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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:在原業平 月やあらぬ・・・直訳するとどうなりますか)

在原業平の歌「月やあらぬ」の直訳と意味

このQ&Aのポイント
  • 在原業平の歌「月やあらぬ」の直訳は、「月は昔の月ではない」という意味です。
  • また、この歌は月や春の景色が昔とは違って見えることを表しており、自分の境遇が変わったことを感じています。
  • この歌は、昔の景色や環境が変わってしまったことに対する在原業平の言葉として知られています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kine-ore
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回答No.5

#2です。 >自分としては今年の春と去年の春は同じではないと思っています。 (月は同じかもしれないですが。)  : この場合の今年の春=あなたのいない春という今の季節 季節=動植物の生活と関わる自然 ここでの月=そのまま不変の自然、ありのままの自然 ですから、 あなたのいた咋春とあなたのいないこの春は同じ春では決してない。(当然の断定) かくも季節が移ろうものならば、もしかすると、 ありのままの自然であるこの月さえも今年は変っていておかしくない。(当為の推論) 否、「月やあらぬ」…月もまた変っているべきだろう。いや変って見えるのだ。 彼女の不在ゆえに、季節の移(うつ)ろいを越えて、もはや不変の自然さえ虚(うつ)ろって見える。 もともと移ろうばかりの人の身なのに、あなたの不在、すなわち我が身の虚ろいだけは不変なのだから。 ところで、次の書には10ページ余にわたってA~Gのパターンに分けて詳細な分析がなされています。 ご参考まで。 「月やあらぬ」考(谷鼎 著「短歌鑑賞の論理」昭森社) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069626/120

noname#190665
質問者

お礼

何度も回答をありがとうございます。 >あなたのいた咋春とあなたのいないこの春は同じ春では決してない。(当然の断定) かくも季節が移ろうものならば、もしかすると、 ありのままの自然であるこの月さえも今年は変っていておかしくない。(当為の推論) 否、「月やあらぬ」…月もまた変っているべきだろう。いや変って見えるのだ。 彼女の不在ゆえに、季節の移(うつ)ろいを越えて、もはや不変の自然さえ虚(うつ)ろって見える。 もともと移ろうばかりの人の身なのに、あなたの不在、すなわち我が身の虚ろいだけは不変なのだから。 これも素晴らしい訳だと思います。 貼っていただいたサイトは大変参考になりました。 A~G、7通りもの解釈の仕方があるというのは驚きです。

その他の回答 (5)

  • Postizos
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回答No.6

4ですが、 短歌には掛け詞のような技法もあって、いくつかの意味に取れるような使い方というのは珍しくないし味わいのひとつと思います。短さゆえの特徴ですよね。 言葉とは概念の抽象ですから言葉の世界ならではの広がりや飛躍や結びつけも可能であって、それが文学のおもしろさ(のひとつ)であることについては同意見です。 偶然や誤読(意図的にもそうでもなくても)による物もあながち否定するべきではないですね。 真摯な気持ちからの意見であって、あげあしを取っているわけではないつもりですが、不快に感じられましたらおわびいたします。

noname#190665
質問者

お礼

何度も回答ありがとうございます。 >真摯な気持ちからの意見であって、あげあしを取っているわけではないつもりですが、不快に感じられましたらおわびいたします。 いえいえいえーーー 不快に思っているなんてとんでもないですよ。 真摯な気持ちから意見を書いてくださっていること、 文面から十分に伝わってまいります。 ありがたいと思っています。 ですから、私も真摯な気持ちから意見を書かせていただいたつもりです。 もしかしたら、回答者さまは、私が日本語を侮辱したように思われたのでしょうか。 そうであったならもうしわけありません。 私は外国語はてんでダメで日本語しかわかりません。 なので、「日本語って昔から曖昧だったのですね~。」と書いたのはよくなかったです。 「言葉というのは曖昧なものなんですね」と書いたほうがよかったと思っています。 日本語は響きが美しく、掛詞や縁語、もののな、離合詩という和歌のテクニックは 落語や日常の会話にも用いられて、とても味わいのある言葉だというのは同感です。 もしかしたら英語にも日本の言葉遊びのようなものがあるのかもしれません。 よく知らないのですが、マザーグースとか? 言葉とは曖昧なものだとは思いますが、それは時代を経たせいで、昔の人には十分伝わったのかもしれませんね。 私に文章力がないせいで、気にさせてしまって本当にすいませんでした。

  • Postizos
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回答No.4

3ですが、 「それにしても日本語って昔から曖昧だったのですね~。 」 とのことですが 「や」には確かに婉曲な表現(わざと遠回しな言い方をする)の要素はあります。 でもそれは効果を狙ってわざとそうしていることですし、読む方にもそれはわかります。 日本語に限らず言葉は実際の物事からある概念を取り出してそれを組み合わせることで複雑な事柄をあらわしたり、心境のような形にして見せられない事までも表現できるのです。 何百年も前の人がこれだけの短い詩で表した文学が、こうやって細かいニュアンスまで読み取って今も観賞することができるのですから全然「曖昧」なものではない、巧くできた物で素晴らしいことだと思いますよ。 外国の文学にも同じように工夫を凝らした素晴らしい物があります。

