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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:学問は人を豊かにするのか?)

学問は人を豊かにするのか?

このQ&Aのポイント
  • 学問に人を豊かにする力は備わっていないように思う。
  • 学問に人を豊かにする力はあるのでしょうか?
  • この質問は純粋な疑問であり、勉強を否定しているわけではありません。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#194996
noname#194996
回答No.4

単純に考えれば、日本という国はかなり大衆に学問が普及しています。識字率も高等教育を受けるひとの割合も世界の国々の中ではトップクラスです。 そんな国だから経済的に比較的豊かだし、犯罪率も低い。 これはひとが心身で豊かになっている証拠だろうとわたしは思います。 学問の成果だと思います。 >識字率を高めて国は豊かになったかもしれませんが、犯罪が減ったでしょうか? これはいえるとわたしは思います。日本は犯罪が少ない国です。豊かな国づくりに学問は必須とは言えませんが、少なくとも相当良い影響を与えていると思います。 確かに、学問を究めた人間皆が豊かな心を持っているとはいえませんが、高学歴者は、少なくともそうでない人たちに比べて心に余裕を持っているはずです。自信といってもいいかもしれません。それは豊かさの入り口です。広い豊かな世界を見ていますので豊かな心を持てるはずです。学問がそれを妨げているとはいえません。 >学問を究めた方ほど職業に優劣をつける傾向にある。 こういう事例は例外だと思います。 >アカデミックハラスメントというものあります。 確かに、権威を嵩に着て威張りちらす人間は存在します。しかし学問ばかりではありませんし、それは人間一般の傾向であり、真の学問追求で減らすことは出来ます。そういった”曲学阿世”の人間達は真に学問を究めた人とはいえないと思います。 >「ゆとりだからダメ」という論拠には、学問は人格形成に役立つと盲目的に信じているのではないのか? 必ずしもそれはあたっていませんね。ゆとり教育は人格形成に主眼をおいた教育でした。学力が落ちてきたので背に腹は変えられぬというおもいでそれが批判されただけです。 >学問に人を豊かにする力はあるのでしょうか? 私は、ある、と思います。

love_pet2
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

その他の回答 (12)

回答No.13

貴方は『学問』と書いていますが、学問には三通りの意味があります。 一つはそのものズバリです。物事の疑問を明らかにするという意味です。この意味からするならば学ぶ事は『疑問が増える事』を意味します。従って深く学ぶなら深い疑問が増えるという意味が在ります。 又広く学ぶなら広く疑問が増えてゆく事を意味します。益々自分が『分らない事』が増えてゆく事が学問の意味になるかも知れません。 一つは『脳の進化』です。学ぶ事は脳の筋トレをするという意味です。今の環境、グローバルな世界の中で情報を共有しあいながら、最先端の研究を推し進めるという意味です。 もう一つは『今書いた事柄全てに対しての責任を何処に帰結させるのか?』という責任問題です。 従って、真摯に学問を追及するなら、『もっと学ぶ事に真剣にならざるを得ない事』が分ります。 『職業に貴賎はなしと言われ、 どのような仕事も社会に必要とされているものであるとされていましたが、 学問を究めた方ほど職業に優劣をつける傾向にある。 アカデミックハラスメントというものあります。 学問を究めた教授や教職員がその権力を濫用して学生や配下の教員に対して行う様々な嫌がらせ行為ですね。』 この様な態度で生きる人達は、『本当の意味で学問をしていない事が明白と思います。』 深く学ぶ事は、より素直な態度が要求されるからです。慢心が見えている時点で、学問を食い物にしている事は『誰の目にも見えています。』気を付けなければいけない事と思います。 事実に対して素直な心が無くなった時、学ぶ事の意味がなくなると思います。

noname#188665
noname#188665
回答No.12

私「いかせない学問なんて、学問じゃないと思う。」 父「落ち着け。安易な学問なら、すぐに生活にいかせるが おおかた4年も学べば、人は一人前な顔をする。」 私「え? それがいけないこと?」 父「考えてもみなさい。浅はかな学問、浅はかな経験。 それが絶対だと思い込んで世の中を渡ろうとする。 すると結果はどうだ、ぶつかりあい、解決の糸口さえ つかめないだろう。」 私「うーん・・・まあ、たしかにそうかも。」 父「だからこそ、より深い経験、そこから生まれる 新しい学問が必要になる。そして絶対なるものは 無いことを知るんだ。それが本当の学問の始まり なのさ。」 私「そっか、本当の始まりかあ。」 父「そうだ、本当の学問の始まりさえ知らない人も いるんだよ。自分の過去の栄光に、しがみついて いる人が、人を見下すのさ。今がすぐに過去に なってしまうことも知らずに。自分と考えが違う という、ただそれだけの理由で見下すのさ。」 私「そっか、人を見下すってことは、学問を知ら ないのと、同じことだね。」 父「そうだ。本当の学問には、ゆとりが必要だ。 本が買えないなら、一日一食に減らしてでも本を 買うくらいの精神のゆとりだ。そこに苦痛は無い。」 私「さっすがー パパ!」 父「パパっていうな!」

