労して育ったため、お互いへの愛情は非常に薄かったと思われます。まして、木曽義仲から見ると、頼朝は親の敵の息子ですし、新宮十郎などは、頼朝から見てあまりにも遠い血筋ですから、十郎が期待するほど重く見てはもらえず、確執の原因となりました。 ということで、頼朝にとっては実の弟よりも、妻の一族である北条一族のほうが信頼が置けましたし、しかも北条から見ると、自分を信頼しているのは頼朝だけでしたから、範頼、義経はもとより、自身の孫である頼家さえも、邪魔な存在でした。
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- rearerugen
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平氏は勢力基盤が西国で、瀬戸内海を中心とした海洋貿易経済で豊かになっています。貿易こそが豊かさの源泉だと知っていたから、中国と交易しようと頑張ります。貿易には土地が要りません。物を生み出す人こそ大事だという考え方になります。だから殺し合いはバカバカしい。 一方で源氏は勢力基盤が東国で、農業による自給自足経済です。先祖と自分が切り開いた農地に一所懸命になります。貿易しないから、土地を奪われれば食っていけません。土地の相続争いが激化し身内争いが激しくなります。なにより鎌倉幕府が土地相続争いを治めるために求められた土地所有権の確定裁判所そのもので、行政府というより司法府としての仕事がメインです。農業と狩猟で足腰が鍛えられているから、船乗り平氏より殺し合いに長けています。
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- izuhara
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平氏の権力基盤は朝廷にあり、そこを清盛が掌握している限り、大きな対立に至らなかったといえるでしょう。もっとも権力のよりどころをめぐって清盛と嫡男重盛はきわどい関係になりかけていましたが。 義経と義仲の争い、頼朝による義経らの追討は、朝廷という権力基盤をめぐっての争いといえるでしょう。 両者の違いは、「清盛以降」という時期を限定するならば、伊勢平氏が中央権力を保持していたのに対して、河内源氏は中央権力にそれぞれが近づこうとしていたことにあると言えます。 さかのぼるのであれば、もともと伊勢平氏は、清盛の祖父正盛の時代に中央で台頭した武士であるのに対して、河内源氏は義朝のひいひいじいさんぐらいから中央権力に近づいて、子孫それぞれが勢力を築いて嫡流をめぐって争っていた歴史があります。いろんな家に分かれて昔から争っていた河内源氏に対して、伊勢平氏は家が分かれて構想するほどの歴史がないとも言えるでしょう。
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ありがとうございました
- tanuki4u
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平氏内での1番争いがすでに決着をつけていたから。 他の回答者の将門時代などの指摘を否定されているようですが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9 為義と同時期に勢力のあった河内源氏の一族 源義国…従五位下加賀介。義家の三男。新田氏・足利氏の祖。義重・義康の父 源義信…従四位下左兵衛佐。義親の長男 源経国…義忠の長男 源義高…従四位下左兵衛権佐。義忠の次男 源義光…従五位下刑部少輔。義家の三弟 源義時…左兵衛尉。義家の六男。河内源氏本拠地の石川荘を相続 つまり、京都での基盤を持つ受領階級レベルの勢力を確保している。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E7%9B%9B 正盛時代 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B8%B8%E9%87%8D 頼朝挙兵段階で、強大な勢力を誇った千葉氏ですら、郡司という、国衙官僚レベルになっている。 正盛の段階で、受領階級になっていた、残っていたのが伊勢平氏だけだったのに対して、源氏は複数の系統が受領階級に残っていた。 受領階級で武力を持った者同士の闘争と考えれば 平氏 源氏1 源氏2 源氏3 源氏4 というような勢力間の相互闘争となり、平氏VS平氏 という構図は生まれないことになる。
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平将門の乱の発端は、親爺の遺産をめぐる、息子と伯父の遺産相続争いです。 保元の乱では清盛と忠正が敵味方になってます。 頼朝が下総の国府で再度平家討伐の軍を挙げときに参集したのは関東平氏です。 当時、源氏の子孫は関東平野の北側の甲府や足利だの新田だのにチラホラいただけです。 参集した関東平氏の総大将だった千葉常胤は國香の弟良文の子孫です。 清盛は國香の子孫です。 清盛が関東平氏を粗末に扱ったために、あの野郎!ということになりました。 源平合戦というのは、内実は伊勢平氏と関東平氏の争いです。 頼朝は御神輿のてっぺんの鳳凰みたいなものです。 平家が西へ逃げたのも東へはこれなかったからです。 上手く関東勢と手を結んで逃げ込んでいたら、日本史もだいぶ変わっていたでしょう。 頼朝の庇護者であり女房の実家でもあった北条氏も平氏です。 初期の鎌倉幕府の重臣はほとんどが平氏です。 これを次々に潰して幕府の実権を握ったのが北条氏です。 平氏発祥の地の上総、下総では年中身内のゴタゴタはやっていました。 京都から遠かったのでマイナーなだけです。 どうも平氏一門には花がないですね~ 義経記は芝居の種になっても平家物語は舞台で絵になる話しがないせいですかね~。
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すみません将門じゃなくて清盛以降の話です
- tokrenf
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ちょっと待ってください。それは清盛が太政大臣となり、事実上の権力者となったからできたんじゃないですか。彼は保元の乱で負けた平忠正、長盛、忠綱、正綱、通正らを処刑してますよ。 それに平将門は平国香を討ったじゃないですか。それから北条時政の北条氏は平氏ですよ。平貞盛の後裔なんですよ。
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ありがとうございました
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あ すみません将門時代じゃなくて清盛以降の話です
- shuusan101
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全部はわかりませんが一部だけ。 頼朝が義経を討ったのは、手に負えなく、邪魔であったのでしょう。 壇ノ浦の戦いで、義経は大勝利し平家を滅ぼしましたが、それではダメなのです。 逃げてた平家側の天皇家の所持する三種の神器を持って帰ることが頼朝にとっての最重要課題で、平家打倒などどうでもよいことなのです。平家打倒はあとからでもできるし、三種の神器がないと源氏側の天皇測位に正当性を主張できないのです。 義経はそこのところがわからず、平家を追い詰め滅亡させますが、その際に三種の神器は天皇家の身投げとともに海に沈んで回収できませんでした。 その上に壇ノ浦帰還後、勝手に相手側朝廷から官位をもらうなど、支離滅裂な行動を取ります。 それでいて、数々の戦いに勝利し続けた大将軍で人気は抜群にあった(推定)ので、邪魔でしょうがなかったと思います。 平家の時代はおそらくですが、まだまだ武士の世の中になりきってなく公家気分まじりだったようなので、無用な争いは避けていたのでしょう。
お礼
ありがとうございました
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