- ベストアンサー
江戸時代。歌舞伎の地方公演。
お家騒動を題材とした歌舞伎、例えば『伽羅先代萩』(伊達騒動)や『加賀見山旧錦絵』(加賀騒動)は、騒動の地元でも演じられたのですか。 歌舞伎でなくとも講談や芝居でもかまいません。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>『加賀見山旧錦絵』(加賀騒動)は、騒動の地元でも演じられたのですか。 先ずは加賀藩の芝居に対する対応経緯、下記によれば紆余曲折があったようですね。 〇7 でか小屋再生おせっ会 七尾における芝居興行記録の年表(※加賀藩(金沢)の状況) <14/14> http://www.hc-zaidan.or.jp/publish/josei2007/1/15-07.pdf 次に、天明二(1782)年江戸薩摩外記座初演の『加賀見山旧錦絵』につきましては、 下記によれば「文政三(1820)年」などの上演記録は残っているようです。 〇石川県立図書館>貴重資料ギャラリー/郷土の刷物 http://www.library.pref.ishikawa.jp/toshokan/index.html 江戸~明治時代に金沢で興行された歌舞伎の上演番付のコレクション。 ・犀川川上芝居番付 目次 http://www.library.pref.ishikawa.jp/toshokan/dglib/sibai/kawakami/html/index.htm 17 五大力恋緘・鏡山旧錦絵 川上芝居 (文政3)辰11月20日より http://www.library.pref.ishikawa.jp/toshokan/dglib/sibai/kawakami/html/4018_m.htm >『伽羅先代萩』(伊達騒動) 残念ながらこちらは、下記情報だけで肝心の演目などは?ですm(_"_)m 〇国立歴史民俗博物館研究報告 第103集/2003年3月刊行 http://www.rekihaku.ac.jp/publication/ronbun/ronbun5.html#w (論文要旨)近世城下町における祭礼と行楽/小林文雄 仙台城下には江戸時代を通じて常設の芝居小屋は設置されませんでしたが、 特定の神事祭礼場(木下白山神社・榴ヶ岡釈迦堂・榴ヶ岡天満宮・荒町毘沙門堂・ 大崎八幡宮・東照宮の六カ所と城下近郊町場の塩竈と岩沼の二カ所)にかぎっては 繰り芝居と小見世物の興業が免許されていました。 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
その他の回答 (3)
江戸には全国の大名屋敷があり、一年おきに主君が領国と江戸の間を往復していました。 伊達の侍も加賀の侍の歌舞伎の演題に関する情報は持っていました。 参勤交代で江戸へ出た来た侍の中には芝居好きの連中はいくらでもいて、見物に行っていました。 江戸住まいの侍で、たとえ見たことがなくとも、歌舞伎の演題の一つや二つ知らなくては通用しません。 つまり、クレームをつけるのであれば、何時でもクレームが付けられる状態でした。 公演する方も心得ていて、登場人物の名前を変えるなどして直接判るようなヘマはしません。 忠臣蔵も現在は本名で公演していますが、江戸時代はすべて架空の名前です。 事件の発端も史実とは無関係です。 経過が何となく史実と似ているだけです。 『伽羅先代萩』も『加賀見山旧錦絵』も似ているだけで直接的には無関係を装っていました。 時代設定も場所も架空のものとしています。 つまり、公演を禁止する理由がどこにもありません。 「あれは当藩のことではないのか?」などと下手なクレームを付ければお家騒動を白状するようなものです。 江戸や大坂などで上演されていた歌舞伎は、舞台装置も大がかりでかつ役者の出演料も高額なことから、よほど裕福な興行主が居ない限り、地方へは出向きませんでした。 あくまでも採算ベースです。 まったくなかった訳ではありません。 座全体が移動するよりも人気役者が移動する方が多かったようです。 名古屋や京都は座が江戸と大坂との間を移動する際に公演していました。 現在でも名古屋の観客は伝統的に口うるさいことで知られています。 (江戸歌舞伎も上方歌舞伎も両方しっかり見ていました) 地方では代わりに素人歌舞伎と呼ばれるものが盛んでした。 現在でもこの伝統や芝居小屋が残っている都市は多数あります。 演題は当然江戸と同じです。 時として江戸の役者も呼んでいます。 江戸時代は参勤交代という制度のお蔭で、文化の均一化が進んでいました。 参勤交代についてきた侍は、全員単身赴任で江戸にいる間は全く仕事がありません。 しかも一生に一度あるかないかのチャンスです。 暇つぶしは江戸見物か寺社詣で、芝居見物しかありません。 夜な夜な吉原へ繰り出すほどの金は持っていません。 安く上げるための岡場所ガイドなど、内々の申し送り状が作られていました。 