  • sohcon
  • ベストアンサー率15% (9/57)
回答No.11

私は学問は非常に大切だと思います。 勉強をし知識を蓄えれば、見聞が広がり人生が豊かになると確信しています。 犯罪や差別が減らない、人を見下すのは、学問が広まったからではなく むしろその逆、 学問の質が著しく落ちているからだと思います。 他の動物と人間の一番の差は、身体能力ではなく脳です。 脳が優秀であればあるほど、知識面のみでなく道徳面でも人間として格上であると思います。 考えてみてください。 日本国民が皆、金銭や権力に目もくれず、 学問を究め真理に近づくこと、あくなき知への探求に全てを費やしていることを目指している社会。 そんな社会に差別や犯罪が起こりえるでしょうか? 諸悪の根源は、国民が全体的に目先の利益を追い求め、学問を馬鹿にし、 結果、バカになっていることだと思います。

回答No.10

きちんと、回答したいが、まず、以下の動画を観てください。 そして、新しくコンパクトな質問を、新たに立ててください。 あなたの質問文は、わかりにくい(指摘です)。日本語という言語ツールの使用法の技術上達を期待している。 そして、【一部の】インテリ気取りの「大卒の回答者さんたち」に、だまされないよう、祈るのみです。なにせ、そうした回答者は「頭のよいアホウ」「知識の豊富な低能児」と呼ばれる、日本戦後教育の失敗を証明している、生き証人で、エセ知識人だからです(彼らの文章の意味が、私にはさっぱり解りません。まさしくニセモノさん)。実は、真のインテリである「認識工学を提唱した人物」から、私は楽しく全てを学び、認識力が高まった、幸福な人間です。なんせ、この学問には、科目の境界線が無く、総合的認識力が身に付きます。 http://www.nhk.or.jp/jp-prize/2003/jyusyou_07.html

  • kanto-i
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回答No.9

私は、学問は人を豊かにすると思います。 学問であれば豊かになるはずです。 しかし、昨今は知識を詰め込むことを学問だと勘違いしているように思えます。 「まなび(学び)」は「まねぶ(真似ぶ)」 真似をすることから来ています。 真似て行動をしていくこと、そして自らに問うこと。 人を貶めようとしなかったかとか、見下す行為をしなかっただろうか そこに愛を持って相手に伝えようとしたのかなどなど。 自らの行為・行動を自らに問うことをやっていくことが、学問になるでしょう。 坂本龍馬などが今でも人気があるのは、いわゆる学が無くても問い続けて 学が必要と気がつき師事を仰ぎ、問い続けることを止めないで自らが何をやるかを問いの中から出して 行動に変えていったからだと思います。 問いを高めるのに知識は必要ですが、自らに問うには勇気が必要です。 行動を真似ることでも、自ら行動を起こさなければなりません。 行動にも問いにも勇気が必要です。 勇気が無ければ、学問は成就しません。 それが今の時代は、かなり抜けているところだと思います。 と言うことで、本当の意味で「学問」ができれば豊かになると思っています。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12512)
回答No.8

