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源氏と平家

平氏の中の滅亡した清盛の勢力を平家と呼ぶことが多い。源氏の中の頼朝の勢力を源家とはあまり呼ばない。この区別はどのようにしているのでしょうか。

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  • HL230P45
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回答No.10

>源氏の中の頼朝の勢力を源家とはあまり呼ばない。この区別はどのようにしているのでしょうか。 回答:源頼朝は、平清盛のような「~家」というグループを形成していない。(というかできなかった) 初期の鎌倉幕府は、平清盛のような個人による中央集権や独裁ではなく、御家人の連合政権でした。 そして当時の頼朝は源氏の血筋以外の力(権力、経済力、軍事力)はなく、北条氏からの支援に頼っていました。 一方、鎌倉初期の北条氏の実力(軍事力、経済力)は、他の勢力と比較した場合、決して強い者ではなくその権力は「頼朝の妻の実家」という事に依存していました。 以上から、頼朝と北条氏は依存関係にあり、単独での勢力を伸ばせる状況ではありませんでした。 当時の「姓」と「氏」と「苗字」(と「家」)の意味は↓のようなものです。 姓:自分の出自(先祖)を示すもの。(これが一番 正式) 例:名前を記すとき「源(みなもとの)」とか「平(たいらの)」や「藤原(ふじわらの)」のように【の】がつく場合が姓。 氏 :姓のグループの中で枝分かれした系統を示すもの。(朝廷文章や内部文章でも使用されます) 例:織田信長の「織田」は平姓の織田氏です。 苗字:氏の中で更に系統が分かれて、区別が難しくなったとき、所在地(領地)で呼ぶ場合がありました。(主に私的文章や非公式文章で使用)    例:紀伊徳川氏→「紀伊殿」 ↑の氏と苗字ですが、時代によって入れ替わったり、新しく名乗ったりした例もあります。 問題の「平家」ですが、 前述の「平氏」の中の、平清盛を頂点としたいわゆる「家族共同体」の事です。 これによれば、婚姻によって「平氏ではない平家」(例:「平氏ではない藤原氏等」や【平家の天皇】)も存在しえます。 (「平家物語」が「平氏物語」ではないのは、格式ではなく、あくまで滅亡(没落)したのは、平清盛の一族であって、前述の「平氏」自体が消滅したものではないからです) そもそも、鎌倉幕府以前の平安時代から、「家」とは必ずしも「氏」に含まれるものとは言えず、別の概念のものでした。 当時は、変則的な母系社会であり、妻の実家の影響力は大きなものでした。 当時の夫や子は妻の実家の支援を受ける(=実家は支援をする)のが当たり前の事であり、これによって両家のつながりを深め互いに勢力を伸ばすという考えが当たり前でした。 平清盛以前は、藤原氏も同様の事を天皇家と行っており、これによって勢力を伸ばしていました。 以上から、立場の強い(実家が強い)母親の下に生まれた子は、母親の家(共同体)の子になるという認識がありました。 (例: 武田勝頼は武田氏の生まれですが、母親の実家で育ったので諏訪家に属しています) 甚だしい場合、夫ですら妻の実家の所属になるケースすらありました。 他の方への補足についてですが、一応回答しますが、別個の質問を立てていただきたいと思います。 後付で質問を増やすと、それぞれへの回答が入り乱れて収拾がつかなくなる恐れがあります。 (過去には後付の質問にBAを付けて、本題への回答者の好意を無視したという頭の悪い質問者もいます) >源氏の本家筋を教えてください。 質問者様の中での「本家」や「本家筋」の定義が不明な為に回答不能(頼朝の先祖の源頼信は源満仲の三男です) 系図については、画像を参照してください。 頼朝の河内源氏(摂津ではない)の家系は↓です。 《河内源氏の由来は、河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本拠地としたこととされています》 頼信―頼義―義家―義忠―為義―義朝―頼朝他 村上源氏や嵯峨源氏ですが、別々の天皇から「源」の姓を賜っただけで、それらと清和源氏と同一視するのは間違いだと思います。 また、姓の「下賜」はあくまでも臣籍降下(皇別)に過ぎず、その後にどのようになる(べき)かまでを決定するものではありません。 なので、「源」=武士 になるとは限りません。 村上源氏は公家のままでしたし、フィクションであっても「光源氏」という公家が登場する筈がありません。

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質問者

お礼

なるほど。頼朝は征夷大将軍になっても哀れだったのですね。支配者の源家を作ることができなかった。橋の上の落馬も橋に細工がされていたのかも知れない。

その他の回答 (9)