あそこは高いから止めろ、どこそこの女郎はお薦め、とかいろいろ書いてあります。 まぁ~真面目な人は剣術道場へ通ったり、学問塾へ出入りしていたようではあります。 ということで、その年の流行はたちまち全国に広がりました。 江戸時代というのは一見地方は疎外されていかように見えますが、情報の伝達速度が遅かっただけです。 江戸や京、大阪のことは良く知られていました。 国内旅行も盛んでした。 伊勢参りには年間20万人以上が繰り出したこともあります。 日本へきた和蘭人は、東海道の人通りの多さのに驚いています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >時代設定も場所も架空のものとしています。 そうですね。どこの藩のお家騒動なのかすぐ分かる題名にしていますが、それでも幕府のお咎めを受けないようにした巧妙さに作者のしたたかさを感じます。 江戸で上演されているのですから、採算ベースに乗れば地方興行もしていたかも知れないということですね。 “千両役者”という言葉がありますが、ホントにそのくらいの出演料だったらしいです。 >江戸時代というのは一見地方は疎外されていかように見えますが、情報の伝達速度が遅かっただけです。 なるほど!納得です。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
歌舞伎の歴史に精通しているわけではないですが、江戸時代に地方興行をしたという話を聞いたことがありません。歌舞伎も相撲も、江戸(東京)と上方(大阪)が統一されたのは明治以降で、それまではそれぞれに興業をしていました。歌舞伎なんか、昭和初期以降じゃないですかね? その代わり地方各地には、〇〇歌舞伎と呼ばれるその地方で受け継がれてきた地方歌舞伎がありました。今でも伝統芸能として残っている地方がありますよね。その地方歌舞伎の演目を調べればどんな台本が使われたのかは分かると思います。現代の吉本新喜劇なんかもそうですが、その地方ウケする芸能というのがあります。それぞれの芝居が地元ウケしたかどうかですね。あと、地方芸能について調べたわけではないですが、その地方によって人気のある芸能とさほど人気のない芸能があったと思います。例えば落語なんかは江戸と大坂では人気でしたが、他の地方ではほとんど広まっていません。落語は「都会人ウケ」する芸能だったのでしょう。地方では「〇〇踊り」なんてのがよくありますから、身体を使う農家がほとんどの地方では、踊りの方が人気のある芸能だったのでしょう。今でもジャズとかシャンソンなんてのはほとんど都会でしか接することはできず、演歌といえば地方です。 ちなみに歌舞伎や浄瑠璃では当時話題になったニュースなどを基に芝居が作られたのですが、当局からのお叱りを受けないようにチョイチョイ話を変えているんですね。一番有名なのがご存じ「仮名手本忠臣蔵」で、鎌倉時代のお話しということにしています。「伽羅先代萩」も鎌倉時代のお話しということにしていますよね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >地方歌舞伎の演目を調べればどんな台本が使われたのかは分かると思います。 >…地方ウケする芸能というのがあります。それぞれの芝居が地元ウケしたかどうかですね。 なるほど、そうですね。参考になりました。 江戸や上方の(本物の)人気歌舞伎が地方巡業したことはないかも知れませんが、格の低い“芝居”ならあるのかも、という思いです。
- yuyuyunn
- ベストアンサー率41% (20359/48650)
こんばんは 当時は移動の手段もないですから 役者さんがその場に行くのは難しいと思いますし 現地で役者や農村歌舞伎などで演じられたとは 考えにくいです 台本が現地まで行くという事もないと思いますし せいぜい歌舞伎を見た人が現地に帰って話す程度かな、と思いますが いつでも演じられていたとも考えにくいですよね
お礼
ご回答ありがとうございます。 現地での公演は考えにくい、ということですね。
お礼
今回もすばらしい資料を教えて下さってありがとうございます。 かなり頻繁に歌舞伎は上演されていますね。 度々、禁止令が出ているということは、それだけ根強い人気があったということですね。 金沢は上方に近いですから、上方から呼んでいますね。 私は、「歌舞伎」で論文検索したのですが、見つかりませんでした。 ただ、慶長年間に金沢で大坂から呼んだ「遊女歌舞伎」が大盛況であったという論文を見て、おそらく本物の歌舞伎も上演されたのだろうと、推測していました。 この遊女歌舞伎は、仙台や秋田でも興行しています。 ご提示の資料の中に『伽羅先代萩』(伊達騒動)は、金沢での公演記録(天保5年5月)がありました。 金沢で「鏡山旧錦絵」が公演された事実が分かっただけで十分です。 ご教示に感謝申し上げます。