このご質問に感謝します。 以下、行間書き込み形式で、⇒のあとにお答えします。 >学問は人を豊かにするのか? >学問にそんな力はあると思いますか? 勉強をし知識を蓄える。見聞が広がり人生が豊かになる。 果たしてそうでしょうか? ⇒「原理的には」そうだと思います。古今東西、それを肯定するような格言・金言が謳われてきたことを見ても、学問は「人間的歴史が紡いできた英知」であるはずだと思います。 曰く、「温故知新」、「一を聞いて十を知る」、Scientia est potentia.「知は力なり」、Discendo liberior.「学ぶことによってより自由に」、Cogito ergo sum.「我思う、故に我あり」…。 >識字率を高めて国は豊かになったかもしれませんが、犯罪が減ったでしょうか? 差別が減ったでしょうか? 逆に勉強をし知識を蓄えたという自負から、人を見下す心が発生していないでしょうか? ⇒残念ながら、ご指摘はかなり当たっていると言わざるを得ないと思います。なぜでしょうか。私の考えでは、それは、知識を増やすことに汲々として、肝心な「智恵」を育むことに意を用いないからではないか、と思います。アインシュタインは言ったそうです。「無限なものに2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさだが、前者については確信がない」、と。これすなわち、「人類の愚かさについては確信がある」ということではないでしょうか。こういう愚かさから逃れようと願うならば、真摯に学んで、「本当の智恵」を求めることにこそ腐心すべきではないでしょうか。 >職業に貴賎はなしと言われ、どのような仕事も社会に必要とされているものであるとされていましたが、学問を究めた方ほど職業に優劣をつける傾向にある。 >アカデミックハラスメントというものあります。学問を究めた教授や教職員がその権力を濫用して学生や配下の教員に対して行う様々な嫌がらせ行為ですね。 ⇒そういう人種は、本当は、「学問を究めた者」とはほど遠い存在なのではないでしょう。学問は、究めようとすればするほど、「登り来て、いまだ山麓」(大山永世名人)を実感するはずでしょうし、「実るほど、頭を垂れる稲穂」を体現するようになるに違いありません。 >昨今ゆとり教育への不満から、ゆとりだからダメだとか申す者も現れている。「ゆとりだからダメ」という論拠には、学問は人格形成に役立つと盲目的に信じているのではないのか? ⇒Pecking order「突きの順番」という言葉があります。自然界では「生きる力」の弱い順に突かれて餌食になったり、命を落としてしまいます。人間の場合、生きるための基礎として「最低限の全人的教養」が求められでしょう。ゆとり教育が実施されたとき、「その限度を下回る」ことになりはしないかと予感して反対した人が大勢いました。「学問は人格形成に役立つ」ことはもちろん否定しませんが、本件に関しては、もっぱら「生きるための基礎力に欠ける恐れがある」ということで、ゆとり教育制度には問題があったのだと思います。 >しかしながら上記の事例を見る限り、学問に人を豊かにする力は備わっていないように思うのです。学問に人を豊かにする力はあるのでしょうか? ⇒以前、外国の新聞で見た記事によると、人間は99.7%の確率で自滅する、とのことです。中途半端に頭がよくなって、破壊する能力が創造の能力を上回って、地球もろともダメにしてしまう、というのです。数値の信憑性は定かではありませんが、その内容、言わんとすることを考えると、さもありなんですね。つまり、人間はほとんど「自殺に近い形で滅亡する」可能性が高いということであり、それも「中途半端に頭がよくなった」ことが原因になる、ということでしょう。とはいえ、一縷の望みはあります。「自滅の確率が100%ではない」ということです。我々は、残る0.3%にこそ頭を使うべきだと思います。 >この質問は純粋な疑問であり、勉強をすることを否定しているのではありません。 ⇒これまで見たように、確かに我々は、学問の仕方をはき違えて、いわば「奇形的な頭でっかち」になったのではないでしょうか。「本当に頭がよいとはどういうことか」を探求するのに、学問を生かすことを考えましょう! 上に引用したDiscendo liberior.「学ぶことによってより自由に」とは、まさに、「学問をすることによって、独断・偏見・迷信・妄念の類から免れる」ということでしょうから。また、そうすればきっと、「学問は人を豊かにする」ことへ向かうに違いありません。 以上、(少々話題が逸れたかも知れませんが)ご回答まで。

回答No.7

 学問は、科学であれ哲学であれなんであれ、人間の追及をやっているんです。  その結末は、人間に行き着きます。  犯罪や差別に行き着くなら、その結末は学問によってもたらされたというより、それが人間の本質だということではないでしょうか。