回答No.9

>朝廷に直接仕えていた源氏を本家筋と認めなければならないと思います。 「朝廷に直接仕えていたと言う証拠」が現世まで残っていれば、当方も認めます。 例えば、朝廷に出勤した年や日時が記録されている朝廷の公文書が残ってるとか。 当時の権力者が、自分の祖先が実際に朝廷に直接仕えて無くて、朝廷から氏を賜っただけであっても「我の直系のご先祖は朝廷に直接仕えていたんだっ!」って言い張って、誰もそれに反論できず、それがそのまま信じられて後世に伝われば、結果は同じです。 「我が本家筋じゃ」と言い張るのも「ご先祖が朝廷に直接仕えていたのじゃ」と言い張るのも、本質的に同じですよ。 今となっては何も証拠がありません。

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質問者

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武士になって頼朝まで繋がった源氏しか興味がないのです。

回答No.8

そうでしょう 足利や織田や徳川は武士です 貴族ではありません 平氏で高官に就いたのは清盛以降です だから清盛一族は「平家」なのです

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質問者

お礼

武士であっても徳川氏ではなく、徳川家と言いますよ。

回答No.7

>源氏の本家筋を教えてください。 無理を言わないで下さい。諸説あって、どれが本当か判りません。 源氏は20系統以上あります。 そのうちの「当時の有力者」が、根拠もなく「うちが本家だ」って言い出したら、誰も逆らえません。 例え嘘でも「有力者のあの人が言ってるんだから間違いない」って事になっちゃって、それが後世まで伝わっているかも知れません。 ホンモノの本家筋が死に絶えた後なら、どこかの分家筋が「うちが本家じゃ!」って言い出しても、誰も反論できません。 唯一反論が可能な「ホンモノの本家筋」は、死に絶えちゃってますから。 なので「真相は誰にも判らない」です。 「三種の神器」みたいな「本家の証」でもあれば話は別ですけど、残念ながらそういうのも無いですし(あっても、それが正当に本家だけに伝わったとは限らず、その時代の権力者が本家から奪ったかも知れないですし)

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質問者

お礼

源氏の系統は21ありますが、武士になったのは清和源氏だけだと思っています。

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質問者

補足

朝廷に直接仕えていた源氏を本家筋と認めなければならないと思います。満仲、頼義、義家、為義、義朝、頼朝と名のある源氏の系列を直系と読んでいると思います。武田や佐竹や土岐などは早くに分家し、足利、新田などはさらに後で分家している。

回答No.6

平家…清盛は一族でみな貴族であり朝廷の高官についたため 「家」単位の組織で扱われる 源氏…源氏は武士でありどちらかと言うと個人で括られるため 個人を表す「氏」で扱われる       平家は元を辿ると桓武天皇にのみ行き当たります つまり平家の先祖は桓武天皇だけなのです 「家」として血脈をつないで着ました 一方源氏は 清和、村上、嵯峨などいろんな天皇から出てる源氏が居ます なので家というつながりは薄く 個人単位で扱われるのです

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質問者

お礼

平氏と呼ぶより平家と呼ぶ方が格式が高いですね。格式の高い一族が滅んだ方がものの哀れを感じさせますね。 貴族に限らす格式が上がると○○家と呼ばれるのでしょうか。結婚式ではやたらと○○家ですものね。

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質問者

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その血筋説だと清盛より前から平家と呼ばれているはずです。貴族の高官であったとの説。足利家、織田家、徳川家となると当てはまらないと思います。

回答No.5

追記。 「源氏」が多用され「源家」が使われないのは、源氏の嫡流(本家)が明確じゃないって理由もあるようです。有名になったのは、みんな分家ばっかりで、本家が良く判ってないって事も原因のようです。 公家源氏もあれば武家源氏もあるし「良く判んないから、みんなまとめて源氏って呼ぼう」って事みたいです。

