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学問のすゝめと天賦人権説
福沢諭吉の著書「学問のすゝめ」は、学問の重要性を説いた書物だと思っていましたが、福沢諭吉が天賦人権論者で、学問のすゝめは天賦人権説を説いた書物であるという指摘を受けました。 そこで質問したいのですが。 神の下では皆平等と言うが、現実世界を見渡せば、愚者、貧乏、金持ち、身分の高い人低い人たちがいて、世の中は決して平等なんかじゃない。 その差は何だと考えると、それは利口か馬鹿の違いだ。 要するに、神にとって人は平等なかもしれないが、人は違う。人は人を平等に扱わない。だから学問は大切。負け組になりたくないなら勉強しなさい。 これがわたしの見解なのですが、間違っていますか? 福沢諭吉が天賦人権論者だという論拠があるなら、それを詳しく解説して下さい。
お礼
お返事、ありがとうございます。 > ご質問の式の形にすれば、「(神の下では皆平等)≒天から与えられた権利はみな平等(現実の社会には不平等が存在) = 天賦人権説」であって、「神の下では皆平等 ≠ 天賦人権説」ではないと考えます。 じゃあ天賦とは何じゃらほいって疑問が出てきますが? この質問に対する具体的な回答がほしかったです。天から与えられた権利とは何を指すのか? 現実世界を見渡せば、天賦人権説なんてものは理想論としても機能してない。天は人の上に人を作らずはアメリカ独立宣言からの引用らしいが、リンカーンの奴隷解放宣言が発布は独立宣言から100年後です。 アメリカ独立宣言の著者であるトーマス・ジェファーソンが大奴隷主だったという事実が、天賦人権説と現実社会の乖離を物語ってます。 一六四八年ウェストファリア条約に始まる西洋国際体系など、日本ではとっくに聖徳太子の時代からやっています。だから、たかだか目の前の科学技術力や経済力の劣勢に臆することなく明治維新ができ、日露戦争に勝って誰に屈することもない大国として生きていけたのですから。 倉山満の華夷秩序は東アジア共同体の根拠かから引用です。 アメリカ独立宣言どころか、ホッブズもジョンロックもルソーも居ないずっと昔から、日本は平和と秩序を保ってきたが、それは何で維持されていたのでしょう?天賦人権説? > 福沢の主張の趣旨をあえて現代風に言えば、「勝ち組になりたいなら勉強しなさい」であって、逆の「負け組になりたくなかったら…」ではないだろうと私は考えますがいかがでしょうか。 同じだと思いますけど。 勝ち組負け組の境界線を何処に引くかで、多少は印象は変わるかも知れませんが。 わたしは天賦人権説そのものを否定する気はありません。現実論としてそんなもん嘘っぱちだとは思っていますが。 無論、福沢先生もわたしと同じだと思っています。 わたしが訊きたかったのは、福沢諭吉が天賦人権論者だという論拠でした。 たくさんの回答ありがとうございました。