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朝鮮からの欧米視察 村田新八
明治時代初期、日本からは岩倉遺外使節団などで欧米各国を視察した人が多くいます。村田新八もその代表格です。これを通して日本は西欧を理解し、日本の進むべき道をよく理解したと思います。当時、同じように朝鮮からは欧米に出かけ、世界観をつかんだ人達はいなかったのでしょうか。そうであれば歴史も変わっていたかもしれないのですが。
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手元に、以前住んでいた所の市立図書館にあった小学生向けの韓国の歴史の本の一部コピーがあるのですが。 日本には視察団を派遣してたって書いてあります。欧米へはどうだったのでしょうね。ちなみに、 1876年、高宗(李朝の最後から2番目の王様)がキム・ギスら75名を日本に送り、西洋式の新しい制度と文物を視察した。 1880年、キム・ホンジプ(金弘集)らが「修信使」として日本に。 1881年、パク・チョンヤン(朴定陽)、オ・ユンジュン(魚○中)らが「紳士遊覧団」として日本へ。 彼らは帰国後一様に国の制度を西洋式に改める開化を主張した。 また、日本視察を経て、米国へ渡り1896年に帰国して官僚として活躍した、ソ・ジェピルという人もいた。 などのことがかいてあります。小学生向けの本ですから、もうちょっと詳しい本なら何か載ってるかも(かも)しれませんね。どうなんでしょう? やっぱり広く世界にまで情報を求めるってほんとうに大事ですよね。幕末に、幕府も派遣してましたよね。薩摩も欧州に派遣したらしいですし、長州も下関で四国艦隊に負けて死者が出、戦利品を奪われた後で、5人の藩士を英国に留学(当時は密航、ご法度)させて制度とか技術とか学ばせました。その中に伊藤博文とか、日本鉄道の父、日本鉱業の父とかがいたらしいですよ。詳しくは、映画「長州ファイブ」をご覧になってください。この秋開封です。
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- IXTYS
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● 朝鮮からは欧米に出かけ、世界観をつかんだ人達はいなかったのでしょうか? 朝鮮李朝として、欧米に使節団の派遣はなかったようです。 この国は中国と冊封関係という外交関係を結んでおり、中国に深く傾倒しています。 そのため、広く外の世界を見る余裕がなかったのでしょう。 日本では鎖国をしていた江戸時代といえども、長崎には出島があって、世界への門が少しですが開かれていました。 1860年、勝海舟に率いられた幕府の使節団が咸臨丸で渡米しました。 この時、使節団は初めて蒸気機関車を見ました。 ところがこの時、或る武士が『この乗り物を一里(約4キロ)走らすのに、石炭をどれくらい使用するのか』と聞いたそうです。 この質問が出来るという事は、蒸気機関の原理を知っていなくては出来ない。 即ち、蒸気原単位という専門用語と理論を熟知していた事になるのです。 この一団を案内したアメリカ人は腰を抜かさんばかりに驚き、この国はやがて自分たちを脅かす存在になると予見したそうです。
- caesar-x2
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当時、李氏朝鮮は鎖国中です。 だから朝鮮から欧米に視察への使節団などは 存在しないと思います。 個人レベルでは、ジョン万次郎のような漂流パターンで、 海外に出た人がいるかもしれませんが、 李氏朝鮮は、日本よりも厳しい封建社会。 上流階級の意識を変えるようなことはなかったでしょう。 また当時の李氏朝鮮の関心は中国の方に向いており 清の属国であったので、西欧化を拒否していました。 朝鮮を開国させたのは他ならぬ日本です。 日本の植民地政策の前に出遅れた朝鮮は敗れたというのが簡単な歴史です。
お礼
歴史には今ひとつの私で大変参考になりました。