noname#207138
noname#207138
回答No.6

人が「学」を手に入れた時の負の部分が実際目立ってますが(^^;)、「学」そのものは良いものだと思います。 私は専門職ですが、専門職用の高等教育を受けて知識を身につけているから故のおバカさも沢山あり、これが結構シャレですみません。 「学」が無い人なら単なる大ボケで済みますが、「学」がある人がそれをすると傲慢になります。 持つものは持っていないものよりも重い責任がかかるものですが、今は「責任からは逃れ権利だけは行使しようとする人種」が多いだけの話しだと思います。 「無知の知」は高等教育課程で最初から最後まで徹底的に教え込まないと多分世の中は良くなりません。 「学」があろうが無かろうが世の中の善し悪しにはあまり関係ないと思います。 「ペンは剣よりも強し」なんて言葉がありますが、実質その心は同じで、心が同じなら剣よりも強いペンは余計質が悪い。 本来の「ペンが剣よりも強いという意味にのしかかるペンを持つものの義務や責任」というものが理解できず、単なる腕力的な力としか認識できない人が「学」を納めて賢くなったつもりになる。 どこまで分析しても「学」そのものに罪は無く、人の心が弱過ぎるところに尽きると思います。 ですから、「学」を中心に話題を展開してもあまり意味がない気がします。

noname#189751
noname#189751
回答No.5

「社会という現場」から見た感じなんですが・・ よく耳にする言葉で 「あいつは勉強はできるが、社会学はゼロだな・・」 というのがあります。 社会へ出ると、特に人間関係の面において 常識や人の心に疎いと、そう言われてしまいます。 昔は、「酒の飲めないヤツはだめだ」という言葉があったように 現在でも、腹を割って話のできない者は遠ざけられてしまう傾向があると思います。 結局、人の心が分かるか分からないかが大切で これだけは学問で学べない事なんでしょう。 「社会勉強」とよくいうように、社会へ出てからも勉強しなければならない それは、常識と人の心を知る、という事だと思います。 学問の大切さは、言うに及ばずだと思います。 学問や教養の大切さは否定する理由がないと思います。 あれば、あっただけいいと思いますね。 ただし、それだけでは社会という現場で生きてゆくことができないはずで、やはり「社会勉強」をしなければならないのだと思います。 学問を深く修めた方でも人間的に素晴らしい方が沢山いらっしゃると思いますし、 その反対に、学問のあまりない人でも人間的に素晴らしい方もいます。 それらの方々は、みなそれぞれに学問と伴に「社会勉強」をして豊かな人間性を身につけた人達だと思います。 まあ 学が邪魔をして・・とか 教養が邪魔をして・・とか言いますが 実際はそんな事はないと思います。 本当にある人はやたらと表に出さない、と思います。 知ったかぶり・・を皮肉った洒落なんでしょう。 学問はやはり大切だと思います。 ただそれだけでは狭いし、人間的に豊かだとはいえない 世の中の常識や人の心を分かるようになって、人間的に豊かだといえるのだと思います。 学問の有無と人間性の豊かさは一律ではないと思います。 学問が人間性の豊かさに助することはあっても、妨げにはならないと思います。 学問が助する力とは、知識を転じる知恵・・かもしれません(うまく言えませんが) 知る力と、知ったことを応用する力・・かもしれません そういう知恵の力を知識とともに養ってくれるように思います。 付け足しになりますが・・ 若い頃、年配の人に言われたことがあります。 「常識と人情と根性があれば、世の中どこへ行っても生きていける」 と ここへ学問が加われば、鬼に金棒・・なんでしょうね 私の場合は、残念ながらそうはならなかった・・ まあ・・もういいか っていうところです。 ご参考にしてください。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.3

love_pet2さんのご質問の内容は概ねなるほどと思いますが、少し意見が違う所もあります。 「学問を勉強をし知識を蓄える。見聞が広がり人生が豊かになる」はそうだと思います。しかし学問を勉強し知識を蓄えると全ての人が見聞が広がり人生が豊かになるとは限りませんね。 といいますのは「人を見下す心が発生」と書かれているように、学問をした人全てが人格向上するかといえばNOだからです。私が勤めていた環境では日本最高峰の大学を出ている人がたくさんいました。石を投げたら当たるほどです。ですが人格が伴っている人は非常に少なかったです。 戦前の帝国大学そしてそこに至る旧制中学、旧制高等学校では人格形成がまず基本でした。文系であろうが理系であろうが皆哲学書を読み、語り合いました。しかし戦後はGHQによって戦前教育のほとんどが否定されました。替わって経済発展という新たな目標に向けて学問を学ぶ人が多くなりました。そしてそこでは人格形成ではなく、お金という豊かさが顕在化されていきました。 ですから、全てとはいいませんが現代の旧帝大を目標とする子ども達も立派な人間になるというよりも豊かさという一段高いステータスを得るために猛勉強をするようになりました。 それゆえ、学問を究めたからといって高い人格をもった尊敬される人間には必ずしもなっていないと思います。

love_pet2
質問者

お礼

回答ありがとうございます。