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平安時代の関東地方のようす

大河ドラマ"平清盛"を観ていると関東にいるのは未開の地の住人のように描かれますが実際はどうったのでしょうか?もしそうであるなら、何で伊勢平氏は源氏に敗けたのでしょうか?

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  • daidou
  • ベストアンサー率29% (491/1687)
回答No.4

清盛の当時の関東(坂東)は京に比べると確かに田舎です しかも坂東武者と呼ばれる多くの武士集団があった事も知られています つまり「典雅な京の都」と「荒くれ者の坂東」という対比です 元々は平氏の勢力が強く、坂東平氏と呼ばれた彼らは広大な関東を次々と開拓し、私有田を増やし力を蓄えていきました 坂東八平氏と呼ばれる武家氏族が形成されたのもこの頃(鎌倉氏・千葉氏・三浦氏・梶原氏など) 源氏(清和源氏)の祖である「源経基」や藤原氏の中でも武士階級の人々も集まり、「坂東武者」とか「坂東武士」と呼ばれるようになってきた訳です 坂東平氏の内紛に端を発した「平将門の乱」で功績を得たのが藤原武士の棟梁、藤原秀郷 後に北条氏に滅ぼされる比企氏(鎌倉幕府御家人)は藤原秀郷の直系だと言われています つまりそれなりに群雄割拠の地であったわけともいえるでしょう 清盛をはじめとする「伊勢平氏」は坂東平氏の傍流です 京でこそ権勢をふるいましたが、本来頼みとすべき坂東武者が非好意的でした よく「源平合戦」などと言いますが、実態は京に上った勢力VS坂東武者 源頼朝側のメンバーを見ると坂東平氏の顔ぶれの多さに驚かされます 上総広常や千葉常胤、梶原景時、三浦義澄、和田義盛などは坂東八平氏の面々です また一説には北条も平氏(将門のイトコである平貞盛の系列)とも言われています 源氏三代、のちは北条が実権を握ります ひょっとしたら頼朝は「坂東平氏」による「伊勢平氏」つぶしに利用されただけなのかもしれません

noname#172652
質問者

お礼

源平合戦は内紛だったわけですか。伊勢平氏は相当嫌われていたのですね。とても分かりやすかったです。ご回答ありがとうございました☆

その他の回答 (4)

  • reflector
  • ベストアンサー率7% (37/491)
回答No.5

>関東にいるのは未開の地の住人のように描かれますが実際はどうったのでしょうか? どこにも資料がない。 判らないものをどうのように表現するのかが問題なので、空白としたのでは。

noname#172652
質問者

お礼

資料がないのですか。それでは空想で置き換えるしかありませんね。ご回答ありがとうございました☆

  • ysk26
  • ベストアンサー率36% (135/367)
回答No.3

まず,平安時代の「関東」は「関(=逢坂の関)より東の地」なので,今の名古屋も静岡も東京も,全部関東です。 京都だって平安京を一歩出れば原野同然の時代,街などというものがなく村が点在しているだけの関東は,その意味では「未開の地」といっても差し支えないでしょう。 『更級日記』には,今の東京都心のあたりを旅していた作者が,「草がボーボー茂ってるだけでおもしろくも何ともない」という身もふたもない感慨を書き残しています。 そこに住んでいた人たちも,都の人たちからすればまさしく「未開の地の住人」だったことでしょう。 そもそも平安時代の言葉では,田舎(関東)の人たちがしゃべる行為は「言う」ではなく「さえずる」と表現されます。 意味はわからないが何かピーピー声を出している。都の人の耳には,鳥の鳴き声と大差なかったわけですね。 『平家物語』でも,木曽出身の源義仲は,言葉のなまりから着るもの,作法,性格まで,読んでいるほうが気の毒になるほど徹底的にコケにされて描かれています。 「それに比べると,今は鎌倉にいるとはいえ,頼朝はさすがに都で育っただけあって,普通の人間らしい」とかなんとか書かれているのも,当時の人々(=都に住んでいる貴族たち)の感覚の一端を示しているといえるでしょう。

noname#172652
質問者

お礼

情報が端々まで伝わらない昔々のことですものね。文化の差が出てしまったわけですか。それにしても"言う"が"さえずる"と書かれるとは。 ご回答ありがとうございました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

律令制度における大国とは、経済力のある国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD_(%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD) 上記にあるように、関東には大国がたくさんあります。 つまり 経済力があった。 延喜式(平安中期)の認識が上記になります http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 延喜式のころの人口と平安末期の人口 推計はいろいろありますが、日本全体で20%程度増加というのが最大の変化推定で、平安時代は変化なしという推計もあります。 つまり、延喜式のころと平安末期では、それほど経済規模は変化していない。 また、地方都市という存在が生まれるのは、戦国時代のころから。歴史の教科書で「戦国大名は一円支配をおこない」というので、信玄堤やら信長の楽市楽座というのは、要するに戦国大名の領地開発です。 それまでの日本は、基本的には 都という人口の集積地以外は、均質に近かった。 関東が経済力があって、都にやってこれたので、都の人は関東人を見て「まぁ 田舎のはしたない」と思った。 逆にいえば、関東以外の地方からは経済力がないので、都にやってこれなかった。 都鄙二分論の意識で都人は考えますので、鄙の代表として関東人を語っていることになります。 特別に関東が・・・ということではありません。 氏族意識 ある武将の最大のライバルは、自分の弟だったり従兄弟だったり、ご近所さんだったりです。 平将門は、伯父や従兄弟との土地争いから始まっています。つまり平氏内の戦い。 源氏の歴史は兄弟相剋です。 武家でなくとも藤原道長の打倒すべき相手は、兄弟だったり従兄弟だったりです。そして協力相手は、正室の実家である公家源氏だったりします。 結構個人ベースです。 平氏VS源氏 なんて考えていてはなんだかわからなくなります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1 治承・寿永の乱 として 平氏VS反平氏とかで単純化しありますが、権力を握っているものに対して、権力がほしいものが挑んでいるという構造。 だから源義仲VS源範頼があったりするわけです。

noname#172652
質問者

お礼

氏同士の戦いと思いきや自分vs(自分以外)だったのですか。その考えが戦いだけでなく生活面とりわけ文化にも影響してくるというわけですね。 教養や身分を得た人というのは少数で必然的に親族どうしの争いへと発展するのは当然のなりゆきだったのですね。 ご回答ありがとうございました☆

回答No.1

平氏の拠点は関東ですよん 平将門も関東で蜂起しましたし 桓武天皇の子の 高望王(平高望)が関東に引っ越して そこから平氏は関東が拠点です 平氏が源氏に負けた というより 義経一人に負けたという言い方のほうが正しいです 清盛が死んだ後の平家は悲惨です 宗盛はぼんくらだし 知盛がなんとか補佐してたけど… 長男の重盛さえ生きてたら…

noname#172652
質問者

お礼

何だか義経無双ですね。チート過ぎますw 清盛などの伊勢平家が傍流だったというのは初めて知れたので良かったです。日本史を専攻しとけばなぁ…とも思うのですがw ご回答ありがとうございました☆

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