noname#190665
質問者

お礼

何度も回答ありがとうございます。 >「や」には確かに婉曲な表現(わざと遠回しな言い方をする)の要素はあります。 でもそれは効果を狙ってわざとそうしていることですし、読む方にもそれはわかります。 うーん、でも質問に貼ったサイトには反語・疑問の二つの説があるとしています。 反語にもとれる、疑問にもとれる。 そういうあいまいな言葉だということですよね。 >日本語に限らず言葉は実際の物事からある概念を取り出してそれを組み合わせることで複雑な事柄をあらわしたり、心境のような形にして見せられない事までも表現できるのです。 何百年も前の人がこれだけの短い詩で表した文学が、こうやって細かいニュアンスまで読み取って今も観賞することができるのですから全然「曖昧」なものではない、巧くできた物で素晴らしいことだと思いますよ。 細かいニュアンス・・・ 本当に私たちは昔の人々の心を理解できているのでしょうか。 たとえば、この歌の詞書に「五条の后(きさい)の宮の西の対にすみける人に、本意(ほい)にはあらで物言ひわたりけるを、」 とあります。 もともとそのつもりはなかったのに、(ふとしたきっかけで)契りを交わし、通うようになった。 と訳されています。 これについて、業平は高子を本当には愛していなかったとする説を高田祟史さんがといておられます。 当時藤原氏は紀氏と対立しており業平は紀氏側の人間でした。 高子が清和天皇に入内すると、藤原氏はますます栄えるので 業平は高子が入内しないようにするために、高子のもとに通っていたというのです。 言葉は曖昧なものです。 ですから和歌を鑑賞する際には、和歌だけではなく、歌人や当時の社会情勢なども考慮するべきだというのが私の考えです。 しかし古典の学者は和歌は和歌として鑑賞すべきとしているようですね。 歴史学者は和歌は社会情勢も考慮して鑑賞すべきとしている人が多いようです。 外国の文学にも同じように工夫を凝らした素晴らしい物があります。

  • Postizos
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回答No.3

反語的表現には違いないと思いますが、ここは疑問文に訳した方が元のニュアンスを捉えやすいと思います。 つまり、「私ひとりが変わっていないのに月や春が去年と違ってしまっている」とありえないことを言ってしまって、読者の心を惹いて、逆に独り取り残されたような自分の心境を語るという、倒錯した表現のおもしろさ、そして残っている物だけを列挙してここには出てこない存在の喪失に読者の思いを至らせるのがこの歌の工夫なのだと思います。 でも「月も春も昔のままではない」を先に出している工夫を生かすにはあなたの訳のほうが好いのではないかと思います。 古語辞典(岩波)には〈「や」には話者の予断を押し付ける意味合いがある〉と書いてありますので、それを生かすには 「月は昔の月ではないのではないか、春は昔の春ではないのではないか」という風になるかなと思いました。 「や~ぬ」は「~ずや」と同じと考えていいので「月は(昔の月に)あらずや、春は昔の春ならざるや」と置き換えることも可能でしょう。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「私ひとりが変わっていないのに月や春が去年と違ってしまっている」とありえないことを言ってしまって、読者の心を惹いて、逆に独り取り残されたような自分の心境を語るという、倒錯した表現のおもしろさ、そして残っている物だけを列挙してここには出てこない存在の喪失に読者の思いを至らせる おおーー、なるほど、そういう効果を狙った歌なんですね。 そう思って鑑賞するとずいぶん味わいがますような気がします。 >古語辞典(岩波)には〈「や」には話者の予断を押し付ける意味合いがある〉と書いてありますので、それを生かすには 「月は昔の月ではないのではないか、春は昔の春ではないのではないか」という風になるかなと思いました。 「や」は話者の予断を押し付ける意味があるのですね。 すると、回答者様がおっしゃるように「月は昔の月ではないのではないか」と訳したほうがいいですね。 それにしても日本語って昔から曖昧だったのですね~。

  • kine-ore
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回答No.2

あの人のいない今年の春は去年(こぞ)の春のままであるだろうか、いやもはや去年の春ではなくなっているのだ。(反語・確定) 本来は、変らぬはずの季節がそうであるのならば、 いま見上げているこの月もまた、その時の月のままであろうものか、いやそう思えはしないだろう。(疑問・反語・推定) だのに、生来は移ろうべき人の身であるはずの、 この私だけは去年と何ら変わることなく、今も尚あなたを思い続けているとは、何というこの有りようなのでしょう。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど~、と思って訳を読みました。 自分としては今年の春と去年の春は同じではないと思っています。 (月は同じかもしれないですが。) たとえば藤の花などでも、毎年房の長さが変わるんですよ。 それで、質問のように訳してみたのですが 回答いただいた訳のほうがしっくりくるように思いました。

noname#194996
noname#194996
回答No.1

それでいいのではないでしょうか。要するに、自分自身(の恋心)は変わらないのに 周囲の環境ががらりと変わってしまった(自分ではどうしようもない)。とても辛いことだという世間の不条理を謳っているのだと思います。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 反語・疑問両説あると解説にありますが 反語というのは「~だろうか、いや、そうではない」 疑問は「~だろうか」ですね。 私の訳は反語・疑問どちらでもないのですが 「や」というのが疑問をあらわすのでしょうか。 悩みますね~。

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