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明治の日本が植民地にされないようにするためには

 幕末明治維新の日本は、欧米列強の植民地にされる危険が高かった、日本人の歴史の中でも稀に見る民族存亡の危機だったように思います。この時期の欧米人はまだ、非ヨーロッパ系の人が同じ人間であることに気付いていなかったように思います。アヘン戦争(国家が麻薬を武力を使って無理やり他国に強要する戦争?)やアフリカ-アメリカ間の奴隷船の状況(黒人を船に縛り付け便尿垂れ流し?)を考えると、とても恐ろしい欧米列強の植民地にされることはなんとしても避けなければならなかったように思います。  欧米列強の植民地にされないためには、日本はより弱い国を植民地にして富国強兵に努める政策しかなかったのでしょうか?それとも、植民地は造らず自国だけで富国強兵をすることはできたのでしょうか?もしかして、富国強兵はしなくともインドのガンジーのように非暴力ような方法で植民地にされることを避けられたのでしょうか?  当時の国際状況と日本の事情を踏ませてご回答頂けたら幸いです。よろしくお願いします。

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  • mi-si
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回答No.4

インドは植民地化されてましたし、第二次世界大戦が無ければガンジーの非暴力不服従運動も上手く行ったかどうか解りません。 アフリカの場合は、部族間で奴隷をさらいあってたぐらいですので、少なくとも内部の分裂や時代遅れの思想を墨守する行動は、結局のところ海外からの圧力を感じる改革派との対立を産み列強につけいる隙を与えます。外圧で揺さぶりをかけて、国内の対立を利用して分割支配するのが列強のやり方ですので。 地理的に日本の場所を考えた場合、イギリスのインド・中国進出、アメリカの太平洋進出、ロシアの南下政策の狭間に挟まれた場合、緩衝地帯は、北京周辺か朝鮮半島になり、日本はアメリカかイギリスもしくはオランダの支配下になるしかなく、タイの用に緩衝地帯にはなりえません。 したがって、外交的に隙を見せないこと、容易に攻め込まれない国力をつけるしかありません。 大日本帝国の植民地政策は、国防政策と合致しています。したがってほとんど持ち出しで赤字で利益が上がってません(利益が出ていたのは末期の台湾ぐらいです。蝦夷地は平成の今になっても未だに赤字ですね。) 大陸への進出は、ロシアや中国から本土を守るための防波堤を作ることでした。しかし、肝心な周辺国の近代化が全然進まない為に強攻策(日韓併合、満州国設立)を取ることになりました。 朝鮮戦争でマッカーサーもその事に気がついて日本の占領政策を転換したぐらいです。朝鮮戦争勃発後マッカーサーが警察予備隊の創設を指示し、サンフランシスコ条約でで日米安全保障条約を締結、その後自衛隊へとつながります。 つまりアメリカは日本を共産圏への防波堤として利用していたわけです。

c-i-caesar
質問者

お礼

mi-si様 ご回答ありがとうございます。 おしゃるとおりだと思います。 質問をお願いします。 >朝鮮戦争でマッカーサーもその事に気がついて日本の占領政策を転換したぐらいです。 その事とは、日本だけが近代化できており、周辺国は近代化がまったく出来ていないことでしょうか? その事が上記であればマッカーサーは日本の占領政策を「なぜ」「どのように」転換したのでしょうか? 以上、よろしくお願いします。

その他の回答 (6)

  • cse_ri2
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回答No.7

No.5のコメントへの返答です。 >東アジア諸国が非常に緊密な同盟を結び、一致団結して >ヨーロッパやアメリカ、ロシアに対抗すれば、たしかに >植民地化されずにすむように思います。 > >しかしこれはウルトラマンに助けて求めるような >非現実的なことではないでしょうか? 歴史にifはありませんから、夢物語と一笑するのも可能でしょう。 しかし歴史を深く知って見ると、以外と別の流れに傾く可能性も 大きかったことに気づきます。 ヒントをあげます。 一つ目は西郷隆盛と山岡鉄舟です。 遣韓論が実現して、西郷隆盛が全権大使として韓国に趣いて いたら、どうなったか考えたことはありますか? 二つ目は日露戦争後の南満州鉄道のアメリカとの共同経営です。 満州にアメリカを引き込んでいたら、後年の中国大陸での 利権をめぐっての米国との対立は、かなり違ってきたこと でしょう。 三つ目は、第一次世界大戦でのヨーロッパへの陸軍派遣拒否と その後の日英同盟の解消です。 日本の国運は、間違いなく日英同盟を解消後、下降線をたどって います。 私はイギリスの要請に応じてヨーロッパに陸軍を派遣して いたら、日英同盟の解消は無かったのではないかと考えて います。 他にも歴史の分岐点はありますが、これらの可能性を考えると 日本が別の道に行ける可能性というのは十分あったと思われます。 もっとも覆水盆にかえらず。過ぎた歴史を嘆いてみても、 愚かといえば愚かな行為かもしれませんが。