noname#224207
noname#224207
回答No.4

単なる習慣です。 と言ってしまったのでは身も蓋もない話になってしまいますので、多少薀蓄を傾けてみます。 習慣であるなら、なぜそれが受け入れられて伝えられたのかということになります。 薀蓄の前に、平も苗字としては「へい」ではな「くたいら」です。 源も「げん」ではなく「みなもと」です。 平氏とか源家という言葉も使われてはいました。 平清盛=たいらのきよもり 平将門=たいらのまさかど 源頼朝=みなもとのよりとも etc と読まれますが「の」が入っていることに注意してください これは「家」「氏」という考え方にヒントがあるのかと思います。 「家の子郎党」「「氏族」「などという言葉を思い出してください。 「家」も「氏」も血縁を基本とした集団ですが、氏という集団は家という小さな集団から構成されています。 つまり、平氏一族の中の清盛、源氏一族のなかの頼朝という意味です。 平氏一族というのは、高望王を始祖とする集団で、元々関東を本拠地としていました。 特に東京湾を交通路として活用して、関東平野の海岸部一帯に居住していました。 全員が平では区別がつかなくなりますので、居住地の地名を呼ぶようになりやがて苗字となりました。 現在でも家族の間では、鹿児島のおばさんとか札幌のおじさんなどという言い方をしませんでしょうか。 千葉、三浦、北条、和田、江戸、渋谷、豊島etc 実は源氏も関東で同じことをやっています。 足利、新田、武田 etc 初代の高望王の息子の中で長男坊が関東の地を離れて都へ上りました。 この人の子孫が伊勢に居住して伊勢平氏と呼ばれました。 この伊勢平氏の直系の子孫が清盛です。 京の都にいたのは清盛一家のみでしたので、平を名乗り続けました。 源平合戦で亡んだのは、あくまでもこの清盛一家でした。 平氏という大きな枠で考えますと、関東には沢山の平氏一族が健在でした。 つまり、壇ノ浦で滅亡したのは平氏の一部の清盛一家だったということになります。 平家物語はあくまでも都で平を名乗っていた清盛一家の物語だということになります。 都の平すなわち平家ということになります。 源氏はと言いますと、清和天皇の流れをくむ経基王を始祖とします。 経基王を始祖とする血族は武家源氏と呼ばれます。 平という苗字は高望王だけでしたが、源という苗字を朝廷から賜った人は他にも沢山いました。 経基王を始祖とする一族だけが武装して摂津に根拠地をおきましたが、他の人は都にとどまったままでいつのまにか子孫が途絶えてしまいました。 この直系の子孫が頼朝です。従って頼朝は氏の長者(うじのちょうじゃ)と呼ばれていました。 鎌倉時代に氏の長者である頼朝の子供が孫の代で死に絶えてしまいました。 清盛のように一家をなすような沢山の息子に恵まれていなかったために、頼朝家=源家という概念が後世には出来上がらなかったことも影響しているかと思います。 頼朝が政権を手に入れる過程で義経など肉親を片っ端から殺してしまったのも影響しているかと思います。 ということで平氏に関しては清盛一家=平家の物語や歴史となり、源氏は一人頼朝=源家の話だけでは収まらない結果となりました。 ざっとこんなところで如何でしょうか 蛇足 経基王が武家であったことから、鎌倉時代以降戦国時代にいたるまで、武将達はオレは元はといえば源氏だ、と勝手に名乗り上げるようになりました。 徳川家康もその一人です。源朝臣徳川次郎三郎家康が正式名称だとしました。 家康は最初のころは藤原氏の子孫だと称していましたが、途中から源氏の子孫だと言い出して、家康の子孫もそうだそうだと明治時代まで言い続けていました。 信長は平氏の子孫だと名乗りました。織田上総介平三郎信長

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質問者

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>直系の子孫が頼朝です このことは納得するのですが、頼朝が清盛のように沢山の子孫を成さなかったからですか。納得しづらいのですが。

回答No.3

平氏=平を氏に名乗る一族。 平家=平を氏に名乗る一族のうち、平氏長者である清盛の血筋の家のみを指す。 源氏=源を氏に名乗る一族。 源家=源を氏に名乗る一族のうち、正嫡一家のみを指す。 >平氏の中の滅亡した清盛の勢力を平家と呼ぶことが多い。 清盛の血筋の一族が「たくさん居る平氏一族の中の、平家の一族」だからです。 >源氏の中の頼朝の勢力を源家とはあまり呼ばない。 頼朝の一派を「源家」と呼ばないで「源氏」と呼ぶのは、頼朝の一派が「源氏ではあるが、源家じゃない」からです。本家、分家で言えば、分家になります。 >平氏物語は言わずに平家物語とどうして名付けたのでしょうか。 平家物語で語られているのが「平家の人たち」で、「平家じゃない平氏」は出て来ないからです。

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質問者

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源氏の本家筋を教えてください。

  • izuhara
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回答No.2

平家は平氏のうちの一部です。 数多い平氏の中で清盛の代に朝廷の実権を握ることになる伊勢平氏一族を「平家」と呼んでいるようです。 同じ平氏である北条氏などは「平家」には入りません。 一方、源氏と源家ですが、源家という呼び方はほとんど聞きません。 平氏以上に数多い源氏の中で、源頼朝の系統を源家と呼んでもよさそうですが、そうは呼ばれていません。頼朝の系統は清和源氏と呼ばれる源氏のうち、河内源氏とよばれる系統の一流です。清和源氏は、大きく摂津源氏・大和源氏・河内源氏に分かれていて、平安時代末期はそれぞれ朝廷のもとで活躍していました。どれが嫡流ともいえない状況ですので、「源家」と一括りに呼ぶようなことが平氏と違ってできなかったのはないかと思います。

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質問者

補足

その説ですと、平氏が直系ならばずっと以前から平家と呼ばれていなけれなりません。源氏は義仲・・頼義 義家・・為義 義朝 頼朝と朝廷に侍る源氏直系であったと思います。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

「清盛の勢力を平家と呼ぶことが多い」 平家物語の影響で平家と呼んじゃう人がいるだけで 基本的には、平氏と源氏

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質問者

補足

平氏物語は言わずに平家物語とどうして名付けたのでしょうか。琵琶法師が語ったと聞くが、平氏の間違いだと指摘されて修正しても良いはずだったのではありませんか。

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