c-i-caesar
質問者

補足

cse_ri2様 ご回答ありがとうございます。とても参考になりました。 >欧米諸国の侵略に備え、東アジア諸国が同盟を組んで対抗する道です。 この言葉を誤解していたのかもしれません。失礼いたしました。 東アジアだけで同盟して、ヨーロッパ等の侵略に対抗することだと思いました。 アメリカやイギリスも利用し(同盟することも視野に入れて)、外交上日本に有効であればあらゆる可能性を捨てないと考え、東アジアとの連携の取り方にもっと有効な方法があったのだとお考えでしょうか? とても興味があります。 イギリスと同盟までしてしまうと東アジアの国々と連携するのは困難になるのではないでしょうか? 幕末明治の東アジアには植民地が多いため、東アジアと連携するには、まずヨーロッパから解放しなければ、同盟も結べないような気もします。植民地になっていない韓国と同盟を結ぶとしてもお互い弱小国同士であり、植民地化されないためにどれ程有効になるのでしょうか? 私はあの時こうしてたら歴史はどう変わったか想像することが好きで、ついつい、いろいろ空想しています。ほかの人の考えを聞くのも好きです。 >過ぎた歴史を嘆いてみても、愚かといえば愚かな行為かもしれませんが。 おっしゃる通りと思いますが楽しみとしてするのはあってもいいのではないでしょうか

  • Kitami
  • ベストアンサー率25% (9/36)
回答No.6

幕末の日本の状況はかなり厳しい状況だったと考えられます。アフリカはほぼ植民地、アジアも残されているのは東アジアのみ、大国中国もアヘン戦争後は半植民地状態だったことから、日本がそうならないということは考えにくい。当時の日本でできることは、やはり開国して欧米の技術を学び富国強兵策をとるしかなかったと思います。欧米諸国が植民地を手放すのは第2次世界大戦以後ですから、日本が植民地になっていた可能性が高かったと思います。たとえ、日本が19世紀後半に独立を維持し続けていたとしても、いずれ欧米諸国のどこかと戦争になっていたと思います。(富国強兵策をとっていなければ当然日本の負けでしょう)あの日露戦争で、もし負けていれば、日本はロシアの植民地になっていたことを考えても想像がつきます。やはり、明治政府がとったやり方ぐらいしかないように思えます。

c-i-caesar
質問者

お礼

Kitami様 ご回答ありがとうございます。 とても参考になりました。ありがとうございます。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.5

気づいている人は少ないですが(学校の歴史の授業で教えないから)、 日本にもう一つの道があったと、私は確信しています。 欧米諸国の侵略に備え、東アジア諸国が同盟を組んで対抗 する道です。 実はこの思想は幕末の頃からあって、勝海舟など一部の知識人 が唱えていました。 私の考えでは、西郷隆盛もこの思想の持ち主だったようです。 (いわゆる『征韓論』は、西郷個人に限って言えば『遣韓国論』  であり、ただちに韓国と戦争するという意見ではなかった) 西南戦争の勃発でこの意見は沈黙しますが、その後もこの思想は 在野で生き続け、やがて大アジア主義へとつながっていった のではないかと、推測しています。

c-i-caesar
質問者

補足

cse_ri2様 ご回答ありがとうございます。 疑問点があるため失礼ながら質問させてください。 東アジア諸国が非常に緊密な同盟を結び、一致団結してヨーロッパやアメリカ、ロシアに対抗すれば、たしかに植民地化されずにすむように思います。 しかしこれはウルトラマンに助けて求めるような非現実的なことではないでしょうか?

  • YUZURU
  • ベストアンサー率25% (37/146)
回答No.3

当時の日本は、幕府の状態が続いたとしても、植民地化される可能性は、かなり低かったようですよ。アメリカは、捕鯨船の燃料と食料と水の補給基地として日本に来たかっただけですし、独立後のアメリカは友好国が少なく友好国を欲していました。また、ヨーロッパに目を向けると、当時、パリ万博に幕府と薩摩藩がパビリオンを建設し、日本の文化を紹介したのですが、これがばか受けで、空前の日本ブームが巻き起こっていました、非常に優れた文化と絶品の工芸レベルに尊敬の念さえ持って日本文化は迎えられたいたので、植民地化の可能性はほとんどありませんでした。それと早くから幕府の若手をヨーロッパに送り、国際法を学ばせきちんと国際法に則った手続きを踏み、独立国家として各国の承認を受けていました、植民地うんぬんと騒いでいたのは、全体が良くわからないのに攘夷だなんだと喚いていた田舎侍集団ですね(ああ反発が怖い)。

c-i-caesar
質問者

補足

YUZURU様 ご回答ありがとうございます。 当時の日本が植民地化される危険はかなり低かったとの意見には大変驚きました。 黒船の目的のひとつに捕鯨船の基地の確保があったことは私も知っております。 不平等条約についてはどうお考えでしょうか?アメリカは武力による威嚇で日本に不平等条約を強要しました。 ペリーは大統領から武力行使を禁じられていましたが、日本人には分かる訳が無いことですし、ペリーも軍事力を行使することがありうるように振舞ったように思います。 不平等条約自体、これによって日本は半植民地状態にあったとの考え方もできないでしょうか? 当時のヨーロッパの日本ブームを例えると、犬のペットが流行しており、ヨーロッパでは珍しい日本という犬を珍しがった程度ではないでしょうか? 当時の日本の文化や工芸がヨーロッパから見るととても珍しく流行にまでなったことは理解できますが、ヨーロッパの建築、彫刻、絵画、ガラス製品のレベルを考えると、このレベルのものを作れる人が日本のものを尊敬できるでしょうか?自分よりレベルが高いとの思いが無ければ人間は尊敬はできないのでしょうか? (このように書いておりますが私はヨーロッパ人が嫌いでも憎んでいるわけでもありません。近代ヨーロッパが創造した科学技術、民主主義、基本的人権、ヒューマニズムなどを考えるととても憧れをもっています)

回答No.2

1:例えば不平等条約の改正だけで植民地化を免れるのであれば富国強兵ではない「小国主義」もありえたかもしれません。 2:日本は当時のロシアと非常に近く、不凍港を欲していたロシアにとって日本はおいしい目標だったでしょう。 3:ロシアと極東で対立していたイギリスはそのときどうしたでしょうね?           ↓ きわどい外交でイギリスとロシアの間を綱渡りして、当時のシャム(タイ)のように一種の緩衝地帯として生き残る選択肢はあったでしょうが、単独での富国強兵はその場合不可能だったと考えるほうが自然です

c-i-caesar
質問者

補足

mig15fagot様 ご回答ありがとうございます。ご回答を読んで疑問が出てきましたので、質問させてください。 当時の国際状況下で外交だけで植民地化を免れることができるでしょうか? スイスは永世中立を政策としておりましたが、同時に強力な軍事力ももっていました。これがスイスの独立に大きく貢献しスイスの独立を安定したものにしていたのではないでしょうか? 一方タイの場合、 タイが植民地化を逃れたのは外交によるところもあったのかもしれませんが(詳しく無いため間違っていましたらごめんなさい)、最大の理由は運が良かったからではないでしょうか?つまり、イギリスとフランスの植民地の中間にあった為、両国とも片方の国と戦争をしてタイを植民地にするより、一時保留してそれぞれの植民地経営に注力した方が良いとの判断がたまたま一致しただけで、タイの状況はいつ植民地されてもおかしくない非常に不安定なものであったのではないでしょうか?

回答No.1

日本という国は、島国で、ちょっと特異なところを感じてしまいます。(いろいろな面で…考え方とか) 幕末よりも、さらに遡ってしまいますが、徳川幕府が鎖国をしたことで、既にその後の日本の進む道(暗い未来)が、決定づけられていたような気がしますね。 徳川幕府のエゴで、欧米諸国に差をつけられたというか… ということで、私の見解としては、幕末に際して、日本がどのような選択をしていたとしても、あまり良い結末にはならなかったのではないかと思います。 あくまで、私的な考えですがね。

c-i-caesar
質問者

お礼

kazamatsuri様 ご回答ありがとうございます。

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